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奥様
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    子育て終了の奥様でございます。 最近本格的にブログにチャレンジ。 硬い話、介護の話、日常の話をちょこちょこっと書いていきます。
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    安倍総理辞任
    安倍さんの後がないから、
    消極的に受け入れていた人たちと、
    安倍さんしかいないから、
    何が何でも続けてほしいと思っていた人たちが、
    昨日、
    驚愕の安倍ロスになってしまった。

    長く続いたものが消えることは、
    どんな人にもなんとなく空しい、寂しい気持ちがするものだ。

    残りの期間を仮につなげる人になるのか、
    残りから後にも続く、
    力のある人になるのかはわからない。

    さて、池田俊二さん、どう思っておられますか?
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    【2020/08/29 09:18】 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(59)
    この記事に対するコメント

    奧樣

    ははは。御指名光榮です。

    7年間ばかり、「ぢや、安倍さんの他に誰が?」の一言
    で口を塞がれてきましたが、今、安倍さんが辭めること
    になつて、後釜候補を見ると、なるほど、これだ!とい
    ふ人は見當りませんね。まあ、私が殆ど知らないせゐで
    せうが、確實に安倍さんよりbetterだと飛びつき
    たくなる人はゐません。

    それだけに、氣が樂です。初めから期待しなければ、が
    つかりすることもないでせう。逆に、おや、なかなかや
    るぢやないか、これほどの見識があつたのかと見直し、
    喜ぶことになるかもしれません。

    小淵(恵三)さんがさうでした。彼が32歳で郵政政務
    次官になつた時、私はインタヴィウしましたが、何を言
    つてゐるのか、何を考へてゐるのか、さつぱり分りませ
    んでした。私にとつては、そのイメージのまま、小淵さ
    んは總理大臣になり、勿論、なんの期待もしませんでし
    た。

    しかし、世間の評判は惡くなく、私として、最も意外だ
    つたのは、來日した江澤民のあしらひ方でした。田中派
    以來の媚中だらうと決め込んでゐたので、あの無頼漢を、
    それにふさはしい、適切な扱ひをしたのには驚きました。
    名宰相といふ言葉が頭に泛んだほどです。

    安倍さんは、多分一年生議員の時、テレビで見て、すつか
    りファンになりました。日録に書きましたが、岸信介總理が
    大野伴睦に渡したといふ政權禪讓の念書について、安倍
    さんは語りました。「おぢいちやん、そんなものを本當に書
    いたの?」「本當だ。もちろん伴睦がいいとは思はないし、
    政權を讓る氣もなかつた。だけど、安保改定を控へて、伴
    睦の協力が必要だつたので、さうしたのだ」ーーといふやり
    とりを安倍さんは披露して曰く「それがいいといふわけでは
    ないが、 大事な政策をやり遂げるためには、 必ずしも、倫
    理第一とはゆかない場合もある」。

    これにはシビレましたね。若造のくせに、これほどの見識が
    あるのか!それにハンサムだし、喋り方もとげとげしくなく、
    好感が持てる。以來、ずつとファンたり續けました(といつて
    も、年に何度かテレビでちらと見る程度でしたが)。

    加へて西尾先生もしきりに安倍さんを推獎されるので、私は
    意を強うしました。更に、小泉内閣の官房副長官としての拉
    致被害者についての(新聞報道で傳へられた)言動などを信
    じて、私の安倍崇拜は絶頂に達しました。日本の將來を託せ
    るのは安倍さん以外にない!

    その人が總理大臣になつて、あれ、をかしいな、安倍さん、ど
    うしたのだらうといふことが續出し、考へ直し、見直しを進めて
    ゐる時、西尾先生から、「安倍さんは教養がない」と言はれ、さ
    うだ、その一言が本質だ、ただのボンクラなのだと知りました。

    そんなことにも氣づかず、この人なら、自分の最も嫌ひな「日本
    國憲法」を葬つてくれるのではとさへ、期待しました。安倍さんに
    騙されたのではありません。自分で勝手なイリュージョンを描い
    ただけです。なんたる馬鹿さ加減!

    すつかり安倍嫌ひになつて、その一旦をここに數行書いたら、
    奧樣に冷たくあしらはれ、奧樣がそれほど熱烈な安倍支持と
    は知らなかつたので、慌てて、「場違ひなことを書いて申し譯
    ありませんでした。謹んでお詫びします。今後注意致します」
    と謝罪、鄭重に恭順の意を表したことを覺えてゐます。

    うさねこさんから、日録で、「『つくる会』のメーリングリストなど
    では、 安倍批評を聞くだけで怒り狂い、『安倍終身総理大臣』
    なるものを大真面目で主張し批評を抑えつけようとする大人が
    いらっしゃったりします」 と教へられましたが、奧樣も、その「大
    人」のお仲間でいらつしやいますか。

    それから、もう一つ、つくる會がそれほど安倍さんに親しみを見
    せてゐるのに、その教科書が安倍内閣によつて、一發不合格
    にされるのは不自然だ。あれは八百長ではないのかと、私は疑
    つてゐますが、その邊の内情を御存じでしたら、お差支へのない
    範圍でお教へいただけませんか。
    【2020/08/29 15:20】 URL | 池田俊二 #- [ 編集]


    >池田俊二さま
    池田さんの安倍総括はさすがですね。

    私が安倍ファンだとさんざん池田さんに
    からかわれていたようですが、
    山口で自由社が採択されそうになったとき、
    安倍さんの鶴の一声の電話で、
    育鵬社になった恨みを、
    私は忘れていません。

    八百長については何もわかりません。
    【2020/08/29 22:10】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (夏日酔起言志)
    蠅は我が友 叩いてくれろと 呻き聲(旧作)
    高砂や うんこ漏らしつ 蠅仰ぐ(新作)
     八月末の或る日は体調がよかった。朝十時に買った弁当を夜十時に食い終えられた。半分の時間で済んだ。前日は深夜三時半に食い始めた弁当を深夜二時半に食い終えたのだから、一食に二十三時間かかった事になる。~私は子供の頃から「一食」とは何かを疑ってきた。回数の問題なのか、量の問題なのか。三分割すれば三食、六分割すれば一日六食になるのだろうか。食欲異常の時は二食分を一度に平らげた。処方された薬を見るたび途方に暮れる。胃腸は悪くないのだが。
     三十年ぶりに俳句もどきを作ってみた。発想は相変わらずヘンなまま、ただ老化しただけで面白くもなんともない。こんなものは色紙や短冊に書く気も起こらない。自分の言葉を書くのは難しい。筆の扱いには慣れているが、肝腎の中身がない。美しく書こうとは思わぬ方がよいのかも知れない。書塾の手本じゃあるまいし。

     半世紀ほど前になる。うちの爺様が県庁か県立図書館に勤務していた頃、職場の伝手(?)で当時の県内有名書家に家の表札を書いて貰ったそうな。一度だけ見せてくれたが秘蔵の品らしく、死んだ今となっては行方不明。半截の掛軸もあった筈。書いた書家の経歴は、『日本の現代書道②③』(昌平社、S.60)を見ると下記の通り。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >工藤蘭山(くどう らんざん)
    >大正一〇年生/上田桑鳩に師事/奎星展特別賞および上田桑鳩記念賞/青森県美術展審査員(第一回以降)/北門書道会総務/毎日現代書展審査会員/奎星会副会長/青奎会代表
    --------------------------------------------------------------------------------
     北門書道会の本拠は弘前にある。天来書院の比田井和子女史が訪れた時は、ネットで言及する事も少なくない(例↓)。…もし蘭山書軸が見つかり、ヒョッコリ持参したら反応どうなるだろうか。ふと思い付いた悪戯心、面識もないから実行する事は多分なかろう。でも和子女史とは約二十年前ネットで何度か文通(?)した事があるから、死ぬ前に会ってみたい気はする。でも今の体力では無理だろうな。昔はよく弘前に行っていた。
    http://www.shodo.co.jp/blog/yume2020/134/
     県内有名書家と云えば、日展審査員をやった宮川翠雨が居る。最晩年に一度だけ会った。俳句でも有名で、青森の善知鳥神社境内には句碑/書碑がある(↓)。除幕式には苹も参列した。原本は第十六回日展(S.59)の「夏雨の青々と降る古端溪」で、水色の料紙と淡墨が涼やかに調和する。
    https://www.city.aomori.aomori.jp/toshokan/bunka-sports-kanko/rekishi/mailmagagine-rekishi-trivia/0123.html
    http://photozou.jp/photo/photo_only/106689/103496876?size=1024#content
     以下は芸術新聞社刊「墨」特集号、P.33カラー図版の脇にある解説。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 本年度は自詠の句を書くことにした。この句は自分でも割に気にいったものなので、時々よく書いた。それで今回の出品については繰り返しの技術になることを用心した。
    > それでこの俳句を作ったときの新鮮な心情を、溢れる情感で書作した。
    > 夏雨の閃々と降る中にも、夏雨の量感、陰翳、降るときの速度、その圧力、その直と傾斜の夏雨特有の降る状態を表現することに努めた。だからその用紙を選ぶのにも苦心した。
    --------------------------------------------------------------------------------

    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2316.html#comment
     ところで拙稿、いい加減こちら(↑)のも長くなったが続きを書く場所がなかなか見つからない。池田様は俳句をやるそうなので、無理矢理こじつけた気分ではある。勝手ながら此処に居場所を定め、またぞろ傍若無人の書道ネタが続く…。
    【2020/09/05 06:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    食事にそんなに時間がかかるのですか。
    独りぼっちになり、
    だんだん弱っていっているように思える
    苹@泥酔 さんのことが心配です。

    書道ネタ、ではここにお願いしますね。


    【2020/09/05 09:21】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >食事にそんなに時間がかかるのですか。
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/rs100.htm
     ひっひっひ…前にも書いた通り、あっしの主食はビールですぅ。どうにかこうにか流し込む様に、しかし通常ゆっくりと食べる。思えば小学生の時分、給食は昼から放課後までかかりました。それが今世紀に入り、少し(?)甚だしくなっただけ。もはや慣れてしまった食習慣ゆえ、開き直れば大した事はなかろうと。
    ●Mahler: Symphony No.9 In D - 4. Adagio (Sehr langsam)
    https://www.youtube.com/watch?v=PzvS_Dkcd9s

     ところで…あたしゃ西尾先生にムリヤリ色紙を書かせる目論見をまだ捨てて居ない。美術新聞社(萱原書房)が11.5~8、西池袋の東京芸術劇場5F展示ギャラリーにて「書道名家・代表有力作家/色紙・短冊展」を開催するそうな。どう見ても先生は場違いだし(ただし作家ではある)、作品締切10.31必着で出品料13000円と安くはない。けれど「出品者各位におかれては、プレスリリース等にも活用させて頂ける「作者のことば」をぜひ添付してくださるよう、お願い申し上げたい」とも書いてある(「美術新聞」1174号)。こちらの方が本領発揮できるだろう。活字の言葉が書の言葉に殴り込みをかけるのだ。
     先生本人にしてみれば傍迷惑な話だろうし興味もなかろう。また主催者側とて、かの有名な「つくる会」初代会長にいきなり出品されても扱いに困るだろう。…そう、わざと困らせてやったらどうなるか。本気で言葉と向き合う覚悟はあるか。そこを文壇/論壇の側から問いかける。無反応なら書道界を見限るべきだろう。作品は「長野県栄村の、日本唯一の公設タイムカプセルに納め、三〇〇年後の未来にまで伝え残す」計画とか。「問い合わせ等は、TEL03-6450-8388(代)FAX03-6413-8373、kayahara@kayahara.comの美術新聞社へ」と書いてある。
     出来れば昔「墨」誌に寄稿してた桶谷秀昭先生とか、お誘い合わせの上で。

    (その後~2020.9.13追記)
     あっしには色紙に見合ったサイズの雅印がない。あるのは高校時代に授業で刻った六分角(姓名印)と、大学授業で印稿に手こずった八分角(雅号印)。まともなのは篆刻業者に頼んだ変形印だけ(例の景品色紙に捺したアレ)。それくらいしか常用していない。どれも書展に出品していた頃の物で、大き過ぎるのである。
     ああ書いた手前、もう一つまともな雅印が欲しくなってきた。そこで2020.9.12、初めて正式な三顆組印を近隣の店で頼んでみた。石印材のは他店に依頼してくれとの事。扱ってるのは黄楊材だそうな。それだと高く付くのではと問うたら安くしてくれるらしい。三分か四分のを所望したが、店に材がないので五分(1.5cm角)のにした。持参した六分捺印の色紙と見比べたところ、全部を捺すと少々キツイが…どうにかなりそうではある。一万五千円くらいする。
    http://suzuin.co.jp/blog/5543.html
     帰宅後「墨」スペシャル第8号「篆刻入門」(芸術新聞社)を引っ張り出してみた。こう書いてあった。「石印は軟材ゆえの一刀での刻法から、書線の表現に偶然の効果が期待できます。しかし木印は、印刀の軌跡からしかその線は生まれません。より人為的な計算が要求されます。それが快く彫鈕の好みもあって木印に惹かれます。木印は石印の代用品ではありません。木印ならではの独自性があるのです。」(P.77、古川悟)
     連続写真(P.79)の脇には「木印は“刻る”ではなく“切る”が基本」とも書いてある。これを見て活字導入以前の印刷世界、幕末期の木版本(整版)を連想した。版木もまた同様のコツで作られたのでは。昔は本と云えば版木の事だった。それを使い回し、或いは翻刻し直して摺り、糸で綴じた紙の束が市井で読まれる。道理で精緻、偶然の効果など微塵も期待されていない。日本の職人技術は昔からそうだった。なんでもかんでも西洋由来ではなく、また隣国の技術そのままでもない。書の場合、支那の拓本は冷たい石摺りだった。日本の拓本(印刷物)は木目の温もりが漂った。
     十日もあれば出来上がるらしい。どんな三顆印になるか楽しみである。…でも色紙展には出品しないし、できない。あたしゃ「書道名家・代表有力作家」ではないのだから。
    【2020/09/10 05:38】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
     書道をやると、どうしても変な抵抗気分が邪魔をする。ジャンルの一つに篆刻があるからだ。普通は自用の石印を自分で刻る。人に頼むのが憚られる。依頼するなら篆刻家、巷のハンコ屋ではない。どの本も前提にそれが隠れている。木印の記述は滅多にない。そもそもハンコ屋は丸いのばかりで、四角いのは会社印などに限られる。お前は経営者かと揶揄されそうでもあるし、なぜか印影は風味に乏しい。中には吉相判断なんてのもあって、辺が欠けてるのは凶などと言われたら歴史的な篆刻芸術そのものが成り立たなくなる。(一応、この手のサイトはある↓)
    ●開運吉相印は全てインチキです 印相体の嘘
    https://www.fineseal.net/original35.html
     変な商売はやがて歴史を撲滅し始める。売る方も買う方も、無知のままでは風潮に流されるだけとなってしまう。~差し当たり字を調べるなら普通の書道字典でも構わないが、小林石寿編『五体篆書字典』(木耳社)や綿引滔天編『総合篆書大字典』(二玄社)、蓑毛政雄編『必携篆書印譜字典』(柏美術出版)など手元にあるに越した事はない。ただ水上静夫『甲骨金文辭典』(雄山閣)となるとマニアック過ぎて持て余す。字書以外の方が読みやすい。オーソドックスな篆刻入門書は、昭和中期以降なら『書道講座』第6巻(二玄社)辺りが重宝されてきた。
     いったん拵えたハンコを新調する事は滅多にない。今は経済上の電子化目的で印鑑を廃止する動きがあるとやら。台帳の字が読めない年金記録問題の時ほどの影響はあるまいが、篆書となると読めないのは国民の常識と認めざるを得ない。そこに印相体の入り込む隙間があったのだろう、歴史改竄のモデルケースとなり得る基礎的余地は幾らでもある。「井」を篆書でやると「丼」になるから誤字だのと、イチャモンはなんぼでも付けられる。そうした人々にとっては現代から見て、たぶん歴史の方が間違っているのだろう。地味で目立たぬ方面に、「新しい歴史修正主義」の萌芽は半世紀以上前から確かに存在した。
     歴史認識は常識の歴史かも知れない。常識が変化すると歴史(の認識)も変化する。ともすれば歴史が先か常識が先か、とんと分からなくなってくる。大仰な世界規模の歴史より、身近な所にある些細な歴史/文化史の方が体感しやすい。そうした経験の積み重ねから得られるものが、やがて歴史感覚を自発的に研ぎ澄ましていくのだろう。もちろん文化史の偏重には限界があるけれど、さりとて捨て置けるほど軽い分野ではあるまい。また皆が似通った見方ばかりでは詰まらない。~今回の切り口、少しは面白味があるだろうか。

    (補記)
     上のを書いている途中ふと思い出し、後で久々に読み返したら面白かった。出しとこう。以下は上記『書道講座』の月報6(S.48.1)、薄井恭一「篆刻趣味」より。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > もう十年ほどにもなるか、あまり妙な実印、畳文のはなはだしい指紋のようなものや、他人の印、たとえば死んだ父親の実印をもってきて、これを私の実印にと申請して受理されるなど篆書が読めないためでもあろうが、不適当な実印には改刻を勧告するというふうな趣旨のお布令が、東京都下の区役所に回ったことがあったらしい。
    > 何の必要だったか、今は忘れたが、父の印鑑証明を取りに区役所の出張所にいったら、これがひっかかった。
    > 「全体に判りにくい、ことにこの井には真中にヽがあるから、ドンブリという字だ。以前に通ったことがあってもダメです」と若い吏員がいうのである。
    > 私はあまりのことに腹を立てて、「篆書の井の字は点または横線のあるのが本当なのだ。井戸の中に石を投げてドンブリと音がするというのは、日本人の考え出したシャレで漢字には縁のないことなのだ。この印は名人の刻ったもので、字に誤りがあろうとは思われぬ」といった。若い吏員は頭を掻いて、しまったといった顔つきで出張所長のところへ相談に行った末、私を導いたが、これが実にいやな奴だった。ガンとして下僚をかばうのである。「部下が何を申したか知りませんが、この印は、一見して『改刻勧告』に該当します。井はもちろんのこと邦も矛も楷書とはあまりに違いすぎる……」(図2)
    > こういう奴は出世したに相違ない。今は名も顔も覚えていないのが幸いである。父にそのことを話したら、「五十年使ってきたのにな」と寂し気な顔をした。
    > 「印鑑証明」はいるし、たいそう困ってこの印は改刻の要があるかと松丸東魚氏に伺いを立てたら、「非の打ち所がありませんな」とのことであった。印判業者団体の方から、区役所に「五体字典」なども配布されたそうだから、もう一度出してみたらといわれ、十日ほどして貰いにいった。ところがである、驚くべし、同じ吏員同じ所長であるにもかかわらず、即刻、証明を出してくれたのである。終始無言。所長は遠くから、いやな顔で見てやがったが……。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2020/09/16 21:36】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    色紙にはそれなりの雅印、それも
    それなりの大きさのがいるのですね。

    大きすぎてもいけないのですか・・・・。

    考古学者の吉村氏(発掘調査をする人)の
    DVDを買ったとき、色紙がついていました。
    西尾先生の頼んでみましょうかねぇ
    【2020/09/16 21:47】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >色紙にはそれなりの雅印、それも
    >それなりの大きさのがいるのですね。
     ソリャそうでしょう。先日ハンコ屋に持参した見本色紙(平成四年)は本文二行で落款三行、そこに一つ高校時代の六分角をポン。セレブ奥様に郵送したのが一字物ばかりなのは、大き過ぎる雅印が原因なのでした。あのサイズでは七言絶句など書けやしない。例えば加地伸行先生が「江戸のダイナミズム」出版記念に作った西尾先生宛の絶句を書くとしたら、正式な三顆印でないと無礼者になってしまうかも。字の巧拙より格式の方が気になる次第。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-409.html
    https://img.aucfree.com/f347925071.3.jpg
    http://www.nagaragawagarou.com/ga/meikaku056shisyo2.jpg
    http://www.nagaragawagarou.com/gacyou1-3.JPG
     これまで三顆印を持たなかったのは、関防印の文句が見つからなかったからでござんす。候補はあったけれど長過ぎるか立派過ぎて、いづれにしろ古典のはピンと来ない。そこで今回とうとう諦めた。開き直ってハンドルネームそのまんま、素直に「泥酔」と刻って貰う事にした。何十年も考えた挙句がコレだ。なんてこった。畢竟それが苹の属性には相応しかったって事なのでしょう。こう書いている今も、相変わらずビールを飲んで居る……。

    >西尾先生の頼んでみましょうかねぇ
     あれは「お誘い合わせの上で」が主目的で、文壇が錚々たる名前を連ねれば書壇も無視できなくなるのではないかと。色紙は後回しでよいから先にプレスリリース用の文章を書いて貰い、出来れば纏めて社に送り付ける。西尾先生に無理強いは出来ないけれど、書いていただけたら面白…いや、有難い。「あんた、書いてみないか」と各方面に連絡して貰うだけでも充分なのに、それ以上の実作までずけずけと頼めるのはセレブ奥様の他に居ないでしょう。(←ちと褒め過ぎか?)
     でも間に合うかなあ。加地先生は雅印あるけど、ない人は困るだろう。色紙は一箱50枚で数千円。尤も、社の方から出品を断られたら話はそこでオシマイなんですけどネ。だからこそ文士の筆跡には重鎮級の名前が出来るだけ多く要る。我ながら余計な夢を見たもんだ。所詮ダメモトの妄想です。もし探りを入れて貰える様でしたら宜敷どうぞ。
    ●Prokofiev: Romeo and Juliet, No 13 Dance of the Knights (Valery Gergiev, LSO)
    https://www.youtube.com/watch?v=Z_hOR50u7ek

    (2020.9.20追記)
     苹が重鎮級に期待する理由は、一般の書道愛好者が出品の対象外である事による。~「書道名家・代表有力作家/色紙・短冊展」の開催要項を見ると、こう書いてある。
    「出品要請は、日展準会員以上、毎日展役員以上、読売展役員以上、産経展役員以上の諸大家と、同諸大家各位の推薦する作家、また美術新聞社が出品要請する教育界等関係各界の有力者各位に対して順次行う計画で、本展の趣意にかんがみ、自薦・他薦も歓迎」
     …意地悪く見れば、書道界と無関係な部外者(美術界・文芸界など)を予め排除しているかの様にも読み取れる。しかしそれなら自薦・他薦を不可として構わない筈。その辺の姿勢を見極めたい。…もし文壇の重鎮級たる本人達が出品の可否を問い合わせたなら、主催者側はどう出るだろうか。「部外者お断り」となる可能性は半々かと思う。そこに自ずと、開催趣旨たる「書壇・書道関係者各界の“存在証明”」が映し出されるだろう。
    【2020/09/18 06:30】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (ぼやき)
     なぜ篆書は読めないのか。~草書よりは読みやすい気もするが、どっちもどっちと思う人は居るだろう。なにしろ日常生活との縁が薄い。或いは、無意識のまま日常使用している事に気付かない。ハンコに篆書を意識する人や、平仮名に草書を意識する人は殆ど居ない筈。…そう云えば西尾先生が、別の話題でこんな事を書いていた(↓)。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2593
    --------------------------------------------------------------------------------
    > そんなこと分かり切っているではないか。お前はこの七月で85歳となることを考えていなかったのか。そう呼びかける声も聞こえて来ました。そうです。考えていなかったのです。あるいは、考えてはいても、考えを継続することを止めていたのです。
    > 生きるということはそういうことではないでしょうか。迂闊なのですが、迂闊であることは正常の証拠なのです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     字画がはっきりしている点は楷書とさほど違わない。楷書の字形には行草からの影響(草略原理からのフィードバック)が見られるが、篆書には元々それがない。籀文(大篆)や金文(銅器銘文)まで遡ると俄然ややこしくなるけれど、秦の李斯が統一・整理したとされるだけあって、安定した形の篆書(小篆)は分かりやすい方だろう。ただし楷書との比較となると別の意味でややこしい。楷書の分解された形が篆書とも云えるため、中間書体の隷書を媒介しないと理解しにくくなる面はある。隷書と楷書の繋がりなら理解しやすい。
     草書にも篆書にもヴァリエーションはある。ただ草書は草略原理を貫くのに対し、篆書は複雑化や装飾化に向かう。中でも極端なのに見慣れた(?)形の九畳篆は、通常の篆書知識を踏まえないと迷路模様にしか見えないし読めない。どの「うねり」をどう簡略化すれば小篆の形に復元して読み取れるのか、大抵は専門家でも頭を抱えるだろう。にもかかわらず九畳篆(畳文)は、印鑑/雅印に用いられる例が戦前/明治まで稀にあった。…墨書には見られない、篆刻世界の話である。
    ●九畳篆///////百體千字文  手彫り印鑑ブログ 【資料として】
    https://www.fineseal.net/original179.html
    ●九畳篆
    https://tebori1.blog.fc2.com/blog-entry-130.html
     こうしたアクロバティックな仕方が篆書イメージの基準であってはならない。あくまで小篆が「文字としての」基本であらねばならない。…でも私には覚えがある。床の間で川の字になって寝ていた子供の頃、掛軸の雅印(印篆)はただの迷路模様に見えた。それが中学入学寸前だったか、いきなり文字に見えてしまった。あの時の衝撃は忘れられない。可読性とは別の領分で~つまり白文印が迷路模様に見える場合、小篆と九畳篆の区別が付かないのは誰しも当たり前だろう事が「読めると理解できた」。
     …草書と平仮名の区別が付かないらしき英語教員(日本人)の事を思い出す。高校芸術科書道の生徒全員を平仮名が読める様にしたら、「中国に行けばいい」と言っていた。ほんまかいな。我々日本人が日本文化を学ぶには、どの国に留学したらいいのかねえ…。

