『吉田ドクトリン』などと、そんなものがあったのか 国家観も大局観も吉田は持ち合わせていなかった
宮崎正弘氏のメルマガより転載します。 実はこの本のタイプは全部わたしめがいたしました(笑)
阿羅健一 v 杉原誠四郎『対談 吉田茂という反省』(自由社) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
吉田茂への評価はいまも過大に過ぎる。 行動の軌跡を見ても、支離滅裂で礼儀知らず、本人自らが「首相の器ではない」と自覚していたに違いないと対談者らは言う。 そもそも吉田茂はそんな大物ではなく、外交のバックボーンは国家観が欠如している所為か、かなり脆弱であり、幸運で首相の座に就いたものの、日本が独立したときに改憲の発議さえしなかった。歴史的評価を加えるなら、これこそ犯罪的である。 それなのに、なぜ吉田への過剰評価が生まれたのかと言えば、日本人が汗を流した努力によって高度成長をなしとげた昭和三十年代後半、とりわけ東京五輪で、保守陣営がナショナリズムを経済の成功と牽強付会に結びつける方策を編み出し、そこに担ぎ上げる御輿に吉田茂がちょうど良かったのである。 お調子者がでた。
吉田茂を褒めあげたのは高坂正堯と永井陽之助だった。吉田の評判が良くなったので、コバンザメのように吉田評価に便乗したのは高坂の師匠格・猪木正道だったが、途中でやめてしまった。吉田を論じるなど馬鹿馬鹿しいと考えたのかも知れない。ついでに便乗して言えば白洲次郎への過大評価も同じである。 ともかく吉田茂の政治「業績」を前向きに評価した高坂正堯は、自民党のブレーンとして、あるいは現実すべてを肯定するところからリアリストなどと呼ばれ、論壇の寵児となった。 一方、吉田の軽武装、高度成長を「吉田ドクトリン」とまで言ったのが永井陽之助だった。 当時の論壇で、福田恒存などは「論壇のバラバラ事件」と揶揄した。つまり左翼論壇をバラバラにしたからだが、もし、それが永井の功績であるとすれば、たしかにそうだ。 かくいう評者(宮崎)は学生新聞を編集していた関係もあって、高坂にも永井にも会って論戦したことがあるが、高坂はナショナリズムに否定的だったし、永井はバックボーンがなく、しょせん左翼人脈のマベリック(異端児)だった。ついでに触れておくと、本書では永井が「青学助教授」となっているが、東工大教授が定年となって、私学に移籍したのだから肩書きは「教授」である。 さて本書の肯綮は「たとえ憲法を改正しても、吉田茂という反省がなければ何も変化はない」という歴史への危機意識がバネとなっている。吉田はたしかに土佐生まれだから、尊皇精神があっただろう。だが、吉田には歴史を直視する国家観も大局観がなかった。
吉田政治の悪弊はいまも尾を引いて日本外交を束縛している。 中曽根政権のおりに、外務省条約局長だった小和田恒は、「サンフランシスコ講和条約の際に日本は東京裁判を受け入れたのだから『ハンディキャップ国家』だ」などと国会で答弁した。 本書では、小和田発言が根本的に間違っているばかりか、小和田答弁は法的効力がないという重要な指摘がなされている。 『さらば吉田茂』を書いて、客観的に吉田時代を振り返ったのが片岡鉄哉だった。 片岡はこう書き残した。 「(吉田ドクトリンとかを云々している裡に)日本は萎縮した。矮小化した。卑俗化した。気品を失った。大きなこと。美しいこと。善いこと。勇敢なこと。ノーブルなこと。これらのすべてを日本は拒否するようになったのである」(1992年、文藝春秋)。いまのLGBT礼賛も同じ基軸上にあるが、そのことは稿を改めたい。 対談は否定一色ではなく、阿羅、杉原両氏は、途中でちゃんと吉田の功績を述べている。たしかに吉田には「占領期を明るくした」というへんな功績がある。
この新刊は、8月15日の「靖國神社(終戦の日)街宣」(東京支部主催・近隣各支部協力)でも販売いたしました。
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