奥様
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    シン・ゴジラ
    まだ日常のリズムができていないので、
    余った時間を映画に費やそうかと思っている。
    ・・・・・・なんて、お気楽な~~~
    留守番の娘たちに叱られそう。

    シン・ゴジラが面白いと聞いて、
    夜の始まりだったけれど、
    ネットで切符を買って行ってきた。

    怪獣対怪獣のような映画かと思ったら違っていた。

    怪獣というわけのわからない脅威に対する、
    日本政府の対応という内容だった。
    まだ見ていない人のために、
    ストーリーはここで振り返らない。

    映画の中のセリフ、なかなかですよ~~
    IMAXシアターだったので、臨場感最高。
    しかもほとんど満席!
    年齢層も幅広く、人気だということが分かる。

    見て損をしない映画でした。
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    【2016/08/31 07:35】 映画 | TRACKBACK(0) | COMMENT(55)
    この記事に対するコメント

    (ちょっと休憩)
     「日録」更新あったけど東京砂漠の独居老人、パソコンは持ち込んでるのかなあ…西尾先生との連絡用FAX通信機器とか。~そう云や以前、若かりし頃の映画鑑賞ネタがありましたっけ(「苹@泥酔」で画像検索すると「テルマエ・ロマエ」のが出てくる↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1331.html

     以下、ひとりごと。
     書道ネタはもうウンザリ、あっしの名前で即スルーする人は多かろう…と自身しょっちゅう思いながらも、書き続けるには人並み外れて鈍感かつ無神経で、偏執性や人格欠損が逞しくないと多分ヤッテラレナイ筈?…でも或る意味そっち方面で歴史に残るほどの模範的首相に出遭えた事は苹の望外(日本の不幸)だし、話題が出ないと寂しくなる病的事実、結構なくはないのよね…(orz)。
     …矢張り貴方は凄かった。国土を焦がす弁舌も、敵を崇めて共に寝て、泥水すすり靴を舐め、荒れた難場を幾千里、よくこそ撃ってくださった(←背後から!)。~鳩山さんちの由紀夫くん、このごろ少しヘンよ。どうしてるかな。もし奥様にお暇があったら鳩山邸ウォッチングでも…あ、これって「初めての職質」ネタになっちまうのかも?
     ふと思い出すのはシューベルトの歌曲集《白鳥の歌》。かれこれ三十年は溺愛してるのがF=ディースカウとブレンデルの82年盤で、以前の録音と違い「いちまつの侘しさ」が感じられる。その終曲を、取り敢えずヒュッシュの歌唱(↓)でお楽しみいただけるなら幸甚。歌詞は日本語字幕で流れる。
    https://www.youtube.com/watch?v=PKnOIihaUQM
    >はとの名前は「あこがれ」
    http://www.damo-net.com/uebersetzung/schubert/d965a.htm
    http://blog.udn.com/7speranze/7070890
    【2016/09/02 05:14】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    はいはい、パソコン持ち込んでいますよ。

    ノートパソコンで、Wi-Fiで使えるように設定しています。
    FAXはないけれど、近くのコンビニでFAX通信できるそうですぞ。

    音楽のリンクありがとう。
    なかなかいいのが見つからないところでした。
    【2016/09/02 06:46】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (前稿補記→脱線)
    >はとの名前は「あこがれ」
     あたしゃ昔、大学の一般教養でドイツ語を選択しなかった。趣味で聴くだけの身には固よりチンプンカンプン。~「憧れ」は「Sehnsucht」と云うそうな。「sehnen(憧れる、切望する)という動詞とSucht(病的欲求、中毒、常用癖)という名詞の合成語」と書いてある(↓)。
    http://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/29900e9d6d0bd809d4f6ef503d4f35bc
     また九鬼周造『「いき」の構造』では、説明こんな具合(↓)。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000065/files/393_1765.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >なお一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱な気候風土や戦乱の下に悩んだ民族が明るい幸ある世界に憬れる意識である。レモンの花咲く国に憧れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地へ{1}」の憧憬、ニイチェのいわゆる fl※(ダイエレシス付きU小文字)gelbrausende Sehnsucht はドイツ国民の斉しく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenon の世界の措定として形而上的情調をも取って来るのである。英語の longing またはフランス語の langueur, soupir, d※(アキュートアクセント付きE小文字)sir などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善く言い表わしている{2}」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。
    --------------------------------------------------------------------------------
     まだ冒頭なのに、(概要はともかく)細部には全く付いていけない(汗)。しかし、そうとでも書かれなければニュアンスや歴史的深度に接近できない儘なのは確か。ところが果たしてニーチェが絡むと、「2015/06/15 01:59」稿で触れたPDF論文が別方面から気に懸かってくる(山本恵子「後期ニーチェにおける「音楽」の意味への問い」↓)。ブラームスへの言及自体、奥底では民族的共感(?)に支えられている気配が窺えて「ややこしい」。
    http://heideggerforum.main.jp/ej6data/yamamoto.pdf
    --------------------------------------------------------------------------------
    >ブラームスがあちこちでおこさせる否定できない快感は、あの派閥的関心、派閥的誤解を全く度外視した場合、私には長い間1つの謎だった。しかしながら、とうとう私はほとんど偶然に近い形で、彼がある特定の類型の人間に作用することを嗅ぎ付けた。〔…〕彼は充実から創造するのではなく、充実を切望する。彼が剽窃する〔…〕諸様式・諸形式を除けば、彼の最も固有のものとして残るのは憧憬(Sehnsucht)である…。(WA, S. 47)
    --------------------------------------------------------------------------------
     なにやら、どのみち暗そうだ。その手の憧憬がザイドル詩/シューベルト曲の「鳩」(女性名詞だそうな↓)に仮託される点は興味深い。過ぎ去った若々しさは「隠れた」側へと内向するのか、それとも「隠した」側に傾くのか。因みに前掲、F=ディースカウやヒュッシュのは還暦前後の録音だった。
    https://ja.wiktionary.org/wiki/Taube
     ところで、シューベルトの歿年はR・シュトラウス《ばらの騎士》におけるマルシャリン(元帥夫人)とほぼ同齢との事。今なら三十路は「まだ若い」(たぶん?)。その感覚が熟女ブームへと発展した/先送りされたのか、年増イメージの揺れ動きは生殖医療との間で衝突/崩壊気味らしい。妙齢平均の高齢化が男性水準(「五十、六十は洟垂れ小僧」?)に及んだら最後、もはや出産どころではあるまい。~そうした意味で「男女共同参画社会」の罠は相変わらず「隠れている」か、もしくは都合良く「隠されている」儘…なのだろう?(年増女の回春憧憬vsロリコン男の変態性慾…の構図など。)
    【2016/09/10 05:35】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (承前)
     書道畑の憧憬…。(←結局ネタは元に戻るのネ)
     今も昔も唐人の文化に憧れてきた事に変わりはないが、憧憬を促す「欠如」の領分は「話が別」となる様子。~心理的にも文化的にも明治の開国を境目に、彼我の距離感やバランスは大きく変化していった。昔は文化的土台としての日本的属性があらゆる面で雅俗双方の基礎をなしていたが、やがて丸ごと支那書道の植民地同然となっていった。日本人自身がそう望んだ。日本文化の包容力の前では取るに足らぬと云わんばかりに植民地化(所謂「文明開化」)を喜んだ。舶来信仰はなにも西洋ばかりが相手ではない。受け容れ準備は開国前から既に出来ていて(唐様の流行)、日本的に濾過された架空の支那像(文化的理想像)が真っ先に頭脳へと乗り込んだ。現実の支那を認識し始めたのは数年後か十数年後になるらしい。
     ただし憧憬などという言葉は今でも殆ど使われない。無い物ねだりや舶来信仰ではなかった時代のイメージだけが思考停止状態のまま受け継がれたのか(過去と現実との「根拠なき混同/錯誤/自己過信」)、過去喪失という現実を直視する気がない。今更「読めなく/書けなくなった自己」を云々しても仕方がないと、進歩的に開き直っては勝ち誇る(?)のが常らしい。もはや憧れるしかないほど自己も過去も窶れているのに、憧れる動機すら失っている。
     今は「憧憬を失った」。昔は「憧憬そのものがなかった」。とっくの昔に取り込んだ古典の影を明時代以降の舶来品で確認し、あくまで自己咀嚼のために参照するのが江戸期の唐様/学問における一般的態度だった。~以下は『書道研究』1990.12号(萱原書房)P.35。特集「江戸の「唐様」の研究」、内山知也「江戸時代の儒者の書とその周辺」より。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 以上、儒者たちを取り巻く社会の変動を四期に分けて簡単に説明したが、鎖国体制という、いわば「洞天」にも例えられそうな閉ざされた世界の中で、周辺の諸国と隔絶した平和社会を維持し、長崎という小さな洞口から少しずつ中国文化を輸入して蓄積し、「中国的な日本文化」を生産し、享受していったのが江戸漢文文化であったといえよう。現在の日本文化史は、和文脈のみを主流として系統づけているが、それは大きな誤りであって、この漢文文化が主流としてあったものであることを忘れている。この漢文文化を中国亜流の模倣文学であると否定し去れば、江戸時代の日本人の思想や芸術表現の大半を、自ら失ってしまう結果になるのである。
    --------------------------------------------------------------------------------
     日本文化は豊饒で、物珍しさに野次馬根性/好奇心を発揮する事はあっても、わざわざ他者に憧れる必要はない。異文化に隷属し模倣するのではなく、異文化を日本文化に取り込み使いこなし従属させる。そんなパターンが千年単位で繰り返され、やがて和魂漢才だの和魂洋才といった俯瞰的総括表現が生まれるに至る。
     ただしそれは日本文化の基盤/根幹を前提した場合の話で、尊皇攘夷が文明開化にコロリと寝返る頃からだんだん怪しくなってきた。云うなれば「裏切りの中国史」ならぬ「寝返りの日本史」。猫も杓子も欧米によろめくのが近代学校(明治五年~)の常態で、それが今も続いている。歴史をなぞって漢文文化と英語文化を取り替えれば、どのみち「日本英語文化」といった別物が派生する。その実例が漢文訓読に代わる英文訓読(従来型授業)にあたるだろうか、必ずしも音声言語の世界ではない。
     マンネリ気味の支那には憧憬を欠如しつつ冷静に学び、目新しき西洋には先ず憧憬の仕方からして熱烈に学ぶ。~この点どうだろうか。憧憬への対比的違和感、もしくは東西文明を摂取する上での内的衝突が、爾後じわじわと「比較文化論」の形で「欠如の本分」(?)を蔭ながら支え、戦後いっそう浮上し始めたのではなかったか。(ただし日本の咀嚼した支那文化は、むしろ逆向きの違和感もて憧憬から二重に遠ざけられ歪曲教育されてきた?)
     国語(標準語)を田舎に持ち込めば「さしすせそ」が「さすすせそ」(←津軽弁の例)に隣接するのと同様、英語などにも当然ながら方言がある。そうした現実を踏み越えるには、根幹に「共通語思想」の様な“夢”が要るのだろう(遠景には「近代の超克」が絡む?)。~ずいぶん前から多様性は、排除を予定されていた様な気がする。今では言葉の全体主義が遠回しに宗教的カクテルグラスへと注がれつつ、世界各地で移民社会をしんねりむっつり直撃している様な。(酩酊状態はどちら?…土着民社会と移民社会と。)