    (近況)
     うちの婆様を最期まで看てくれたヘルパーさんとの会話中、中学時代に友達と般若心経の速読み比べをして遊んだ話に及んだ。書いて欲しいと言って居たので深夜、取り敢えずビールをリットル単位で飲んでから書いてみた(2020.9.21)。…ふと新しい三顆印を最初に捺したくなった。つまり関防印が示す通り、名実ともに「泥酔心経」と相成る訳だ。いつもの美麗朱砂印泥でなく、三十数年ぶりに光明朱砂印泥を使った。小印には、この色の方が似つかわしいかも知れない。
    ●JESSYE NORMAN Liebestod Tristan und Isolde
    https://www.youtube.com/watch?v=FVprS--bLks
     ヘルパーさんには額装してから贈る。裏打すると一週間かかる。八千円。

    (備忘録)
    https://mainichi.jp/articles/20200924/k00/00m/010/180000c
    --------------------------------------------------------------------------------
    >河野行革相 行政手続きで印鑑廃止を全省庁に要請 押印必要なら「月内回答を」
    >毎日新聞2020年9月24日 17時18分(最終更新 9月24日 22時45分)
    > 河野太郎行政改革担当相は24日、全省庁に対し、行政手続きで印鑑を使用しないよう要請し、使う必要がある場合は理由を今月中に回答するよう求める事務連絡を出した。23日のデジタル庁設置に関する関係閣僚会議でも「はんこをすぐにでもなくしたい」と押印の廃止を呼びかけており、早速発破をかけた。
    > 事務連絡では、年間1万件以上ある行政手続きについては月内に、それ以外は10月上旬までに回答するよう求めた。内閣府などによると、押印が必要な行政手続きは約1万種類あるという。
    > 河野氏は24日夜、テレビ朝日の番組で行政手続きについて「『どうしてもはんこを使わなければいけない』と言ってこないものは、10月1日からはんこなしにする。用紙にはんこの欄があっても無視していいことにする」と述べた。
    > 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて政府もテレワークを推進しているが、行政手続きに押印が必要なケースが多いこともあり、進んでいない。政府は7月に閣議決定した規制改革実施計画に基づき、年内をめどに押印廃止など行政手続きの見直しを各省庁に求めていた。今回の事務連絡によって、実質3カ月前倒しになる。
    > 事務連絡を受けたある省庁の担当者は「こんなに期限が早まるとは。相当ネジを巻いて作業をしなければ間に合わない」と話した。【田辺佑介】
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2020/09/25 01:11】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    押印廃止・・・・大丈夫でしょうか?

    電子サイン?
    サインって、まねされるんじゃないでしょうか・・・・。

    実印の価値ってすごくあると思うし、
    普段でもやはり押印って、信頼の証だと思うんだけれど。
    【2020/09/28 22:47】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     あれから一週間。泥酔心経の額が仕上がってきた。

     突然ですがセレブ奥様宛に、三顆印の印影見本を送りました。それだけではサマにならないから、全体のバランス比較用に字も添えて。加地先生が西尾先生宛に作った七言絶句、体力同様かなり弱々しい筆力となりました。行書は栗成筆荘「特製双料写巻」、楷書ベースのは玉川堂「春の海」で墨運堂の墨液「桐華」使用。ヘルパーさん宛の写経は光明印泥でしたが、今度のはいつもの美麗朱砂印泥で捺しました。色紙にはこっちの色が似合うみたい。何はともあれ、プロのハンコ屋が刻った出来映えを御覧下さい(↓)。
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_5c8c10e0.jpg
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_b2ceff1b.jpg
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-410.html
     くっきりとした字画の白文印は模範的な満白。朱文印は印篆でやりたくなる所ですが、真っ当な小篆を地味かつ平凡な仕方で刻り上げるのが実はどれほど難しい事か。こうした技倆の持ち主が全国にワンサカ居る。そこを碌に見もしないで、5chでは三文判だの何だのと頭から決めつける人のなんと多い事か。シャチハタのイメージがそれだけ普及しているのでしょうが、職人的芸術性にはもっと気を配って欲しいと思います。そうした「正常な」土台があって初めて、日展などの「異常な」篆刻作品が鑑賞できる様になる。
    ●印章技術競技会の作品
    https://tebori1.blog.fc2.com/blog-entry-725.html
     なお「満白」については、こんな記事があります(↑)。「遑々欲何之」(帰去来辞)と刻ってある。上の画像は左右とも同じ文句である所からすると、どうやら競技の課題作品らしい。…それにしても、この画像の満白は布字の追い込み方が極端でビックリ。

    >サインって、まねされるんじゃないでしょうか・・・・。
     その虞は多分にありますね。電子サインの事は全く分かりませんが、手書きとなると本人も全く同じに書ける訳がないので或る意味ややこしくなる。却って鑑定の手間がかかるだけではないかと。この辺、神戸大の魚住和晃教授(筆跡学)が本を出してました。一気にデジタル化を急ぐにしても、先日はドコモ関連でネット泥棒の騒動があったばかりだしなあ。…でも仮に、水面下で何かあったとしたらどうか。例えば従来の方式(印鑑や自署)でセキュリティに重大な綻びが出たとしたら。そこを先ず対策した上で(出来なかった場合も含め)情報公開して欲しいと思います。
     そうではなく、ごく単純に「三文判は要らない」という事ならば理解できます。あれは機械生産の度が過ぎて個人認証の役に立たず、むしろ伝統的な印章文化を破壊する。責任を表徴する筈が、実質は無責任へとひっくり返る。そうした体質を官公庁から排除するのが目的なら尚更、余計かつ未完成な代替手段の話が独り歩きする風潮は危険です。十把一絡げのイメージで「ハンコ」と総称する事により、文化破壊の在り方/見方をすり替えてしまう。
    【2020/10/01 13:17】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    確かに三文判とか、シャチハタは確かに
    どこでも買えるしね。

    印影を送るためだったのかぁ~~~
    【2020/10/02 19:57】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >印影を送るためだったのかぁ~~~
     たぶん字の廃品利用は出来まっせ。例えば楷書色紙をスキャンして集字編集、「西尾幹二」の四字をロゴ化すれば元の色紙より数段クオリティの高いものが仕上がる筈。歴史的な幅も六朝書風(「尾」字)から何紹基(「幹」字)まで、ざっと1300年分は字面で表現できる。チャンネル桜の機材を使えば短時間で面白いものが出来上がるでしょう。或いは近所のハンコ屋に依頼、西尾邸の表札を勝手に拵えて楽しむ手もありそう。…そんな事を考えながらニタニタ不気味な笑みをこぼした、泥酔の昨夜でござんした。(その日のうちにヘルパーさんは、泥酔心経の額を持って行った。)
    【2020/10/02 22:57】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     あら驚いた。比田井和子女史が天来書院の社長を退任、会長になったとさ(↓)。
    http://www.shodo.co.jp/blog/yume2020/1495/
     会長就任後も旺盛で、ネットには今後も力を入れていく模様。誰もが死ぬまで高齢化し続ける。長生きしたら名誉会長になるのかな。(墨運堂の場合、八代目松井茂雄はH.6歿。九代目重憲はH.4に会長、茂浩が社長。十代目昭光はH.27に社長就任との事。)
     天来の手掛けた「鳴鶴先生楷法字彙」や「隷法字彙」を復刻再刊して欲しいと前々から思ってきたが、大部ゆえ売れる見込みが立たないのかも知れない。三十数年前に神田の飯島書店で楷書のを見かけた時は、大きな木匣に入ったのが十万円もして買えなかった。隷書の方なら、あれば無理をしてでも入手しただろう。これまで書いた中で、作品と云えそうなのは鳴鶴流ベースの隷書ばかりだった。…婆様六月の入院前、ヘルパーさんがペットの写真を貼りたいと言うので書いた色紙の題字(飼い犬の名前)も隷書だった…。
     あと旧稿訂正。あれから記憶をまさぐったところ「2020/09/05 06:08」稿で言及した書軸は蘭山のでなく、どうやら一戸清長(師・大沢雅休)のだったらしい。しかし表札の方は確かに蘭山だった。天来系の顔法で書いてあったのを覚えている。

    (色紙雑感)
     つらつら惟うに、幾ら書字技術を蓄えても時と場所が得られなければ消化不良に了わる。…口実を印影に得た。字の出来は両極端でも印影は変わらない。不出来な行書にも場所への期待はあった。「論」字の後の空白に侘びしさを錯覚した。捺印の具合は行書の方がよかろう。あれは楷書の影だったかも知れない。楷書の方も古典臭さは中途半端で、いづれにしろ気に食わない(←切り裂き魔w)。そうした意味で、時と場所を与えてくれたハンコ屋の仕事には感謝して居る。
    ●Fauré Pavane,Op.50(Kazushi Ono/Orchestre de Lyon)
    https://www.youtube.com/watch?v=RAqb1i6ZaCY
     今、どこか侘びしい字が書きたかったのかも知れない。でも書けない。時が間に合わない。それに私は良寛タイプが苦手だ。「良寛が好き」な翠軒を好きだからこそ、齟齬が生じるだろう事は学んだ当初から分かっていた。憧れと云ってもいい。どうやら個性には、そんな矛盾した所があるらしい。

    (備忘録)
    https://news.nifty.com/article/domestic/government/12198-819355/
    --------------------------------------------------------------------------------
    >日本一「ハンコの町」が官邸に、“脱ハンコ”で「誤解や風評被害」
    >2020年10月08日 17時50分 TBS
    > 政府が行政手続きの“脱ハンコ”を進めるなか、自民党の議員連盟が8日午後、「誤解や風評により被害が出ている」として、政府に申し入れをしました。“ハンコの町”から不安の声があがっています。
    > 「拙速にハンコをなくし、デジタル化を進めるということが社会にどういう影響を与えるのか。10万人と言われる業界の皆さまの立場にも立つ必要がある」(自民党・ハンコ議連 城内実会長代行)
    > 自民党本部で開かれた「ハンコ議連」の総会。菅総理が行政手続きでのハンコの使用を原則廃止するよう指示していますが、議連は「ハンコ文化」を守ることなどを目的としています。8日は、国内有数のハンコの産地・山梨県の知事らも駆けつけ、「風評被害」を訴えました。
    > 「押印の省略をハンコの廃止、こういう短絡的な言葉遣いをされることによりまして、私ども産地にとりましては、大いなる迷惑を被っているところです」(山梨県 長崎幸太郎知事)
    > 全国のハンコの生産量のおよそ半分を占め、日本一の「ハンコの町」として知られる山梨県の市川三郷町六郷地区。新型コロナウイルスにより、テレワークやデジタル化が進むなか、町は“ハンコそのものが悪い”という風潮に危機感を募らせています。
    > 「ハンコ文化は尊い文化なので、残していただけるような仕組みづくりについて、いろんなことをお願いしていきたい」(市川三郷町 久保真一町長)
    > ハンコ議連は8日午後、総理官邸を訪れ、「拙速かつ行きすぎた『脱ハンコ化』により、押印に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる」などとする要請文を渡し、国民の十分な理解を得るよう求めました。押印を必要とする行政の無駄をなくす一方、「ハンコ文化」にはどう向き合うのか、模索は続きます。(08日16:52)
    --------------------------------------------------------------------------------

    (2020.10.10追記)
    https://www.facebook.com/168727046514485/posts/2970601616327000/
     河野大臣が蔵書印を使っているそうなので、画像検索してみたら姓名印が捺してある(↑)。でも刻られてある姓名は一応「河野香」と読める。つまり、その蔵書は妻の所有物という事になる。本当にそうなのか、自分のハンコでなくても構わないという事なのか、それとも単に篆書が読めないだけなのか。ますます謎は深まるばかり。関防印の方(↓)は画像が小さくて「登心」としか読めなかった。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012652721000.html
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/K10012652721_2010072142_2010081106_01_11.jpg
     それにしても…苹の楷書色紙、どうしてああなったのか。あたしゃ鳴鶴が好きなのに。たぶん一六のが記憶の底にあったからだろう(例↓)。さほど好きではない筈なんだけどなあ。余白や字間の取り方が、よほど印象的だったのだろうか。わざわざ意識の表層に思い出さずとも、深層の記憶は勝手に表沙汰となったりする。
    ●書宗院展に巌谷一六の作品展示
    http://www.shodo.co.jp/blog/hidai2013/2013/07/post-38.html
     要はゾンビみたいなもの、と云えなくもない。
    【2020/10/08 21:43】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続稿)
     返す返すも河野大臣の蔵書印…あれは拙かった。木印も石印も普通の材(一顆数百円)なら刻料は一万円前後だろうし、刻り手はプロのハンコ屋だ。その一万円前後を惜しんで(?)妻のハンコを借りる了見の何処に、政治家としての覚悟や責任意識が窺えるのか。巌谷一六(貴族院議員)の雅印ならどうか。自分の書に正式な三顆印を執拗に捺し続ける態度たるや、現代人から見れば驚くべきものがある。~勿論それと同じ眼差しは、ハンコ議連会長代行の城内議員にも「いっそう強く」向けられよう。
     お二方や他の議員各位には、まともな篆刻の姓名印を所有していただきたい。百年以上は残る文書になるかも知れないと覚悟(?)した上で捺印するのが本来の在り方の筈。それ以外なら所謂「押印不要」でも構わないが、例えば戸籍絡みとなると本来の姿がゾンビの様に甦る。記憶のでなく記録のゾンビが印影に仮託/保存される。そうした印影が出来損ない…実印レベルだと滅多にあるまいが、蔵書印や雅印レベルでは屡々ありそうな話だろう。また厳密には印泥/朱肉への懸念も見落とせない(↓)。
    ●朱肉の発色の違いと、滲み具合
    https://souma-inbanten.com/2017/11225-2/
    (註:印泥や本朱の原料は硫化第二水銀で無毒とされるが、代用朱の宣伝では猛毒のメチル水銀と混同させるかの様な記述がネット上で散見されたので注意を要する。)
     ただ、読むのと書くのは違う。そこが問題でもある。

     我々にとってハンコは読むのと書くのと、どちらに似ている(いない)のか。「捺印は」と言い換えるべきだろうが、それでは率直過ぎて詰まらない。インプットとアウトプットの両面がありながら、「読める」とも「書ける」とも言い難い模倣/再現性は「読む」とも「書く」とも言い難い。…こう書くと、奇妙な言い回しに見えるだろうか。模倣そのものがハンコと似ている、と云ったらどう見えるか。
     自分の字が読めるのは当たり前だ。自分が書いたのだから。そもそも自分が書く事を前提した時、普通なら「読めない字を書く訳がない」筈だ。しかし観る場合は話が別で、読めなくても味わう事はできる。それが専門家の誘い文句では「書は読めなくていいんです」となる。ところが書く事と搦めた途端、物の見方が本末転倒する。他人の字ならさもあろうが、自分の字すら読めなくていい…どう考えても異常だろう。それをさも当然であるかのごとく着々と混同させてきたのが、「実技を通した」戦後の高校書教育だった。
     芸術科書道の授業で字が読める様になると思う人は殆ど居ないのではなかろうか。普通あれは書く授業であって、読む授業ではない。古典を真似して盲滅法、とにかく書けばよい。だから自然に、読めないのが当たり前となっていく。教員にそのつもりはなくとも事実上、そう教わった形になる。まともに授業する時数/単位が確保できないのだから結局そうならざるを得ない。~この件については約二十年間ずっと書いてきた。しかし今や、それだけでは済まない別の事態が隠れていたのではないかと思う様になってきた。
     読めないものを書く習慣は、三文判を押すのと似ている。中身はどうでもよい。自分もどうだっていい。でも書類上の形式は整う。中身や自分のようなものは、形式に支配される形であらかた蕩尽する。その仕方を稽古するのが戦後の書教育だったのではないか。誰も書道に見向きもしないのは、存在の価値を認めるのではなく「存在の無意味」を認める所にあったからではないか。ハンコの無意味と似て、自己の存在が消尽する。そこに我々は無意識のうち慣れてしまった。もはや読めないものは書く必要がないとしたら、ハンコ廃止論が民意を得つつある状況も相応に理解できよう。
    【2020/10/15 02:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    なるほど、そうきたか~~~

    私が高校生のころ、芸術は選択科目で、
    書道、音楽、美術の中から一つ選ぶのでした。
    読めるようにはならなかったけれど、
    読む方は教えてもらった記憶があります。

    戦後の教育はいろいろ間違ってきているようですね。

    いつか、私の祖父が書いた文字を読んでもらったことがありますが、
    そんなすぐ近くの世代のものさえ、
    読めなくなっているのは本当に情けないです。
    【2020/10/19 21:54】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (拾遺)
     月初、「…でも仮に、水面下で何かあったとしたらどうか。例えば従来の方式(印鑑や自署)でセキュリティに重大な綻びが出たとしたら」と書いた。それが前稿前半の印泥/朱肉ネタと関連する。
     先日5chにこう書いた。「印影を取り込んで3Dプリンタで印材を複製するのは可能でも、実は困った事が起きる。印影が正確ではないからだ。今の朱肉は大半が正確な印影を出せない。大抵は字が肥る。細部が滲んでつぶれる。篆刻レベルでは、欠けた部分の微妙な表現が再現できなくなる。だから印影をそのまま3D化すれば、肥った字の印材が出来上がる。問題はそこからだ。偽札の鑑別と違い、本物の印材と本物の印影は違う。そこを鈍感な人々は無視してきた。だから厳密には印影でなく印材を鑑別しなければならない。これやると手間がかかるぞ。」
     大抵の書家は印泥を用いる。私は三十年以上前に買った光明と美麗しか使った事がない。だから他のはどんな色具合か全く分からない。そもそも捺し方が下手で、印矩(捺印に使う定規)も碌に使いこなせない。使わないと左に傾く癖がある。また印褥の代わりに電話帳など厚手のを下に敷いて捺してきた。そんな訳で正直なところ、捺印は苦手だ。
     確か未使用のがあったナと探したら当てが外れた。てっきり朱泥のストックかと思っていたら、黒色印泥と白色印泥だった。これを使う場合、木印だと困るだろう。~当時は結構どぎつい色の加工紙を使ったりしていた。卒展では内心(書文化への)「墓碑銘」をテーマに、パネルの四方を黒の表具紙で仕立てた。あんな具合の作品に使おうとでも思って買ったのだろうか。…ヴォルコフ『ショスタコーヴィチの証言』によると、「私の多くの交響曲は墓碑である」そうな。断念した卒論テーマも「書法の概念と人間の分裂」だった。その延長に前稿後半がある。

     ハンコと印刷技術を重ねると一層ややこしくなる。刻され捺された印影を更に重刻した例が総ての法帖に見受けられる。ここでのハンコは字と同じく、翻刻/影印の対象として同列である。ハンコには字が刻られているのだから当然とも云えるけれど、その感覚が活字時代に入り失われてしまったのではないか。最も原初的な文字印刷形式としてのハンコの位置/意味が活字とすり替わり、それとは別の意味がハンコから複製性を追放した形となっているかの様な。~複写紙に署名すると、下の紙には青い筆跡が残る。なぜ上下両方の紙に捺印が求められるのか。おかしいと思った事はないか。
     印影は生々しい。にもかかわらず三文判は、印影の印影たる所以を自ら破壊するツールとして機能している。おまけに印肉まで殆どの場合が紛い物だ。…分からぬではない。三文判は便利だし、どこでも安く買える。印肉/スタンプは保存性に欠ける代わり早く乾く。これが印泥だったら大変だ。篦で捏ねて盛り上げて、雅印を何度も付けてから捺す。つまり少し手間暇がかかる。…私は二十歳の頃(もっと後かな?)、親父から「これを使え」とハンコを貰った。印鑑ケースの印肉を早速ほじくり出し印泥を埋めた。あれは失敗だった。穴が小さ過ぎて使えない。嵩張るけれど、いっそ印盒を携帯する方がいい。
    ●シヤチハタのあゆみ
    https://www.shachihata.co.jp/company/kaisha/k7.php
     …ここらでスタンプ型が発展した時期を確認したくなった。「2020/09/16 21:36」稿の後半を参照すると、あれはシャチハタのブームが到来する前夜だったらしい。この辺の体験感覚は、池田様の世代がリアルに御存知だろう(セレブ奥様の世代もか?)。~その前は各々ご家庭にどんな印肉があった(なかった?)のか興味がある。西尾先生の世代なら記憶どうかな。ざっと見積もって終戦直前から、戦後の高度経済成長期くらいまでの間。
     ところで安倍首相辞任表明の翌日以来、「日録」の新稿が出ないな。どうしてるかな。
    【2020/10/21 00:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    なるほど~~~

    朱肉にもそんないろいろあるんですね。
    中国で夫が買ってきたものは、ものすごくベタベタしていて、
    乾かないし、使ったことがありませんが、
    それって本物だったのかな。

    西尾先生は最近ご無沙汰?で、
    おそらく残る二冊?の全集にかかりっきりなんだと思います。
    私も宿題を与えられているけれど、
    まだしてない・・・・で、催促もありません(恥)
    【2020/10/21 14:40】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >中国で夫が買ってきたものは、ものすごくベタベタ
    ●【篆刻がうまく押せない】それはもしかしたら印泥のせいかも。印泥の使い方、押し方、ダメな印泥の特徴を解説!
    https://www.youtube.com/watch?v=HQ2t1et6JCw
     動画を探すとこんな具合(↑)。西冷印社(「冷」は三水)の製品が多く出回っています。捏ねないと腐りやすいと書いてあるサイトが結構ありますが、三十数年前の残りを約二十年ぶりに捏ねたところ全く問題ありませんでした。セレブ奥様んとこにある粛親王の掛軸(↓)も褪色していない筈です。それが印泥の歴史的な底力かと。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1100.html
     何かの契約で実印を捺す際、いきなり印盒を持ち出してきてポンポンやり始めたら相手は多分ビックリするんだろうな(スタンプ台しか見た事ない人は特に)。「この家の人は、ただ者でない」となる。そんな小道具に使える上さほど減るもんじゃないから、ハンコの隣で気長に何十年でも放置しといて下さいな。
     そう遠くない昔は、本の奥付に検印が捺してありましたっけ。ハンコ廃止の前に検印廃止があった。…昔の西尾先生がせっせと検印を捺している姿なんか想像してしまう。

