奥様
  • Author:奥様
  • 硬い話も、やわらかい話もあるよ。
  • RSS
  • ☆セレブな奥様は今日もつらつら考える☆
    子育て終了の奥様でございます。 最近本格的にブログにチャレンジ。 硬い話、介護の話、日常の話をちょこちょこっと書いていきます。
    maukie home
    CALENDAR
    10 | 2017/11 | 12
    S M T W T F S
    - - - 1 2 3 4
    5 6 7 8 9 10 11
    12 13 14 15 16 17 18
    19 20 21 22 23 24 25
    26 27 28 29 30 - -

    RECENT ENTRIES
  • 今日このごろ(11/08)
  • 大銀杏(11/05)
  • 劇「めぐみへの誓い―奪還―」(10/31)
  • 自動車の品質管理(10/30)
  • 地域の文化祭(10/29)

  • RECENT COMMENTS
  • 苹@泥酔 (11/18)
  • あきんど (11/16)
  • あきんど (11/16)
  • あきんど (11/16)
  • 奥様 (11/15)
  • あきんど (11/15)
  • あきんど (11/14)

  • RECENT TRACKBACKS
  • ケノーベル エージェント:ケノーベルからリンクのご案内(2014/09/25 08:48)(09/25)
  • TEL QUEL JAPON:外務省はなかなか出さなかった...(07/31)
  • 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書:八木秀次「つくる会会長、中国『反日の本丸』に乗り込む」を読んで―――育鵬社が中国に屈服する原点(07/07)
  • 自宅が教室!簡単フラワーアレンジメント講座:フラワーアレンジメントが思いのまま!(06/12)
  • まとめwoネタ速suru:まとめteみた.【孫という贅沢】(04/20)

  • ARCHIVES
  • 2017年11月 (2)
  • 2017年10月 (11)
  • 2017年09月 (7)
  • 2017年08月 (13)
  • 2017年07月 (8)
  • 2017年06月 (10)
  • 2017年05月 (12)
  • 2017年04月 (8)
  • 2017年03月 (9)
  • 2017年02月 (10)
  • 2017年01月 (10)
  • 2016年12月 (10)
  • 2016年11月 (10)
  • 2016年10月 (9)
  • 2016年09月 (12)
  • 2016年08月 (12)
  • 2016年07月 (8)
  • 2016年06月 (7)
  • 2016年05月 (10)
  • 2016年04月 (11)
  • 2016年03月 (12)
  • 2016年02月 (7)
  • 2016年01月 (13)
  • 2015年12月 (8)
  • 2015年11月 (11)
  • 2015年10月 (6)
  • 2015年09月 (16)
  • 2015年08月 (7)
  • 2015年07月 (8)
  • 2015年06月 (6)
  • 2015年05月 (9)
  • 2015年04月 (6)
  • 2015年03月 (10)
  • 2015年02月 (9)
  • 2015年01月 (14)
  • 2014年12月 (13)
  • 2014年11月 (10)
  • 2014年10月 (14)
  • 2014年09月 (14)
  • 2014年08月 (10)
  • 2014年07月 (10)
  • 2014年06月 (13)
  • 2014年05月 (12)
  • 2014年04月 (12)
  • 2014年03月 (10)
  • 2014年02月 (12)
  • 2014年01月 (9)
  • 2013年12月 (10)
  • 2013年11月 (10)
  • 2013年10月 (13)
  • 2013年09月 (31)
  • 2013年08月 (13)
  • 2013年07月 (13)
  • 2013年06月 (12)
  • 2013年05月 (13)
  • 2013年04月 (11)
  • 2013年03月 (10)
  • 2013年02月 (10)
  • 2013年01月 (12)
  • 2012年12月 (18)
  • 2012年11月 (9)
  • 2012年10月 (16)
  • 2012年09月 (11)
  • 2012年08月 (10)
  • 2012年07月 (15)
  • 2012年06月 (11)
  • 2012年05月 (13)
  • 2012年04月 (15)
  • 2012年03月 (26)
  • 2012年02月 (12)
  • 2012年01月 (12)
  • 2011年12月 (15)
  • 2011年11月 (12)
  • 2011年10月 (22)
  • 2011年09月 (18)
  • 2011年08月 (9)
  • 2011年07月 (18)
  • 2011年06月 (24)
  • 2011年05月 (12)
  • 2011年04月 (11)
  • 2011年03月 (17)
  • 2011年02月 (15)
  • 2011年01月 (19)
  • 2010年12月 (13)
  • 2010年11月 (16)
  • 2010年10月 (15)
  • 2010年09月 (12)
  • 2010年08月 (19)
  • 2010年07月 (13)
  • 2010年06月 (12)
  • 2010年05月 (11)
  • 2010年04月 (13)
  • 2010年03月 (14)
  • 2010年02月 (14)
  • 2010年01月 (18)
  • 2009年12月 (15)
  • 2009年11月 (11)
  • 2009年10月 (11)
  • 2009年09月 (11)
  • 2009年08月 (15)
  • 2009年07月 (13)
  • 2009年06月 (16)
  • 2009年05月 (24)
  • 2009年04月 (14)
  • 2009年03月 (12)
  • 2009年02月 (11)
  • 2009年01月 (12)
  • 2008年12月 (15)
  • 2008年11月 (13)
  • 2008年10月 (14)
  • 2008年09月 (12)
  • 2008年08月 (12)
  • 2008年07月 (14)
  • 2008年06月 (19)
  • 2008年05月 (11)
  • 2008年04月 (11)
  • 2008年03月 (11)
  • 2008年02月 (11)
  • 2008年01月 (13)
  • 2007年12月 (13)
  • 2007年11月 (11)
  • 2007年10月 (15)
  • 2007年09月 (14)
  • 2007年08月 (10)
  • 2007年07月 (21)
  • 2007年06月 (15)
  • 2007年05月 (15)
  • 2007年04月 (11)
  • 2007年03月 (12)
  • 2007年02月 (11)
  • 2007年01月 (14)
  • 2006年12月 (2)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (15)
  • 2006年06月 (16)
  • 2006年05月 (13)
  • 2006年04月 (26)
  • 2006年03月 (18)
  • 2006年02月 (16)
  • 2006年01月 (22)
  • 2005年12月 (22)
  • 2005年11月 (22)
  • 2005年10月 (23)
  • 2005年09月 (25)
  • 2005年08月 (27)
  • 2005年07月 (25)
  • 2005年06月 (14)
  • 2005年05月 (1)
  • 2005年04月 (2)
  • 2005年03月 (4)
  • 2005年02月 (2)
  • 2005年01月 (4)
  • 2004年11月 (2)