    (鳩ネタ補遺)
     前々稿での取り合わせは、動画の毒気が強過ぎたかも…(orz)。少し申し訳ない気持ちになって居たら、折良く産経がインタビュー記事(↓)を出してくれて有難かった。悪い人ではないから困るのだろう。人が悪いのでもなさそうだ。もちろん悪い人では困るが、人が悪かったら困らずに済むのかも。
    http://www.sankei.com/premium/news/160919/prm1609190026-n1.html
    http://www.sankei.com/premium/news/160919/prm1609190027-n1.html
    【2016/09/20 05:43】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1850.html#comment
     先の寄生場所(↑)に末尾の稿を出した後、「日録」(↓)を読んで気が付いた。もしや苹の文学嫌いは、フィクションとリアリティを混同しかけた時に感じた魅力への「ぼんやりした嫌気」が原因ではなかろうかと。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1836
     「大衆作家への疑問」と言われても、以来あたしゃ読んでないのでピンとこない。にもかかわらず、却って「よく分かる」気がするのは…なんでだろう。安全な所で目を逸らしながら真に受けても仕方がないのは分かっているのに、事実も脚色も大抵は似通った書き方になりがちで、あからさまな誇張を見分けるのとは訳が違う。騙されたって文句は言えない事もあるだろう。その点、無愛想な学術論文の方がまだマシな気分になれるのは、そもそも脚色と相性がよくない~すなわち「奇妙な信頼」の前では陶酔的に無力となれるから…なのだろう。しかし双方、いづれにしろテーマへの関心が「あり過ぎる」点では同じ事。もっと無関心への憧れ(?)があってもよさそうだが、多分そこは難しい所。世界の無関心から関心だけを抽出すれば、大半の無関心はテーマから削ぎ落とされていく。
     先日、朝ドラ「とと姉ちゃん」が終わった。実話とフィクションの合間に宿るものは面白い。どの程度の割合でリアリティが感じられるか。巷間「実話なのに嘘臭い」例なら山ほどあるのに、「現代に媚びる過去」ほど本当らしく見える事もあるのは悩ましく…いや、却って上々なまめかしくもありそうだ。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?m=201609
     このところ「日録」(↑)では「知覚の欠陥」の話が出てきてドキリとさせられたが、拙稿~例えば「憧憬の欠如」云々と対比して読む場合、欠陥や欠如は限界ばかりでなく可能性をも内包するだろう。そこに或る種の危険がある様に思えてくる。「欠陥」という表現は価値でも判断でもなく性質(?)のみ示し、むしろ価値や判断の方が後から「性質へと招待される」かの様な。欠如や欠陥は前後がどうあれ次々と誕生する。それも排除や排斥の一相に留まるのではなく、より包括的な憧憬にも似た〈外〉への眼差しとしてではなかったかと。熱烈な割には学び損ねた向きもある西洋の像と、そればかりでは済まなくなった世相とが、どこかで互いに消化不良を起こして居る様な。
     ファンタジーと憧れの混同なら韓国人には勝てそうにない気もするけれど、そこまでハイパーではない筈…などと無駄に僻む(?)必要は勿論あるまい。しかしさりとて顧みれば、それぞれ時代に思い当たるのは朝鮮人への憧れ、支那人への憧れ…。どれも鎖国時代は欠如と無関心の両面で縁遠かった筈なのに、異文化への憧れにすり替わると滅法ますます始末しにくい。ゾンビに憧れた気がしないまま、とっくの昔に忘れている。

    (鳩とは斜めに…)
    ●【ローカルプレミアム】鳥はお利口さん? おバカさん? 脳内メカニズム解明へ新発見 さえずりの認知機能が厳密すぎて…仲間と敵を混同
    http://www.sankei.com/premium/news/161001/prm1610010004-n1.html
     まさかと思った鳥ネタ補遺々々、虚心坦懐に読んど呉れ(↑)。後は黙って忘れてお呉れ。苹と同じ連想をした方々には申し訳ない。品性が疑われない事を祈るのみ。
    【2016/10/04 01:00】 URL | 苹@変態 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@変態さん
    ええっ!
    名前が変わったんですねぇ~~~

    いつも面白いもの、見つけてきますね。

    【2016/10/04 21:27】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (今夜は短く…)
     思えば此処は、奥様の「シン・ゴジラ」ネタから始まったんだよなあ…。それに先立つ昨年のを一つ。~自衛隊アニメの海外ヲタ反応を見たら、頭の水準が相当なものだったのには驚いた。話題には今なお有効のトランプや村田蓮舫も出てくる。面白いのが色々ある。取り敢えず御覧あれ(↓)。
    http://blog.livedoor.jp/kaigai_no/archives/46011298.html
    https://www.youtube.com/watch?v=PQbhgjJi4E8
    【2016/10/14 20:42】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    なかなか面白いのを探してくれますねぇ。

    時間割合自由なので、助かります。
    (つまり、案外暇ってことです)
    【2016/10/18 21:24】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    ●入院しますた。(2016.10.22)
     爺様(2014.10.23歿)の三回忌は寺の都合で10.21に済ませたものの、あたしゃ前夜に体調を崩して夜も眠れなくなった。腹はパンパンに膨らむ「ふんづまり」状態。法事の翌朝まで我慢する予定だったのを深夜の救急搬送に切り替えたらストレッチャー上、血液検査の数値を云々する声が聞こえてきた(採血日10.22)。それが気になって入院中しつこくコピーを懇願し続けたところ、大体この辺(↓)が該当するらしい。
    >γ-GTP     基準値10~47 IU/L   結果748 H
    >血 糖       基準値70~109 mg/dL  結果438
    >アミラーゼ(血清) 基準値37~125 IU/L  結果1313 H
    >アミラーゼ(尿)  基準値55~725 IU/L  結果5838
     で…週明けの医者様(ぞろぞろ引き連れて総回診してた人…理事長?)は開口一番「酒に溺れて運ばれたってかぁ?」で始まり、その翌朝は「自殺一歩手前」とも表現してた。ナースの云うには「普通あり得ない数値」だそうな。ただの糞詰まりなら即日退院できると思ってたのになあ。三週間の目途は延長され、やがて軟禁状態は一ヶ月に及んだ(入院直後発売の月刊誌が買えなくなるっ!)。その間、テレビも新聞もネットもない浦島太郎は旧稿記憶の十数年を遡ったり、脳内音楽を数十曲規模で廻らしたり。
     セレブ奥様の旦那様や存じ寄りの界隈ではセカンドオピニオンの類、大体どんな診断になるんでしょうかねぇ。やっぱ…誰が見ても同じなのかしら。何度もあちこちレントゲン、CT、MRI、エコーを繰り返されると入院費が心配になる。そう云や昨夏の入院で「家に帰りたい」と騒いだ婆様は、苹が脱走するのではないかと心配してたんだっけ(苦笑)。
     以上、久方ぶりの挨拶のみ。次回は「退院しますた」稿を予定。
    【2016/11/26 01:46】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔というより、入院中様

    そうなんだぁ~~~~
    書き込みないから、ずっと心配していたんですよ~~~
    ほんっと!