    (余談)
     朱でも墨でも、凝っているつもりはないのに自然と好みが出る。服もまた同様だ。小学生の頃、多くの大人が私の好みに違和感を持ったらしい。選ぶのは老爺が好みそうな色合いばかりで、全く若者らしさがない。中高生時代は制服だから表沙汰にならなかったが、大学時代に入ると忽ち服飾センスを疑われた。卒業後は同じ感覚のままスーツ専門、常に濃い鼠色を保ったまま今に至る。例外は教職の体育系行事だが、好みのスポーツウェアがないので作業服を選んだ。
     年がら年中スーツは純黒(礼服)でも構わないのだが、周囲は違和感を持つらしい。この感覚は自然だと思う。墨色に親しむならスーツの色を参考にすればいい。今、正月ボツにした「雅」色紙が目の前にある(墨運堂「老松」S.58製を使用)。夏服に相応しい沈着な薄墨で、この程度の色なら私でも着用できる。遠目には同じ黒系の服でも、近寄れば様々な糸が使われているのが分かるだろう。その感覚で墨色を味わえばよい…のかも。なんなら硯色でも構わない。
    ●J.S.Bach Complete Orchestral-Suites [ O.Klemperer New-Philharmonia-O ] (1969)
    https://www.youtube.com/watch?v=bffrJ89EGcQ

    (2020.10.25追記)
     硯色…と書いたら気が向いたので、初めて無料出張鑑定会というものに出かけてみた(本郷美術骨董館)。いや、驚いた。四十万の古硯が二万円、十四万の硯板が五千円だそうな(どちらも旧稿既出)。ただ古硯の方は本物の端渓、年代は古くても八十年前(民国期)との見立てだった。つまり清末に閉鎖された老坑ではなさそう。書道専門店に出回るものは相当ランクが低いのかも知れない。買ったのは89~96年の間。もちろん文具店と骨董商で視点の違いはあろうし、こちらの目的は値踏みでなく石質鑑定。ではあるにしろ…予想外の安さだったなあ。
    ●César Franck - Sonate pour violon et piano - Jacques Thibaud Alfred Cortot
    https://www.youtube.com/watch?v=6VAwFGTa5rs
     ふと夢想した。生徒に見せて「これが二万円、これが五千円」とやればどうなったか。安物と認識するだろう。そこで買値を出すと、たぶん驚く。「値段を基準にするな、自分の目利きが基準だ」と教える。誰か現職の先生方、やってみてくれないかしら。~その後、西尾幹二『歴史の真贋』(新潮社)所収「真贋ということ」を読み返した。
    【2020/10/23 01:04】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (鑑定初体験~補記)
     売る気はないが素性は知りたい。のこのこ持って行ったのには理由があった。あれこれ硯の本を読み漁ると、骨董レベルの古硯は扱い/保存が難しいらしい。…三十年前、私は美しいと思った。普段使いの麻子坑とは格が違う。使用が目的で買ったはよいが、磨墨するうち懸念が生じた。磨墨も手入れも下手だから、使うほど見た目は草臥れてくるだろう。もし骨董レベルに近い代物ならと思うと気後れして躊躇われる。
     輸出古硯を示す封蝋はあっても、八十年前のものなら改訂後の文物保護法には引っ掛からない。普段使いにして構わないレベルだそうな。それはそれで気が晴れた。道具を使わず寝かせて置く方が勿体ない。見立ての値段はショックだが、骨董基準では精々そんなものなのだろう。また、人によって見立てが違うとも言っていた。これで苹に火が点いた。
     いったん古硯を持ち帰り、次に硯板を持って行った。暫く待たされた後に順番がきた。最初に「さっきの説明を聞いて思った。同じ人の同じ眼を通して比較すれば、定点観測の条件を満たすから勉強になる」と切り出した。鑑定して貰ったところ、石眼が生かされていないという。彫りの意匠は松と霊芝と鶴。鶴の嘴は石眼を向いているが、争う相手の鶴が居ない。だから争珠硯には入らないと納得できる。対話は幾つかの方面に及んだ。
     ただ、心残りはある。元々あの硯板は教材目的で買った。本物の新老坑でなく沙浦の石だったなら、私は生徒に贋物を見せた事になってしまう。こればかりは気になって仕方がない。その辺の手懸かりは得られなかった。日本で彫られたのではと疑って居たのが意外だった。中国の印材や硯には薄意(薄彫り)のが結構あると聞く。
     帰り際、「因みにあれが二万なら、こっちは?」「五千円」「なるほど」てな遣り取りで鑑定は終わった。そこそこ専門的な話が楽しめた。行ってよかったと思う。

     ともあれ、読み返す。以下引用。『歴史の真贋』P.166。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > すると小林さんは、「骨董趣味なんてあんた言ったけど、趣味が持てれば楽なんで、あれは僕に言わせれば、女出入りみたいなものなんだよ。美術品鑑賞ということを、女出入りみたいに経験できない男は意味ない。だけども、そのように徹底的に経験する人は少ないんだよ。実に少ないのだよ。キツネが憑くようなものさ、キツネが憑いているときは何もかもめちゃくちゃになるのさ。標準のない世界をうろつきまわって何か身につけようとすれば、すったもんだしなければならんが、これは一種の魔道だろうね。他に易しい道があるとも思えない。経済的にも精神的にも家庭生活は滅茶滅茶になってしまうんだ。文士づきあいも止めてしまって、骨董屋という一種奇妙な人間たちと行き来して変な生活が始まるんだよ。それだけでも結構地獄だね。それにあの世界は要するに鑑賞の世界でしょ。つまり見ているだけの世界でしょう」と。
    --------------------------------------------------------------------------------
     あっしのは実作/実用が前提だから、磨墨を楽しみ書く所まで含めた始末の一切が鑑賞の世界と重なる。身体は動かしても、物を作る自覚はない。作ろうとする方がよほど魔道らしく思える。出来が悪けりゃ反古にする他ない。でも中途半端な出来には未練が残る。人前に出せない秘部を楽しんだ挙句、ナルシシズムに囚われる。ともすれば露出狂との境目に戸惑う。どこで踏み留まるか。或いは踏み切るか。
     三十年前、程君房「龍鳳呈祥」を金槌で叩き割った。値が安かったから倣古墨だろうと思った。たまに欠片を磨る。反対に高価だと使うのが躊躇われる。この違いは何だろうか。いづれにしろ、使うに越した事はない。骨董気分で値段/値上がりや価値/保存に囚われるよりは宜しかろう。…尤も、お金があればの話だが。私は百万円台の硯を見た事がない。

    (備忘録)
    ●「ハンコ警察」の大誤解、ムダな印鑑を一掃しても社会の効率は良くならない
    https://diamond.jp/articles/-/251968
    【2020/10/29 06:02】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    ほんとだ、色が褪せていませんね。

    硯を骨とう品やさんで鑑定してもらったのですね。
    リサイクルショップだと持って帰れって言われるかも。
    【2020/11/01 21:33】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >硯を骨とう品やさんで鑑定してもらったのですね。
    >リサイクルショップだと持って帰れって言われるかも。
     さすがに後者は目利き自体が成り立たないでしょうから論外としても、前者は手強かったり足元を見たりする。持参した古硯を見て「これは氷紋です」などと馬鹿げた事を云う。次いで国営店の榮寶齋(北京)や朶雲軒(上海)を持ち出し、「大きな硯が並んでいて…」とくる。こちらは「あれ全部(端渓でなく)沙浦(の硯)と聞きます」と切り返す。自前の目利きは自己防衛の手段でもある。あちらは安く仕入れて高く売るのが仕事だろう。しかし正直ぼったくり疑惑は残る。最初に氷紋なんて言い出さなければよかったのに。あたしゃ思わず「これ、ほんとに氷紋ですか?」と身を乗り出し、幾つか疑わしき部分を指摘した。
     お金は基準にならない。硯の値踏みは20分の1になる。当時の金価格は4倍になる(最安値の7倍)。どちらも予想できなかったし、「高値掴みの恐怖」がなかった。グラム千七百円が千円に下落する程度なら、七千円台が千円台になる可能性と比べれば大した事はない。高いものには高いなりの恐怖がある。価値の代償と云っていいかも知れない。だからだろうか、バーゲンセールには多くの客が群がる。そこでは原価の概念も揺らいでくる。二万円で仕入れた硯は今でも「六十万だけど四十万にしてあげます」と言えば売れるのかしら。当時の1oz金貨8枚分が今2枚分で買えるが、それにしても買値と売値の差はあり過ぎる。
     巷間どうだろう。昔「金プラ買います」の宣伝は見かけなかったが今そればかり。しかし中古が売れ新品は売れない時代になったとも思えない。それよりは人の能力が安く買い叩かれ、奴隷制に近い気配となりつつある。食い詰めた外国人労働者が盗品の転売で糊口を凌ぐ事例も頻発している(所謂「転売ヤー」を含む)。これまで人材不足だの国際化だのと騒がれてきたが、不足と過剰の実態を十把一絡げにした錯覚はもはや通用しないのではないか。むしろ国際化の方こそ、バブル崩壊から続く人材過剰の粉飾ではないのか。

    (近況)
     成り行き上、ハンコのネタが続く。五分角では大き過ぎる気がしたので2020.10.30、同じハンコ屋に四分角の姓名印と雅号印も注文した。ただし三顆印は材がないとの事で断られた。三分角も四分角も六分角もないから今後は注文できない。…なにやってんだ山梨。折角ハンコ廃止で盛り上がって(?)いるのだから、ここらで篆刻用の印材を売り込まなくてどうする。~今度のは木印二顆で九千円、11.10には出来上がるとの事。また月に一度くる店では11.1、七分角の雅号印も注文してみた。こちらは石印一顆で八千円する。来月の営業日に取りに行く。趣を比べるのが楽しみである。たぶん今は発注できる最後の機会に近い。
    ●Brahms Symphony No. 2 Karl Böhm-Live in Tokyo 1977- ブラームス 交響曲第2番 カール・ベーム 東京ライブ
    https://www.youtube.com/watch?v=wkklXB1Gga8
     ハンコ屋に頼む木印は、書道専門店で頼む石印の半額くらいで済む。何かとカネがかかるらしき議員さんなら、店に印材があればハンコ屋で刻って貰う方がリーズナブルだろう。

    (備忘録)
    https://www.sankei.com/politics/news/201104/plt2011040012-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >河野行革相の「押印廃止」印鑑が物議
    >2020.11.4 11:21|政治|政策
    > 河野太郎行政改革担当相が「押印廃止」のはんこを平井卓也デジタル改革担当相からプレゼントされたと自らのツイッターで紹介したところ、はんこ生産地の山梨県の長崎幸太郎知事が嫌悪感を表明したほか、自民党の地元国会議員も激しく反発している。
    > 河野氏は10月29日、「平井大臣からのプレゼント」と投稿。贈られたはんこと「押印廃止」の印影の写真をアップした。投稿は現在は削除されている。
    > これに対し長崎氏は2日、ツイッターで「あぜんとして言葉も出ません…ただただ限りない『嫌悪感』。(決してデジタル化に反対しているわけではない)印章関係者のけなげな思いや切実さに対する敬意はおろか想像力すらみじんも感じられない」などと反応した。
    > 長崎氏はこれまで、行政手続きでの押印省略と民間の商取引での押印やはんこの存在そのものは別問題と主張。10月15日には平井氏と面会している。河野氏との面会も要望しているが実現していない。
    > 山梨が地盤の中谷真一衆院議員(比例南関東)はフェイスブックで「大臣って偉いんですねぇ」とした上で、「額に汗し家族を養うため印鑑を彫っている職人さんや商店街で印鑑を売っている方の気持ちが分からないのでしょうね」「まあ確かにこの方々は額に汗し働いたことなどないか」と両大臣を批判した。
    > 中谷氏は産経新聞の取材に「同じ自民党国会議員とはいえ、政治家としての品位が問われる。おふざけが過ぎたでは済まされない」と話した。
    > 平井氏は4日の閣議後記者会見で「不快に思われる方がいることも分かったので、これからはもっとちゃんと説明する。ある意味はんこを応援したいという意味のはんこ」と弁明した。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2020/11/04 21:14】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
     書画の世界では、ハンコ/雅印と云えば四角いものと決まっている(方寸の芸術)。或いは関防印の様な長方形や角の取れた変形印で、正円の丸印は特殊。印材の殆どは石材だが、その前の世代は併行して木印も刻った。象牙や水牛などの場合は…そもそも角印の材を見た事がない。石印材の殆どは中国からの輸入物で、よほど大きなサイズ(二寸角など)でない限り激安数百円が普通。高価な材(田黄や鶏血など)は有名かつ希少、鈕や薄意の彫りがあったりする。面白いのは確かでも、印材趣味に手を出すと最低でも数十万円かかると見て構わない。贋物も多いから鬼門と云っていい。
     …相次ぐハンコ廃止の騒動を見て思った。これは「ハンコがハンコから自由になる」契機となり得るのではないかと。いつの間にか根付いた丸印や三文判の呪縛から解放され、歴史ある角印すなわち倭古印(大和古印)や支那の系譜に戻ればどうなるかと。これから激減するらしき役所への届出印も、メンタリティの自己規制を緩和して角印に切り替えれば本来の風格が出るに違いない。差し当たり実用上、サイズは四分角(対角線17mm)や三分角くらいが好適かと思う。ただし印鑑ケースには別の工夫が要る。中国製の印箱/錦箱は嵩張り過ぎて、携帯には適さない(↓)。
    http://www.minase.co.jp/syouhin/tenkoku/inbako-ingoto..htm
    https://www.yinkan.com/houjinbox.html
     ハンコ観念の自由化は、象牙やチタンなど新材信仰からの解放も意味する。昔そんな材は少なかった筈。無闇に珍妙高価なものを宣伝して何になるのか、戦後の印章業界は狂ってきたとしか思えない。だから私はハンコ屋を四十年来ずっと避けてきた。まさか丸印以外も受注できるとは思わなかった。…片や書道専門店/篆刻家に石印を頼むと、今度は刻料が高過ぎて困る。例の景品色紙に捺した変形印は初めて注文した石印で、確か四万円以上した。以後、雅印とは疎遠になった。大きな作品用は概ね学生時代の自刻で間に合わせた。碌な出来ではないが、一応それで充分だった。
     ただし社会の実用に使える小印となると細緻な刻が要る。そこが書作品用の篆刻サイズ(八分角や一寸角)と違う。手先が器用で小印を刻れる素人は居る。しかしプロの技術には及ばない。初めてハンコ屋に行った時、明治初期の版下は一分角(3mm)だった件に触れたら「そんなの当たり前だろ」てな顔をしていた。今の書家は版下サイズを書かない。作品にならない実用の字は総て活字に取って代わられた。写経の字は四分角以下、蠅頭の細楷は更に小さい。細密技術から手作業を追放する意図がハンコ廃止の風潮に潜むなら、日本人は職人技術の軽視慣行から戻れなくなるだろう。

    (近況続記)
     昨日、先月末に注文した四分角二顆を受け取ってきた。五分角の関防印とも相性がよく、これなら色紙に七言律詩が安心して書けそうだ。~注文した日は初めての箭鏃印泥も買った。今度のが箭鏃デビュー(?)を飾るかどうかは、来月初の石印七分角を待ってから思案する。どちらも雅号印は今回「渭苹廬」とした。四分角の方は印篆になるかと思っていたら金文だった。組物でなく一顆単位なら、それなりに木印の材はあるらしい。
    ●Brahms : Symphony No. 1 in C Minor, Op. 68 - Karl Böhm, V.P.O. 17.3.1975 /ブラームス:交響曲第1番 - ベーム ウィン・フィル
    https://www.youtube.com/watch?v=vzv8n-eAiiQ
    【2020/11/11 07:04】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (血迷った話)
     「2020/10/23 01:04」稿でスーツの色を墨に見立てた後、ふとコメント欄の遣り取りを思い出した(↓)。…私の知らない世界。着物の話題が濃密で勉強になる。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2313.html#comment
     どんな印象深いコメントも記憶の奥底では眠るが、潜在的には蠢き続けているかの様でもある。ひょんな事から思い出し/読み返したくなるのが面白い。そうした時の記憶は大抵バラバラのピース(再構成の材料)に分解され、脈絡は後からやってくる。
     私の経験しなかった事は数多いが、中でも「殆どの人が経験している」らしい事を欠くとなると心中穏やかでない。例えば学生時代の進路選択。迷う前から決めていると、迷う自由/必然性がない。苦悩を欠いたバカの様な気がするけれど、さりとて「迷ってみたかった」訳でもない。悩んだ事がない、との言い回しがしっくりくるだけかも知れない。
     文字通りバカの一つ覚えみたいな書道ネタが続く。今回は色紙用の雅印がない話に踏み込んだら、突然ハンコ廃止の報が絡んできた。それがハンコ屋との初接触、木印注文の初体験と重なった。世間的論調から見れば順番が逆(?)と映るだろうが、実際そうなったのだから仕方がない。成り行き任せの自然体で書くより他はない。印泥の話もこうなった(↓)。…その後、何を血迷ったか書道専門店に箭鏃より上等な印泥を追加注文した。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2398.html#comment
     理由には心当たりがある。色々と調べたら箭鏃より上のランク、もしくは今世紀に入ってから評判の高まった高級印泥が結構あるらしい。篆刻家に好評との事。そこが気になった。とっくに私は時代遅れとなっていた。例えばこんな記事がある(↓)。
    ●李耘萍印泥
    http://diary.sousokou.jp/?eid=889
     文中、「あたかも血痕が赤黒く変色したような、何とも言えない嫌な色」との表現に目が留まった。大学時代、自分の血で書いた事があるからだ。その頃、書道科の同期生が拙宅玄関に来た。上出来と思う栞を見せたら、彼女は「わあ綺麗」と言った。直後に種明かししたら「気持ち悪い」と逃げ帰った。少ない血量の澄明な茶色は…意外と悪くなかった筈なのになあ。自分の血色には奇妙な愛着でも湧くのだろうか。とは云え、印泥と絡ませるのはさすがに宜しくないのかも。
     高級な印泥は一体どんな色具合かしら。セレブ奥様んとこの掛軸を書いた粛親王は貴人、清末相応品質のを使っていたのではなかろうか。そう思うと血迷わざるを得なくなる。人によって色調の好みは違う。印泥が違えば雅印の印象もかなり変わる。そこを篆刻家は重視し、作風に見合う印泥を厳選する。彼らは手彫りを貫く専門家。他方では或る意味、ハンコ屋の方が先進的とも云える。多くは機械彫りを取り入れ、仕上げの段階で手彫りする。現場の証言(↓)は一読の価値がある。
    ●「手彫り」をお求めの方にお伝えする『重要な事実』
    https://www.kirei-inei.net/tebori/
     ハンコ屋は手彫り不能のチタン材に手を伸ばし、三文判も完全な機械彫りが増えた。一部の業者は漢字の読めない海外に下請け発注すると聞く。業界は自分で自分の首を絞めた挙句、それまで期待されてきた筈の常識と信頼を裏切った。手彫り技術の方も、歴史や伝統に裏付けられた過去の自由を失ったかの様な。~してみると自由は必ずしも獲得されるばかりでなく、失われる事と同義または等価な交換や変質により担保される場合がありそうだ。自由には寿命があるのかも知れない。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2617
     一方、別件ではあるが西尾先生は「日録」(産経「正論」欄↑)でこう語る。「自由を脅かすものは第一に自分自身であり、今の我々の享受している自由の内容である」と。~書道側からの捉え方ゆえに一面的とならざるを得ない理解の仕方や、自由をめぐる「専門的な」振る舞いの数々は当然あろう。ここでは「内容」の理解自体が難しい。

     同日21:00蛇足。以下は雅印と印泥の世界に取り合わせてみたくなった演奏。
    ●Messa da Requiem Vienna 1984 Karajan Carreras Tomowa-Sintow Baltsa van Dam
    https://www.operaonvideo.com/messa-da-requiem-vienna-1985-karajan-carreras-tomowa-sintow-baltsa-van-dam/
    ●Verdi “Requiem” Anna Tomowa Sintow & Herbert von Karajan • Wiener Philharmoniker, 1984
    https://www.youtube.com/watch?v=6g_1f6XHp6k
    【2020/11/22 07:17】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    しまった、父のところで写メ撮ってくるのわすれちゃいました。

    【2020/11/28 21:40】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     セレブ奥様の御子息が結婚との事。~その頃こちらは泥酔中、ハンコの新調を夢想していた。四角い木印に正式な白文ではどうだろうか。刻る字は差し当たり「長谷川印」か「長谷川氏」か。谷と川は画数が少ないから、一行に三字を詰めればフルネームも可能。またハンコ廃止のご時世、書道専門店が優れたハンコ屋を取り込めばどうなるかとも夢想した。「石印は完全手彫り、木印は機械彫り工程を含むので石印の半額」なら商機に繋がるかも知れない。
     今後の需要はどれだけ期待できるかしら。書道界は高齢化と少子化のダブルパンチで先細る。ハンコ屋で九月に話を振ったら諦め顔だった。日本画など他方面での見込みもなくはないが、日展では今なお出品者の多くが第五科の「書」でござる。尤も、雅印を多数保有し作品それぞれ使い分けられるなら大いに結構。安価で高雅なのが入手できれば勿論それに越した事はない。~そう云えば、こんな話題があった(↓)。私の場合、一字印とは無縁である。
    https://www.sankei.com/life/news/201126/lif2011260021-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >全議員が落款印作成 はんこ産地の山梨・市川三郷町
    >2020.11.26 13:29|ライフ|くらし
    > 手彫りのはんこの産地、六郷地区がある山梨県市川三郷町の全議員14人が名刺用の落款(らっかん)印を作り、26日に六郷印章業連合組合から納入された。
    > 落款は書画などの作成者が押す印。笠井雄一議長は「名刺や手紙に押したい。議会として地場産業を応援し、デジタル化とはんこを共存させたい」と語った。
    > 連合組合の小林成仁組合長は「実務的なはんこだけでなく、落款のような使い方もある。行政手続きでの認め印を省略しても、はんこ自体がなくなるわけではないことを国はきちんと説明してほしい」と求めた。
    --------------------------------------------------------------------------------
    https://www.asahi.com/articles/ASNCW5H8TNCWUTPB00R.html
     「2020/10/01 13:17」稿で、「「正常な」土台があって初めて、日展などの「異常な」篆刻作品が鑑賞できる様になる」と書いた。~基本は小印の筈。しかし展覧会の篆刻作品は巨大な印影が多い。「美術新聞」1179号によると改組(新)第7回、日展特選の辻敬斎「承顔接辞」(↓)は8×7.7cmもあるそうな。そんなの誰が実用するか!…どう考えても異常な大きさである。捺すためでなく、飾るために篆刻作品(=印影)が作られる。すると雅印の実質は過去の在り方と分かたれる。篆刻家が「或る自由」を独占する形で印材を所有すると、捺印不能な雅印は他者の能動的実用を拒む。
    https://www.daito.ac.jp/news/details_30243.html
    https://www.daito.ac.jp/att/30243_269597_010.jpg