  • CATEGORY
  • 昔の投稿 (17)
  • 未分類 (577)
  • お知らせ♪ (11)
  • 介護 (130)
  • 硬めな話題 (414)
  • 日常のこと (165)
  • 日々雑感 (358)
  • 日録裏話 (53)
  • 読書からの連想 (76)
  • 映画 (26)
  • 写真 (50)
  • 動画 (8)
  • 断捨離 (9)
  • 娘のこと (34)
  • 旅行 (30)
  • 単身赴任 (3)

  • LINKS
  • 西尾幹二のインターネット日録
  • 坦々塾のブログ
  • ぼやきくっくり
  • remmikkiのブログ
  • 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書
  • えんだんじの歴史街道と時事海外評論
  • へっぽこ時事放談
  • 真面目に変わっている人の考えている事
  • どっと公務なんでも掲示板
  • 現役記者による、ブログ日記
  • ぢぢさま・大日本史
  • 本からの贈り物
  • 倶楽部ジパング・日本
  • ネットで見聞広めたい
  • つき指の読書日記
  • うさねこ研究室
  • なめ猫♪
  • 橘正史の考えるヒント
  • 酔夢ing Voice

  • SEARCH

    定点観測?
    夫の同期会・・・・仲良しクラブ?の集まりが、
    一年に一度あると書いた。

    もう44年目で、そのうち二回休んだから、
    今回は42回目ということになる。
    で、
    皆若者だったころからの様子が、
    奥様も含めて一年ごとに観測?できる。

    私も、結婚後から出席する権利?を得て、
    もうかなりの回数出席している。
    夫の学校は東京でも、
    同期生の出身が南は熊本から、北は水戸までなので、
    幹事が変わるたびに、あちこちで開催される。

    薬学部との交流が沢山あったとみえて、
    奥様が大学時代からの付き合いという人が多く、
    最初の頃は、
    〇〇ちゃんと呼び合う奥様達に溶け込めなかったが、
    今では自分も長い付き合いに入る。

    一人、奥様を癌で亡くされた人がいて、
    その人には子供もいなかったので、
    当然孫もいず、
    両親もすでになく、天涯孤独。
    小さな診療所を、何時閉鎖しようかと考えているそうで、
    毎日の暮らしがわびしくて仕方ない様子だった。

    60代に入って、
    身体の不調がそれぞれを襲い、
    来年会えるかどうかも分からなくなった。
    だから、つい、別れる時、ハグをしてしまう。


    スポンサーサイト

    【2017/10/12 20:28】 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(11)
    この記事に対するコメント

     定点観測…だんだん頭が禿げていく。お肌の皺/たるみも見慣れりゃどうって事はないけれど、下から照らされた選挙演説の場合、陰翳がテレビ画面に映えて怖かった…。
     先日こう書いた(↓)。三日ほど寝かせてたら新稿が出たのでボツにした。
    --------------------------------------------------------------------------------
     苹は未読だが、エーコ『完全言語の探求』(平凡社ライブラリー)てな本があるとやら。ネット上の印象(例↓)では、この辺が田中純による前掲論考のネタ元くさい。
    http://okirakukatuji.blog129.fc2.com/blog-entry-276.html
    http://hon-bako.com/category/bookbox/bookbox_majo/gakuma/
     この一ヶ月、「日録」の更新がない。そう云や『正論』連載「戦争史観の転換」も滞り気味で、西尾先生のが載ってる2017.11号を買ったのは久しぶり。P.225にツーショット写真がある。先生は少し痩せてきた様に見え、対談相手の高市早苗議員は…気のせいか往年の美人女優、清川虹子の風貌に似てきた様な?
     出馬でござる。~嘗て小泉、父は「どうして立たないの」と女性(田中眞紀子)に言われてもネェとぼやいた。子の方は「キャンキャンと囃し立てるが、お父さんと約束しているから出馬はない」(小池百合子)と切り返された。~それ見て思い出したのが呂温の五絶「鞏路感懐」。馬嘶白日暮、劍鳴秋氣来。誰か選挙演説で、これ持ち出す人は居ないかな?(ただし「徘徊老人みたいだ」と揶揄されないイケメンに限る。)
    --------------------------------------------------------------------------------

    (近況~愚痴)
     何度も読み返しながら、慎重に続稿を書いて居る(「少年記」ネタ、其三)。どう表現すれば、書塾体験のない人にも分かりやすくなるだろうか。形骸化した学校書写(主に中学)はレベルが低過ぎて話にならないし、高校書道とは別の観点がテーマになるため勝手が違う。専門家/書家/教育家の過眼にも堪える内容にしたい。欲張るつもりはないが、誰もが知っている/いた事を言葉にするのは難しい(←この意味に近い?↓)。
    http://1000ya.isis.ne.jp/0833.html
     ともかく、もう暫くかかりそう…。
    【2017/10/20 00:46】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    書写のレベルが高いってのは、どういうことか?
    レベルを高くしなければならない・・・・ってことか?
    学校教育の書写が間違っているのは分かるけれど、
    それは教師をちゃんとしなくちゃいけないけれど、
    そのことを文部科学省が全然分かっていないってことか?