    早くよくなるといいですね。
    日本の医療制度は負担上限がきまっているから、
    最初は払っても、あとでかえってきますよ。

    旦那に聞いてみておきますね。
    【2016/11/26 08:47】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    ●退院しますた。(2016.11.25)
     退院四日前に外出許可がギリギリ間に合い『WiLL』2016.12号を入手、夜半の牀上ざっと読んだら渡辺望「「漢方」は純国産です」が面白い。翌日はベロック『ユダヤ人 なぜ摩擦が生まれるのか』(祥伝社)を買ってきた。目当てはアメリカの反ユダヤ主義に関する記述で、P.259やP.367に自動車王フォードが出てくる。…今回やっと人前で読める本が出た様な。正直これまで、見た目トンデモ本の類にばかり依拠するのは不安だったのネ。中でもラウシュニング本の邦訳は黒箱に入った赤裂の装釘で、その上でっかいハーケンクロイツの箔押しがインパクト満点(こんな感じw↓)。昨今あんなの都会ど真ん中(通勤電車とか)で開いたら、職質されるかイチャモン付けられるに違いない。
    http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/07/b5e797f61b52f35ccfe6c07f23d45c23.jpg
     退院前日の外出中いったん帰宅し、久々にパソコン立ち上げたら冷え切ってて調子がよくない。退院した日も暫し難儀、日付が変わって前稿を書き込んだら、翌日には「日録」の三時間動画が出てる。まさか鳩山由紀夫をドイツの空気に喩えるとは思わなんだ(35:12前後など↓)。…ところで件のシューベルトを川口マーン氏に聴かせたら、一体どんな顔をしたかしら。プロフェッショナルな練習と素養の蓄積から滲み出る筈の感想があったら多分、素人側の見方/聴き方を格段に深めてくれるだろうに。~そう云や入院中に見た今月号の「レコ芸」新譜には、ゲルネの歌う「シューベルト・エディション」12枚組が載ってたんだっけ。その一枚目のテーマ(?)が「憧れ」。こちらの方も興味深い。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1932
     入院費は十万円以内に収まったけど、今後は薬代が嵩むらしい…。
    【2016/12/03 06:34】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    退院おめでとう~~~

    ちゃんとお薬も飲んでくださいね。
    薬代の領収書もちゃんととっておくんですよ。

    無理しないでください。
    【2016/12/03 19:18】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (追記~「忘れてた!」)
     そうだった…西尾先生のも『WiLL』2016.12号には載ってたんだ…(汗)。前稿で失念したのは多分、余りにも既読/既視感が強過ぎて。焚書本シリーズの内容紹介が続き、そこから禁止命令の延長上に強迫観念としての「沈黙」が連なってくる。
     あらためて印象深かったのは、「初めのうちは日本の警察が本の没収を行っていましたが、昭和二十三年(一九四八)六月を境に文部省社会教育局に業務が移管され、没収の責任者を都道府県知事に定めるという文部次官通達が出されます」(P.65)以降の記述。~というのも、あたしゃ以前こう書いてたから。文部省/文科省とは別の教育界/下部組織を支える土着的体質について、「とっくの昔にGHQ(CIE)は引退しているのに、それを憲法みたいに後生大事と崇め奉るからには、たぶん彼らの遣り残した仕事を代行しているのだろう」と(「2016/02/29 23:52」稿)。それを久々に思い起こした。ハッキリ証拠を書かないと、西尾先生の様な説得力は得られないのだなあ。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1934
     それはそうと…またまた全集の新刊が出るとの事(↑)。架蔵の日録本も収録されていて、お金の乏しい時期と重なるのは正直キツイ。それに実のところ『少年記』巻の購入後さほど経ってないし、まだ読み終えても居ない。青森名産「昆布羊羹」(P.93)のラベルは何処のだろう?…昔は各舗あったそうな(連載47回参照↓)。甘いのは苦手で果物も例外でない苹なのに、読後ウッカリ魔が差した。生まれて初めて食ってみた。…案の定ダメだった。甘い昆布味なんて!(お店の人…ゴメンナサイorz)
    http://www.mutusinpou.co.jp/index.php?cat=94&paged=3
    (甘精堂本店の場合↓)
    http://www.21aomori.or.jp/retail/commerce-end/100nen/page1.htm
     今は可哀想に、「低血糖になったら甘い物を」と脅されて居る。
    【2016/12/04 22:00】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     もしフロイトがマーラーを治療したら、曲の病的魅力が喪われたのでは…てな話を思い出す。所詮は後付け、医学的根拠はないらしい。福島章などの著書に見るパトグラフィ(病跡学)とて或いは結構、傍目にゃ胡散臭かったりして。~どのみち医者は治療しようとする。嘗て貧乏人や僻地とは無縁だったケースが今では通える距離、医者も患者も「治療しないなんて考えられないっ!」と即断するのが普通らしい。人間五十年が延びに延びて百歳目前、戦後日本の出来事としては筆頭格に挙げられそうだ。このまま不可逆に鶴亀って訳でもあるまいに。…入院中、よせばいいのに読み返した。小木新造『東亰時代』(講談社学術文庫)P.124にある明治24~31年の平均寿命は男42.8歳で女44.3歳。
     ところで苹は、教職をクビになって初めて余裕(?)が出来、ネットにも参入した。さもなくば現場の仕事で時間と労力を棒に振った挙句、これまでの書き込み/思考プロセスが周回遅れの定年後へとタイムスリップした筈。精神が疲弊したり、健康が損なわれた可能性もある。そうならなかった代わり、夢(=教職)の収入を失った。悪夢の収入が貘に食われた程度なら、せっせと夢ばかり書き込むのも悪くはない。が、悪夢を失う事に未練がなかったのではない。むしろ悪夢について書いてきた面もある。つまり夢の収入が失われたのと連動して、今度は収入が悪夢となって堂々巡りする。そんな程度の意味で書いている。夢も悪夢も現場では表裏一体、どのみち時間/仕事に追われる結果となる。
     こうした追いかけっこが収入と治療を結び付けると、治療に対して「いい加減にしろ」とは言えなくなるほどの全体主義(?)が垣間見えてくる。
    (以上、書きかけ)

    (近況)
     …と書いた後の12.8本日、明白な決着が付いた。痺れを切らしたのか、医者様(理事長らしき♂医でなく別の♀医)の方から苹側に引導を渡す形となった。~以下、先月末の書きかけ/保留稿をそのまま出して置く。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >早くよくなるといいですね。
     それはないでしょう。人間五十年。歴代各々を顧みるところ、大体そのくらいが丁度いいらしい(とっくに過ぎてるかもヨ?)。~今回は本格的に体具合のカウントダウンが始まった模様。そのうち金銭面のも始まる予定。あっしが「金を処分し始めました」と書いたら、遅くとも十年後には死んでるものと思って下さい(拙稿の著作権は全面放棄、後は見知らぬ編集者任せでも…結局は自然消滅するのがオチなんだろーなw)。
     現に退院後初の外来11.29は匙を投げられた形で、アルコール依存症の病院紹介なら出来るとな。薬は取り敢えず二週分を出すけど「もう来て欲しくない」の空気ありあり。抑も日食粥一杯みたいな野郎が日に三度も薬やれるなら、とっくに「普通の食生活」しとるわい(食事自体めんどくさい)。癌ではないから(やむなく?)退院できたんだろうけど、足の切断や心筋梗塞や脳梗塞が次の選択肢なら…やっぱポックリ昇天系がいいなあ(←虫のいい話)。入院当初から痺れのある手指の切断が先になるなら、それが書道畑には相応しい宿命かも知れない(払えるお金は残ってる?~眼も手も悪く哀れなりw)。
     今回、取り敢えず入院費は十万円以下に収まった。全額払ったが次回通院の予約はない。~病院側は「どうせ救急搬送されてくるのがオチ」と舐めて(?)居るのだろうが、今後は経済上やむなく死亡診断書のみ希望するケースが激増するだろう事くらい覚悟しといた方がよい。そうなる立場が二十年後には顕在化するだろう。かてて加えて三十年後は今の高齢者が概ね絶滅する結果、その筋の病院は全国一様に没落の危機へと直面する筈(出稼ぎモードについては「2013/05/07 07:10」稿を参照↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1452.html#comment
     次は今後二度と行かない事を前提に、他の病院(婆様の掛かり付け医とか)に提供するための診療データくらいは預かって来たい。薬の処方までは求めない。要は縁切りが目的なのだから。飲んで酔えなくてもアルコール依存症の部類に入るのなら、そこから先はソ連みたいな監禁システムが正当化されてくるだろう(チェーホフの『六号室』みたいな?)。あの初回外来で概ね心は決まった…が11.30午前に病院から電話が来て、インスリンのを出さなかったから足りなくなる筈との事(退院間際の指示では15単位を日に三度とな)。何も食べないまま二度は注射したと答えたところ、危険だから何か食えとの事。で、追加分を取りに来いと。電話後すぐ食べ始めたコンビニ惣菜は夕方の時点で六割ほど残って居て、途中またインスリンを射ってみた。あたしゃ普通は一食に五時間以上かかる(途中で寝る場合は一食十時間以上になるのか、それとも二食扱いになるのか?)。
    --------------------------------------------------------------------------------
     上記内容を病院側に伝えた事はない。その上で本日の決着に及んだ。にもかかわらず不思議な事に、「出した薬を全部回収したい」(12.2看護師面談)や「いったんリセットする必要がある」(12.7電話)との話があったにしては、薬は総て戻りインスリン注射の不足分まで出してくれた。そこが一見、面妖ではある。あれは「これが最後」との意味なのか、それとも「薬なら今後もOK」の方なのか。薬が切れる予定は模範的日程なら約一週後だから妄想御破算、直接その時に確かめるつもりで居る(前稿の謂では「可哀想に=しゃあしゃあと」の類かw)。~因みに医者は今日、「インスリンは一生続く」と言っていた。それを踏まえた「やむなき処方」だったのだろう。(むしろ医者様の方が可哀想。)
     本稿前半の草稿には、大風呂敷になる筈の続稿を予定。
    【2016/12/09 01:42】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続き)
     入院中に読み返したのは他にもあって、ルリヤ『失われた世界―脳損傷者の手記―』(海鳴社)がそれ。思い出すのに苦労する。覚えてもすぐ忘れる。「空間的特殊性」(P.59)の障害に戸惑う。右と左が分からなくなるのは「まるで苹みたい」と思えなくもない(←こっちは場違い、筋違い)。まだ書いていない書道ネタが思い出せずに気ばかり焦る。…そこに病気だ入院だ、早くしないと間に合わなくなるかも。(苹担当でない)総回診の医者様は退院間際の朝、「今回は本当に危なかった」と言った。
     時間は無限に続くかに思われ、いかさまヒョッコリ「終わり」の影が差し込むと、まだ見えないのにドキリとする。命のそれとは限らない。お金だったり仕事だったり、それらを含めた広義の「健康」が損なわれている事に気付く。日本の健康だって既に損なわれて居るけれど、常態化すると今が健康に見えてくる。~たとい仕事が終わろうとも、勝手に続けると終わりが霞む。昔は45歳を過ぎるとそろそろ隠居を考えたとか。今の80歳トラック運転手は健康だろうか。定年退職の後は第二の人生が始まるそうだが、これを前倒しすればどうなるか。苹は以前「任期定年」てぇのを造語した(「2013/09/21 20:53」稿↓)。定年退職が次々連鎖、やがては鶴亀とて疲弊する。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1520.html#comment
     例えば寿命80が定年60なら、任期定年30は寿命50で余生トントン昔通り。若くてピンピンした「第二の人生」が余生に今の高齢者水準を引き継ぐのは変な意味で不公平、苹担当らしき医者様がモーレツに毛嫌いするのは仕方がないのかも。黙って相手の言葉を聞くほど却って、治療したくない気分が伝わってくる。「もう治りませんよ」「平均寿命までは生きられない」程度なら大いに結構。それ以上に震え上がったのは退院後に初めて面会して以来、言葉の総てが「仕事するな」を暗示していた点にある(何を指していたのか知らんが救急搬送時、うわごとは余計だったと後悔している)。
     医者は有識者の扱いゆえ教育委員になる事も多く、教科書問題で余計なネトウヨ注意報が発令されていたのなら理解できなくもない(思い過ごし?)。…あの時うわごとで、まだ書いてない話題(↓)に触れた記憶がある。高校でも国語科書写?…大学入試に出ない限り、忽ち現場で潰されるだろうに(2007年の未履修問題では、中学国語科の内壁が書写未履修への咎め立てを拒んでた…あの時の新聞記事は何処にコピペしてたかなあ)。
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1424
     終わりの見えない不安と、終わりが仄見えてきた安らぎと。終わりを手放したくないタナトスの前では人生に第一も第二もなく、まして第二のが第一の続きとなると、ボランティア同然の隠居仕事(のつもり)は文字通り「死ぬまで続けたい」。…ところで隠居仕事の書道ネタ、肝腎の水準はどうだろうか。有識者なら「そんなの誰でも知ってるよ」と一蹴しそうな気がして恐ろしい。管見した書物には見当たらなかった事を掘り下げようとしてきたつもりでも、学会レベルから見れば児戯に等しいかも知れない。
     黙って居てもタナトスは、いづれヨロヨロつんのめる。どちらが早く老いさらばえるだろうか。そうなる前に疾走した人は今も昔も数多い。中には第二どころか、一度に何人分もの人生を欲張るかの様に併走する人も居る。片や、一人分の人生/仕事すら覚束ない身の足取りは重い(もしもし亀よ、亀さんよ…)。医者の言葉があろうとなかろうと、どのみち苹は項垂れる。
     死に場所を求めるのと、死に時を求めるのとは似て居る。どちらも幸福な死への憧れが詰まっており、それが一度にやってくる。遅い方が幸福ならそれに越した事はないが、そうでない場合が難しい。幸福を基準に時間が伸び縮みすると、傍目には生き急ぐ/死に急ぐ様に見えたりするだろう。どちらが贅沢か分からない。選択するなと怒る人も居るだろう。その両方の意味で、もしかしたらナチスは「人道的に」幸福で健康な死/生の模範を提供したつもりだったのかも知れない。