    (印泥見本裏話~本日郵送)
     注文した七分角と追加した印泥の他、新品の箭鏃も買い足した(2020.12.1)。~十月末にハンコ屋で買った箭鏃は、説明書を見ると式熊/高式熊が出る前のストック品らしい(約二十年経過?)。多分そうだろうと踏んだのが裏目に出た模様。捏ねたら最悪のベトベト状態、色紙に試したら紙が引っ付き剥がれてきた。色も本で読んだ印象とは違い、光明より暗い。一晩ほど冷暗所で寝かせたら落ち着いてきたけれど、美麗と同程度の赤味で朱色への傾きは微々たるもの(取り敢えず葉書の表書に捺してみた)。…別の箭鏃と比較せねばなるまいと思った。新品の方は明るい朱色だった。
     上等の印泥は高式熊珍品で値が張った。美麗の重い暗さはなく納得の色。ところが!…五分角の姓名印を捺したら異変が起こった。酉の左上が欠けてしまった。その劇的瞬間が葉書の印影に激写されてあるので面白がって貰いたい。たぶん使用後に拭き過ぎたのが原因だろう。ティッシュが刻りに入り込むので、取り去ろうとゴシゴシ繰り返した。爪楊枝をデリケートに使い始めるのが遅過ぎた。~印泥それぞれの品名は、銀朱墨の木下照僊堂「照龍」(黄口)で書き入れて置いた。関防印の印泥も同じ配列。粛親王の三顆印(↓)が黄口なら、印泥見本より朱墨に近い色かも知れない。
    http://blog-imgs-45.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_a2b60342.jpg
     葉書に並べてみると、当たり前だが七分角は大きい。小篆/印篆は四分角の金文と趣が違う。こんな具合に次々と発注すれば費用が相当かかるけれど、苹と違って作品を書く人は二桁の数を所有するのが普通と聞く。遊印にも手を出したい所だが、今の年齢では作るべき時を失った/逃した気がしてならぬ。もっと漢学を勉強して置けばよかった。…作るとしたら無意識に、語句は高校在学中から「留與人間作笑談」と決めていた様でもある。これは趙子昂の七絶「自警」の結句。でも起句が「齒豁頭童六十三」ではどう見ても年齢が不釣り合いで無理。この十年で漸く頭が童(は)げた。
    【2020/12/02 22:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    楽しみにまっています。

    あ~~~また、写メするの忘れた~~~

    最近父のところに行くときは、
    ちょうど点滴をしてもらう時間で、
    兄嫁が同席してくれていて、
    話が弾み?忘れちゃいます。

    父は二日が一日のような睡眠、食事状態です。
    【2020/12/05 10:14】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     印泥見本の葉書(↓)は恙なく到着したのかどうか…。上半分の印影は半月ほど寝かせたけれど、下半分は捺してから一日しか経っていない。色移りで汚れる心配がある筈。郵便番号枠も古い五桁の物。そもそも家に七桁の葉書や封筒がない。郵便局の窓口に出したら局員さんがキョトンとしていた。(表書が旧字体/書写体の「廣島縣」だからか?)
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_b1d8b232.jpg
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_faddca97.jpg
     分割画像は上下さかさま。字面の「読み」が度外視できる上、ネット/パソコンで見ると泥色四種の特徴はそれなりに出ている。美麗の実物は紅色の強い濃赤だが、画像は比較的どす黒い色調になっているのが興味深い。どのサイト画像であれ、濃度は概ね同じでも質感が違うと別物に見える。本/図録のカラー写真もまた、色調を実物に近付けるべく相当いじってきたのだろう。
     箭鏃や光明の様な明るい印泥は、実物でも捺し方や紙質によって色味が違って見える。濃い所は稍や紅に近く、薄い所はそれなりになる(←つまり捺し方が下手)。特に箭鏃の発色は鮮烈で、小印では効果的でも白文の八分角以上は目が慣れるまで時間のかかる事がある。どうやら鮮烈過ぎると困る面がある模様。その点、美麗の様な濃赤に傾く泥色は落ち着きが出て目に優しい。見た事はないが、もっと黄色味が強いらしき朱ヒョウ(石票)とか云う印泥も同様かつ高雅な趣になるのではと想像できる。ただし大印に黄口を取り合わせるのは直感的に憚られる。濃赤の方が似つかわしい気がする。
     …捺印は苦手だ。当方ずぼらな性格、今は寝床で枕上ノートパソコンに古い雑誌を敷いて捺している(←反則)。輪郭はクッキリ出ても、中が抜けたりして失敗する例が多い。1mm厚のアルミ板を買って敷いてみたが、歪んで凹んで駄目だった。ネット情報ではガラス板(5mm厚)がよいらしい。ホームセンターを回ったところ意外や意外、何処にも売っていないのには驚いた。代わりに古い小さな鏡(ガラス厚2mm)を試したら改善された。そこで今度は、大きめの鏡(ガラス厚3mm)やハードコートのアクリル板(5mm厚)を買ってきた。そこそこ捺せそうではある。当面これで続けてみる。
     以下は葉書の正立全像。実用の際、四分角では大き過ぎるかも知れない。
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_d807f3de.jpg
     …この時分、賀状に使おうと雅印を拵える物好きは居るのかしら。葉書サイズなら三分角に四字程度が好もしかろう。二分角だと一字印となり面白味が減るのみならず、芸術性の要求次第では印稿段階からして想像以上に難しくなる。商売で一字印を量産する業者の気が知れない。ともすれば却って篆刻イメージが崩れてしまう。この辺、山梨の議員各位には熟慮して欲しい。単に作ればよいというものではない。
     と云うのも、素人なりに少しは経験があるからだ。大学時代の篆刻授業、印稿だけで総ての時間を費やすのが精一杯だった。ミリ以下の微調整が要る。細部の表現まで気が回らない。どうにか印面への布字は済ませたけれど間に合わず、印稿提出で単位を出して貰った。墨と朱の盛り上がり具合を見れば修正の痕跡が分かるから、多分お情けで出してくれたのだろう(その後すぐ刻った)。印稿の出来で過半が決まる。
     書は売れないが、印なら売れる。飾るしか使い道のないガラクタと、専ら使うための道具。この違いは大きい。実用するつもりなら出来のよい方がいいに決まっている。小印でも刻る字数が多いと、なにやら得をした気分になる(←俗物根性?)。石印の場合は材の見極めが難しいと聞く。石質に元々ムラがあるそうな。この際、精緻な刻に分のある木印の出番かと思うが如何。ただし勿論「まともな」雅印に限る。
     遠くの篆刻家より隣のハンコ屋の方が親しみやすいが、ともあれ刻者の為すべき事は決まっている。黙って精緻な技術や鋭敏な感性を見せびらかせばよい。そうすれば客は黙って付いてくるだろう。催事でも一字刻パフォーマンスで時と場所を飾ったりせず、本物の姿勢を愚直に示す。「すぐ仕上げます」とサービスを取り繕うのではなく、「これだけ手間がかかります」と客の前で字書を開き印稿に取りかかる…。
    ●校字から印稿作りまでの流れ
    https://kanseirou.com/%E6%98%9F%E9%BD%8B%E5%8D%B0%E7%A8%BF/

    (粛親王、雅印~2020.12.11追記)
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_23dfa4d2.jpg
     あら今度は横向きだ(w)。さほど黄色っぽくはなかった様ですね。「粛親王」白文と「偶遂亭主」朱文。色調は美麗ほど重くなく、光明ほど明るくもなさそう。珍品に近い方なのかしら。百年を隔てた泥色の画像、有難う御座います。
    【2020/12/09 23:38】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (備忘録)
     こんな記事を見つけたので至急紹介する。戦中当時の興味深い文化交流が篆刻と絡む。~高畑翠石(1879~1957)は篆刻を山崎酔石と蘆野楠山、書を近藤雪竹に学んだ。
    https://www.townnews.co.jp/0605/images/a000995396_06.jpg
    https://www.townnews.co.jp/0605/2020/10/01/544980.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >平塚版 掲載号:2020年10月1日号
    >徳富蘇峰記念館
    >軍人宰相の一面伝える
    >東条英機のはんこ印影展示
    >文化
    > 明治・大正・昭和に活躍したジャーナリスト徳富蘇峰(1863〜1957)が時の内閣総理大臣の東条英機(1884〜1948)に寄贈した「謙堂」の雅号印など三つのはんこの印影を、徳富蘇峰記念館=二宮町=で公開している。東条に宛てた手紙も同時に展示。「軍人宰相」のイメージとは異なる東条の一面や戦局が悪化した時代背景が、資料から見える。
    > 東条の印章(はんこ)の印影は、書や絵画などに落款印として押す関防印と姓名印、雅号印の三顆(さんか)組の印を押したもの。富士山の絵柄が入った、蘇峰のオリジナル用箋に朱肉の色も鮮やかに残されている。
    > 好きな語句やめでたい言葉を用いる関防印の印文は「天空海闊」。「気持ちがさっぱりとして、前が開けていること」を意味するという。白い印文で表される姓名印は「臣英機印」、朱文の雅号印は「謙堂」とある。
    > 印章の目録控えによると、蘇峰は昭和19年(1944)5月にそれらのはんこを東条へ寄贈した。サイパン島陥落を受けて東条内閣が総辞職する2カ月前のこと。篆刻家の高畑翠石に法隆寺の古材を使って彫らせた。「蘇峰はお気に入りの篆刻家の中から、神経質な東条に合う緻密な線を彫ることができると考えて高畑に制作を依頼したのでしょう」と同館学芸員の宮崎松代さんは話す。
    >
    >言論界長老が激励
    > 大日本言論報国会会長を務めていた蘇峰は首相声明文の添削などに携わり、東条の後ろ盾でもあった。印章を贈る約1年前の昭和18年(1943)4月、東条のために18もの雅号を提案する手紙を送付。「寛堂」「平泉」「如雲」「亜洲」などの案から東条が選んだのは「謙堂」だった。
    > 蘇峰は中国の古典『書経』の「慢(心)は損を招き、謙は益を受く」を引用して「首相極位故に退一歩・謙堂」と、最高権力者の雅号の選択に喜んだといわれる。「『英機』という名が力強いので、雅号はなるべく滋味、穏妥の方がよい」と手紙で助言していた。
    > 「戦況が不利となり、東条を励ましたいという一心で蘇峰は印章を贈ったのではないか。実物は残されていないが、歴史の一事象から戦後75年の時の流れを感じてもらえれば」と別の学芸員の塩崎信彦さんは語る。
    > 印影は、開催中の「徳富蘇峰愛用の印章コレクション」展の追加展示として9月15日から初公開。12月25日(金)まで。
    > 午前10時〜午後4時。月曜日休館。入館料一般500円、高校・大学生400円。(問)同館【電話】0463・71・0266
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    【2020/12/15 01:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (箭鏃印泥の不思議)
     四十年ほど前、どの本にも三種の説明があった。光明は安価な明るい朱色。中級品の美麗は深みのある落ち着いた濃赤。箭鏃は光明より明るい朱の最高級品。大体そんな具合で、原料は印泥も朱墨も水銀とあった。そこまではいい。朱墨の色感が影響したのか美麗は赤口よりずっと濃く、光明も黄口ほどには朱色らしくない。むしろ赤口に近い。…他の人々にとって、朱色とはどんな色だろうか。私にとっては銀朱墨の黄口が基準だから、どの印泥も赤過ぎる。~箭鏃を初めて買った後、どうも様子がおかしい気がした。
    http://www.kinoshitashousendou.co.jp/shuboku.html
     印泥見本葉書に使った銀朱墨は1999年に磨ったのが最後。硯は朱墨専用の麻子坑で、洗うのが勿体ない。固まった朱墨を小筆で溶くと、書けない事はない濃度になる。当時は墨磨機を24時間稼働して贅沢に磨りまくり、生徒全員に濃厚なのをスプーン一杯ずつ配り印稿の授業をした。余りは卒業証書の番号入れに使った。私費徴収したお金で買った教材ゆえ、小さくなった残りはそのまま高校に置いてきた。あれは遠慮なく使ったけれど、自前のも欲しくなって買った未使用の方は磨るのが勿体なくて気後れする。
     それはともかく、こんなブログがある(↓)。以下は価格比較の抄録。銘柄は代表的な三種の他にも沢山あって分かりにくい。もちろん箭鏃(の別商標)も各社色々ある。
    ●印泥製法
    http://blog.livedoor.jp/imakishoji/archives/1780318.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >潜泉印泥 (西泠印社) 価格比較  以前よく使われた【美麗】 を 1 として記してある。
    >珍品珠砂印泥5.73   珍品式熊印泥1.46 緑色印泥0.84
    >朱標朱砂印泥2.7 精品式熊印泥1.19 純黒印泥0.8
    >箭鏃朱砂印泥2.6    上品式熊印泥0.73    白色印泥0.72
    >美麗朱砂印泥1     金色印泥1.9     朱紅印泥0.65
    >鏡面朱砂印泥0.78    銀色印泥1.88    古色印泥0.43
    >光明朱砂印泥0.54 黄色印泥0.84    宝蘭印泥0.43
    >朝睴印泥0.3
    >朶雲軒印泥価格   西泠印社の 【美麗】 を 1 として比較
    >祭蘭箭鏃印泥西泠8.64    高式熊珍品11.3
    >白瓷箭鏃印泥西泠6.27    祭蘭硃磦8
    >粉彩箭鏃印泥西泠7.3      黄彩硃磦9.95
    --------------------------------------------------------------------------------
     メジャーな西冷印社は上海にあるが、別系統が杭州にもあるなど色々ややこしい(こちら参照↓)。店頭それぞれ実物色見本がある訳でもないから判断できない。そこに来たのが先日の新旧箭鏃でござる。印影の色具合を確認できぬまま、本で読んだイメージを頼りに買ったら驚いた。同じ上海西冷なのに色が違う。古い箭鏃は高式熊珍品とさほど違わぬ濃厚な赤で、新品は光明より稍や明るい赤寄りの朱。同じ銘柄でも色調が余りに違うと、何を買えばよいのか分からなくなる。(古い色は今も出回っている模様?)
    http://www.minase.co.jp/syouhin/tenkoku/indei.htm
     珍品は一万六千円した(一両装)。後に購入した古い箭鏃は七千五百円、新品の箭鏃は一万円(共に二両装)。古い箭鏃の方が珍品より安く上がり、使った一両装は冬場ベトベトせず小印に向く上「付きが良過ぎる」。使い始めは最悪の状態でも邪険にするものではないナと思った。寝かせたら今後どう化けるか分からない。色が変わるのではない。季節と同様に使い心地/状態が変わる。やがて通年ベトベトしなくなるかも知れない。論より証拠、三十年以上前に買った美麗や光明は色も質も極めて安定している。
    ●Mozart/Süssmayr: Requiem, Walter & VPO (1937) モーツァルト レクイエム ワルター(パリ万博)
    https://www.youtube.com/watch?v=etT9hQBKgLs
    ●Beethoven Symphony No.9 Willem Mengelberg 1938
    https://www.youtube.com/watch?v=9TYc8uNbRU4
     あっしの様な素人に質の良し悪しは分からない。しかしながらこの手の印泥、百年くらいは大丈夫かも知れない…とは思う。昔の音楽録音と同様、今も好んで味わう/押捺する人は居る。ただ古い未使用品となると、今はなかなか現物が手に入りにくいので困る。~こちらの場合、二つの古い箭鏃は青森のハンコ屋で見つけた。その店には以前、中国人が物色しに来たそうな。あちらの人々なら平素やりそうな事だと思った。小さな老舗には正規ルートの掘り出し物が眠っているから、安心して買えるのだろう。

    (高式熊珍品の不思議)
     三十年以上前に美麗(一両装2、二両装1)と光明(五両装)、今年は箭鏃(新旧それぞれ一両装と二両装)と高式熊珍品(一両装)を買った。三十数年で全十六両…買い過ぎだろうか。新旧箭鏃二両装は予備。一両装だけで判断するのは如何なものかと思った。印泥には当たり外れが時折あると聞く。新品箭鏃は付きが悪い。他の銘柄は現在どうだろうか。美麗は色が悪くなったと聞く。珍品は申し分なく評判も高いが値上がりは甚だしい。国産の銀朱墨「照龍」(黄口)も、この二十年で五千円以上は値上がりした。
     私の捺し方は下手だから、印泥の付きが浅かったり偏ったりブレたりする。この点では美麗が安定して好都合。光明や新品箭鏃では「付き」の明度が露骨に出るけれど、手ブレの中に明度差が出る事はない。ところが珍品は違う。印影左半分と違い右半分がブレる時、珍品は左右で色/明度差が変わって見える。しっかり捺せた所は朱味を帯びた濃赤なのに、ブレると奥から更に鮮やかな朱が浮かび上がってくるかの様な。こんな印象差のある印泥は初めてだ。似通った色の古い箭鏃でも他の印泥でもそうなった事はない。高式熊印泥の製法が他と異なるのだろうか。謎だ。
    【2020/12/23 00:55】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    印泥だけで、ここまで書ける人は
    日本にほかにはいないでしょう。

    本当は昔のもの(粛親王の軸)はずっと掛けておかないで、
    しまっておいた方が劣化しないでよいのでしょうね。
    【2020/12/28 22:20】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     ハンコ屋で二つ目の古い箭鏃(二両装)を買った時、三分角に白文四字の姓名印を刻れるか聞いてみた。答えは「刻れる」だった。木印一顆四千円との事(註:篆刻家に石印を頼むと、一字二千円なら八千円する)。ただし「(字が)潰れるんじゃないか」と危惧していた。それは織り込み済みなので、予め腹案を用意して行った。左行の名前は画数が多いから、代わりに「氏印」か「印信」とすれば宜しかろうと。ハンコ屋は予想通り「××氏印」とする方を勧めた。~刻る字が小さくなる場合、明治維新前後の実態はこうだった(「2015/01/04 02:44」稿、高田竹山の回想より↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1720.html#comment
    --------------------------------------------------------------------------------
    > また、昔の書家は、木版の版下(印刷用に文字をきざむ版木に、はりつけてほるための文字の下書き)を書いたものですが、私も若いころによく書きました。もちろん修業を積み、先生に許されてから版下書きができるのですが、木版の版下はそれほど細かい字ではありません。細かすぎては版木に彫るのもむずかしいし、彫れたとしても刷るのがまたむずかしくなるからです。明治時代に入って木版に代わり銅版が使われ出しました。銅の板で造った印刷用の原版で、原稿を手彫りしないですみます。薬品で腐食させて作るのですが、今のような活字がない時代ですから、文字は書家が書かねばなりません。しかし、銅版は手彫りの必要がないからと、三ミリぐらいのごく小さな文字を書かされることになりました。もちろん、銅版の版下書きは値段が高いわけです。私はまだ少年のことですから、目に自信がありましたし、お金も多くもらえるので、進んで銅版の版下書きをしました。昼は学僕ですから、先生の用事も多く、時には先生の代りに子供の弟子へ稽古をつけることもしなければならなかったので、仕方なく夜の間に版下を書くことになります。今のような電灯はありません。魚油をともした行灯の薄暗いあかりで書いたのです。行灯は三方を墨で塗り、一方に光を集める工夫をしてはありますが、その暗いあかりで三ミリ以内の小さな文字を根気よく書いたわけですが、今考えると、よくあの様な仕事ができたものだと思います。
    --------------------------------------------------------------------------------
     こんなのを中学時代から読んでいると、細字に興味が湧くのは当然だろう。中でも朱墨は普通の墨と違い、滲まないから特段に書きやすい(普通の墨は滲み止めに礬水を用いる)。…が、さほど小さい字を書いてきた訳でもない。だから蠅頭の細字(一分角)がずっと気になっていた。三分角程度なら精緻な工夫は出来るものの、より小さい字となると難しい。しかし江戸時代はそれが日常の文字文化だった。当方は足元にも及ばない。また印刷/捺印時点で字が潰れるなど、学ぶ側にしてみれば知った事ではない。とにかく小さい字を精緻に美しく書ける事が当面の目標/夢だった。(支那の場合はこんな具合↓)
    ●科挙制度と墨汁の誕生 ~墨汁の歴史?
    http://diary.sousokou.jp/?eid=292
     そうこうするうち馬齢だけが重なった。結局、今年も何一つ出来なかった。手書きを諦めて二十年来、専らワープロで書道ネタを書き連ねるばかり。仕事したつもりなのは書いた本人だけ。そもそもエッセイは仕事に値するか。ただの感想文ではないのか。論文レベルなら上等らしくもあろう。しかしながらそれでさえ、書いたところで実際に読まれるかどうかは定かでない。つまり何もしていない。したかどうかは他者/世間が決める。かと云って勝手に忖度、迎合する気にもなれぬ。そんな事が出来るくらい器用なら、今頃とっくに雑誌連載か何かを目当てに売り込みをかけて居る。我儘と云えば身も蓋もない。
    https://www.dpm.org.cn/collection/seal/233650.html?hl=%E4%B8%89%E5%B8%8C%E5%A0%82%E5%8D%B0
     この正月、別の印泥を書道専門店で見繕って貰う事になっている。赤いのしか持っていないから、今度は黄色いのを所望した。これで印泥購入は人生最後とする予定ゆえ、期待は過剰に膨らみがちとなる。~乾隆帝の時代では「三希堂精鑑璽」(↑)などが有名で、二玄社「故宮博物院の名蹟」完全複製(↓)の泥色には穏やかな黄色味(?)が窺われた。…現代の製品はどんな色だろうか。的外れでもよい。それなりに納得できればよい。古い書画は本紙がくすんでいる。赤い印泥で鑑蔵印を捺すと暗くなり過ぎるのではと思ってきた。泥色との「時代を超えた」釣り合い/調和変化について、百年以上経過後を幻視しつつ「恰も遡るかのごとく」想像したら面白そうな気がする。
    https://www.nigensha.co.jp/kokyu/top.html?lang=jp
     以上の文脈からすると、「朱に交われば赤くなる」の意味まで揺らいでくる気もする。

     さて年末だ。昨年はブルックナーsym全集(ヨッフム旧盤)、一昨年はバッハのトリオソナタ全曲(アラン独奏、パイプオルガン)で年末年始を過ごした(再掲↓)。
    ●Bruckner - Symphonies No.1,2,3,4,5,6,7,8,9 + Presentation (recording of the Century : Eugen Jochum)
    https://www.youtube.com/watch?v=XuhhEoW0h38
    ●BWV 525: Trio Sonata No.1 in E-flat Major (Scrolling)
    https://www.youtube.com/watch?v=TUatfMtpuiQ&list=PLmCLUrrx_kSf3RsufFBc_L1f0I9kkqlCu
     今度の正月は長々としたピアノ曲で行こうかしら(↓)。発想/構成の元ネタはバッハの平均律クラヴィーア曲集。ショスタコーヴィチが作曲するとこうなる。CDでは世紀末にメロディア(BMG)から出た1987年盤を聴いてきたが、初演者ニコラーエワ晩年の演奏動画は初めて見た。まだ冒頭しか視聴していない。曲自体は後期SQなどの幽霊/猛毒系(?)と違って、ガックリ気の滅入るタイプではないと思う(たぶん)。
    ●Shostakovich - Preludes and Fugues, Op.87, Book I - Tatiana Nikolayeva
    https://www.youtube.com/watch?v=ZyURjdnYQaU
    ●Shostakovich - Preludes and Fugues, Op.87, Book II - Tatiana Nikolayeva
    https://www.youtube.com/watch?v=dQPS7CmZlHM
     日付が変わったら、謹賀新年ならぬ謹忘舊年とでもして置こうか(曲盡已忘情)。
    【2020/12/31 18:03】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (新年雑感)
     郵便局でお金を下ろしたら窓口に広告がある。何かと思ったら東京五輪記念硬貨、百円玉は品切れで五百円玉が残っている。意匠が秀抜ゆえ、中止記念の珍貨(?)になるかもと一枚ずつ交換してみた。帰宅後に調べたら、これは最終回の第四次発行分だそうな。1964年のは千円と百円の銀貨だったけれど、今度のはデタラメな多種濫造ぶりに呆れ返る(↓)。デザインと鋳造技術は風神雷神の出来が最も気に入った。他のはどれもオモチャみたいで萎える。
    https://www.mof.go.jp/currency/coin/commemorative_coin/list.htm
    https://www.mint.go.jp/wide/tokyo2020_index.html
     上記のを見ると案の定、金銀貨幣は額面十倍くらいのボッタクリ価格で販売された。地金型金貨でないから地金商は扱わない。そもそも貨幣損傷等取締法の縛りがある。…もし通貨の「不平等を是正」し、外国通貨も総て厳密に額面通りの扱いとしたら。日本金貨と平等に、メイプルリーフ1oz金貨も表向き額面50ドルでしか換金できなくなったら。取引されるのは商品市場の地金だけ。消費増税では密輸が増加した。ガラパゴス化の仕方にも色々あるらしい。
     年末酔中ふと思った。風神雷神の五百円、お年玉に相応しいのではと。でも気付いたのは小晦日の深夜、もう窓口交換は間に合わない。…そう云えば印泥見本葉書、郵便局員はどの切手を貼ったのかナア。普通切手か記念切手か。四十年前は切手ブームがあった。手元に『オールカラー1979日本切手カタログ』(日本郵便切手商協同組合)がある。当時デパートの切手売場には古銭も並んでいたが、あれは高価過ぎて興味が湧かなかった。小判は見た記憶がない。
     普通、お年玉は貰う金額の多寡が気になる。しかし当時は記念貨幣が入っていると、それだけで喜んだものだった。精緻な鋳造技術に見惚れた。五百円玉は存在せず、専ら百円玉の美が繰り広げられた。この辺は切手ブームと軌を一にする。そうこうするうち、自然と蒐集癖や美意識が培われた様な。子供の情操教育に役立つ出来事だったと思う。貯金だから親とて文句は言うまい。お金を大事にする感覚が養われる。…でも今は印泥への無駄遣いが後ろめたい…。