    私にも分かりやすくお願いします。
    【2017/10/20 22:07】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >書写のレベル
    >私にも分かりやすく
     戦前の習字レベルを雑駁な指標イメージとして捉えるなら、占領期を経て国語科書写に引き継がれた書字教育は数々の後遺症を抱えた形になる。武道を中心に、書道もまた軍国教育の咎で禁止された。その影響か、書教育復活後も教員社会全体が及び腰だったらしい。嘗て広島の因島高や広大付属中高にも勤務した小竹光夫教授(1948~)は先年、兵庫教育大を定年退官して奈良学園大に移籍した模様。以前「書道美術新聞」948号の連載で、「担当教諭は前にいながらも、書道塾に通っている子を次々に指名しては、「今日は**が先生役!」で過ぎていった、いいようのない六年間であった」と回想していた。
     しかしそこに観点/論点があるのではない。「少年記」ネタは国民学校「習字」期の話で、戦後の書写レベルとは予め別物だった。昔に遡るのではなく、幕末から戦前へと時間や意識が流れていく。そうした中で実用の規範が楷書中心に変貌する一方、民間の実用書字は相変わらず草略中心でもあった。ところが書写では中学単元に行書が少し出てくる程度で、今度の学習指導要領改訂で国語科書写の高校延伸が漸く取り沙汰されつつある段階(芸術科書道との共存/重複?)。草書や変体仮名の扱い、すなわち古文書/古典原文の読字基礎については今のところ皆目不明。
     書塾体験(書字の稽古)とは別の領分で、漢学塾や寺子屋レベルを前提すれば戦前読字から幕末読字への遡行が国語畑らしく展開できる筈。それに比べれば書写レベルは低い次第…ではあるものの、この辺どちらかと云うと「書字と読字の、どっちが大事なの!」と迫られるがごとき痴話喧嘩レベル(?)に近かったりして?

     ところで今朝方、珍しく高校時代の同級生からクラス会の連絡が来た。あたしゃ出席できそうにない。卒業翌年の会に出た時、「影を慕いて」を唄ったのが最後である。今なら中には禿げあがったのも居るだろう。女は皺だらけに違いない(←見てみたい♪)。電話をくれた彼は苹と同様の独身だそうな。最初に死んだ同級生は確かK君だった。
     …それはともかく。
     あちら(↓)のが長くなったので、続きの稿を此処に連ねる事とする。気の変わらぬうちに取り敢えず、書きかけの前半部分を以下に出して置く。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1993.html#comment

    (「少年記」ネタ、其三)
     「この後の「少年記」ネタでは、上手下手の話に踏み込む予定です。」~先日そう書いてはみたものの、相変わらずスランプが続いて居る。予定した内容の儘では済まなくなりそうで気が滅入る。気がして気になり気が散って、挙句の果てがこれだ…(orz)。
     当初(春先)は西尾少年と同級生の清書比較に観点の差異を見た。緻密に表現できず苛立ちながら話を端折ると、芸術的観点では同級生、実用的観点では西尾少年の側に分がある…と苹なら評価する次第(←元教員モード)。その理由をしつこくクドく掘り下げるつもりだった。平たく云えば「上手下手の根拠は何か」。~以下は全集15巻P.184写真説明。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >わたしはお習字で三重丸をもらったが、ある日母から「お前が逆立ちしたってあの子にはかなわないよ」と言われ、記念に1枚もらっておいた同級生の星野幸子さんの見事な習字。
    --------------------------------------------------------------------------------
     上記の母君発言には別の教育的意図があったのかも知れない。しかしともかく筆勢や筆脈の一貫性と流暢さでは、苹なら西尾少年のを佳とする筈。他方、同級生のは布字バランスと転折・結体の確かさが上回る分、西尾少年のより「ずっと」品位が高い。ただし教科書的/模範的意味での硬質さはそこそこ気になるけれど。行書で「工夫力作完成」と書いてあるうち「夫」と「作」は西尾少年が上で、ただ全体が見えていないだけ。大袈裟に喩えるなら同級生のはアポロン的な整正、西尾少年のはディオニュソス的な力動を優先したかの様な。授業中(かしら?)に何枚練習したのか分からぬが、お互い二帖(四十枚)を過ぎた頃にはどうなって居ただろうか。
     ここから少し、書塾での実感をば。~練習し過ぎると見えなくなるものがある。もちろん個人差はあるだろう。苹の場合は半紙二十枚と五十枚と百枚くらいが分岐点だった。最初は手本をよく注意して見る。だんだん慣れてきて注意力(観察)が散漫になると、今度は別の注意力(再現)がはたらく様になる。そのうち自己模倣が過度になると観察と再現とが頻繁に切り替わり、やがて両者の接続状態/自己化に至る。つまり観察と再現が同一化に向かい始める。その先が個々の領分/記憶に於て「文文一致」の世界となり、過去を読むための歴史的要領が内発的に育っていく契機となる。
     見えなくなったのは現実の方だった。苹は専ら自分の記憶を見つめ、反復し、夢中になった。子供の盲目的情熱と云ってもいい。練習/稽古という行為に必須の条件は、時に見えなくならねばならぬ事があるのかも知れない。そこに芸術との違いや共通性、或いは抵抗の起源が宿るのではと思う事がある。
    (続く)
    【2017/10/22 21:45】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん

    今回、習字?書道?の歴史、凄く分り易かったです。

    全集15巻、取り出してみました。私も西尾先生の字の方がすきです。
    【2017/10/24 08:53】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    横レスをお許しください。

    ディオニュソス・・バッカス・・・飲んだくれ・・・あきんど・・・肝臓が最近・・・気になる。
    これが悲劇の始まり・・・と私は勝手に決めつけている。

    太陽が昇れば安心・・・でもその太陽も照り過ぎると嫌がられる。
    そんな地域がアラビア諸国に集中している。
    だからなのか彼らは月夜を好む。
    ラマダンの儀式。
    とにかくすべてをさかさまに受け入れて考えると、ようやく納得できる彼らの風習。

    月夜を好むのは彼らばかりではなく、我ら日本人も大いに好む。
    太陽の恵みがあるからこそ月夜の恵みが風流になる幸せな土地だといえる。
    でもその感性がどこかでアラビアと近しいのかもしれない。
    よく言われる日本がアラビア諸国の方々に好まれる話は、おそらくそうした感性がお互いあるからじゃないかと思う。

    でも実際彼らと一緒に仕事をできるかどうかはかなり疑問視である。
    実は今、私の職場に、イスラム教徒の中国人がいる。
    彼女は毎日レストランで食器を積む係と、ドリンクを任されている。
    それ以外は仕事が不可能で、なぜならお客様が食べ終わった食器は基本的に触ることができないからで、その理由は豚肉が混入している可能性があるから。

    よって彼女は今まで食器下げを一度も行ったことがない。

    当然周りの社員はブーブー言い出す。
    しかもイスラム教のイメージさえ変わってしまっている。
    民族や宗教というものが我々はすべて平等に扱わなくてはならない教え込みがあるが、そのむつかしさがここに凝縮されている。

    照らし合わせて世界にはいろんな人間がいるという欧米感覚が日本人にはほとんどない。
    色々学んできても日本人は絶対感覚でそれを受け入れられない過去を継いでいる。そんな出来事がおそらく日本各地で細かく起き始めていることを予測しなければならないのかもしれない。

    さぁいよいよ始まりますよ、西尾先生が警鐘を鳴らした世界が。
    北海道の土地が中国人に爆買いされていることも大問題ですが、それよりももっと危険なのは、中国人やアラビア人が町中にいても違和感がない子供たちがいずれ大人になるっていうこと。

    そういう観点から推測すると、末恐ろしい結果しか待っていないんですが、かろうじていえることは、私たち世代よりも、若い世代が完全にインバンドをけぎらっているし、さげすめて見る風習が根付いているんです。
    レストランという場所は、一種人種の坩堝でして、いろんな方が来ますから、瞬間的に人間の裏側が見えてしまうときがあります。笑い話ですがこの前もかなり変装した「ミスターガール」をみんな見抜いて笑い転げていたこともあるんです。
    そんな瞬間的な感覚を研ぎ澄ましてる我々が、いちばんほっこりするのは、帰り際に「ご馳走様でした、おいしかったです」という、なにげない短い言葉で感謝をされるとき。長ったらしくあれこれ言われるのは、正直かえって面倒くさいのが本音。なにしろ瞬間的な業務にかかわっているせいなのだろう。
    言葉は短い方が印象的だということなのか。
    それに比べれば私の投稿はいつも長い。反省・・・。

    それはさておき、坦々塾にお誘いを受けながら、上京できなかったことを心からお詫び申し上げます。実は11月6日から9日にかけて上京します。
    女房の実家がいわきなんですが、お墓参りと震災のときに実家がお世話になったことで、何も対応できなかったこれまででしたが、ようやく日取りが取れたのでそれを兼ねて女房と上京します。
    6日7日はいわきで7日の夜から二日間東京で宿泊し、9日に帰ります。

    最後に上京したのが15年以上前でしょうから、完全に浦島太郎です。
    なにせ茨城空港というものの存在を今回チケット予約で知ったくらいです。
    まさしく18歳の時の自分に戻れる瞬間かなと予想します。

    私が書いてきた「東京時代」は私の中の戦中の物語で、この後訪れる東京はその意味では私の「戦後」なのかもしれません。
    いずれにせよ私にしか記憶にとどまらない旅を、4日間やってきます。
    【2017/10/25 09:56】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >あきんどさん
    久しぶりの上京、楽しんで来てくださいね。

    民族の混在って、難しい問題ですよね。
    【2017/10/25 11:02】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     前稿で小竹教授のを持ち出した。天バカ旧板に偶々メモしてあったのを思い出した。新板では「【再掲】「俺妹」受難曲02」所収で、その四ヶ月後に東日本大震災がくる。前夜に出したシリーズ最終稿(2011/03/10 20:23)は同「15」所収。あの時は無意識の動物的予感でもあったのか、不吉な終わり方になってる気がせぬでもない(↓)。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7361138