    (附記)
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1939
     …と書いて出そうとしたら、「日録」新稿(↑)が載っている。新保祐司…そう云えば退院後に見た産経「正論」欄(↓)で、なにやら私は勝手に勇気づけられた思いがしたのでした。まさか此処を読んでる訳でもあるまいに、あの日は嬉しくて涙が浮かんだのです。
    http://www.sankei.com/column/news/161205/clm1612050006-n1.html
     ブラームスと小林秀雄。私の書架に小林本は一冊もないけれど(かの有名な「モオツアルト」ですら未読)、こうした事を教えてくれるのは有難い…。
    【2016/12/11 00:24】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔様

    ずいぶん大変なことが続きましたね。
    いずれにせよお身体にはご自愛ください。

    そんな大変な経験をした方に向かって、少々言い過ぎな言葉になってしまうかもしれませんが、どうやら今の医学、とことん生かす術を磨いているけど、生かした後のケアがどうなのかを私はまだ本当の意味で理解できていません。

    何が言いたいかと言うと、我が母親も今癌治療で病院に厄介になっているんですが、色んな治療をする際に、必ず聞かれるのは「どうしますか、治療をされますかそれとも様子を見ますか」と言ったニュアンスの質問なんです。
    つまり治療の選択は患者側に自由になっていると同時に、あくまでも治療する行為の責任も患者側にあるということの、暗黙の了解がそこにはあるように感じるのです。

    もちろんがん治療のための心のケアみたいな講習会も用意されているようなんですが、いざ当事者になってみてそれを聞きに行こうとまでは思わないのが現実で、あくまでも担当医の話の範疇で意思決定する路線をまっしぐらなわけです。

    たぶん大方がそういうところなんでしょう。
    自分の「死」という大舞台に対して、人間は俯瞰できる「間」が案外存在するものなんだなと、今回の経験で感じました。
    しかし時間の経過とともに、その認識は常に変化し、一貫した自分の感情などなかなか語れるものではないことも、同時に認識しました。

    今回の母親の治療を決断する際、母に言ったのは「おふくろ90歳までは生きてほしい」という私の単純なわがままを決断のきっかけにしました。
    おふくろは74歳で旦那と離別したのですが、それ以降子供のような幼さを子供の前で晒すようになりました。
    精神的に私に寄り添っているのは明らかで、そうした感情をできるだけ抑えさせるための手段として、わざと私がおふくろの前で甘え、いくらかでもおふくろが私との関係が親子であることの上下の関係を保てるように心がけてきました。

    しかし、こうなった以上はもうその手段は通用しません。というか、とってはいけない手段です。
    今は出来うる限り、私なりの「ケア」を心がけています。
    病気と向き合うというのは、本当の意味ではここからなんでしょうね。
    おふくろ自体が「生きる」ことの本質に疑問を持ち始めていますからね・・・。

    甘いもの・・・食べたくないのに無理して食べないでくださいね。
    【2016/12/11 03:09】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    なんだか本当に病気になっちゃったんですね。
    きっとあなたは天才の部類で、
    一般人ではないのですよ。

    今回の投稿を読んで
    とても寂しい気持ちになってしまいました。

    >あきんどさん
    最近では
    本当に、どうにか「生きる」ことを続けさせられる技術?ができて、
    その判断は家族や本人にゆだねます。
    そうしないと、責任をいつも医者側に押し付けられ、
    患者側の意向に合わないと、
    裁判にかけられ、とんでもないことになるから、
    予防線をはるのです。

    入院するときも、なんだかいっぱい書類を書かされますよね。

    年寄りは、だんだんまた赤ちゃん返りするそうです。
    大切にしてあげてくださいね。

    【2016/12/11 19:01】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     初めは挨拶程度に流す予定だったのが、言葉責めの影響か真珠湾攻撃の日、遂に心理状態がおかしくなって余計なボツ稿まで出したみたい…お騒がせして相済みません。また大風呂敷と云うよりは大袈裟の方だったかな。手術でないから大変な経験には当たりませんし、身も蓋もない言い方をすると「病気より医者がこわい」だけかも。
     なにしろ初手から開口一番、苹みたいなのが「一番嫌いなタイプ」と宣言されちまった(汗)。まこと正直な先生で、仕方がないから診るけどホントは治したくないそうな。~「なんだ、ただの膵炎か」(&糖尿病?)とアッサリ書けば死にそうもない。ただ、恐怖の方は暴走する様です。客観的かつ冷静に見れば苹の方が悪い筈。頭では分かるのに、離れたくて仕方がない。
     新保先生のに絡む涙は、ちと気弱/自信喪失気味だったかと。心の一番弱いところが生活と直結して居る。言葉は推敲しないと気が済まない。可能な限り正確な表現で、内容の欠点/欠陥まで自滅的に炙り出す結果になろうと厭わない。隠そうとしても無駄だから嘘は書かない様に/ただし不可避の嘘になる事はある(その方が正確になる)。言葉の対極には「沈黙」も含まれてくる。
     うわごと段階から沈黙し損ねたのが嫌悪を際立たせたなら納得できる(いつもの夢と同じ、相当クドい論文調で口走った記憶が…汗)。とっくに手遅れだけど、もっと徹底して黙ればよかったかも。しかし黙った反動で口が開いた/態度に出た面も。退院間際、苹の尿回収袋には穴が空いていた。嫌われ者の黙り方は難しい…(遠離るのも黙り方の一つ?)。
     今後は本調子の稿に戻すつもりです。
    【2016/12/12 21:46】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    |> 苹@泥酔様

    叱られるかもしれない、でも勇気を出して言います。
    いつも何を言いたいのかわからないことが多いあなたが、いいたいことがわかりやすくなってきたことの、その事実がかえって私には現実が迫ってきているように感じてしまう。

    いつも遠まわしで語って、直接的な言葉の汚らしさがいかに人間的に魅力がないか、それを理解してほしいと、あなたは語ってきてくれました。私はそう理解しています。

    でもあなたはたぶんこの私の言葉にもシャイに受けるしか為されないのでしょう。
    本当に・・・困った人です・・・| 苹@泥酔さん。
    奥様の言葉が全てです。
    私も同感です。

    貴方の身体はあなただけの身体だけど、あなたの気持ちは、それを知ったものにはあなただけのものにはさせたくない思いもあるんですよ。

    どうかご自愛ください。
    【2016/12/13 00:32】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >苹@泥酔 さん
    はい、いつもの調子に戻っても、戻らなくてもいいですよ。

    >あきんどさん
    あきんどさんって、ほんんっと、優しいですねぇ。
    【2016/12/14 21:27】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >あきんどさんって、ほんんっと、優しいですねぇ

    いえいえ、ただ甘いだけの人間です。
    しかし、私は感情のない優しさや厳しさを嫌悪するタイプなのかもしれません。
    優しくするときは厳しく、厳しくするときは優しくするように心がけてはいるんですが、なかなかそれが貫徹できない自分です。

    いずれにせよ、人生の後半戦は、自分が培ってきたものを、周りの人間に伝授していきたいと思っています。

    実は私は今までずっとパート社員でした。
    この10年間その立場で働いてきました。
    色々な事情があってそうしてきました。
    しかし、この夏にある役員が私との会話で「せめて契約社員になったら」と言ってくれたんです。この方は昔とある館の支配人をされていた方で、その時私もそこで働いていたので、お偉いさんではありますが気軽に会話ができる方だったのです。