     色を気にすると神経質になる。架蔵五種のうち朱系は二種(光明、新品箭鏃)で赤系は三種(美麗、古い箭鏃、高式熊珍品)。たっぷり濃く捺すと古い箭鏃と珍品の色は近いが、珍品には穏やかな光がある。比べて箭鏃は光がきつい。片や美麗は光が冷たい。しかも新旧箭鏃には朱赤の別なく「色のきつさ」=光の同質性を感じる。また光明の色は明るくて分かりにくいけれど、奥底の光は美麗と似て冷たい。穏やかな光は品位が高いという事だろうか。色と光は別物なのかも知れない。
     支那人のイメージと云えば滅多矢鱈に赤色が好きで、国旗から何から多くが真っ赤っか。紙の銘柄も紅星牌だの紅旗牌だのと、どれだけ拘っているのやら。…あの感覚、「緑色でも青信号」の我々には耐え難い/分かりにくかろう。しかし実際は日本人の方が赤・紅・朱の区別に鈍感なだけなのかも知れない。印泥のサイトを覗くと様々な言葉~「××紅」といった顔色/色彩表現が並んでいる(↓)。でも正直なところ、あちらのデリカシーはイメージしにくい。
    http://www.shypgy.com/gy/shuhuabangongyinni.htm
    http://www.zzbabao.com/pd.jsp?id=5#_pp=110_643
     他方、日本人は墨色表現に拘る。それも淡墨。濃墨の違いは分かりにくいから、自ずとそうなっていった。どの墨屋も文具店も、墨色の特徴(紫・紺・茶・青など)や古墨指向の滲み具合を宣伝文句にする。~濃墨に関しては中国でも事情は同様どころか、墨汁/墨液の普及状況となると日本に負けず劣らず甚だしいらしい(↓)。支那では科挙受験上の難から一得閣が1860年代、日本では学校教育上の難から開明が1890年代、それぞれ独自に液体墨を発明した。
    ●墨汁の功罪 ~墨汁の歴史?
    http://diary.sousokou.jp/?eid=295
     よくありがちな模倣/パクリの話へと矮小化すべきではない。むしろ必要性の動機、開発起源の質的差異について捉え直した方がよいかと思う。どちらも時間的制約に発する点は共通しているけれど、官僚試験と初等教育とでは目的や応用度/自由度のレベルが違う。開国前後から顕著となる日支乖離を文化史の面から考察する上で、何かの比較材料にはなるだろう。
    【2021/01/03 14:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     書道専門店の営業日は黄色い印泥の他に関防印(引首印)の材も見繕って貰う事になっているが、連日の大雪では外出困難。~これはリストの超絶技巧練習曲から「雪かき」(↓)。
    ●Liszt - Chasse Neige - played by Claudio Arrau
    https://www.youtube.com/watch?v=Tu1QaimCJkg
     昔、自刻しようと八分角の三顆印材を買ったところ関防印が小さくて気に食わない。取り合わせるなら縦一寸くらいが丁度よいのではと思ってきた。それとは別に、八分角の姓名印と雅号印は大学時代、六分角(七分弱…つまり2.0cm角)の姓名印は高校時代に刻った。先日は七分角の雅号印を注文。これで漸く八分と七分それぞれ二顆セットが揃った事になる。後はどちらにも合う関防印だが…私の感覚は元来こちら(↓)に近いらしい。
    https://mainichi.jp/articles/20201216/k00/00m/040/062000c
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    >福山藩主・阿部正弘の印章見つかる ペリー来航時の幕府老中 「字から尊皇の気風」
    >毎日新聞2020年12月16日 10時23分(最終更新 12月16日 10時23分)
    > ペリー来航(1853年)時に江戸幕府の老中を務めた福山藩七代藩主、阿部正弘(1819~57年)が、書画に押すのに使ったとみられる落款の印章3点が見つかった。福山城博物館(広島県福山市丸之内1)と福山市の郷土史研究グループ「福山郷土の偉人研究会」が15日発表した。正弘の遺品は少なく、福山藩主の印章が見つかるのも初めてという。
    > 印章は3点一組で保存状態は良好。作品の右肩に押す「引首印」(縦4・8センチ、横2・3センチ、高さ7センチ、重さ191グラム)は「居安思危」▽「白文印」(縦3・5センチ、横3・5センチ、高さ7・5センチ、重さ248グラム)は雅号「福山侍従」▽「朱文印」(縦3・5センチ、横3・5センチ、高さ7・3センチ、重さ234グラム)には姓名「阿部朝臣正弘」――の文字がそれぞれ刻まれている。材質はいずれもろう石で、外側にハスの彫刻が施されている。
    > 福山郷土の偉人研究会の田中宏行会長が2016年秋、神奈川県鎌倉市の男性が所有しているのを知り、福山城博物館に調査を依頼。同館が所蔵する1844年の正弘の書などの押印と比較して調べたところ、印影の欠けた部分が共通することなどから、同一で実物と判断した。
    > 博物館の皿海弘樹学芸員によると「居安思危(安きに居りて危うきを思う)」は中国古典の「春秋左氏伝」の一節、「侍従」「朝臣」は朝廷の臣下を示すといい、「印章は、正弘が老中首座としてペリー来航などに対応した時期に持っていたとみられる。刻まれた文字からは、尊皇の気風も感じられる」と話す。
    > 所有者とは、博物館に寄託してもらうなどの話し合いを続けているといい、22年8月の博物館リニューアル後の公開を目指している。【関東晋慈】
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    https://www.asahi.com/articles/ASNDJ73FHNDHPITB00G.html
    https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/00001-00050/00017abe-masahiro-shihitsu/00017abe-masahiro-shihitsu.htm
    https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekishi-tenji/rkishi-tenji2/t0850abe-masahiro-ichirin/t0850abe-masahiro-ichirin.htm
     二顆の一寸二分角に、縦一寸六分の関防印を取り合わせてある。…サイズはどうあれ、今時こんな三顆印は流行らないのかも知れない。格式張った印象となるか、大作には似合わないのだろう。大抵は一顆か二顆で済ませる様になった。支那の場合は不定型なのが多く、遊印やら何やら色々と捺す例が少なくない。日本では書展の篆刻部門が漢字・仮名部門から独立(?)したので所謂「書作品」には捺されない。もし篆刻家が紙面の大半を漢字書が占める作に捺印して出したなら、篆刻作品でなく漢字書作品の扱い~もしくは問題作となるのでは。
     それだけ篆刻は肩身が狭いという事かしら。負けずと膨張したらしく、二~三寸角くらいのサイズが当たり前となって久しい。あれを書作品に捺したらどうなるか見てみたい。例えば篆刻部門の特選受賞作を、次年度に漢字部門のトップが借りて自作に使ったらどうなるか(コラボレーション)。日展でやったらさぞ面白かろう…いや、困るだろう。あんな巨大な篆刻作品、どうやって書作品に活かすんだ?(そこまで考えた事があるのか?)
     昔の印影は幾らでもあるが、印材/印章そのものは残存しにくい。抑も後人には自用印としての使い道がない上、新たに古人の印譜を作るのが精々。田黄や鶏血などの希少な印材として残るケースはどうなのやら。ともかく捺せる時に捺して置かないと、やがて印影という「作品」までもが希少となっていく。今やハンコ廃止の時勢。篆刻芸術の衰退もまた、篆刻界と書道界(毛筆)との共同作業により成就しつつあるのではなかろうか。
    【2021/01/10 01:52】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (近況&回想)
     今月は書道専門店に行けなかった。来月は取りに行こう。
     気分転換に古い箭鏃をまたまた石印で試したら、厳冬下でもベタベタしたのにはガッカリした。すると疑問が過ぎった。この印泥と石印とでは、相性(!)がよくないと思われる節がある。片や木印ではベト付かず、美麗に次いで色調の出方が安定する上いっそう優れた泥色が得られる。~ところが色紙(紅星牌単宣)でなく半紙で木印を比較すると、今度は泥色が意外なほど違う。古い箭鏃は程々に濃く出るが珍品は重厚さが減退し、明度が増すと穏やかで落ち着いた性格がむしろ裏目に出るかの様な。自己主張を抑えた品位の高さに戸惑う。
     …どうやら一筋縄では行きそうにない。印泥それぞれ、石印用や木印用の向き不向きでもあるのだろうか。私は昨秋ハンコ屋で注文するまで木印を知らなかったし、ベタベタする印泥があるとは思わなかった。だから高校在職中も言及した事はない。~授業の優秀作品(美麗で捺した印影)を自前のスキャナで取り込み高級A4(B5?)光沢紙に拡大印刷、文化祭で窓に展示した事ならある(書道部は人数が少なかった)。日光が紙の裏から差し込むとプリンタの赤色インクが映えた。これはこれなりに美しかった。

     世紀末の高校授業では一年春の楷書単元で書風比較の半紙練習をさせた後、すぐさま半截1/2サイズを使わせた。練習用は台湾画宣。清書用は紅星牌。~楷書単元に入った直後、墨竹画法を経由して墨色変化に目を向けさせた。だから中淡墨で書いた生徒もそれなりに居た。磨墨は時間がかかるから練墨の五色選択制とした(ただの墨汁は原液のまま使うので駄目)。行書単元に移った頃は皆、自ずと普通の濃墨程度まで薄める様になった。墨色は紫紺系の人気が高かった。教科書所収の蘭亭序は八柱第三本(稀に張金界奴本)だが、生徒の人気は八柱第二本(↓)の方が高かった。
    http://www.nlc.cn/newgtkj/shjs/201106/t20110613_44149.htm
     紅星牌四尺棉料単宣の全紙一反(百枚)が八千円の時代だった。高騰した今よりは好環境だったと思う。当時の生徒は高級な紙を使った。朱墨も本物しか触れた事がない。そんな経験が今も少しは記憶に残って居るだろうか。銀朱の色を思い出す人は居るかしら。教員が提供できるのは学習環境くらいが精々で、教育力の内実は煎じ詰めれば生徒自身が触れた過去の記憶/時間でしかない。自分を教育するのは自分のみである以上、その効果は後からじわじわ滲み出る。悪く云えば「呪い」に近かろう。
     ただし当方、篆刻/印泥等々まで踏み込む余裕は全くなかった。他校なら仮名指導も高度なレベルだった筈だが、こちらは平仮名が読める様にするだけで精一杯。取り敢えず心聲會(青森県高等学校教育研究会書道部会)への出展は「書家でないから作品は書かない」と断り仕事を絞ったけれど、あのまま高校勤務を続けたら数年後どうなったか。先ず理論家(?)としての基礎/自己確立に向かわないと、やがて自分に追い詰められ仕事が続けられなくなったのではと思わぬでもない。

     あたしゃ徹底した授業中心指向で、部活動が盛んな高校の仕方とは全くの別物だった。生徒への要求水準は主要教科に引けを取らないレベルでありたい。そこまでやるのは無理だったが、国語の生徒は入学前から平仮名が読める。ならば書道の生徒もさっさと読める様にすべきである(基礎以前の基礎)。また定期考査の出し方は歴史科目のに近く、教養優位の傾向が強かった。それが成績評価に役立ったりした。或る生徒はいつも実技の最下位を争っているのに定期考査は毎回トップクラス、実技中心授業では最も損をする「頭のいいヘタクソ」タイプだった。芸術科目でも定期考査は実施した方がいい。
     そもそも卒業後は科目と縁遠くなる生徒が大半なのだから、進学後の専攻科目に役立つ余地があるなら高校在学中から傍系/延長上の基礎固めをしても構わない筈。ところが高教研書道部会で招聘講師に「基礎とは何か」と問うても答えてくれない。自前で勝手にやるしか手がない。斯界に確たる共通理解があるのか、二十数年後の今でもよく分からない。単に私が勉強不足なだけなのだろうか。基礎を「めぐる」指導方法の研究資料なら沢山ある。しかし基礎「そのもの」に踏み込んだ研究となると、気のせいか見た記憶がない。
     少し離れたアプローチの仕方なら、国語方面や他芸術など色々あるだろう。絵画などの作品制作をしない美術研究者はどれくらい居るのだろうか。文学作品を書かない国語教員の場合はどうか。評論世界との距離はどうなのか。そうこうするうち目に留まったのが、西尾幹二の教育をめぐる著作だった。歴史や哲学には程々の興味しかないのに、各領域/世界との距離を見据える「自己」の在り方が面白く気にかかる。…多分それとは関係ない筈だけれど、私なりの書道哲学を構築したいと思っていた頃だったのを思い出す。

    (以下、2021.1.19追記)
     スポーツや芸術技能の練習を怠ると、その分だけ腕が落ちる。巷間まことしやかに言われる一面の真実ではある…と書くと、なにやら芸術がスポーツみたいに見えてくる。文学の場合もそうだろうか。日々書き続けないと腕/筆力(?)が落ちるのか。大学の先生も同様ならば、研究を妨害する「雑務」の一つは教育の仕事だろう。研究に専念させる代わり期限を切れば、学術論文は質量ともに上がると期待する向きならありそうだ。按ずるところ外面の「見え方」からは、見えない領分~考える時間の意味が抜け落ちてくるらしい。教育の成果に至っては頗る極端で、数十年後にならないと分からない。
     私は今世紀に入る頃から徹底して怠けた。書けば新たな技術/技巧が身に付くのは確かなれど、これがどうにも腑に落ちない。怠け続ける二十年、専らワープロで文章を綴った。毛筆でないから腕は確実に落ちているだろう。しかしながら腕と質は、どれだけ直結するものなのか。大袈裟に単純化すると、練習すれば超絶技巧の作品くらい誰でも書ける道理になる。勿論かなり一面的に過ぎる見方ではある。技巧が質を圧迫する局面で、質は如何にして保たれ得るのか。…時には音楽が参考になったりもする。得体の知れないヒントが感じられる。ところが厄介な事に、たぶん書道とは直接の関係がない。
    ●Antonín Dvořák Symphony No 8 in G major Karajan Wiener Philarmoniker
    https://www.youtube.com/watch?v=wIBtWyKj-vA
    ●Karajan: Dvorak Symphony No.8 Rehearsal
    https://www.youtube.com/watch?v=22mfWMioWWA
     本番は何が起こるか分からない。練習の方が上出来となるケースも少なくない。ライヴ録音の準備は念入りだが、素材/音源が本番の一発録りとリハーサル収録だけでは限界がある。この点ではスタジオ録音の底力が時間的意味でも上回り、数年寝かせて録音し直す例が結構ある。この「寝かせる」事の意味/意図/事情が気にかかる。現実の演奏には、録音の瞬間(例↓)も含め「今」があり過ぎる。また、「今」だったものは聴く側との間で重層化する。そこには新たに再現される「今」があるばかりでなく、何十年後になるか分からない「時の亀裂」がある。
    ●Gottlob Frick records Hagen
    https://www.youtube.com/watch?v=MbIeE2A03Z0

    (重ねて回想~左手書)
     嘗て授業中のエピソードを初代の天バカ板に書いた。今の三代目板(↓)にも初出稿を転載してある。全文は「「とめはね」其四」稿(2020/04/05 (Sun) 06:43:42)所収の「【再掲】「とめはね」ネタ19」、「7828 「とめはねっ!」雑感(其八)」稿(2010/09/04 21:28)を参照されたし。
    http://midnight-run.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=12921901
     後年、5chでも話の種とした(↓)。左利きの人が右手で書く事についての言及があったので出してみた。No.565は初稿を寝かせてから八年半後の、新たな思い付きである。
    ●【国宝・重文】古碑法帖を語る・学ぶ
    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1529140133/
    --------------------------------------------------------------------------------
    >554わたしはダリ?名無しさん?2019/03/05(火) 05:08:32.05>>563
    > 右手で書く時、双鉤法では三本指で把筆、筆管を薬指外側で挟む。その時の筆の角度を左手で擬せばどうなるか。~試しに持ってみた。左手三本指で把筆。しかし普通に薬指で筆管を挟んだのでは角度が左右逆になる。そこで筆の角度を右手把筆と同じ向きに変えてみると、今度は筆管の薬指に当たる箇所が一関節ぶん下になる(つまり、人によっては毛が生えてる箇所)。親指と筆管との接触部分も、普通の持ち方では筆管が爪側に当たり把筆が崩れてしまう。そこで親指を上向きにして把筆し直す。その際、親指と人差し指は平行になる。親指の爪を上から筆管に食い込ませる様に持つと書きやすい。
    > これで把筆はどうにかなる。次は運筆の不都合を解決する。
    > 腕の動きは肩から下の関節運動に順う。~手首の関節は横向きに動く水平軸となる(左右対称)。西洋画をカンバスに描く様な把筆(支那での呼称はゾク管法~「ゾク」の字は手偏に族)は水平軸のままだが、書字の場合は筆管が垂直軸となる様に把筆する。しかしこれでは大きな字が書けない。そこで肩から先の動き全体に垂直軸を仮構すべく、普通は懸腕法で対処する。しかしこの腕法は右肩関節の水平軸運動に制約されるので、どのみち右手運動を左手で擬態するのにはそもそも無理がある。
    > ならば提腕法ではどうか。臂の関節は下向きに垂れ下がる。つまり上腕部が垂直軸となる。~この「下向き」の動きを補う手札が昔からある。昔は右利きの人も、竹製や木製の腕枕を使っていた(日本ではどうだか知らぬが)。つまり提腕法を更に枕腕法へと変換してしまえば、肩の左右対称性による影響を臂と枕の二段構えで薄める事ができそうになる。右腕を胸先で安定させ、その上に左手を置くと、左下腕部の皮膚が右腕(=枕)の上でグニャグニャ柔らかく動いて、筆管の垂直円運動がいくぶん容易になる。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >565わたしはダリ?名無しさん?2019/03/09(土) 15:19:51.06
    > 福本雅一『頽筆集』(二玄社)の「左手」稿にある宋元明清の例では、書画どちらにも記録が残る。当時の事だから中小字が殆ど。つまり精密かつ実用的で、元の鄭元祐は「左手もて楷書を写し、規矩備(つぶさ)に至り、世に一絶と称せらる」との評あり。そこで思い当たったのが腕法に関する臂閣の効用。教育上はネットに見える論文でも小竹光夫・竹中優志「伝統的書写指導の誤解と問題点の指摘Ⅲ―数的優位の方法を反転させ,数的劣位の側の対応とする矛盾について―」(奈良学園大学)に片鱗が窺え、そこではワイパーの様な動きに着目している。
    > 小字の左手書については>>554(実は某所「2010/09/04 21:28」稿からの転用)の通りだが、大字となると勝手が違う。ならば右手の枕に当たる箇所を左下腕部でなく左上腕部にしてみると面白い。この場合は当たる箇所がクイッと持ち上げた右手首となり、さながらカンフーの構えを思わせる。折角の左利きで右手書の修練中とあらば、両手どちらでも書けて構わないはず。実演したら必ずや皆が目をひん剥くに違いない。そう夢想すると痛快で、オラわくわくするぜ。「いいかい、左手で書道やる時はカンフーの構えをとるんだよ」って。
    --------------------------------------------------------------------------------
    ●伝統的書写指導の誤解と問題点の指摘Ⅲ - Core
    https://core.ac.uk/download/pdf/84117867.pdf
    【2021/01/16 21:49】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    結局、何年先生をされていたのですか?

    そちらは大雪ですか?

    高校のころにとった書道の時間が思い出されます。
    「天」という字を書いたとき、
    なぜかすごくいい感じに書けてうれしかった。
    【2021/01/20 22:38】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (返信)
    >結局、何年先生をされていたのですか?
     青森の県立高講師は四年くらいで転勤するのが普通の様です。私の場合は二校で終わりました。「読める書を書かせるのではなく、読める人を育てる」方針は最初の高校の仮名授業一時限目で瞬時に思い付き、それが最後まで続きました。転勤時は人事異動が発表されてから約一週間で引き払わなければならないので、後始末に四苦八苦します。
     人選の内幕は分かりませんが、精選された人が長期雇用の対象となるのは昔からですし、抑も教員採用試験が殆どないから正規採用は論外。約二十年に一度の実施なら生涯の受験機会は二度以下となります。後は管理職の判断次第。部活重視&授業軽視方針でないと進学率向上には役立たないらしい。近年は県内でも書道パフォーマンスをやらせないと評価が低くなる傾向を感じます。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-932.html#comment
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-924.html#comment
     三校目の誘いがあった話は前にも書きました(↑)。前々から次にやりたい授業の準備もしていました。でも私の授業は傍目にゃ難しく映るらしい。「難しい事はやらない事、定期考査をやらない事」が条件だった様です。これで私は見切りを付けました。以下は「2010/06/25 21:38」非表示稿より。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > そもそも最初に恩師が話を持ち込んできた時からおかしかったんだよなあ。こちらの近所の高校も手配できるとか、その場合は非常勤講師になるだろうとか、臨時講師で行ける高校もあるけど「余計な希望は出すな」とか。そんなムチャクチャな柔軟性なんか、県教育庁にあるものかい。第一そんなに困ってるなら、最初から書道の教員採用試験を実施すればええじゃないか。
    --------------------------------------------------------------------------------
     こちらにしてみれば、他にやる事が沢山ある。別段コロナ時代を予見した訳ではないけれど、今世紀は「実技なき書教育」の模索を続けてきた気がします。管理職を含む門外漢に振り回されるよりは遙かに効率的で、教材研究などの幅もいっそう拡がった様な。またネット閲覧数次第では勤務校や県内に留まらず、波及効果が何倍にもなり得るかとも。…まだ生きて居るうちに、今後どれだけの事が書けるかなあ。
    ●The Nutcracker – The Waltz of the Snowflakes (The Royal Ballet)
    https://www.youtube.com/watch?v=UYaIQNjAX_8