    (「少年記」ネタ、其四)
     習字段階で手本の芸術性を強めた国定第四期、新時代としての昭和に文化的な息吹もて民度を高めようとした意図はよく理解できる。それまでの間に過去の芸術概念(東洋的)は破壊され、翻訳語(西洋的)としての内容が定着した。第三期(大正)の所謂「ノメクタ」教科書の様な、同じ左払い(掠法)を纏めて学ぶ機能的指導法もそれなりに有益ではあったが、どちらも学習者側にしてみれば「余計なお世話」と云えなくもない。
     小学生の苹は半紙課題の練習中、うまく書けない点画に拘った事があった。どうやら、やり過ぎた。だんだん纏まらなくなってきた。特定の部分に拘ると、その点画が文字意識から切断される。つまり筆脈に支障を来す。そこに気付いて以来、これから学ぶ行書に既習の楷書が次々と接続していった。楷書で筆脈が意識されると、今度は行書の方が書きやすくなる。調子に乗って勝手にくずせば、自然と正しい草書になるのが面白くて仕方がない。しかも一々書体を分けて学ぶ必要がない。草略原理を一つ(一纏まり)体得すれば済む話ゆえ、江戸時代の子供が草書変体仮名交じりをスラスラ読めるのにも合点がいく。
     まだ書塾や学校で行書を学んでいなくとも、目習いだけで手習いの予習が丸々三年分くらい進んでしまう。苹の中二病は千字文の丸暗記だったが総て目習いで、実は手習いした事がない。その記憶を今も引きずっている。基礎を多く見るだけで世界が違って見える。そうした意味で、手習いの必要を過大視すべきではない。~ただし高校では基礎がスッポリ抜け落ちる。実用では基礎を多く見るが、芸術では古典を多く見る。ここでは古典が基礎となるから話が噛み合わない。芸術書道は筋金入りの古典病で、それが保守の立場を惑わせる。
     書道界の中に、書を学問から解放/追放しようとする勢力がある(様に見える)。彼らは芸術や教育を標榜し、それぞれ異なる形で活動し続けてきた。そこに最大の矛盾を抱えたまま利用されたのがズバリ「古典」。どちらも古典を「尊重する」事により古典主義を破壊し、古典と現代との関係性/連続性/継起性を逆向きに切断してきた。~あたしゃ「其二」稿(2017/08/27 18:18)でこう書いた。「ここでは接続(読める過去)と切断(読めない過去)が現在に折り畳まれて同義語となる」と。
     或る意味、古典と師匠をめぐる葛藤と云えなくもない(「私と仕事と、どっちが大事なの!」型?)。どのみち師匠は古典を尊重するのだが、「古典を学ぶ師匠」の姿を通して学ぶタイプの稽古以前に、先ず「古典を咀嚼した師匠」の「古典なき姿」があった。そこでの古典は予め噛み砕かれ消化されて居る。だから稽古に古典それ自体は出てこないのが普通だった。古典は高等教育の領分で、子供の学ぶものではなかった。予め師匠の側に権威があった(宿った)。ところが師匠はやがて自分より古典の方を、正面切った権威として打ち出す様になる。「貴方と古典と、どっちが大事なの!」と来られたら古典と応えるしかない。そこから幕末/唐様タイプの古典主義が変質し始め、主体(読める主観)なき主体(読めない客観)の古典至上主義へと「進歩的に」エスカレートしていった。
     古典は大昔の痕跡であって、どの時代でもリアリティやダイナミズムに於ては、師匠という「現代人」の営為に及ぶべくもない。しかし彼らは属する時代風潮(差し当たっては明治~現代)の影響を受けやすく、如何に古典の後ろ盾もて自己を阻もうと目論んでも、大物/重鎮ともなれば尚更の事、却って自分が流行の首魁となってしまう。都会の大物であれ田舎の小物であれ、結局は否応なく~師匠が古典を呑み込まざるを得ないのに。ありのまま生徒/弟子に直面せざるを得ないのに。そんな師匠「として」の同時代性が皮肉めきめき、西尾先生の少年時代なら書塾でも学校でも権威たっぷり、まだ残存していたのではなかろうか。

    (備忘録)
     産経記事末尾、抄録。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 著者はまえがきで「このごろ、歴史小説を読んでも、面白いものが少ない」と嘆く。なぜか。「古文書が読めない書き手が書いた歴史叙述は、結局、情報を、どこからかコピーして借りてこないといけないから、面白味がなくなってしまう」。古文書をはじめとした歴史資料をつなぎ合わせ、どう説得力あるオリジナルな歴史像を描き出すか。方法論こそ違えど、実は歴史学者と歴史小説家には共通点が多い。最近は小説も書き始めたと仄聞(そくぶん)する著者の巧みなストーリーテリング力からは、そんなことも感じさせる。(磯田道史著/中公新書・840円+税)
    >(磨井慎吾)
    --------------------------------------------------------------------------------
    ●【話題の本】TVでもおなじみの著者が歴史の楽屋裏を描くエッセー 磯田道史著『日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』
    http://www.sankei.com/life/news/171028/lif1710280023-n1.html
    ●【赤字のお仕事】取材後記(2) 学問と清流(上) 飛躍を後押しした「世界一」の寺子屋教育
    http://www.sankei.com/premium/news/171029/prm1710290017-n1.html
    【2017/10/30 00:05】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    日本にはいろいろな古文書が残っていますよね。