    それをきっかけにしばらく熟考しました。
    本来出しゃばり過ぎる性格がどこかに潜んでいる私のこの性格を、できるだけ抑え込む意味でパート社員の立場を維持してきたわけですが、役員の直々のお言葉に、そろそろその意地も取り下げるべきなのかなと決心し、契約社員ではありますが申請し、今日その面接に行ってまいりました。

    面接官はこの話のきっかけを作っていただいた役員さんです。

    こんな流れですので、多分採用されるとは思うんですが、結果を見なければ物事は何も語れません。
    そのことよりも、56歳と言う年齢で、チャレンジしたわけですが、やはりそのことだけが一応ネックなんだそうです。採用には社長以下役員全員の承諾が必要となります。様々な門をくぐっていかないとなりません。

    私は自分でいうのもなんですが、今これにチャレンジした自分を一応褒めたいと思います。
    簡単に10年と言いますが、この間どれだけの人間が辞めていったか分かりません。
    ホテル業の特色でもあるようですが、長年勤めるのはあまりよろしくないという定説もあるようです。

    私はこの部分自体が気に入らないところで、一つの企業にせめて10年スパンで勤めて、自身を磨き上げてほしいと思うのです。10年勤めれば、本当の自分の意見が出てくると思います。そうした経験を糧にしてステップアップするのはいいことでしょう。
    面接官から「会社に対して何か持論かおっしゃりたいこと、もしくはご自身の目標などはありますか」と聞かれ、即座に応えたことは・・・
    「若い社員を育てる仕事をしたいです。私の経験を生かして、入れ替わりの激しいこの現実を改善できるよう頑張りたいです」と応えました。
    面接官は一応この言葉を快く受け入れてくれたようです。

    さてどうなりますか・・・結果だけは報告いたします。

    (期待だけさせておいて、もしもダメだったら本当に申し訳ございませんでした・・・しか、言えないわけですが)
    【2016/12/14 23:14】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >あきんどさん
    あきんどさんなら、合格でも不合格でも、
    同じモチベーションを保てるから、
    どっちでもいいですね。
    なんか、私に似てない?
    【2016/12/15 08:50】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >なんか、私に似てない?

    やっぱりそうですよね。
    私もこの投稿をしていて、「あれ、これって、奥様のよく使うセリフのフレーズだよな・・・」などと思いながら現実を書き込みました。

    知らず知らずのうちに、私は奥様の言葉に従う僕と化していたのでしょうか。

    それとも、同じ感性がここで発揮する最高の友なのか。

    まさかとはおもいますが、姉さん女房の渇望が私の中に滞在していて、その願望がここで実現化したのか。
    憶測はさまざまですが、ひとつここで明白に私の内面を告白しましょう。

    私は奥様と初対面した際、完全に脱帽しました。
    どうしてかを説明するのは長々しくなるのでやめます。
    それ以来、私はある意味、西尾先生以上に奥様を尊敬するようになりました。

    私が先生に対しての意見として「西尾先生くらいの方なら、あまり読者と近しくしないで、高いところで君臨していてほしい」と述べますと、奥様はこう言いました。

    (ごめんなさい間違っていたらすぐに削除します)

    「本当に先生はわがままで困った関係です。皆さんも大変な思いをされたことがありますでしょう。さぁではそのご苦労をねぎらう意味でも乾杯しましょう」

    多分そこで出席していた人間で、その意味を理解したのは蘭ちゃんと私だけでしょう。
    私はこの言葉を聞いて、奥様がどれだけこの日録でご尽力されているかを、あらためて知りました。私はそれ以来、奥様こそが一番の信頼者になりました。
    なぜなら、同じようなことを体験したばかりだったからです。
    そこから逃げない奥様の現実。
    私は、そういう方こそ、本当に尊敬に値する方だと思っています。

    だから、少し、行動が似てきたのかな・・・。
    【2016/12/15 15:28】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    補足・・・。

    わがままでこまった・・・の表現は、つまりは、それだけ先生が本音を語る立場に接することができた証だということです。

    いや、先生は元々裏表がない方ですが、しかし哲学的な思考をお手本とするなら、先生と相対するためには、自分の姿が先生の態度に現るという覚悟で臨まねばならないわけで、そこはとても意味深いわけです。

    さぁ、段々と苹@泥酔さんが大好きなフレーズに入り込みましたよ。

    苹@泥酔さん。元気だったらぜひ東北の今の風の色を語ってください。
    日本の冬を語るなら、北海道は寒すぎて景色の基準になりません。

    青森や岩手辺りの寒さこそが、日本人がイメージできる基準値です。
    そんへんのことを、「書初め」ならぬ「書き納め」で今年を書きくくってください。

    【2016/12/16 04:14】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >苹@泥酔さん。元気だったらぜひ東北の今の風の色を語って
     おはようございます。朝っぱらから、正反対の話題になって相済みません。
    http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2016/20161215020673.asp
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 三浦 祐一氏(みうら・ゆういち=青森市新町商店街振興組合理事長)13日午後8時、病気療養中のところ県立中央病院で死去。64歳。青森市出身。
    (以下略)
    --------------------------------------------------------------------------------
     先日『少年記』絡みで昆布羊羹に言及したばかりの甘精堂、…社長がお亡くなりになりました。合掌。(昨朝の新聞を見て吃驚。どのタイミングで書こうかと。)
    https://www.youtube.com/watch?v=3qyXVgC_tCw
    (↑社長の学んだウィーン菓子に因んでVPOの演奏を選んだところ、途中でCMが入って頭にきた…カラヤンのもショルティのも…今度はベームでどうだろか…VSOだけど。)
    【2016/12/16 06:28】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >あきんどさん
    そうそう、先生には裏表がありません。
    で、一般の人間には理解しがたい天才です。
    私は一般人そのものですから、
    いっぱい驚きましたが、慣れました。

    >苹@泥酔さん
    誰でもいつかは死にます。
    平均寿命だけがタイミングではありません。
    だからこそ、今を大切に、
    今表現したいことを存分に表現していかなくてはね。