    (同日夜、註釈)
     具体的な模索は、それまで書いて見せる事で強引に「教えたふり」をしていた領域を、より明確な言語表現~つまり文章へと変換する事だった。実技の現場には即した言葉がない。遠くからでは見えない。それで教えたつもりになる方がおかしい。しかし語るべき言葉が見つからない。これでは教えようがない。先ず言葉を鍛えなければ話にならぬ。しかし現場には余裕がない。腰を据えて言葉を択んでいたら、もう二十年が経ってしまった。
     それでも幾つか使えそうな表現は見つかった。造字構造とか草略原理とか。しかしこの状態(↓)となると程遠い(「2017/06/16 22:40」稿より)。もっと分かりやすく出来ないものかと、今も休み休み考え続けている。でもなかなか思い付かないのには困った。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1993.html#comment
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    > 幕末から明治にかけての文字環境には、もう少し留意して置かねばなるまい。大方の人は見た目の変化、例えば楷書と草書の違いや文字連綿の有無に囚われがちな傾向がある模様。しかしこれらは表層の文字像が「違う様に見える」だけであって、深層構造における文字知覚/認識は殆ど変わらない。欧文の例で云えばローマンもゴシックも筆記体も、共に同一の深層文字像/認識へと収斂する様に。
    > 「殆ど」変わらないと書いたのは、例えば草書を楷書に書き換える場合、殆どの点画が複雑化して同一文字内に細部の差異を発生させるからである。楷書の輪郭は細部に宿る一方、草書の輪郭は骨格へと沈潜したまま再び表層の形に近接する。邉も邊も草書の形は同じ構造下で草略変化(行書水準を含む)の幅を持ち、草略の度が進むほど同一の形となる様に。つまり草書における細部の省略は、楷書における骨格の細密化/分化と相補的に機能する(ドゥルーズの表現を借りると、省略は文字認識の差異化=微分化(différentiation)、細密化は差異化=分化(différenciation)に相当する?)。
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    (2021.1.24追想)
     最初の給料でソニーのHi8ビデオカメラを買った。目的は教材映像の工夫。クローズアップ操作するのは難しく、さほど効果的とも思えなくなってきた。後から思えば技術や準備の不足した稚拙な見切り発車と云えよう。小筆を持つ手元がモニター画像で拡大できればよしとする素朴な意図だった。当時は普通教室にモニター施設がない。書道室には持ち込んでみたが、小さいテレビだから全く効果が上がらない。一校目はどうだか忘れたが、二校目には視聴覚室があった。しかし書道の実技授業には適さなかった。
     二十年後の今も授業環境はさほど変わっていないのではあるまいか。いきなりコロナでリモートワークなんて無理だろう。教室据付テレビに校内放送で校長先生の顔は映っても、授業に使えるとは考えにくい。仮に環境が整ったとしても、教員側にノウハウがない。私なら付いて行けない。モニター活用授業については退職後も考えてきた。昔の素朴な意図では理念的イメージが喚起できない。CG活用ならどうかと思ったりもしたが技術がない。…この話どこかで書いたな…ここだった(「2013/12/15 12:08」稿より↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1580.html#comment
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    > 分かりやすく書くのは難しい。長けりゃ書けるってものでもない。難しく書くのも難しい。ベテラン書家は「変体仮名を使わずに変体仮名を説明せよ」と求められたらどうするのかなあ。そんなのを工夫して、敗れた落ち武者は「つくる会」東京支部板への画像投稿を試みて、それでも満足できずに居る。動画でやるのも難しかろう。ただの揮毫シーン撮影ならソニーHi8ビデオカメラ時代に試したけれど頓挫した(機材は自腹)。どうやらCGでないと無理みたい。脳内ビジョンならあるんだけどネ。それを伝える手段として、時にはアニメの絵コンテに憧れたり。近いのはNHKの教育番組で見た事あるけど、苹から見れば不合格だった。もっと文字が生き物の様に変態し、クローズアップされた各部分(部首を含む)が表層の下から立体的に、深層の骨格レイヤーを浮かび上がらせながら~そう、映画に喩えるなら「ターミネーター」シリーズ後期みたいな感じで。あれを動的でなく静的に、骨格の引力に縛られながら逃れ出ようとするかのごとき表層として描写するの。そこに到達点/臨界点としての文字映像(表層記憶)が現出する。と同時にソシュールもチョムスキーもクリステヴァも納得するだろう詩的幻影が、詩的属性自体を振り払って文字の深層に沈潜していく。そうした拡張と収縮の反復が書字映像を書字行為から切り離し、次に映像(記憶)を再現する手続きとしての書字行為がアフォーダンス絡みで演じられる。
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    【2021/01/21 07:21】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (追記)
     前稿で「前々から次にやりたい授業の準備もしていました」と書いた。うち一つが、在職当時の同僚を餌食とした「2018/06/24 00:26」稿中のコレ(抄録↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2127.html#comment
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    > いつだったか、書道をやりたいと言い出した事がある。その時これ幸いと舌舐りした。よし、この先生で生体実験してやろうと。それなりに構想はあった。もし書道で分裂分析的な授業を開発したらどうなるか。早速そこそこ手荒い書きぶりの千字文を半紙に十数枚、取り敢えず様子を見るため手渡してみた。…その後は音沙汰がなかった。おしまい。
    > 苹が構想していたのは、相手の書き癖に対応した書風分裂の目論見。そもそも芸術科書道では様々な古典を学ぶため、そうならざるを得ない側面がある。様々な表現力を養うには、国語科書写のごとき画一的規範性だと授業で対応できなくなるからだ。しかし一つの書風を徹底すれば自ずと画一的になる筈だし、その事は苹自身が高校在学中の部活(翠軒流)で体験済みである。ならばいっそ、それを多重人格状に変容させてみたらどうか。しかしアブナイ手口になるかも知れないので、いきなりの生徒相手では試しにくい。そこに登場したのがお誂え向きの獲物(?)だったのに、あれは残念だった。
    > その後が続いていたら、どうなったか。相手に合わせてガラリと書風を変えてみる。様々な手練手管で、相手が戸惑う様な書風展開を試みる。しかし要点は書風よりむしろ書写体や草略原理の側にあるから、或る意味「書道の稽古らしくなくなる」。上手下手とは関係なく、可読性と多様性の歴史的理解をどうしたら陶冶できるか実験したかった。その感想と批判から学び工夫を凝らすには、手っ取り早い同僚の国語教育経験に必ずや有益なヒントが潜んでいる筈。(以下略)
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     つまり、ここでは総ての=多様な書風をあくまで従属的な位置に留める。一つの歴史的可読性に収斂する様に仕向ける手筈を、書風横断的な実技の側から帰納的に強化する。生徒個人にとっては稍や画一的でも、集団化すれば多様になる「授業の特質」(一望監視方式)を逆手に取る。見方と見え方を双方向から揺さぶり、相互観察による「戸惑い」の効果(自他分裂)をどうすれば最大化できるか実験する。大体そんな具合の目論見だった。
     高校や大学レベルの書道では合評会がある。私の見た範囲では印象批評に留まる例が殆どで、より踏み込んだ相互分析に向かう事は滅多にない。元々そうした能力が陶冶されていないのは、たぶん合評が結果だけを対象としているからだろう。すると過程の流動性を含めた変容に目が向かなくなる。ならば合評構造の分裂性に個人の分裂性を持ち込めば、集団的要素と個人的要素が「同じ分裂的プロセス」を共有できる様に意識化できるのではないかと考えた。
     しかしながら~所謂「自分」の領域に、土足で他者を過剰に持ち込む野蛮が許されるのかと躊躇した。そこを教員同士で研究したかった。機会を逸した今となっては、現職の有志に委ねる他ない。…そこそこ危険な試みとなる筈である。ともすれば自己形成が不充分な思春期の学生を洗脳/マインドコントロールするのも同然で、自己形成の程度を見極め踏み切る頃合いの見定めが難しくなるに違いない。予てから漠然と、教育と洗脳は紙一重と思ってきた。(その後に読んだ類書の一冊↓)
    https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393361160.html
     昔は自己/教養形成の時間を予め師匠の影響下で庇護した。それが今では赤裸。自己や審美から、学問/教養が丸ごと排除された。こうなると自己形成/審美眼もへったくれもない。戦後の学校教育は「教養からの自由」を模索してきたらしく、山下清画伯(所謂「裸の大将」)や子供の作品のごとき在り方が芸術イメージ形成に深く影響してきた気がする。
     芸術を学問や教養と思う人は一体どれだけ居るだろうか。西洋ではリベラルアーツと呼ばれ、支那では藝術と呼ばれた。片や明治以後の日本で育った「芸術」概念は生活と無縁な舶来文化で、あちらのアートでもなければ藝術でもない。だから日本では外来芸術化された日本文化もろとも一様に根付かなくなる。現に学校では全国どこも暗黙のうち、そう教える事が求められている様に思える。
     ならば先ず、芸術以前の歴史的基礎を俯瞰すればどうか。それが芸術であろうとなかろうと、それらしきものを内蔵した処から芸術が「はみ出る」過程を炙り出す。見方や見え方は画一的でもいいし、そうでなくてもいい。

    (備忘録~本文転載省略)
    ●デジタル教科書 紙との二者択一は誤っている
    https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20201222-OYT1T50269/
     上記は読売社説。~書道のデジタル教科書は実際どうなっていくだろうか。世紀末は既に、ヴァーチャル・リアリティ(VR)の問題が取り沙汰されていた。とっくに克服したつもりになって居てもおかしくあるまい。例えば黒崎政男『カオス系の暗礁めぐる哲学の魚』(NTT出版、1997)には以下の記述がある。差し当たり、「第九章 ヴァーチュアル・リアリティと現代」から引用する(P.234)。
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    > VRは、コンピュータがつくり出す世界の中に人間が入り込むテクノロジーと言うこともできる。だから、その成果は、従来のように機械を走らせてみて第三者的/客観的な形で計られるのではなく、VRを〈体験〉する人間の感覚的判断という一人称のレヴェルに移行する。
    > このように、VRは、AIとしてのコンピュータ、あるいは、環境/インターフェイスとしてのコンピュータのとき以上に、人間の感覚や認識、あるいはその現実感というものに、まさに直接関わってくる問題群なのである。
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     四半世紀前の時点でヴァーチャルとアクチュアル、リアルとポッシブルなど取り沙汰されてきた。それが稚拙な段階とは云え今、教育/教材の中に取り込まれつつある。しかし一方、まさかデジタル教材との間を取り持つ主力ツール(!)が「ゲームになるとは思わなかった」人なら少なくあるまい。深夜アニメを観察するとゲームの模像を物語化したものが目立つ。そうした仕事へのリアルな参入/参加を欲する人は増加し、中には放火殺人事件を起こした参加希望者(?)も居る。マネーゲームはパソコン画面上の仕事と化し、金とビットコインは同列に扱われつつある。経済環境に教育の領分を取り込む上で教材への窓口を開く底意があるのなら、却って肉体感覚の変質/歪曲を招くばかりで碌な結果にならないのではと懸念されてくる。
    ●ピアノにギター、遊具づくり…難関中高一貫校が「音楽」や「美術」に力を入れる決定的な理由〈AERA〉
    https://dot.asahi.com/aera/2021012800012.html?page=1
     音楽の場合は市販教材が多い(例↓)。上のはシリーズ物で字幕付き日本盤LD「ショルティ&ダドリー・ムーアの「オーケストラ入門」」ロンドンPOLL1085~6('94.9.24)、下のはソニー・クラシカルSRLM953('91.8.23)として発売されたらしい。
    ●1. Dudley Moore - het orkest, the orchestra, Ned. ondertiteld.
    https://www.youtube.com/watch?v=Z8Caqo7nYiw
    ●Solti rehearsal and performance Moussorsky
    https://www.youtube.com/watch?v=bF30XA3OUEQ
     追体験/初体験として輻輳した「今」すなわち現実感を素朴に収録すると、昔から大体こんな具合となり自然と感情移入できる。しかし生身の現実/現場から「コロナ対策」状に隔離されると、我々は従来以上の「錯覚した観客の感動」に囚われざるを得なくなるのではないか。~畢竟、教材デジタル化の結末は収録/提示内容の水準如何を超えて、他者としての姿勢に留まる理解(主体性放棄)を促すしか効果はなさそうな気がしてならない。客観的理解と理解放棄は無縁ではない。また肉体性を欠いた客観的態度は、いっそう容易く主体的理解を偽装/幻想できる。
     書道ではどうか。「読む」局面だけなら理念的で、必ずしも実技を必要としない。古文書学と同列と云っても差し支えあるまい。そんな授業なら言葉次第でどうにかなるだろう。しかし現場の外野管理職/教員は実技限定指導に拘るにもかかわらず基礎以前の基礎(国語的基礎)を度外視し、「読めないままの書教育」を書道教員に強要するのが通例だった。たぶん今後も姿勢は変わるまい。肉体に魂は要らない。今後それでは飽き足りなくなる。魂にも肉体は要らない。~いつかコロナは終息し、元の生活に戻る日がやってくる。だから何も変える必要はない。只管やり過ごせばよい。変化を拒む姿勢には長年の実績がある。後に深浦高校長となった某先生は職員室で、「書道は芸術でないもんな」と笑っていた。
    【2021/01/31 07:20】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (短く近況)
    ●脱ハンコの中国 個人のハンコ使用はほぼ皆無
    https://news.yahoo.co.jp/articles/f0399eabc41b8584cc5ff6a6ae112468d8e6a162
     珍しく晴れた2021.2.1、月に一度くる書道専門店に行ってきた。黄色い印泥は問屋が扱っていないそうで、どれも「結局は赤い」とハッキリ言われたそうな。丁度その日は関防印に合わせる印影見本(二顆セット二種)と、朱墨専用の分厚い麻子坑(147長97幅40mm厚)を持参していた。硯面に残る銀朱は木下照僊堂「照龍」(黄口)だから、印影の実物と比べれば一目で色の違いが分かる(画像例再掲↓)。店員さんは並べた比較写真をスマホで撮った。余所の問屋を探してくれるらしい。(関防印は順調で、一寸長の朱文「泥酔」とした。来月には仕上がる筈。)
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_d807f3de.jpg
     印泥の付け方が薄目か濃目かで新品箭鏃の色調/印影印象がかなり違うくらいだから、黄色い方ならどんな具合になるか実物を見て/試してみたい。約二十年前の雑誌「墨」篆刻特集(165号など)では黄口の泥色が小印用に持て囃されていたのに、入手困難になった(?)のは解せない。通販サイトでは結構それらしいのを見かける。~他方、三十数年前に激安価格で買った上海墨廠の朱墨「魚戯蓮」(←赤口だった)はネットでも余り見かけない。ズッシリ重いので銀朱かと思うが一体どうなったのやら。黄口に拘らなければリーズナブルで使いやすかった。
     定点観測すると品揃えがそれなりに変わってきている。店が青森に進出してから約二十年間あれこれ物色「だけ」してきたが、昨年の様に集中して買い込むのは珍しい。かなり前に買ったのが沢山あるから抑も食指が動かないし、当時の新墨はぼちぼち使い頃となりつつある。…買える時に買っといてよかったとは思っている。昔からある書道専門店は軒並み消えていった。こちらは専ら実物確認してから買う事にしているが、近年のネット通販で買う人達は何を考えているのやら。(不安にならないのか?)

    (余談~旧稿拾遺)
     ふと思い出した…入退院前後の話でござる。(←この時、糖尿病発覚w)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1937.html#comment
     以下の音源、前者は大好きなF=ディースカウとブレンデルのシューベルト《白鳥の歌》82年盤終曲。このネタは「2016/09/02 05:14」稿で出した。後者は「【2016/12/03 06:34」稿で出した退院後のネタ。ゲルネ「シューベルト・エディション」12枚組所収らしい。
    ●Schubert: Schwanengesang, D.957 - Die Taubenpost
    https://www.youtube.com/watch?v=0pmzbSXJqAg
    ●Matthias Goerne; "Die Taubenpost"; Schwanengesang; D 957; Franz Schubert
    https://www.youtube.com/watch?v=naQn8ymdOZ0
     そう云えば入院する前、何度かトイレで気絶した事があった。あれは「血便ショック」初体験(天バカ板、「2012/04/02 (Mon) 20:59:05」稿)の数年後だった。…また昨年六月以降は~つまり婆様没後は掛かり付け医に行っていない。目下インスリンはまだ一ヵ月分、錠剤は丸々二ヵ月分が残っている。
    【2021/02/05 07:07】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    苹@泥酔さんの書く内容は、わかる人にはすごくわかる、
    わからない人には全然わからない・・・・とおもうけど、
    わかる人にうまくまとめてもらったら、
    きっと書道界の変遷なども含んで
    ものすごい専門書になると思うんだけどなぁ。
    【2021/02/08 21:45】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >わかる人にうまくまとめてもらったら、
     それは前々から望んでいた事です。内容が拙稿と共鳴するなら、信頼性の裏付けとなり大変に嬉しい。他者が書く所に価値がある。著者は著者なりに独立独歩であって欲しい。そうでないと読む側すなわち私の勉強にならない。なにより名のある人の書くものは、それだけで初めから有利な条件下にある。ネットをうろつく馬の骨(=苹)とは格が違う。さりとて書道絡みの本が売れるかどうかとなると、歴史本の一割に満たないのではと踏んで居りますけれども。こればかりは仕方がない。
     私は書けません。頭の中がパンクして纏められません。西尾先生の場合は全集の補巻(?)をどうするか考えあぐねて居られる模様。後から次々と新稿が累積する点、なんとなく気分が分かりそうな気はします。~なお、書道本の場合は著者と別に監修者が必須でしょう。そうしないと売れる見込みは殆どない。ただの大学教授クラスでは危ない筈。文化功労者クラスの協力が得られるなら売れるけれど、仮に伝手があっても高齢者には負担が重く、実現可能性は著しく低いと思われます。
     これまで保守系は歴史方面に真正面から斬り込む例が大半で、それ以外には興味がないのかと心配になるくらいでした。あるとしたら国語方面か。しかしそれとて書道畑から見れば旧活字依存の気配が強く、恰も江戸と明治の断絶が前提条件となっているかの様な。ところが西尾先生は、江戸と明治は連続していると仰有る。拙稿も同じ立場です。そこに根本的な「活字問題」が浮上し、日本人は文盲になった(草略書字が読み書きできない)。ここに踏み込むと、ただの書道本ではなくなる。
     誰かにうまく纏めて欲しい。その行為が何を意味するか承知の上でやっていただけるなら、書道界や教育界からの猛反発を意外と思う事もないでしょう。まともに書けば真正面からの学習指導要領批判/教育史批判になる。入試依存教科とのヒエラルキーも炙り出す事になる。歴史の歪曲より前に国語の歪曲、方言から標準語への移行があった。昔の標準語は書字で、音声言語は方言だった。そこに言文一致が来た。背景には書字から活字への移行があった。~書くべき事は山ほどある。
     ちと手を拡げ過ぎた面もあります。脳科学やドゥルーズの哲学を書字と関連付けようとしてみたけれど、学術方面からの検証/考察は見られない。確度の高い情報や知見がないと気が引ける。拙速に纏めるよりは、このままネットの書き込みに留める方が無難な気もします。…ところで実際、纏めてくれる人は居るのかしら。余計な夢から現実に戻ると、たぶん居ないんだろうなあ。いづれにせよ専門書レベルには達しない筈。それでも構わないなら、視点などの援用は誰でもご随意にどうぞ。
    (監修者になってくれたら有難いのは…日本芸術院会員の高木聖雨先生かなあ。世紀末に高総文の審査員として来青した時、菊池翠汀先生の紹介で一度だけ会った。会話の流れで中国絵画研究者の名前を「鈴木敬、新藤武弘、米澤…」と続けたら即座に「嘉圃」と反応した。あの時の若造が苹。たぶん覚えて居ないだろうなあ。)

    ●Schubert Symphony No.8 D759 "Unfinished" Karl Böhm V.P.O. 1975 /シューベルト 交響曲第8番『未完成』カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
    https://www.youtube.com/watch?v=p1_-7zvYnKc
    【2021/02/14 00:43】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (旧稿渉猟~天バカ板の話)
     …宇宙のファンタジー。
    https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/95/e13d0cf247ca0899ee49aeef6c109985.jpg
    ●Earth, Wind & Fire - Fantasy (Live)
    https://www.youtube.com/watch?v=L0CVoFsUhC4
     上の画像は昨年「天バカ板」管理人の蘭様に郵送した試墨色紙で、書いたのはセレブ奥様宛と同日(2020.3.17↓)。…先ず墨を濃く磨ってから薄めていく。最初と最後のが奥様宛、二枚目が蘭様宛だった。あたしゃ蘭様と文通した事はなく、掲示板に不都合が生じたらブログの方に書き込み善処を求める。今の三代目板では穏当な旧稿転載が続いている。カウンターは日に十数件、投稿/転載した後は百件ほど回る。先日は例外があってビックリした。2021.2.13と2.14の間に二千件が回った。なんでだろう?
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_01ca6f28.jpg
     ニーチェの名言に「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」とあるそうな。深淵の方はあっちを見ていて、こちらを見ていない。こちらがあちらを見ても仕方がない。そうした深淵は「見る自己」の側にある(あちら側ではない)。例えば蘭様がこちらを見ていなくても、こちらは時折あちらを覗くだけで構わない。三代目板のカウンターに透けて見える閲覧者各位も多分そうだろう。
    https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/f1/a836d078f39cb5436ca8072755337730.jpg
     蘭様が二代目板「2014/07/06 (Sun) 10:42:24」稿で住所氏名を書いた。読んだと書いたらすぐ消えた。苹はと云えば相変わらずの住所非公開ゆえ、端から相互の文通は成り立たない。送るとしたら一方的になる(例↑)。しかし余所から丸見えで構わないなら、掲示板の書き込みで事は足りる。そこに問題は感じない。むしろ内容に問題があるのかも知れない。この場合、丸見えの方が却って都合がよい。旧稿に遡って読み直すと便利で、自他共同の検証作業が容易になる。(三代目板↓)
    http://midnight-run.bbs.fc2.com/
    【2021/02/20 01:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    ミッドナイト蘭さんとは妙な別れ方をして、
    お互い誤解したまんまになっています。
    エキセントリックな人でしたよね。

    でも、 苹@泥酔 さんが利用できる板があってよかったです。

    本は売れてなんぼですが、
    売れなくてもいい。
    本当はその思想が残ることが大切なのではないでしょうか。
    苹@泥酔 さんの書くものは、ここで埋もれるだけでよいとは思えない。


    【2021/02/27 20:09】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >苹@泥酔 さんの書くものは、ここで埋もれるだけでよいとは思えない。
     埋もれさせないため、蘭様がアルヒーフの場所=天バカ板を提供してくれている(二代目板以降)。有難い事です。各種あった西尾ブログ付属掲示板も、長く閲覧できる状態にあれば便利だったのになあ。同じ事は約十五年前の「つくる会」山形板などにも云える。いづれにしろ、長く読み継がれる機会があるに越した事はない。
    https://www.upto-c.com/sakata/works/shop/index.php?act=view&id=10
    http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/miyage/
     ところで…印泥見本に使った和紙葉書の袋を見たら「河文」のシールが貼ってある。高校の修学旅行中に京都で買ったらしい(たぶん此処の支店↑)。五十枚中、まだ一束十枚以上が残っている。小遣い全額で書道関連の小物を集めた。当時の記録はこんな具合だった(「2019/02/19 02:27」稿↓)。お土産が長く使い継がれる例は少なかろう。あたしゃ昔、「お土産を買うなら食い物にしろ」とよく言われたものだった。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2215.html#comment

    (注文後記)
     一寸長の関防印と黄色い印泥(上品硃磦の二両装、一万五千円)を取ってきた。兎も角これで大きい方も三顆印が揃った。中にはセレブ奥様んとこの粛親王とほぼ同寸のがあるだろう。関防印のサイズはどうかしら。粛親王のと比べて大きいか小さいか。
     …比較するなら実物に限る。てな訳で印泥見本の最終ヴァージョン(?)を郵送した。今度のは葉書でなく封書で、内訳は光明(1990)、美麗(1990)、上品(2000)、箭鏃(2000)、箭鏃(2020)、高式熊珍品(2020)の六種。ただし年代は概算。1990年としたのは1980年代後半の購入で、最近購入の推定2000年物は上品も箭鏃もベトベト系だった(粘りが強くダマになる)。ベトベト以外の印影は濃厚に捺したので、泥色の印象はかなり違って見えるだろう。兎にも角にも御覧あれ。
     封筒には中国製の座化印館華牋を使った。「泥酔」の印泥は高式熊の珍品、封緘は上海西冷の上品で捺した。驚いた。色の違いが分からない(苦笑)。さりとて「どの印泥も大差ない」とまでは言い難い。紙に応じて違いは明らかに出る。そこから新世界が始まる。なんてこった。

    (喫茶雑記)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2424.html
     西尾先生からセレブ奥様に電話があったそうな。「命との競争です」と(↑)。…ふと連想した。先生に紹介したい青森のお菓子、その名は「いのち」(↓)。こちらは最近、りんご味のを食っている。
    https://www.rag-s.com/hometown/index.html
     もしくは「茶屋の餅」か。これも美味しい。糖尿病なのに、甘い物に開眼してしまった気がする。また今年に入る頃から食欲旺盛となり戸惑って居る。でも体は昔よりずっと痩せてきた様な。
    ●Schubert Symphony No. 9 "The Great" Böhm WPh 1973 シューベルト交響曲第9番「グレイト」 ベーム ウィーンフィル
    https://www.youtube.com/watch?v=tq74Oy9Au9I
    ●Dvorak Symphony No.9 "From the new World" Böhm WPh ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」ベーム ウィーンフィル
    https://www.youtube.com/watch?v=iXXifoVTLjo