    でも、読めない。
    韓国人のことを笑っている場合じゃない。

    成熟?した風変わりな小学生だったんですね。
    【2017/10/31 10:45】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (上手下手の根拠について)
     可読性と上手下手と芸術性は三竦みの関係にある。互いに縛り合いながら互いに緩め合う様な、フレキシビリティの自己限定がある。…実のところ可読性にとって、芸術性は邪魔なのだ。味わいの幅も深度も豊か過ぎて、上手下手の判断からさえも逸脱したりする。上手いからと云って「よい」とは限らず、下手なのでも結構「よかったりする」(昨今の所謂「ヘタウマ」イメージで捉えられても困るが)。ここに芸術上の難所がある。
     先に「江戸時代の子供が草書変体仮名交じりをスラスラ読める」と書いた。さはさりながら、可読性の要請する実用性との関わり/距離次第で、「スラスラ」の時間や意味は自ずと鷹揚に変わってくる。速さと流暢さが別物である様に、訥々とした味わいもまた読む対象に含まれる。~そう云えば先日トイレでキャンベル編の東大駒場連続講義『読むことの力』(講談社選書メチエ)を再読したところ、P.33の林望「「読む」「聴く」そして「時間」」にこう書いてあった(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >つまり「歌」というものは、「詩をできるだけゆっくり読むための装置」だと言ってもいい。しかもそれにこういう美しい曲がついてくると、メロディが醸し出す快さがある。これすなわち近代の歌曲でなくても、能楽なんかの読み方でも一緒です。五秒で読めるものを四十秒かける。それが「歌」だということです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     文字と音声の違いはあれども、読める文字を聴こえる音へと変換する所に「読む」行為があるし、わざわざ音を媒介せずとも読む事はできる。読字の前に先ず、音符や文字などの「書字/複製/印刷」されたものがある。書かれたものにイメージが宿り(エンコード)、そこから我々はイメージを読み取る(デコード)。
     あたしゃ昔クラシックを聴く様になると、だんだんスコア(楽譜/総譜)が欲しくなってきた。でも音符が読めない(読める様になれ?)。勿論こちとら外国語も読めないのだが、実際の音楽/演奏/録音と楽譜を照合するには声楽含みの曲がそこそこ便利だった。マーラー《大地の歌》などの曲は音楽之友社の黄色い本で、青い本はマーラー《角笛》やシューベルト《冬の旅》。どれも字や符が横に流れて居る。片や日本や支那の本は、書道と同じく縦へと流れる。
     近代の西洋音楽では印刷譜が実用に供されるが、原典研究(クリティーク)では自筆譜にあたるのが基本。それと同様、書道における古典至上主義もまた近代主義の一環にあった。読めても読めなくても…実は読む対象が違うのだが。つまり読まれるテクストとしての同一性が、読み手の側で文字と書表現とに分裂する(見方次第ではクリステヴァの云う間テクスト性とも繋がりそうな、テクストの内部に潜む同一性自体の相互引用/循環?)。
     ソシュールの云うシニフィアンは聴覚映像を指すらしい。…この辺どうだろうか。素人感覚の書道ヲタにしてみれば、例えば同書P.168の齋藤希史「隠者の読書、あるいは田園の宇宙」に出てくる「仲長統」(人名)の場合、苹にとっては疑う余地なき視覚映像が記憶として先立った。幕末陰刻の木版本…それは隷書で書かれていた。ただの活字/文字意識では説明できそうに思えない、書表現からの刺戟が「そこにある文字」を呪縛する。過去との接続/読字へと「いっそう言葉らしく」、歴史的特質が方向付けを強いる。
    (ややこしい話になってきた…いったん休憩。)