    いつでもここはスペースですから・・・・・。
    【2016/12/17 08:45】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (脱線話)
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1748
     脊髄反射の前稿景色は「日本一の短命県」ならでは、自然な「寒さ」でありまするぅ。とは云え余りに短過ぎて、夜に取っ換え引っ換えした動画の他にも何か追記を(今の「日録」の動画ヴァージョンとか↑)と考えてたら、レス後の奥様はアーカイブのネタですか(↓)。…あたし英語キライ。ドイツ語でホホホ、アルヒーフとお呼び!(←SM「女王様」然)と書けば直ちに連想するのが音楽。結構どっこい西洋だって、負けず劣らず埋もれてるやんけ?
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1977.html
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1978.html
     バッハのマタイ1727/1736はメンデルスゾーン1829、無伴奏vc組曲はカザルス1904以降の蘇演が有名で、百年忘却の例はいくらでもある。さすがに大物は滅多に出ないけれど、百年に満たないもののマーラー《大地の歌》ピアノ稿1908は日本で1989世界初演された(NHKがテレビ放映)。今世紀の発掘も色々あるが一々覚えていない。~概して多くは図書館に埋もれているらしい。オークションが新発見/新解釈の契機となる例も多い。
     図書館なら日本の埋蔵(?)も遜色ない筈だけど、気になるのはディープな領分/機能を古書店が代行して居る所(ヨーロッパ的?)。アメリカの図書館が先進的/機能的なのは歴史の浅さもあるし、ヨーロッパから持ち込む際に一度は必ずフィルタリング/分類の機会を経て居る筈。ところが日本はなかなかブツが動かない。古書店からの散佚が心配になる。店主の死去などで廃業、私的かつ安易に処分されるのが一番こわい。官民挙げて知らぬが仏、われら断捨離ニッポン人!(←そもそもブツが読めません。)
     奥様の聴いた倉山講演、さぞ面白かったんだろうなあ。
     書道畑から一言添えて置くと、歴史学や国文学を出自とする研究者は居ても、活字の「読み」を支える「書道系」の土台が意外な所で疑わしい。だから「東京(とうきょう)と東亰(とうけい)は違う」なんて話が出てくる(前掲『東亰時代』)。千字文の「東西二京」は写本レベルが基本で元は「京」も「亰」も一緒、分けて考える方がおかしい。王羲之(東晋)のを集字した興福寺断碑(唐)に出てきた形も「亰」の行書だった。そうした例が漢字の数だけワンサとある。(「ゴマンとある」では言い過ぎ…そんなに多くない。分化した異体字を統合する所に漢字概念の機能的「一即多」が表徴する。)
     翻訳的に西洋化された文書学を支える筈の来歴に、古文書学の非西洋的原型が取り込まれている。だから…「日本近代史には文書学が存在しない」様に見える?
    【2016/12/19 02:04】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (「日本一の短命県」について)
     そこは昔、国だった。国境には海と山があった。人のつくる国境は、どことなく水利事業と似たところがあった。それが今では国の概念が変わり、国境には海しかなくなった。
     枠を東北でなく県民性で括り、独特の依怙地(じょっぱり)や開き直り(からきじ)を風味たっぷり拗らせると、そこはそれなりに心当たりがある。結構めんどくさい性格(?)で、例えば「大した仕事してないんだから」(治療に専念しろetc.)てな空気を漂わせようものなら、却って自ら寿命を縮めかねない所がある。コンプレックスかルサンチマンか定かでないのはともかく、どちらでもなさそうな内向きの素直さが同居する点、他者への嫉妬や怨恨とは縁遠いらしい。…観察下手の苹には大体そう見えるが、外れて居るかも知れない。
     …と書いたところで読売記事(↓)。
    https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20161101-OYTET50028/
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2016年11月2日
    >からだコラム
    >[短命県から学ぶ健康]中年層の死亡率に大差
    > 「長野県と青森県の寿命の2・6歳(年)の差なんて大した差じゃない」「2・6歳長生きしても若い人に迷惑をかけるだけ」「80歳と82・6歳の人を見てどちらが年上か、ちゃんと当てられますか?」。よく言われます。へこまされます。
    > 2010年の青森、長野両県の平均寿命の差は、男性で3・6歳(長野80・9歳、青森77・3歳)、女性で1・9歳(長野87・2歳、青森85・3歳)でした。男女平均で2・6歳です。
    > しかし、冒頭の感想は間違いです。こうした感想は、あくまで「一人の人の寿命」に関してのものです。頭に「平均」がついた「平均寿命」になると全く違った意味になります。
    > 長野、青森両県の男性の年代別死亡率(全死因)をみます。すべての年代で青森の死亡率が長野を上回っています。つまり、両県の平均寿命の差は、人生の最後だけの差ではなく、赤ちゃんや小さな子供から高齢者まで差があり、特に中年層(40~60歳代)で死亡率に大きな差(1・6倍)があるのです。
    > 平均寿命というたった一つの数字だけを見ると大きな誤解を生んでしまいます。
    > 青森の平均寿命対策の要の一つは、40~60歳代の死亡を減らす対策、つまり「早死にを減らす」対策でもあります。ここを正しく理解しないと「短命をなんとかしよう」というモチベーションにつながりません。
    > 例えば、青森県民が長野県民と同じような死亡率であると仮定します。そうすると、現実の青森県の1年間の死亡者数が2800人減少します。なんと、青森県の年間全死亡者数1万7000人の約15%です。大きな数字です。
    > このように、両県の平均寿命の差2・6歳の意味を正しく知ることこそが短命対策の第一歩となるのです。
    > (中路重之・弘前大学教授)
    --------------------------------------------------------------------------------
     …昔から「慣れっこ」である。長生きしてもしなくても、普通の寿命は幅広く受け容れられる。傍目には無感動と映る事もあろうが、大袈裟に振る舞わないだけだったりする。日常ではないが非日常でもない「明日は我が身」の到達点で、それぞれの忘却が互いに調和し機能している様な。短命くらい大目に見て、そっとして置くと短命な気がしなくなる。年齢を歿後の時間が薄めていくと、逆に長命だった気さえしてきたりする。それだけ年齢は当てにならない。青森の数字を左右するのは中年の死亡率…大いに納得できる。
     中途半端に若い労働人口が長生きすれば、補填分の求人が要らなくなる。つまり年金を支える人材の総量は変わらないまま、個別の流動性は減退する。かと云って解雇すれば無職中年/青年が増えるし、補充せずに規模縮小するなら組織の底力は弱体化する(大学そっくり!)。そこが無職の高齢者(労働人口でない年金受給者)と決定的に違う。短命県を返上すれば中年が減らなくなり、その分だけ若手/生殖適齢人口に皺寄せがくる。従って少子化と高齢化との相関は「仕事のパイの奪い合い」に於て、中年の生死が鍵を握る事にもなろう。(←ボツ予定だった稿で触れた、「二十年後には顕在化」の具体例。)
     …てな事を書くと、「じゃあ、どうすれば?」となるのかも。差し当たり、寿命名目の粉飾をやめれば「黙って居ても老人は勝手に長生きする」のが分かる。医療は老人だけが相手ではないのだから。でも中年相手に「若者に席を譲れ=仕事やめろ」とは言えない。それどころか今は「代わりの若者が居ないから中年が要る」のみならず、政府は元気な隠居に復活して貰いたがっている。ならば今更、平均寿命で粉飾する意味なんてないのでは?…それともアレは「老人への応援歌」みたいなものか?
     いづれにしろ少子化対策にはなりそうにない。~ところが実際に持て余されているのは誰かとなると、虚像と化した若者/未成年の側に疑わしき節がある。都会には(?)「赤子がうるさい」と保育施設を指弾する人々が居ると聞く。育てば青年、騒ぐと赤子の数倍うるさくなる…真逆その予防策ではあるまいな。赤子は要らない。若者も要らない。老人も要らない。どれにも当て嵌まらない中年が、今度は水子に祟られる。

    (BGM)
    https://www.youtube.com/watch?v=ZqEyqAcoJRQ
     今夜もVPOでなくVSO。シューマンsym.4本番は1:01:17以降(↑)。…苹は糞耳。ねぶたリズムの空耳が、第四楽章に木霊する。(リハーサルでは44:29以降。)
    【2016/12/25 02:28】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ●河合雅司
     寿命が社会変動の根本原因たり得る事を自然現象と錯覚し、当たり前とか不可避とか言いくるめて白眼視すると、やがて全体のバランスを放置しても構わなくなる。無関心に禁忌が忍び込む。にもかかわらず両極端の、特定年齢層には熱い視線が注がれる。…放置するのもしないのも、結果としては同義に近い。どちらも「閉ざされた今」に於て、健康と不健康をもバランスしてしまうのだから。
     ここで云う寿命は老人のに限らない。それ以下の全世代どころか、赤子以下の胎児や生殖行為/環境まで含めて構わない。ところが戦後の「産めよ殖やせよ」アレルギーが放置されると、その時点から少子化に歯止めがかからなくなってくる。他方、放置したのではなく放置しなさ過ぎたのではないかと思えるくらいに特定世代をめぐる対立が喧しくなると、争点から抜け落ちた「非特定」世代は両極からの皺寄せを呑み込むべく、むしろ逆向きに育まれていく(年金負担等々)。
     それらをGHQと絡めつつ、歴史的観点で指摘した本が河合雅司『日本の少子化 百年の迷走 人口をめぐる「静かなる戦争」』(新潮選書)らしい。あたしゃ相変わらず未読だけれど、おあずけ期間が長引くほど「もしや今年最高の一冊では?」との期待が膨らむ…と書いて念のため調べたら、とっくに上梓から一年が経過しとる(汗)。~以下は産経記事の抄録(「2016/02/15 03:08」稿のリンク参照)。
    http://www.sankei.com/premium/news/160209/prm1602090007-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 「産めよ殖やせよ」政策といえば、一般的に国防国家体制を確立するための兵力や労働力の確保策と説明される。16年1月に近衛文麿内閣によって閣議決定された「人口政策確立要綱」には、「今後ノ十年間ニ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ三年早ムルト共ニ一夫婦ノ出生数平均五児ニ達スルコトヲ目標トシテ計画ス」など、実に細かな“指示”が記されている。
    > だが、この「産めよ殖やせよ」政策は、GHQによる「人口戦」とは別の、戦前にあった「もう一つの人口戦」の影響を強く受けていたことはあまり知られていない。近隣諸国との出生率をめぐる戦いである。
    > 実は、戦前の日本も少子化に悩んでいた。人口1千人あたりの出生率は大正9(1920)年の36・2をピークに、昭和14(1939)年は26・6に落ち込むなど長期下落傾向を示していたのだ。
    > 人口が基礎国力であり、人口差がそのまま国防上の危機に直結した時代である。「産めよ殖やせよ」には兵士確保策としての目的はもちろんのこと、日本人口の減少に伴い近隣諸国に国力で負けることへの政府の危機感があったのだ。
    > 17年4月に厚生省人口局が編集したパンフレット『健民運動』は、当時の政府の考えを伝えている。
    > 「我が国の出生率が大正九年を界にして一路下降の傾向を辿り始めたと言ふ事は大いに警戒を要する事柄であつて今にして之が対策を講ずるのでなければ将来臍を噛んで後悔しても亦如何とも為す能はざるは火を見るよりも明らかである」との指摘だ。
    > 日本の出生数が減る一方で近隣諸国の出生数が増え続ける状況を、将来の国力差につながる“脅威”として受け止めていたのである。
    > 厚生省予防局が昭和16年に出した『国民優生図解』(国民優生聯盟)は、「我々がこれから世界の檜舞台に於いて覇を争つて行くために注目を要するのはフランスやイギリスやドイツではなく、実に同じ亜細亜にあつて日本を取り巻いて居る支那であり、ソ聯であり、印度である」と指摘している。
    > その上で、「出生率に於いて我が国より遥かに高いソ聯や支那、印度は更に全人口が我が国の二倍乃至四倍もある。従つて年々に生れる赤坊の数を比較すると、我が国で一人生れる間に支那では七人生れ、印度では五人、ソ聯では三人生れてゐる。我が国が之等多産の国々に伍して大いに国運を伸ばして行く為には余程国民の自覚を必要とする」とも記している。
    --------------------------------------------------------------------------------

    ●三浦淳
     片や定年間際の新潟大学教授は…こんなの書いてたんだなあ(2016.11.5付↓)。入院前は毎日の巡回が楽しみだったのに、退院後の一ヶ月は遡って閲覧する気力が出なかった。
    http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1062230158.html
     こちらは老後の心配で、やはり長生き「し過ぎ」が気になる模様。この年末は少子化問題にも言及(12.26付)。次いで「日録」にも言及(12.28付)。西尾先生は一応or事実上「老後の先達」だろうから、ここは指南役(?)として期待されるところ大かと?
     そう云えば「書道美術新聞」1089号(2016.12.15付)の一面トップに、「“名門”新潟大・書道科に幕」てなタイトルが載っていた。「書表現コース」募集停止。教育学部、美術教育に“若干名”書道枠。~このところ萱原書房サイトの更新が滞りがちなので、取り敢えず記事の一部を勝手に打鍵して置く(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >【岡村浩(鉄琴)教授の話】
    >本学でこれまで育まれた書道教育の伝統とカラーを失うのは痛恨の極みだが、社会の変貌に応じた大学改革が断行される中、書道科は主体的な書の学びに加え、「書く」目的の設け方と活用法を柔軟に捉えることを希求しながら、新しい一歩を踏み出すことにしたい。「学生募集要項」を読むだけでは、残念ながら書道科(書道分野)の今後は見えてこないと思うが、各高校の受験指導の先生方をはじめ関係者のご理解を頂き、やる気のある受験者を一人でも多く迎えられることを願っている。
    --------------------------------------------------------------------------------
     苹より先に大学の方が、各地で「死に際」を迎えているらしい。岩手に続いて新潟の書道科。東北全域の高校芸術科目から書道が消えてなくなる日は近いのかも知れない。…全国の就職先(教員採用試験)が概ね荒廃してから七十年が経つ。かてて加えて進学先(大学)までもが消滅すると、中等教育では従来以上に形骸化が進んでいくのだろう。