    (以下、2021.3.8追記)
     二度目の印泥見本が届いた模様。~人によって見え方は異なる筈。苹の目玉を通した場合、光明は最も生々しく光が強い。美麗は腰が強く安定度が高い。上品は黄色味が僅かに強く出た筈なのになあ。珍品は穏やかで、最も粛親王の泥色に近そうに思えるが如何。問題は二つの箭鏃で、同じ銘柄とは思えないほど違う。それらの特徴/違いが画像から窺えなかったのは聊か残念。
     その後、より判別しやすい画像を載せて下さいました(↓)。感謝申し上げます。
    http://blog-imgs-139.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_feba8856.jpg
    【2021/03/07 01:51】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続・喫茶雑記)
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2627
     久々に「日録」記事が更新された(↑)。前稿で触れたセレブ奥様への電話より詳細な「全集」上梓予定が出ている。先生は版元との相談だ。こちらは財布との相談だ。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2127.html#comment
     先年、あきんど様と大仏ネタで遊んだ(「2018/03/04 06:29」稿の後↑)。すると夏になったら西尾先生が、坦々塾の面々と牛久の大仏をヒョコヒョコ見に行った(↓)。数年なんてアッという間に経つ。その間にコロナだの何だのが紛れ込む。今年は花見をするのだろうか。そんな季節になってきた。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?m=201807

    (どうでもいい話)
     偶々こんな記事(↓)を開き微睡んでいたところ、ふと思い付いた。
    ●【ガチ検証】温水洗浄便座をオーディオ用電源(タップ)で強化したら何が起きるのか  [雷★]
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1615646594/l50
     この際どの社でもいい。雑誌で「評論家vs評論家」の企画を立てたらどうか。ただしオーディオ絡み。西尾先生のお好きな/聴いてみたい録音を、最高級の機材で聴いて貰う。ドイツ留学の頃なら名録音の評判が高いものも多い。上質な音で再現、記憶を掘り起こす。先生のお尻を直撃するかの様な、強いインスピレーションがあれば面白い。音楽之友社の他、産経にも音楽雑誌はあるとやら。小川榮太郎氏(音楽評論家)なら尻尾を振って飛び付くかも。…西尾先生ならどうだろう。乗るかな。

    ●Prokofiev - Classical Symphony - Celibidache, MPO (1988)
    https://www.youtube.com/watch?v=OFmMy-xC3QQ
    ●Prokofieff - Classical Symphony (Rehearsal) - Celibidache, MPO (1988) English subtitles
    https://www.youtube.com/watch?v=R2yoHdP4wkI
    ●Strauss "Don Juan" - Karl Bohm with Vienna Philharmonic (Rehearsal and Concert)
    https://www.youtube.com/watch?v=SKqPrtLLHLQ

    (以下、2021.3.17補記)
     約半世紀前から世紀末頃にかけてオーディオのブームがあった。ソニーはウォークマンを開発、その後オランダのフィリップス社と歩調を揃えCDを発売した。優秀音質の機材で聴いてみたかった。買えないから本を読んで涎を流した。クラシックだけでなく雅楽などにも触れようとしたけれど、肝腎のCDがなかなか見つからない。~今は横浜国立大で教えている青山浩之先生が東京学芸大の一年生だった時、あたしゃ梵鐘のCDをカセットテープにダビングして贈った事がある。
     西尾先生も嘗てミュンヘンであれこれ聴き歩いた身なら、聴覚経験/記憶の重要性は体験済みの筈。その記憶をムリヤリ脳味噌から引き摺り出せないかという訳だ。~後年ミュンヘン・フィルの音はこんな具合になった(↓)。バイエルン国立の方は録音が沢山あって候補よりどりみどり。
    ●Tchaikovsky - Symphony No 5 - Celibidache, MPO (1983)
    https://www.youtube.com/watch?v=WFyDQp7WHKs
    ●Tchaikovsky - Piano Concerto No 1 - Barenboim, Celibidache, MPO (1991)
    https://www.youtube.com/watch?v=yYOOoba2zvU
    ●Schumann - Piano Concerto in A minor - Barenboim, Celibidache, MPO (1991)
    https://www.youtube.com/watch?v=2QT9SkPiBNo
    【2021/03/14 03:13】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続・注文後記)
    ●印泥
    http://blog.livedoor.jp/imakishoji/archives/1735393.html
     当方、相変わらず泥色には神経質となっている。中でも黄色く出る筈の西冷上品印泥には不満が多く、自ずと別の候補が欲しくなってくる。実際この辺(↑)のネット画像は、郵送した印影実物の色合い(西冷の箭鏃や美麗)とかなり近く見える。それを基準に、苹の望む黄口が大体どんなものか想像すれば宜しかろう。根拠なき夢想の色ではなく、本当にある筈なのだ。具体的には此処(再掲↓)の製品かと思われる。
    ●上海耘萍工艺品有限公司
    http://www.shypgy.com/gy/shuhuabangongyinni.htm
     取り寄せて貰った上品印泥は、川越の系列店に一つだけ残っていたそうな。確かに外見は充分に黄色かった。しかし実際に捺してみるとさほどでもない。どの印泥もそうだが、印盒に入った状態の色と印影の色は違う。そこは買って使ってみないと分からない。また店側としても過度の顧客サービスは出来まい。わざわざ泥色見本を作れば、その時点で商品が売り物にならなくなるからだ。…先日は関防印を注文した際の、その店で買った印泥(箭鏃と珍品~計二万円相当)で捺した姓名・雅号印の泥色見本が「喜ばれてしまった」。貰っていいかと店員さんがニコニコしていた。
     ここでは客と店との互助関係が成り立っている。書店やスーパーの万引とは大違いで、損害どころか知識と経験が利益となって共有される。昔はよく「客が店を育てる」と言われたものだ。私は店に育てられた。それが時間の経過と共に変わっていく。四十年あれば自ずとそうなる面もあるらしい。西尾先生なら、少なく見積もって七十年以上の経験が持続しているに違いない(「少年記」参照)。客としての先生は戦後どんな店と関わってきたのだろうか。嘗て「日録」に載った橋本進吉(国語学者)の話は面白かった(↓)。
    https://ssl.nishiokanji.jp/bibliography/kako45.html
     その時、東大近辺の古書店と橋本先生との関わりを少し調べた記憶がある。倉島長正『国語一〇〇年』(小学館)P.239、「付載 古書肆大旦那の語る国語・国文」。

     ところで今、東京では桜が満開と聞く。色彩感の豊かな曲でも出しとくか。
    ●Ravel: "Alborada del gracioso" / Celibidache Münchner Philharmoniker (1994 Movie Live)
    https://www.youtube.com/watch?v=TlP2lKUGs4M
    ●Ravel: "Rapsodie espagnole" / Celibidache Münchner Philharmoniker (1994 Movie Live)
    https://www.youtube.com/watch?v=er0sduxzBFg
    ●Ravel: "Bolero" / Celibidache Münchner Philharmoniker (1994 Movie Live
    https://www.youtube.com/watch?v=Az8P_QVzurs
     以下、翌日追記。~西尾先生の2004年11月09日「むかし書いた随筆(五)」はこちら(↓)。初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号。
    https://ssl.nishiokanji.jp/bibliography/kako69.html
    【2021/03/23 02:01】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (誰知明鏡裏)
    ●Mozart, Eine kleine Nachtmusik, K. 525 - Wiener Philharmoniker, Karl Böhm
    https://www.youtube.com/watch?v=Sa0uN6CHM8I
     少しずつ上品印泥の色に納得し始めた。ありのままを見ると、やはり黄色くはないのだと諦めがつく。箭鏃ほどのあからさまな光はない程度に地味。珍品よりは稍や明るい。つまり箭鏃より使い勝手の良さそうな色/味が出る(これでベトベトさえしなければ…)。捺印直後に現れる僅かな黄色味は乾くと消え、奥からの落ち着いた光が夕映えの際疾さを惜しむがごとく沈みかける。
     それと似た差異を、嘗てオーディオに感じ取った事がある。前掲シューベルト《白鳥の歌》終曲はフィリップス録音、F=ディースカウの声が野太く聴こえた(「2021/02/05 07:07」稿)。当初のCDプレーヤではDG録音と同様の軽みがあったけれど、パイオニアPD-7010からヤマハCDX-2020に買い換えたら野太くなった。当時の中級品でも違いは出る。歴代のヘッドホンを除けば、他の機材は買い換えた事がない。
     それより問題は、目も耳も老化する点にある。若いうちから感じ取り、将来の変化を慮るとよい。…私の場合、先ず気付いたのは目。唐墨「黄山松煙」の青味が高校生には嫌らしく見えた。次は耳。得体の知れない衰えの気配に戸惑い始める。一撃の音圧や切れ味から、ほんの数年でティンパニの感動が失われていく様な(例↓)。するとそこから「記憶を聴く」タイプの脳内補聴が作動し始める。この変化が十代から二十代にかけて起こる。記憶は美しい。
    ●Bruckner: Symphony No.8 In C Minor - Ed. Haas - 1. Allegro moderato
    https://www.youtube.com/watch?v=IGi-5aG4gNw
     見え方の黄ばんだ(?)今では、昔の嫌らしい青墨が自然に見える。印泥の色では昔なら美麗にも僅かな明度が感じられたが、今はどうだか自分でもよく分からない。光明や箭鏃が苦手だったのは、大きな展覧会サイズばかり書いていたせいかも。色には印象の軽重がある。それが加齢で揺らいでくる。環境の変化に慣れるのか、自分の変化に慣れるのか。変化と変化の調和に慣れるとの見方もあろう。変化の前はどうだったか、ついつい忘れがちになる。記憶は捨て難い。
    ●ジークフリート牧歌(ワーグナー)
    https://www.youtube.com/watch?v=1bekGONWuTA

    (蛇足)
     見え方と見方が違う様に、聞こえ方と聞き方も違う。それらの背後では、記憶と行為の関係もまた問われてくる。~こうした事へのアプローチには、時にギブソンのアフォーダンス理論も関わってくるだろう。以下は基本的な、見え方についての見方。佐々木正人『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫)P.72以降の記述。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 英語の動詞アフォード(afford)は「与える、提供する」などを意味する。ギブソンの造語アフォーダンス(affordance)は、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それらはぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味である。ぼくら動物の行為の「リソース(資源)」になることである。動物の行為はアフォーダンスを利用することで可能になり、アフォーダンスを利用することで進化してきた。
    > たとえばギブソンはこんなふうにいう。
    >「陸地の表面がほぼ水平で、平坦で、十分な広がりをもっていて、その材質が堅いならば、その表面は(動物の身体を)支えることをアフォードする」、「我々は、それを土台、地面、あるいは床とよぶ。それは、その上に立つことができるものであり四足動物や二足動物に直立姿勢をゆるす」。つまりぼくらが地面とよぶところにあるのは「土」や「岩」という名前がつけられているが、それらは動物にとっては身体を「支持する」、その上を「移動する」などのアフォーダンスであるというわけだ。
    > 水は、ぼくらに対して呼吸作用をアフォードすることはない。水は飲むことをアフォードする。水には流動性があるので、容器に注ぎ入れることをアフォードし、溶解力があるので洗濯や入浴をアフォードする。水の表面は密度の高い大きな動物に対する支えをアフォードすることはない。水は、ぼくらにとっては「喉の渇きをいやす」、「容れ物で運搬する」、「汚れを落とす」、道具なしにはその上を「移動しない」、あるいは道具を利用してその上を「移動する」などのアフォーダンスの集合である。水にはかなりの時間をかけなければ発見できない「泳ぐ」など、もっとたくさんの、ここには書きつくせないほどのアフォーダンスがあるだろう。
    > このようにして周囲にあることに行為が発見していることを定義しはじめると、そこは動物の行為にとって潜在する意味の海であることに気がつく。行為は何もない「空間(スペース)」ではなく、アフォーダンスの充満しているところ、すなわち「環境」でおこなわれている。何もない「空間」というのは人間が考え出した「抽象的な容れ物」である。そんな「空間」はどこにもない。サンゴもミミズもカブトムシも人間も何もない「空間」にいるわけではない。
    --------------------------------------------------------------------------------
     書家が一般人にアフォードする書のイメージは偏見と繋がりやすい。多数者が門外漢と書家それぞれのアフォーダンスを比較すれば、どの見方を優先するだろうか。~さほど目新しくない見方の様でもある。しかし何かが素朴に引っ掛かる…各々の記憶と行為がアフォーダンスを際限なく分裂させるとしても。書字の結果は書字運動の終了に伴う記憶/過去の発動をアフォードする。行為(パフォーマンス)からの情報抽出は運動の過剰を過去の情報処理に優先しがちとなる。

    (2021.4.6ネタ追記)
    ●東京のハンコ職人が「河野太郎」を競作  ウェブサイトで77点のデザインを公開
    https://www.atpress.ne.jp/news/254036
    https://tokyohanko.jp/ktpj.html
    【2021/04/03 07:15】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    印泥と音楽を重ね合わせて感じるなんて、
    苹@泥酔さんらしい・・・・というか、
    苹@泥酔 さんしかいないでしょう。

    アフォード・・・・よくわかりません。

    【2021/04/07 21:47】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >印泥と音楽を重ね合わせて感じるなんて、
     補記。~ギブソン『生態学的視覚論』(サイエンス社)など所謂アフォーダンス本の他にも、興味深い書物は色々ありました。例えばデュフレンヌ『眼と耳』(みすず書房)P.204には長々と、こんな事が書いてあります(これで一段落の文章量…↓)。ともすれば些か断定的(?)な気配/それを多様性で粉飾するかの様な印象が漂うアフォーダンス理論よりは、ずっと繊細な受け止め方で書かれてあると感じました。
    https://www.msz.co.jp/book/detail/03075/
    --------------------------------------------------------------------------------
    > こうした交換によって、別々のものであり続ける作品が結びつき、互いに外的なままである作品が結びつく。だがこれらの作品の間に、われわれはより同質的な親近性を、つまり詩が絵画であること(un etre-peinture de la poesie)や絵画が詩であること(un etre-poesie de la peinture)を考え、それに意を用いることができる。これはもはや、一時期西洋の美学を支配していたあの公式〔詩は絵の如くに〕の、の如くに(ut)によって示される類似ではなくて、相互浸透であるが、これを言い表しているのが、「どんな絵の中にも詩があり、どんな詩の中にも絵画がある」という東洋美学のキーをなす公式である。何が二つの芸術を結びつけ、ついには混合させてしまうのか。これは、単にこれらの芸術が表現している意味の側から、またそれらが感じるべきものを提供する世界の側から求めるべきではなく、まず第一に、それらの芸術が用いる手段、素材そのものの側から求めるべきである。そして実際、中国の芸術には、書道や絵画や詩(教養人にとって、音楽は琴[qin]というチターにすべて集約されるが、中国での音楽の重要性は、日本に比べると低い)といったものが、本質的なものとして含まれている。ここでも、眼が一番よい所をせしめているようである。というのは、詩は朗唱するためよりも読むために与えられるからである。詩は、音楽よりも絵画の側に位置しており、伝統的にまさに絵画とたえず比較対照されている。事実、すべてはエクリチュールによって秩序立てられているのだが、このことは文字通りに理解すべきである。実際、もろもろの芸術の中で第一のものは書道であって、これが詩と絵画に、唯一かつ同一の手段を譲り渡す。例えば筆であるが、無数の筆致は、筆を扱うのに細心の注意を要することを物語っていて、筆使いは全人格に関わっているほどである。さらに元代以降、詩と絵画が隣り合うようになるが、これも紙あるいは絹といった同一の素材の上に書かれることがよくある。この素材は、西洋の印刷紙のような無味乾燥なものであるどころか、同位元素の空間を離れて芸術の自然的な場を構成すると、筆と同様に、選ぶのに骨が折れるものである。ともにこの場に含まれるならば、絵画と詩は一体となる。そのうえ詩自体が、それのみで絵画を成すこともある。詩は、細心の注意をもって書として描かれれば十分なのであり、教養人の眼からすれば、それは依然として読解可能である。というのも、図案化されるからといって、エクリチュールがその機能を放棄するわけではないからである。詩は図形的なオブジェには、すなわち純粋に装飾的なモチーフにはならなかった。言葉はやはり言葉であり、その意味論的な負荷を担っているからである。だが、楽譜が音楽に奉仕しうるように、エクリチュールが詩に奉仕するだけだとも言えない。エクリチュールが、今日の一部の音楽家たちにおける楽譜と同様の重要性を、不当にかすめとっているのだから。見えるものが読みとれるもの(le lisible)と一体となり、見えるものが詩の本質的な一次元となっているのだが、この次元を脱構築しそうな異質な要素は何もないのである。
    --------------------------------------------------------------------------------
     打鍵の都合上、アクセント記号や傍点は省略した。書道への僅かな言及は上記の通りだけれど、西洋人でこれだけ造詣が深いのにはやはり驚くし、敬服せざるを得ない。なお本書の大半、すなわち本題に踏み込んだ部分は概ね忘れてしまったが、たいそう読み応えのあった記憶がある。

    (近況~取り敢えず三題)
     其一。
     このネタまだやってるのか、と思いながら5chを覗いてみた(↓)。相変わらず書写と習字と書道や、学校と書塾の区別がつかぬまま、混同した話の堂々巡りが続いていた。
    ●【漢字テスト】<賛否の声>「とめ、はね、はらい」の減点は「愚劣な押し付け」茂木健一郎、学校教育批判「日本の教育は没落してゆく」 [Egg★]
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1617697216/
     其二。
     大きな案内葉書が届いた。大学時代お世話になった玉澤友基(岑砦)先生が定年退職、この4.17~25に小品を中心とした書展を大学図書館で催すとの事。…行きたい。でも体力に自信がない。歩行に杖が欠かせなくなってきたし、車の長時間ドライブも十数年間していない。高速道路はカード時代によく利用したが、今は別の料金システムになったと聞く。冷静に考えると臆病になる。さて困った。どうしようか。
     其三。
     八分角(自刻)と七分角(姓名印自刻)は、素人学生の手が気になって仕方がない。大学時代の篆刻は玉澤先生の指導だった。あれでも八分角の「苹」字では、縦画の微細な傾き具合(「渭」三水との呼応)をかなり工夫したつもりなのになあ。やはりプロの技術でないと気に食わないのだろう。三十数年前購入の鈕付印材を引っ張り出し、六分角の仕事を依頼した。来月には出来上がる。これでやっとプロの三顆印が普通サイズで揃う。

    (エクリチュールと詩~夢の様な音楽と演出の一例)
    ●Wagner- Lohengrin Part 1 English subtitles
    https://www.youtube.com/watch?v=libGLa-U-H8
    ●Wagner- Lohengrin Part 2 English subtitles
    https://www.youtube.com/watch?v=Vu0zUnWb4_g
    ●Wagner,Richard/Lohengrin - オペラ対訳プロジェクト
    https://w.atwiki.jp/oper/pages/181.html
    【2021/04/10 21:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん

    以下の文章はいいですね。

    実際、もろもろの芸術の中で第一のものは書道であって、これが詩と絵画に、唯一かつ同一の手段を譲り渡す。例えば筆であるが、無数の筆致は、筆を扱うのに細心の注意を要することを物語っていて、筆使いは全人格に関わっているほどである。さらに元代以降、詩と絵画が隣り合うようになるが・・・

    そういわれればそうだなぁと思いました。

    同じ字画のものでも、本当に人により、ボールペンですら、
    いろいろですから・・・・・。
    【2021/04/16 17:42】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (爺様の思い出)
     二十年ほど前の或る日、書棚に置いた二千円札がなくなった。たぶん爺様が隠したのだろう。また両替すればいいやと、以後それっきり。
    (…それは爺様に紙幣である事をアフォードする。紙幣は隠され、財布に収まるべきだ。)
    (…それは苹に源氏物語絵巻の転用/印刷資料である事をアフォードする。資料は棚や机で参照されるべきだ。)
     うちの爺様は、家中の物をせっせと忙しく隠す(?)人だった。平たく云えば整理魔。だから苹の部屋も構わず勝手に整理する。本棚から角川の書道大字典を出そうとした時は、あるべき所にあるべき物がない。どこにあるかと探したら、大字典のみならず同サイズもしくはそれ以上の大型本が総て洗面所脇の額縁置場に整理されていた。何十冊かあるうちの過半は段ボール箱に梱包されてある。同様に額縁も段ボール箱に入っている。額縁や書籍が段ボール箱に収まる/隠蔽されると、今度は中身と関係なく段ボール箱の方がアフォード機能を優先/発動し始める。
     そこまでは即座に理解した。なるほど、これがアフォーダンスの実例かと。面白かったが行為自体は困る。…或る日、爺様が整理した場所にある筈の家電品取扱説明書が忽然と消えた。また整理し直したのだろう。今も見つかっていない。失われた場所を求めて、私は数ある書道具や書籍や取扱説明書を二十年かけて当て所なく探し続けている。
     爺様には「場所の記憶」という概念がなかったらしい。片や私は「場所の記憶」依存症で、例えばVHS録画ビデオにラベルは貼らない。その場所にある事そのものが記憶だから、場所を移すのは絶対に私だけであらねばならない。脳味噌を共有できない限り、他人に動かされると困るのだ。…そうした意味で、爺様は私の記憶の破壊者だった。もしアフォーダンスが普遍的な原理を要請するなら、個人的なアフォーダンスは根こそぎ排除されねばならぬだろう。ここでアフォーダンスの多様性は崩壊するか、もしくは維持されたままの多様性が、巨大な歴史的負債(?)をも際限なく褶曲する事になるか。
     脳や身体の記憶は生物/生命それぞれ個別に宿るが、物の記憶は共有目的の記憶媒体として作られる(記録される)。してみると爺様の場所感覚は、記憶の拡張を自己に向けてアフォードしてきたのではないか。そこでは認識が記憶を支配する。場所は予め記憶の領土で「ある」が、共有/包括の場では相対的に脱領土的と「なる」だろう。そうして認識は個人(自己も他者もない)の場を支配し続け、社会や政治との実用的境界をも曖昧な場へと置き換える。また場所は或る意味、認識喪失(記憶喪失ではない)/忘却/淘汰のプロセスをも包含し得る事になる。
     我々が百年前の書字読解能力を失った/忘却した様に、それは自然な行為の連鎖/褶曲に基づく「成り行き」となり、果ては歴史的に定着してきた。それを基盤に学者達は研究する。~西尾先生は「詩と古語と文字と音のテーマ」への興味を熟成しつつあるらしいが、まさか現代の日本語記述様式(一音一字)に惑わされる事はあるまい。漢字の変遷もまた同様で、「今の正しさ」は「過去の正しさ」を葬る側にある。昔は楷書→行書→草書の順で書体が崩れた(と認識された)。それが20世紀初頭の中央アジア発掘以後、今の正しさに歴史の順序が組み替えられた(隷書→草書・行書→楷書)。これでは明治以前の見方/歴史認識が瓦解してしまう。なんでもかんでも正しければよいというものではない。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1331.html#comment
     無理解や誤解の根底にも相応のアフォーダンスはあるだろう。…「2012/07/02 22:41」稿末(↑)では、「無理解もまた理想の一部を構成する事に、私は肯定的でありたいと思っています」と書いた。

    (エクリチュールと音楽~バッハの構造)
    ●バッハ(Bach) ゴールドベルク変奏曲(Goldberg Variations ) イタリア協奏曲 パルティータ第4番 解説付き 他 グレン・グールド (Glenn Gould )
    https://www.youtube.com/watch?v=iho1yS2EPJI
    ●The Glenn Gould Collection XV - An Art Of the Fugue
    https://www.youtube.com/watch?v=6-SlkMOowuM