    (禿げを慕いて)
     先日の電話によるとクラス会は今月。日付は聞かなかった。
     あっしの対人恐怖はジョークと少し関わりがある。昔ユーモアとエスプリについて勉強を試みたのは、なかなか苹の冗談が通じなかったからでもある。…或る高校で応援団の顧問をした際、併設チアガール達と他の顧問とで缶ジュースを飲んだ。乾杯で「チアーズ!」と言ってみた。全然ウケなかった。他の顧問は「まあ…チアーズと云うよな…」と言ったきり押し黙った。
     次の高校に居た時、パフィーと云う女性二人組の曲が流行った。「なんだ、このローカルな歌詞は…」と思った。本当は「カニ食べ行こう」だと後で知った。苹は「蟹田へ行こう」だと思い込み(↓)、そう言ったら職員室で少しだけウケた(ただし冷笑)。
    http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai2-tsugaru2.htm
     今もたまには、渋面で深刻そうにジョークを捻ったりする。山が噴火したらイワン雷帝のコスプレ姿で「火山!」と叫ぶとか、アニソン「宇宙戦艦ヤマト」の替え歌を思いっきりローカルに「陸奥の名産ナマコ」(↓)にしてしまうとか…。
    http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1706/27/news049.html
     どアップのナマコが潜水艦の様にゴゴゴゴゴ…(ほら…そう見えてきただろう?↓)。県でCM化する気があるなら、歌手ささきいさお氏の存命中がベスト。
    https://www.youtube.com/watch?v=7BkppT5YNjU
    >さらば漁港よ 旅立つ船は 陸奥の名産 ナマコ
    >漁場の彼方 いざ全国へ 乾物背負い いま旅立つ
    >必ずそこで 美味しくなると 鍋振る人に 笑顔で応え
    >漁場(いさば)を離れ いざ全国へ はるばる運ぶ
    >陸奥の名産、ナ~マ~コ~♪
    >さらば漁港よ 鍋振る人よ 陸奥の名産 ナマコ
    >漁協を救う 使命を帯びて 戦うナマコ 燃えるロマン
    >誰かがこれを やらねばならぬ 期待の品が これ達ならば
    >漁場(いさば)を離れ いざ全国へ はるばる運ぶ
    >陸奥の名産、ナ~マ~コ~♪
    https://www.youtube.com/watch?v=v9GPQP5Treg
     …以上、どうでもいい話…。
    【2017/11/04 22:53】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (備忘録)
     …前稿後半で気晴らしするうち、魔が差して(?)前半とは無関係の替え歌に熱中、何度も改稿し直した。「還ってくると」(水で戻す意)を「美味しく…」にすると音韻が外れて苦しくなるが、これは「燻製→乾物」共々やむなし。意味の通じやすさと正確さを優先した(乾燥ナマコは燻製に非ず)。最後まで迷ったのは「漁場→漁港」の変更。これで「ナマコの思い」への仮託が消え、ヤマトとナマコの重複イメージが大幅に減じた様な。結局、三日がかりで落ち着いた。
     あらためて全文再読すると、なにやら「歌」の話や間テクスト性の敷衍がありそうに思えてくる。気が付いたら前半の続きになっていた様な。~下記産経稿(↓)を読んだら、そんな気がしてきた。記憶の出方にも意識と無意識の間/差があるらしい。意識は記憶の反復に伴う錯覚かも知れない。あたしゃ「記憶は嘘を吐く」と覚えていたが…と書いて十数年ぶりに下條信輔『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』(講談社現代新書)を捲ったところ、P.195の小見出しに「無意識に錯誤はない」と書いてあった(「錯誤はむしろ、その先で定義される」)。
    http://www.sankei.com/column/news/171107/clm1711070004-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2017.11.7 09:00更新
    >【正論】
    >なぜ韓国の文化は「ウリジナル」なのか? 「『分からないもの』に対して何をするかが問われている」 羽生善治さんの至言が示す人文科学の危機 筑波大学大学院教授・古田博司
    > 命題に気づくのは一瞬の直観
    > 最近私は、民族には「脱落のプロトコル(命題)」があると主張している。歴史上、その民族が関心を持たなかったものは、どうにもこうにも分からないのである。
    > たとえば古代エジプト人の「歴史」、だから歴史書が一冊も残っていない。日本人の「奴隷制」、故にシベリア捕囚を抑留と勘違いして、奴隷労働をさせられてしまった。韓国人の「文化」、文化はシナ文化しかなく、自分の文化には関心がなかった。だから彼らは「入ってきたら内の物」だと思う。剣道も華道も韓国起源、孔子は韓国人だったという。外国人はこうのたまう彼らの文化(?)を俗にウリジナルといっている。
    > 実に身もふたもない。だが、はじめから分かっていたわけではない。今から30年前の自分の本を読み返してみると、「なぜ彼らは受容しても自分の文化だと思うのだろうか」と、真剣に考えているのである。人間が真剣に何かしている過程は美しいので、文章も国語の入試問題に使えそうなできばえだ。今は一言でいえる。「コリアンはシナ文化しかなかったので、文化に関心を持たなかった」。書いている私がえげつなく見える。
    > もちろんこの思考過程では、いろいろと勉強するのであって、大阪市大の野崎充彦さん(朝鮮古典文学の専門家)は、長い研究の末、「朝鮮古典文学の特徴は朝鮮の不在である」という結論に達してしまった。舞台も主人公もほとんどシナだから。ウソをつかない、立派な学者だと私は思った。
    > でも、脱落のプロトコルに気づくのはほんの一瞬の直観なのだ。
    >
    > 世界認識に必要な「因果律」
    > 真剣に考えに考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。「韓国人は文化が何かよく分からない」という単文で到来する。到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。
    > そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果のストーリーなしには世界を認識できないからである。人間の体内時間はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送りこんでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。
    > 新聞は、天気予報と今日のテレビ番組表以外は、ほとんど昨日以前のことが書かれていて、これはもう「歴史学」といっていい媒体なので、未来のことを書くとボツになりやすい。だが、あえていえば、AI(人工知能)は生命体ではないので、「持続」を生きることはできない。だから、人間とは別の量子物理学の時間で生きることになると思う。
    > 当然、因果の意味は分かるわけがない。鉄骨が人間の頭に落ちてきたら、人間は死ぬくらいの「直近の因果」は分かるらしいから、もう意識を持っている。ただそれは植物以下の「静謐(せいひつ)な意識」だと思われる。
    >
    > 人文系が生き残るのは難しい
    > 将棋の羽生善治さんが、すごいことを言っている。「分かっていることに対する答えや予測は、どう考えてもAIの方が得意です。残されている『分からないもの』に対して何をするのか、が問われる。それは若い人たちだけにかぎらないと思います」(月刊「正論」11月号)
    > どこがすごいのかといえば、大学ではそれが今問われているからである。うちの大学などでは、文系の人文社会科学はもう、のけもの扱いである。なぜなら、知識を教えることしかしてこなかったからだ。そんなものはもうネットで簡単に手に入る。問題があるとすれば、学生がどの検索サイトに現実妥当性と有用性があるのか、分からないことくらいである。新しい知識もやがて一般人とAIが供給することになるから問題ない。
    > ほかの学科は元気である。物理学、化学、工学、農学、生物学などは全部実験という、知識以前の「分からないもの」を扱っている。医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどは、みな体得の科目だ。「分からないこと」を考える余地がある。
    > さて、わが人文社会系はどうするのか。因果律の形成を体得させるという教育方針以外に、生き残る道はないと思われる。人文系はさらに難しい。歴史学ならば、渡辺浩さん(東大名誉教授)がいうように、文字記録というタイムマシンに乗って記録の向こう側へと超越し、戻ってきて報告してもらわなければ有用性がない。今を説明できる歴史学でなければ、その研究者の懐古趣味で終わってしまう世の中になったのだ。
    > 私は今、ゼミの新入生たちに言っている。「君たちは入試まで既に分かっていることを考えさせられてきたのだ。これからは分からないことを考えなければならない」と。(筑波大学大学院教授・古田博司 ふるたひろし)
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2017/11/08 19:35】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (休憩後の続き)
     思えば昭和末期以降、土着的な習字/書塾イメージが廃れゆくにつれ、その分を書道イメージが吸収していった様な。書店の棚は嘗て実用・生活書コーナーと芸術書コーナーに分かれていたが、今では区別なく並んでいる。それだけイメージの集約化が進んだという事なのだろう。見聞きするところでは今も昔も、学習指導要領に準拠する中学校は殆ど存在しなかった(国語科書写)。どの教員も高校受験を里程標とし、書写にかまける時間も余裕もなかった。…中学時代の或る日、国語の若き女教師が「生」の字を行草(行書も草書も同じ形なのネ)で板書し、怪訝そうに「これ読める?」と聞いた。クラスの半分が「読めない」と反応したのには私も先生も驚いた。それが却って新鮮だった。なぜ読めないのか。私は同級生達に、或る神秘を感じた。
     それもその筈、これには戦前からの根深い来歴が関わる。全く研究されないまま時代が丸ごと手遅れとなり、神秘的とならざるを得なくなった。そも被験者が居ない(探しにくい)。だから管見の範囲では、脳機能研究の総てが偏った出発点から始まる。すなわち漢字と仮名の二分法。例えば酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書)P.186に出てくる山鳥重なら『脳からみた心』(NHKブックス)P.194や『言葉と脳と心』(講談社現代新書)P.166などの知見が参考になるし、岩田誠の編著なら総花的な『神経文字学』(医学書院)がスタンダードな所。詳しいのは杉下守弘『言語と脳』(講談社学術文庫)P.230以降だが、しかし誰も漢字と仮名の幕末的境界には言及していない模様。研究の嚆矢が三浦謹之助の1900年(この年は草略排除・変体仮名廃絶の「国語」教育元年)とあらば仕方なき面もあろう。つまり最初から出鼻が挫かれてきた事になる。
     歴史的には可読性や上手下手の判断における認知システム遷移が関わる筈なのに、現代の医学界隈は過去など相手にせず専ら未来ばかり追っている。開国前の文化が閑却されがちなのは、研究態度の盲目性に依る所も大きかろう。可読性の下位概念(?)たる上手下手の基準は時代によって変わるのかも知れない。昔は規範たり得ても今は書道自体が癖字の巣窟で、精々「手本に似せる」のが関の山。手本なき所に上手下手の判断は成り立ちにくく、しかも手本ですら規範たり得るとは限らない(規範概念の喪失)。~西尾先生の言い回しでは下記の通り。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1810
    --------------------------------------------------------------------------------
    >(6-28)過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。
    >(6-29)過去とのつながりを切られたときに、人間は歴史的基盤を失う。そういうとき、人間は単なる現在のうちに立ちつくし、未来への方途をも見失う。
    --------------------------------------------------------------------------------
     この言葉を苹は重く受け止める。閑却された文化そのものばかりでなく、周辺で互いに影響し合う筈の網目/諸学全体が既に立ち後れてしまった。…医学畑は一体どう思って居るのか。古文書が読める人ばかり被験者として集め、民衆に膾炙したレベルの幕末版本から漢字と仮名を読み分けさせても、脳機能は現代の一般人と同じ検証結果を呈するのだろうか。それ次第で上手下手の判断に「基準が生まれる/認識される」筈。活字基準で見れば古典的な楷書/漢字は下手に見えるらしく、また漢字と仮名の二分法では草書や変体仮名の出る幕はない。ところが幕末書字では同一字形を漢字と仮名に読み分けるプロセスが介在する。そうした特徴が日本人の脳機能研究に一大変化を齎す可能性だってなくはない。
     春先から「上手下手の根拠は何か」と自問してきた。根拠は客観的な実在でなく、歴史に支えられた世界に属するのだろう。~嘗て苹にも結婚願望がなかった訳ではないが、もし子供が出来たら暴走してしまうのではないかと恐れた。子供を幽閉し活字に全く触れさせず、幕末文字文化の世界で純粋培養し、脳機能研究者の人身御供にする…。これでは結婚できる訳がない(苦笑)。たぶん児童虐待で逮捕されちまう…てな事を昔、書いた事があったっけ(「2015/06/22 06:07」稿↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1776.html#comment
     もっと古いのは2009年頃の「場所の喪失(其二)」稿。天バカ板「【再掲】投稿日時不明稿(其五)」所収(↓)。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8005106