    ●斎藤秀雄
     どちらも矍鑠として居るが、風貌はクレンペラー級の「典型的ジジイ」まで行かず、しっかりと歯が見える。~病歿前年(1973)のNHK収録。病院を抜け出してきたそうな。
    https://www.youtube.com/watch?v=LvVDJZvckoI
     小澤征爾らを育てた斎藤秀雄は70歳で「定年退職」したとの事(冒頭参照↑)。世の定年は当時55歳だった。~ウチの爺様の頃も県職員は世間並みで、定年延長を目的に県立校への転勤を画策。五年後に60歳の定年を迎え、年金生活へとスムーズに移行した。
    http://www.sankei.com/life/news/161222/lif1612220039-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2016.12.22 14:28更新
    >「高齢者の働き方を真剣に考えないと」 麻生太郎財務相が古い制度運用を問題提起
    > 麻生太郎財務相は22日の閣議後会見で、「人間の定年というのを、そろそろ考えないと(いけない)」と述べ、高齢者の定義の見直しや働き方改革を検討すべきとの見解を示した。
    > 麻生氏は「日本人の平均寿命はこの70年間で30年延びた。その頃に作った制度と今のとでは、当てはまらなくなるのは当然」と問題点を指摘。自身が76歳で財務相として働いていることを引き合いに出し、「高齢者でも働けるということを真剣に考えないと(いけない)」と強調した。
    > また、麻生氏は「活力ある高齢化社会ができれば、この国は極めて世界から認められる国になり得る」と主張。高齢者の活用を活発化させることが、国内総生産(GDP)の引き上げや医療費削減にも寄与するとの考えも述べた。
    --------------------------------------------------------------------------------
     …ところで昔、斎藤『指揮法教程』の簡略版らしき高階『指揮法入門』冒頭部分を読んだら指揮で使う腕の筋肉について書いてあり、「書道のと同じだナァ」と思った。その頃/それ以前から音楽と書道の腐れ縁は続いて居るのだろう。~思い起こせば高校時代、芸術科書道の先生は腕の筋肉を鍛えるためか(←未確認)、よく昼休みにテニスをしていた。短パン姿が若々しく、太腿はなんとなくエッチな感じだった…(←不惑手前の男なの…)。

     …明けましたら、おめでとう御座います。(↑…めでたいのかなあ?)
    【2016/12/31 22:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    だいぶ内容がしっかりしてきましたね。
    具合、だいぶ良くなったように感じます。

    今年もよろしくお願いしますね。
    【2017/01/02 15:15】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (補記)
     もっと別の表現がないものかと考えた…どうしてこうなった?~「若者が死ににくくなり、老人も死ににくくなり、若者はすぐ老人になるのに、老人は死ぬまで老人だ。」
     時間が伸び縮みするのは各々方の勝手だが、ここでは世代が丸ごと先送りとなる。すると二つの時間が区画される。老人になり続ける恐怖のと、老人であり続ける恐怖のと。慣れっこになるにしろ忘れるにしろ、それと死とは明らかに別物だろう。死を恐れるのではない。そこに向かう時間を恐れている。これを人工的に企てればアウシュビッツ的な理不尽となったりするが、実のところ理不尽なのは死ではなく、人が時間に及ぼす「余計なお世話」の方。
     そうした切り口で或る程度、時間の区画には警戒して置きたい。薄められた「アウシュビッツ的なもの」は実験場から解放され医療現場へ、更には一般社会へと「健全に」拡散/伝染していく筈だから。(ナチスの「健康」推進政策で実証済み?)

    http://www.sankei.com/life/news/170106/lif1701060019-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2017.1.6 09:48更新
    >「高齢者」定義見直し 世界に先行、定年延長など課題
    > 医療の発達や衛生環境の改善に伴って高齢化は世界的に進み、世界保健機関(WHO)によると、2015年の世界全体の平均寿命は00年から約5歳延び71・4歳だった。
    > 一方、国際機関や各国の「高齢者」の概念は60歳以上や65歳以上が一般的。平均寿命世界トップの日本が高齢者を75歳以上と定義すれば、世界的な先行例となりそうだ。
    > WHOは「多くの先進国では、定年となる60歳か65歳が高齢者の始まりとみなされている」と指摘。米政府は65歳以上を「高齢者」とした統計を多く発表している。
    > 15年の日本の平均寿命は83・7歳で、20年以上連続で首位となっている。若年層の縮小や健康な高齢者層の増大に伴い、日本を含む先進国では60歳代半ばから後半への年金支給開始年齢の段階的引き上げが続く。欧米では年齢を理由とした強制退職を禁じている国も多い。
    > 日本では定年延長や継続雇用制度の導入が進むものの60歳定年制の企業が依然多く、高齢化対応は欧米に比べ進んでいるとは言い難いのが実情だ。(共同)
    --------------------------------------------------------------------------------

    http://www.sankei.com/life/news/170105/lif1701050032-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2017.1.5 15:22更新
    >「高齢者」は75歳以上 日本老年学会など提言、65~74歳は社会の支え手
    > 高齢問題の研究者らでつくる日本老年学会などは5日、現在は65歳以上とされている「高齢者」の定義を75歳以上に見直し、前期高齢者の65~74歳は「准高齢者」として社会の支え手と捉え直すよう求める提言を発表した。医療の進歩や生活環境の改善で、10年前に比べ身体の働きや知的能力が5~10歳は若返っていると判断した。
    > 准高齢者は、仕事やボランティアなど社会に参加しながら、病気の予防に取り組み、高齢期に備える時期とされる。高齢者の定義見直しは、65歳以上を「支えられる側」として設計されている社会保障や雇用制度の在り方に関する議論にも影響を与えそうだ。
    > 平均寿命を超える90歳以上は「超高齢者」とした。学会によると、日本は50年以上前から国連機関の文書などに基づき、慣例的に65歳以上を高齢者としている。
    --------------------------------------------------------------------------------

    (備忘録)
    http://www.sankei.com/west/news/170107/wst1701070044-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2017.1.7 12:21更新
    >地震史料をみんなで「翻刻」 京大教授ら、くずし字解読に向け、10日にサイト開設
    > 京都大の古地震研究会(主宰=中西一郎・京大大学院理学研究科教授)は10日、「くずし字」で地震について記録された古文書をインターネットのホームページ(HP)で公開し、誰でも翻訳に参加できるようにした「みんなで翻刻(ほんこく)~地震史料編」を開設する。地震や古文書の研究者だけでなく、くずし字を読むことができる人に広く解読に参加してもらうことで、日本の地震の歴史を新たに“発掘”する狙いがある。
    > HPには、東京大地震研究所が所蔵する史料約110点を収録。パソコンや携帯端末で閲覧すると、画面右側に古文書の画像が表示され、閲覧者は画面左側のスペースに翻訳した結果を書き込む仕組みになっている。写真などを投稿したり意見を交換したりすることもできる。
    > このほか、江戸時代以前に使われたくずし字を学べる機能もあり、初心者もクイズ形式でくずし字を学習できる。研究会メンバーの加納靖之・京大防災研究所助教(地震学)は「古文書を通じて防災意識の向上につながれば」と話した。
    > HP(https://honkoku.org/)の閲覧・利用は無料だが、フェイスブックやツイッターなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のアカウントが必要。
    --------------------------------------------------------------------------------