    (2021.4.23追記)
     …と書いた後に知った話。
     額縁置場の隣には、世紀末に買った紅星牌浄皮羅紋尺八屏(宣紙)が山積みとなっている。多くは五十枚一反だが今より安値だったせいか、百枚一反の包みも結構ある。…淡墨の翠軒流では誰もが浄皮羅紋を使うけれど、濃墨で書くには薄過ぎる。個人的には棉料単宣より厚手の重単宣がしっくりきた。どの紙もメーカーは紅星牌ばかりで、他のは殆ど使わなかった。質が良く書きやすい。
     今世紀、まさかこんな事(↓)になっていたとは思いも寄らなかった。
    http://www.minase.co.jp/syouhin/kami/gasen/main2.htm
    --------------------------------------------------------------------------------
    >★ 1990年代後期頃からより顕著になった紅星牌宣紙の紙質変化⇒紙質硬化
    >伝承の紅星牌品質をまもり世に出すことを最善の仕事と捉え実行してきた歴代の紅星牌宣紙廠経営陣。
    >紅星牌伝統の工程、品質をキッチリ守り紅星牌高評価の基である撥墨佳なる紙質を継承してきた旧経営陣は1990年代半ば以降の勢力争いに敗れ、20世紀最末期に新経営陣に迎合したごく一部を除く旧経営陣の全員が追放されました。
    >そして、新経営陣に変わるや否や「経営の効率化」を謳い、「伝統の品質」をまもり宣紙を漉くではなく、≪高利益≫を目指す経営に方向を転換。「紙質」にとても重要な製紙工程の一部工程をも変更させました。
    >この変更は、漉き職や紙料つくり職人の抵抗もあり数ある製紙工程の只ひとつの工程を効率化させた、に過ぎないのですが効率化を謳い変更させた工程により製紙時間を短縮させ(=新経営陣の謂う“効率化による製紙時間短縮に成功”させ)製紙した製品は、見た目は従前より綺麗に見える紙ができます。が、紙質の基本的な部分の変化の大きい紙ができることになります。紙に求められる本質面からみたとき、紙質の根源にかかる重大な変化、紙質硬化≒撥墨巾の著しい減少という決定的な変化が生じているのです。
    >この効率化したという工程で「製紙」された紅星牌が以降流通の紅星牌であり、旧来の同品に比し≪硬い紙質≫≪墨色の冴えのない撥墨≫≪撥墨領域の縮小≫となっていることを多くの使用者が実感されています。
    >紙質が硬い。これは撥墨の著しい低下と同義であり≪宣紙という紙種の人気の終焉≫に直結してしまうかも知れません。
    >旧来の製法を、工程を熟知し、それを守り、宣紙を漉く職人の集団。
    実に長い間に蓄積され伝承されてきた「涇県宣紙」。伝統を裏付ける「良質な撥墨へ誘うしなやかな紙質」。
    >これが涇県宣紙のトップブランド「紅星牌」に求められるものであり、そしてズ~ッとこの伝統は守られて来ました。
    >それが、20世紀の末ころから21世に渡る僅かな時間で消え去ろうとしています。
    >
    >高く売れる、と判断すればコストとは無縁の「高値」をオファーし、更に立場が強いと判断すれば、「不要な品種・規格を含めたセット契約」を強要する。
    >そして紙質は前述の通り、皆様ご承知のとおり、現経営陣が謳う「製紙工程の効率化」により著しい「劣化」に陥っています。
    >歴代の経営陣は「宣紙とはどうありどう守るべきものか」との永年にわたる変わらぬ思いを込め製紙し流通させてきました。
    >それがほんの10年強で、・・・、・・・、現状の紙質に陥っています。
    >「本来の涇県宣紙」を望み、幾度となく現経営陣に伝えました。が、「利益追求」を最優先する経営姿勢に変化は見えません。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2021/04/19 21:22】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (連休近況)
     このところ、異常なペースで天バカ板に旧稿を再掲している(↓)。相変わらずのコロナ禍とゴールデンウイークの最中、教員採用試験の出願シーズンとも重なった。取り敢えず今月前半までは続ける予定。その後は従来の再掲ペースへと戻るだろう。
    http://midnight-run.bbs.fc2.com/
    http://midnight-run.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=13142182
     連休中の深夜、音楽に溺れるとしたら…この辺(↓)にでもしようか…。
    ●Mozart - Coronation Mass in C Major K 317 - Karajan (with liturgical part)
    https://www.youtube.com/watch?v=oRXR08eMC-w
    ●Wagner - Parsifal - Elming, Sotin, Watson, Sinopoli Bayreuth 1998
    https://www.youtube.com/watch?v=BJkkXxdryD8
     ここでは時間が空間となる。

     あたしゃ旅行などには興味がなく、休日は専ら家でばかり過ごしてきたからコロナ禍と日常は全く関係がない。閉ざされた中だけが唯一の自律的(?)な空間と云えよう。…先日は恰好の新刊、揖斐高編訳『江戸漢詩選』上下(岩波新書)を見つけた。カバー図版の文人書画は達者な出来映え、さすが江戸時代だけの事はある。これを読むのも悪くはない。しかし結局どうあろうとも、長年の和習コンプレックスからは脱却できそうにない。
     いづれにせよ連休中、退屈を覚える事はあるまい。これまでそうだったし、これからもそうだろう。或いは子供の頃から退屈に慣れ過ぎたため、感覚自体が根本的に麻痺しているのかも知れない。それよりはむしろ相対的な気分次第なのか、音楽や書物に退屈(?)する方が多い気もする。また、それとは別に唯一これこそが絶対の退屈だと感じたのは職場の飲み会だった。あの完全に無意味な時間は耐え難い。しかも度を超すと、却って退屈を忘れるほどになるのには困った。退屈は得体が知れない。

    (補遺~前稿後半の追記について)
    ●文聯荘監製 四尺綿料単宣
    http://diary.sousokou.jp/?eid=134
     紙の話と云えば、こんな記事がある(↑)。その中に、以下の記述がある。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >1980年代というと、日本では紅星牌がまだもてはやされていた頃ではなかろうか。紅星牌の綿料単宣というと、薄くて均一なのは確かだが、反面脆くて墨の発色が悪く、やたらと滲む紙であったという印象がある。脆いので筆を重ねる絵には使えない。鉄斎をドロドロになるまで磨っても濃墨として発色せず、灰色がかった色になってしまうと記憶している。墨汁で使うしかないあたり、やはり日本の大半の書道の需要を満たす紙であったのだろう。
    >綿料は、浄皮にくらべて、原材料が藁だけに価格も安いものである。また単宣は二層紙などにくらべて造る手数が少ないのであるから当然安い。綿料単宣というと、紅星牌の綿料単宣の印象があって、安価で粗悪な紙という認識があった。私の周りでも「綿料」を嫌い、軽視する人は結構いる。
    --------------------------------------------------------------------------------
     正直、心当たりがある(汗)。確かに同じ事を感じた。大学時代は大好きな許道寧の画を模写してみたいと思ったが、途方もないので早々に諦めた。~これを含む一連の記事群(↓)は一通り読んで置く方がよい。大変勉強になる。
    ●古箋拾遺
    http://diary.sousokou.jp/?cid=5
    【2021/05/02 21:31】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    紙・・・・・利益を優先し、良いものが失われるのですね。

    ネットがあって、掲載する中身があって、
    掲載できる場があって、退屈しなくてよかったですね。
    【2021/05/08 11:22】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (孤猿坐啼墳上月)
     この連休明け、先月注文した六分角の姓名印と雅号印が届いた。硃磦の印泥は入手不能ゆえ最終的に断念。光明印泥と黄色印泥を混ぜて取り繕うか、余所でのネット購入(!)を勧められてしまった。…私は黄色い印泥でなく、黄色い素材の実物例が欲しかったのだ。もし博物館員の前で「代わりに混ぜたら?」とでも言おうものなら、忽ちインチキ業者扱いされてしまうだろうに。黄銅で金を偽装する様なものだ。
    http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/mahler-erde1.html
     それとは別に、今月は七分の遊印二顆を注文した。語句は李白「悲歌行」、マーラー《大地の歌》第一楽章での翻訳使用箇所(↑)とした。~また印泥の模索方向は今後、高式熊印泥(上品・精品・珍品)の比較へと舵を切る。そこからメーカーの製造姿勢を推し量りたい。西冷印泥(光明・美麗・箭鏃)の比較とでは、一体どんな違いが見えてくるだろうか。要は見方の角度が違う、別のアフォーダンスでござる。
     既述のベトベト印泥については、今も繰り返し捺印の工夫を試みている。どうやら手懸かりが見つかりそうだ。まともにやると上下にベトベト毛羽立ってよくない。軽く付けると加減次第で、先般郵送した封書の泥色見本程度にはなる。…で、今度は連休明けに気付いた方法を試す。上下方向でなく横方向のスライド式で泥を付けると、従来より毛羽立ちが改善されそうな気がする。が、結局は駄目かも知れない。

     …紙の研究には手を出すまい。あれは奥が深過ぎる。しかし手の出せる所には出して置かないと、後で悔いが残るに違いない。~2021.5.9、婆様を担当してくれたヘルパーさんが久しぶりに来た。2020.10末で会社が潰れるとは聞いていた。今は別の会社に移籍した模様。まだ仕事が円滑に進まないらしく、「ホウレンソウと書いて」と頼まれた。「報告・連絡・相談」と、二十年ぶりの紅星牌に書いてみた。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >品名 棉料尺八屏單宣
    >數量 50張
    >規格 53×234cm
    >檢驗員工號 7
    >生産日期 96.12
    --------------------------------------------------------------------------------
     こんな内容の札(↑)が挟まっている。ちと調べたところ、その後は馴染み深い一つ星のトレードマークが付けられなくなったとの事で驚いた(↓)。山積みの浄皮羅紋など、当方のストックは上のと同時期に買った紙が多い。ネットで検索すると、どの店も四半世紀前の紅星牌は高値で売っている。それだけブランドの力は大きいのだろう。
    http://www.artlife-sha.co.jp/sugu/webdir/121.html
    http://www.minase.co.jp/syouhin/hon/koji-jouhen.htm
    --------------------------------------------------------------------------------
    >1990年過ぎ、日本で同紙を扱う業界の一社に勤めていた華僑の一人が、日本で「」印を商標登録しました。
    >これにより「」マークはその登録者の権利となり、「」押印の本来「紅星牌」宣紙は全て日本での販売はおろか通関さえ出来なくなったのです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     そんな紙にホウレンソウ…聯落幅1/8三枚。三十年前の冷金箋にも書いてみた。

    ●Valery Afanassiev plays Schubert Piano Sonata D. 960 - video 2013
    https://www.youtube.com/watch?v=M1oNW4SnGWQ
    【2021/05/13 22:27】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (追記~商標登録)
     前稿末尾の件で思い出した。青森では今世紀初頭、こんな話題があった(↓)。見境なき商標登録で迷惑を蒙る相手は誰でもよいらしい。それにしても宣紙廠…先に同じ中国人同士で盛大な利権争いを繰り広げていたのでは、振り回される日本側の事情が霞んでくるのも仕方ないかと思えてくる。
    ●【19-05】「地名は財産」と認識した中国の知財戦略
    https://spc.jst.go.jp/experiences/howdojp/howdojp_1905.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 2003年6月、中国商標局に中国現地企業が「青森」を商標出願していたという事実が判明した。「青森」という商標が中国企業に取得されれば、りんご、帆立、イカなどの輸出に大いに影響する。このため、青森県側が異議申し立てを行った。合わせて、三村青森県知事が外務省に働きかけ、支援を要請した。
    --------------------------------------------------------------------------------
     中国人は他国(日本など)の産物・産地評判に便乗し掠め取ろうとするのみならず、他国で人気のある自国(中国)の産物を売り惜しみする。レアアース騒動の時と似た手口か、そうしてじわじわと締め上げてくる。…今度の印泥もどうなるか分からない。上海西冷の普及品レベルなら幾らでも輸出してくるが、そうでない物品は仕入れルート自体が不安定、もしくは「個人的」流通レベルに近いらしい。加地伸行『中国人の論理学』(ちくま学芸文庫)などからも窺い知れる事ではあるが、こちらにしてみれば困った話に他ならない。
     来週は月に一度の書道専門店が来る。それまでの間、また音楽でも聴いて気を紛らわせるか…。
    ●Beethoven Symphony 6 VPO Karl Böhm 1977
    https://www.youtube.com/watch?v=nOoWqSYVurI
    ●Beethoven Symphony 5 VPO Karl Böhm 1977
    https://www.youtube.com/watch?v=xqrqT2ilJaI
    ●Beethoven Symphony No. 2 Karl Böhm Wph -Tokyo Live- ベートーヴェン 交響曲第2番 ベーム ウィーンフィル
    https://www.youtube.com/watch?v=1rOBQbmDPTU
    ●Beethoven Symphony No. 7 Karl Böhm Wph -Tokyo Live- ベートーヴェン 交響曲第7番 ベーム ウィーンフィル
    https://www.youtube.com/watch?v=e2nTaR6RK90

    (付録~初めての「日録」コメント投稿)
     あちら(↓)に書くため、初プロバイダ契約時のメールアドレスを久々に発掘した。十五年以上前からお払い箱となっている。~当時のワープロソフト「一太郎」には電子メールソフト「Shuriken」が付属していた。それも今では、もうパソコンに入っていない。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2627#comment-6487
    --------------------------------------------------------------------------------
    苹@泥酔
    2021年5月23日 7:46 PM
     横から失礼。セレブ奥様ブログのコメント欄に投稿できない。何度やっても「恐れ入りますが、もう一度やり直してください。」と出る。そんな訳で、こちらでテストしてみる。
     蛇足。…コロナではないけれど、以下は病気のミミが死ぬオペラ。
    ●Puccini: La Bohème (Carlos Kleiber, Tokyo, 1981)
    https://www.youtube.com/watch?v=L-4fByWbIX8
    --------------------------------------------------------------------------------
     西尾先生の2004年11月07日「むかし書いた随筆(四)」には、こんな記述がある(↓)。
    https://ssl.nishiokanji.jp/bibliography/kako69.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2021/05/25 21:12】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    書き込みで苦労されましたね。
    【2021/05/31 22:36】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     先日、「日録」コメント欄の方にこう書いた(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    苹@泥酔
    2021年6月5日 7:13 AM
    >書き込みで苦労されましたね。
     あれから何度も試みて居るけれど、相変わらず投稿できません。…いっそ「日録」コメント欄を経由して、本来の場所=セレブ奥様ブログ(↓)に代理転載して貰ったらどうだろうかと思わぬでもなし。でも、それをやると自前の修正(改稿)が出来なくなるんだよな…。やはり自分で直接投稿できる方が望ましい。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2369.html

    (短く近況)
     月に一度の店が来た。目当ての高式熊印泥(精品と上品)は高価だが、来月には取り寄せられるとの事。先月注文した遊印の、七分角朱文「孤猿坐啼」と七分縦長白文「墳上月」は上出来で面白い。後者は関防印にも使える。調子に乗って今月も、八分縦長朱文の雅号印を注文してしまった。墨磨機(呉竹製L型)専用の端渓宋坑円硯も、三十年ほど前に破損した儘だったのを漸く修理に出した。~こうしてあれこれ片付けたり新規購入して居ると、昔の記憶や思い残した事どもが際限なく駆け巡る。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2448.html
     西尾先生は入院中との事(↑)。イライラせず、気長にゆっくりと言っても無理だろう。中でも「自宅の仕事場には自分しかわからないことばかり」はよく分かる。「2021/04/19 21:22」稿などでアフォーダンスと搦めたばかりだ。先生の場合は抑も上手に整理しないと仕事にならない筈。それでも自分しか分からないのは、思索や構想の背景を思えば当然のデリカシーと云えよう。全集そのものが地図の様な構成に帰結する。先生自身のためばかりでなく、むしろ読者を導くためのレガシーとなる。実際、読者としての経験を先生は『江戸のダイナミズム』執筆中に明記して居る(「橋本進吉のこと(一)」稿↓)。
    https://ssl.nishiokanji.jp/bibliography/kako45.html
     …ところで、病院ではパソコンやスマホのネット環境どうなのだろう。さすがに昔ながらのFAX機器はあるまいが、各々ネット閲覧や書き込みは出来るのかなあ。
    --------------------------------------------------------------------------------

     その後「孤猿坐啼」を押脚印に、高式熊珍品印泥で捺してみた。取り敢えず翠軒流ベースで「墳上月」と書いた。紙は紅星牌棉料単宣尺八屏1/8サイズ。今年五十年経過になる千寿墨No.9「扇面」(菜種油煙)を端渓老坑で磨り、筆は玉川堂「白狸毫」面相型を使用。道具は贅沢なのに字は不出来、月末どんな仕上がりの掛軸になってくるかコワイ…。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2447.html
     セレブ奥様の初稿は削除されたけれど(↑)、西尾先生の病室(?)には掛けられるのかなあ。先生には傍迷惑でも出来映え次第(←ここ重要)では、奥様経由で贈ってみたい気がせぬでもなし。

     今夜のBGMは、この辺にでもしようか(↓)。
    ●Horowitz - The 1968 TV Concert
    https://www.youtube.com/watch?v=JwBQCU_Fgro
    ●Horowitz plays Mozart - The Orchestra of La Scala (1988)
    https://www.youtube.com/watch?v=eaRzAh1AMMo
    ●Friedrich Gulda & Claudio Abbado - Mozart: Piano Concerto K488
    https://www.youtube.com/watch?v=I6OjCv5lG6s
    ●Maurizio Pollini - Mozart: Piano Concertos K459 & K488 - Wiener Philharmoniker - Karl Böhm (1976)
    https://www.youtube.com/watch?v=Ht3Gj4R448Y
    【2021/06/17 23:57】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     月に一度の店が来た。先月注文した縦長雅号印を受け取った。これでプロの刻った二顆印の組み合わせが三パターンに増える。中後期の翠軒は正方形でなく縦長の印を単独使用する例が多いので、それを猿真似するには使い勝手がよさそうでもある。翠軒流の場合、伝統的な三顆印はクドくなる。尤も中国式の場合、遊印が加わると三顆程度では済まない。

     件の掛軸は2021.6.6に書き、7.9に仕上がってきた。一目で不出来と分かる。ぬるくて弱くて全くサマにならない。また収納時は額と違ってコンパクトだが、掛けると天地の裂(きれ)が大仰に場所を取ってしまう。…床の間の失せた時代、もはや軸装の居場所に未来はあるまい。今は昔ながらの伝統表装でなく、再表装できない機械表装が多くなりつつあるそうな。つまり一過性の展示用途が多く、後世への伝承や保存は余り期待されていないらしい。おまけに私は切り裂き魔♪(「2020/04/30 21:35」稿↓)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2316.html#comment
     自室での比較用に、同じ語句のを二幅発注した(実測43.5幅113.1長)。…掛け較べの結果は予め分かって居る。どのみち両方とも切り裂きたくなるに決まっている(苦笑)。現に作品らしきものは手元に一つも残っていない。なのに今更なぜ表装したがるのか、自分でもよく分からない。何か残したいのは分かっているが、自分(本紙)への表装が却って自分を苛める(鑑賞/審美)のも分かっているから抑も始末が悪い。
     或いは、翠軒流の方に原因があるとしたら。
     あれは後期になるほど「特殊」、すなわち純日本的な書風(←ここ重要)への傾きを強めていった所に別の問題がある。淡墨の使用は単なる方法論の領分、かと云って雰囲気だけサラリと流せば済むものでもない。また昨今の淡墨作品は古墨の効果を狙った過剰な滲みばかりが目立つ様だが、翠軒流では淡墨化の機能自体が全く異なる。まともな翠軒流とは、例えば鎌田雨渓のこんな作品(↓)を指す。字がピリリと引き締まって居る。
    http://ranaclacla.blog8.fc2.com/blog-entry-430.html?sp
    https://blog-imgs-122-origin.fc2.com/r/a/n/ranaclacla/20181007183751895.jpg
    https://kamataukei.tumblr.com/tagged/mytheory
     ところで…どうした訳か、翠軒流の流行った時代は二度の安保闘争を挟む。
     各々の時代、保守的な好みはどんな書風に傾いていたのかしら。翠軒の弟子で雨渓の師匠、宮川翠雨の場合はこうだった(「2015/02/24 06:07」稿↓)。「師範学校では、日下部鳴鶴が手本であった。この書風は、明治時代の、日清、日露の大勝の機運から生まれた覇(は)道的書風だと断じて、一年ばかりでよしてしまった。そして海鶴流に舟を乗り換えた」。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1720.html#comment
     そうした旧稿の文脈を踏まえると、BGMはこうなる(↓)。
    ●Rostropovich Plays Bach 6-v: Gavottes I and II
    https://www.youtube.com/watch?v=uJZ1nKsDN38

     なお、うちの婆様の一周忌(7.11)は無事に済んだ。
    ●マーラー:大地の歌 / テンシュテット 1982, 84
    https://www.youtube.com/watch?v=xSPv1jJvvCY
    【2021/07/28 10:40】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (「日録」コメント欄↓)
    苹@泥酔
    2021年7月23日 9:43 PM
     墨色見本軸を広島送りにした(2021.7.23)。25年前の紙に50年前の墨を試したところ、滲みより墨の溜め(ムラ?)が目立つ出来となった。出典の李白「悲歌行」後半はショルティ指揮マーラー交響曲全集の国内盤解説書から拡大コピー、印影見本は三顆印の形式で捺し同梱した。印の位置関係に注目あれ。「墳上月」と書いた字が関防印のバケモノに見えてきて笑える筈。その程度のユーモアがあってもいいし、詩には李白の歴史観が垣間見える。これならそこそこ楽しめるだろう。経緯はこちら参照(↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-2369.html#comment
     セレブ奥様の所に留まるか、西尾先生への暑中見舞に転用となるかはお任せする。字は不格好だし翠軒流らしからぬ面もあるが、差し当たり墨色や泥色の実物を観察していただけるなら幸甚ではある。作品ではない。ただの見本であり見舞である。

    (2021.7.28続稿↓)
     「日録」管理人様のセレブ奥様ブログを見た(↓)。墨色の目立たぬ押脚印の方と違い、やはり広島に到着した方は字の粗が目立つ。前者は対幅にしようと「杯中酒」と書き表具に出した。これで来月中は切り裂かずに済むが、仕上がってきた後はどうなる事やら。
    http://blog-imgs-149.fc2.com/c/e/l/celebokusama/moblog_a61e3b0e.jpg
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-date-202107.html
     それはともかく、出典の文面と印影見本がないと西尾ブログ系列らしくない。私の場合、純日本的とはどういう事か今も考え続けているが…書くと忽ち嫌味になり「有り体に底が見えてしまう」のが嫌だ。さりとてまともに習うと中国式の筈が「日本的に先立ち」歪曲自学となる。それが日本人の性分というものなのかも知れない。同じ事が支那人等々にも云えるだろう。それぞれ自国には自国の文脈がある。中国人(日本人)は中国(日本)から見た世界を理解する。そうあらねばならぬ筈だが、勿論それだけでは足りない。そこがお互い「自分の事の様に」難しい。

    (2021.7.30追記)
     左右の掛軸を見比べると一目瞭然、墨色見本軸のサイズは小部屋の壁面に向いている。床の間が広過ぎると却って落ち着かない。セレブ奥様の所には、二玄社の故宮複製で云うなら郭煕「早春圖」(軸装212.0×109.0cm↓)程度の横幅が似合いそう。
    https://www.nigensha.co.jp/kokyu/item.html?id=4&lang=jp
     墨色見本軸の実物は、肉眼で見るとネット画像ほど薄くも蒼くもない。裂(きれ)の色には影響されるが、それでも遠目に見て少し目立つのは「墳」字の五画目くらい。…すると別の興味が湧いてくる。もしセレブ奥様が鈴木翠軒の真筆を撮影すれば、一体どんな色具合に映るだろうかと。たぶん衝撃的な色調が浮かび上がるに違いない(書道界に激震?)。出版物のカラー写真は皆、現物に近付けるべく補正されている。つまりレコード芸術と似ている。
    【2021/07/28 10:45】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


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