    (宇宙戦艦ヤマト)
     成り行き上、調べてみた。…テレビ作品(1974)の映画化(1977)では青年層までもが劇場前に長蛇の列をなした事で知られる、SFアニメ史上の先駆。もちろん苹の興味は題字の方にあり、あれは企画・原案・プロデューサーの西崎義展(1934~2010)自身か、もしくはスタッフの誰かが書いたらしい(↓)。
    http://web.archive.org/web/20041009191106/http://homepage3.nifty.com/newyamato/omoi.html
     今世紀の毛筆アニメ題字に比べれば質も風格も遙かに上で、戦前世代(たぶん?)が書くと素人でもここまでやれるのかと驚嘆させられた。…ただし昔の環境なら普通レベル。どちらかと云えば「ヤマト」は力み過ぎの字と映ったかも知れない。昨今のはインパクトを出そうと力むほど却って軽薄に見えてくる面もあるが、そこまで極端ではない(数年前にアニメや戦隊/ライダー物を観察してみた上での比較印象)。
     それはそうと波動砲…内臓プシャー!(←ナマコの場合)
    【2017/11/18 23:50】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    この記事に対するコメントの投稿













    管理者にだけ表示を許可する


    この記事に対するトラックバック
    トラックバックURL
    →http://celebokusama.blog17.fc2.com/tb.php/2084-1102bd0e