    http://www.sankei.com/life/news/160921/lif1609210019-n1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >2016.9.21 10:34更新
    >【解答乱麻】
    >学力低下を招く教育界の迷信 TOSS代表・向山洋一
    >(1/3ページ) .
    > 繰り返し書いてきたことだが、宿題で学力がつくというのは迷信である。
    > 「宿題を出してください」という保護者は多い。教師は、毎日のように漢字ドリルや計算ドリルを宿題にする。教師は毎朝、宿題ノートを点検して印を押す。教師にとって実に楽な仕事で、保護者にも評判がいい。ところが、この方法では漢字・計算の力はつかない。漢字・計算の学力は、授業でつけるのである。それは教師の仕事だ。
    > 次に、授業中にプリントで学習する教師のクラスも学力は低い。多くのプリントは粗悪品だ。ミスも多い。しかも思いつき程度の内容がほとんどだ。
    > 一番すぐれた教材は、教科書だ。法律で教科書を使用することが義務づけられている。かつて教科書を使わなかった教師たちが懲戒免職になった。最高裁の判例(伝習館訴訟判決)でも認められている。
    > 子供の算数のノートを点検すると良い。教科書の全ての問題を書いているなら安心だ。ノートがゆったりとていねいなら文句なしにすばらしい教師だ。9月で算数ノートは3冊目ぐらいになっているはずである。
    > 自分の子供の学力が心配なら、算数ノートをていねいに点検するのがよい。もし教科書の問題が抜けていたら、担任の先生に、やるようにお願いすることだ。拒絶されたら校長先生にお願いするのだ。算数のノートチェックは、通信教育や塾ぐらいの効果がある。
    > 授業は、生きものである。さまざまな展開がありうる。
    > 子供たちが熱中する授業もあれば、子供たちがおしゃべりをしている授業もある。授業は、教師の力量の反映である。教える内容について研究をし、授業の展開を工夫する教師なら、つまりよく本を読み、研究会に参加している教師なら、子供たちは熱中する。学力も向上する。
    > 教師が、専門誌、つまり教育雑誌を何種類か、毎日購読している教師なら、授業は知的で面白い。良い授業なら子供たちの学力は向上する。
    > 教師が、専門家としての技量を身につける努力をしていれば、教室の授業に反映する。毎月2回ぐらいの研究会を3年間続ければ、初歩的な授業は身につけられる。いかなる職業でも、プロになるためには修業が必要である。
    > 教師も例外ではない。
    > 大学で4年間学んでも、ほとんどは「教材の解釈」について学ぶのであり、「授業のやり方」については学ばない。
    > 医師に例えれば、「病気の要因」については学ぶが、「手術・処置の方法」を学んでいないのと同じである。医学部の教授は学生に「手術」をやってみせるが、教育学部の教授は、小中高校の教壇に立ち授業をやってみせることはない。
    > 教育では教育実習の時、わずか10時間程度の授業をやるだけで教師になってゆくのである。
    > だから、教師になったときには、必死な勉強が必要となる。
    > つまらない授業をすると、子供たちは騒ぎ始める。それが学級崩壊にもつながっていく。
    > 騒がしい子供たちを、どなりつけ、脅かして静かにさせようとするが、通用するのは最初だけだ。力で抑えつけても、子供たちの反乱は拡大していく。
    > 根本の原因は、分からない授業やつまらない授業にある。
    > 授業は「討論の形をあこがれる」から「討論の授業」ができれば、教室は活気のあるものになる。しかし「討論の授業」は、高段の芸であり、真剣な数年の努力が必要となる。
    > 教師が学んでこそ、すばらしい授業、すばらしい教室が誕生するのである。
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    【2017/01/08 22:00】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (更に追記)
     その後、こんな記事を見つけた(「「人口減少=悪」ではない 次世代に向けて発想を転換せよ――速水 融・慶應義塾大学名誉教授」↓)。必読の知見だと思った。
    http://diamond.jp/articles/-/70896
     あたしゃ前稿冒頭「若者はすぐ老人になるのに、老人は死ぬまで老人だ」と書いた。その時間/一時期を、速水先生は以下の様に切り取る(抄録)。
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    > 日本では明治期に死亡率が下がり始めました。病気の流行や天災によって死亡率が跳ね上がる年もありますが、全体で見れば明治期から徐々に下がっています。そして出生率の低下は大正末年から始まり、戦後のベビーブームを経て本格的になります。終戦直後に4人を超えていたTFRは1950年に3.65人、70年に2.13人、90年には1.54人、2010年には1.39人と急速に下がります。
    > かつて日本をはじめとするアジアでは、大勢の子どもや孫に囲まれて暮らすのが幸せという価値観が一般的でした。子どもの死亡率が高く、全員が元気に育つわけではなかったので、結果としてバランスもとれていました。しかし、現在は子どもの死亡率が低く、かつ生活における余暇や娯楽が増え、価値観が多様になっています。女性が子育てに見出してきた生きがいが、趣味などに分散するのはやむを得ないでしょう。
    > さらに、女性の社会進出の機会が増えて(それ自体はすばらしいことですが)、出産適齢期がちょうど学問を修めたり社会に出たりする時期と重なるようになりました。つまり、長期的に見て日本社会で出生率が下がるのは自明のことなのです。
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     修学と生殖との適齢重合が、社会変動に一種のバタフライ効果(?)を及ぼしている模様。世代ごと一斉かつ順繰りに、後年になるほど厖大な規模が死ぬまで溜まっていく(伝統化/圧縮作用も含めて)。その上どんなファクターが絡む/創出されるか分からない。政策や民間の努力は総てが後手に回る。
     …ところで老人の場合、何らかの「適齢期」はあるのかいな。まさかヨボヨボの「老人らしさ」ではあるまい。他には「五十/六十の手習い」てな表現があるけれど、教育上の「適齢」感覚は若年期に隔離されるのが標準的だろう。そうしたコースから外れると大抵は下層化して「落ちこぼれ」扱いになる。片や飛び級は「論外」(天才か変人、もしくは特殊な無縁の子)。もちろん老人も別の意味で「論外」(独学かリハビリか趣味娯楽の類?)。ここにも二つの時間の区画がありそうだ。
     「老人は昔の字が読める」との見方と「若者が老人になった」という現実が戦後日本に定着した。老人は死ぬまで老人のまま生きて居るが、昔の老人は死に絶えた。なのに書家は老成するほど、ついつい死人と老人を混同したくなるかの様な(顕彰意識の伝播/連続性?)。…読めるからだろうか。それとも、読めなくても構わなくなったからだろうか。

    (クラヲタ余談)
    http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1063578681.html
     これ(↑)を読んで、戦前のラジオ局に寄せられたという苦情ネタを思い出した(「鶏を絞めころす様なソプラノはヤメロ」)。~思い起こせば世紀末、飲み会にはカラオケが付き物だった。でも歌いたい曲がない。試しに無理矢理バッハのマタイ(↓)を無伴奏で唸ってみた。するとハイドンsym.45《告別》の様に、最後は「誰も居なくなった」。結局、独りで飲むのが一番いい。例えば深夜の自室でマーラーのを唸る/呻くとか(Das ist der Herzallerliebste dein,…↓)。
    https://www.youtube.com/watch?v=L4KmN7k3LoI
    https://www.youtube.com/watch?v=eKBNIWgD5TM
     …それはともかく(汗)、以下の記述が興味深い。開国前はオランダ語の通詞だった。開国後は英語の通訳に需要が移った。外人にも英語が要求されたとは知らなんだ。…そう云や子供の頃に読んだ『少年倶樂部』でも、外国語独習の広告は英語ばかりだった様な。「トム君サム君」もあったけれど、苹は碌に読まなかった。それより「冒険ダン吉」の方が気に入って居た。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 音楽と言えばドイツ(語圏)というイメージがあるが、戦前、東京音楽学校に招かれた独墺圏のお雇い外国人も、実は英語で講義ができることという条件つきだったという指摘には蒙を啓かれる思いがした。東京帝大の哲学系のお雇い外国人(独墺系)もそうだったという。戦前から日本は外国語というと英語一辺倒だったのだ、と改めて思い知らされました。
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    【2017/01/11 21:27】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    先日テレビを見ていたら、
    フランス人の日本の古い箪笥好きの人が、
    そこに書いてある日本語を読んでくれと言ったら、
    日本人が読めない・・・・と答え、
    なぁんだ、フランス人と同じように読めないのか。
    だめだなぁ・・・と言っていた。

    せっかく古い経験を表す文章があっても、読めなくては利用できませんよね。
    【2017/01/11 22:34】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (Das ist der Herzallerliebste dein,…)
     日韓合意後も慰安婦像は設置され続け、韓国政府は手出し出来ない。…或る意味、日本そっくり。主権回復後もGHQ代行機関は居座り続け、日本政府は手出しできない。しかも増えてる。占領中は一つだったのが、主権回復後は四十六に分散した(沖縄復帰後は四十七)。全国各地、GHQ代行機関の傘下にCIE代行機関がある。文部科学省でなくCIE代行機関が公教育を統括する。
     日本の首都には二つの政府(?)がある。首長は総理大臣と都知事。しかし首長が組織を統轄できるとは限らない。GHQは亡霊の様に憑依するのだろう。嘗て文部省は書教育の科目を設置したが、それ以前の占領期にGHQは禁止した。だから東京都はGHQの指示をずっと守り続け、高校芸術科書道の教員採用試験を実施しない。結果は「教員ほぼ全員が非常勤講師」。
     …と書き出したのが三日ほど前。続けるか書き直すか迷っていたら…(↓)。

    (今日の備忘録)
    ●慰安婦像が韓国でキャラクタービジネスに?慰安婦像一体を作ると製作者には340万円の収入2017.1.16(月)古森 義久
    http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48928
     一読仰天(↑)。これと以下のを読み合わせたら、「国家」を無慈悲に脅かす規模の「異質な」単純さ/商売根性が韓国にも内在する気がしてきた。…そもそもデリラみたいな裏切りキャラが慰安婦フィギュアだろ。ちと悪乗りして、「裏切りの慰安婦」とか「裏切りビジネス」と呼びたくなってきた(苦笑)。あんまり図に乗って「生産」し過ぎれば、そのうちサムスンどころか自国民まで裏切るぞ?…この手の「最愛の恋人」(Herzallerliebste)達は。
     取り敢えず、抄録。

    ●【正論】市場の巨大化が蝕む国家の紐帯 不可欠なのは国際協調と連携だ 評論家・山崎正和
    http://www.sankei.com/column/news/170116/clm1701160006-n1.html
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    > にもかかわらず、この愚かな選択の遠い背景に、愚かさを招くような巨大な文明上の問題が存在するのは、事実である。一言でいえば、急速に進む地球規模の市場経済と、長い伝統を持つ国民国家の対立である。国民国家も相互協力の絆で結ばれてきたが、昨今の市場は協力ではなくて融合を求め、国家の存立を脅かすような破壊力を見せている。
    > じっさい現代の巨大企業は中小国家の予算を超える資金を持ち、安い労働力と低い法人税を求めて、世界中に生産拠点を展開する力を備えている。その目的は自己の利益の極大化だけであって、そのためなら国家の利益を損ね、その規制力を弱めることもあえて辞さない。それは個人としての企業人が公徳心を持つかどうかと関係なく、企業という組織に構造的に宿命づけられた性格である。
    > 米国の場合が典型的だが、企業の真の主体は投資家であり、顔も感情も持たない無人格の主体だからである。ほとんどの投資家は企業の具体的な振る舞いを見ることもなく株価だけに関心を抱いている。経営者も無人格な主体に奉仕し、出処進退も業績の数字で機械的に左右される存在だから、公徳心など持っても無力なのである。
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     その他、面白かった/興味深かったのはコレ(↓)。
    ●【釜山・慰安婦像設置】韓国、国内で慰安婦像60体に増殖へ「『被害者モンスター』になっている」と専門家
    http://www.sankei.com/world/news/170116/wor1701160006-n1.html
    ●【野口裕之の軍事情勢】中国を警戒し始めた「太平洋国家フランス」の安全保障事情 「対中武器輸出」の蜜を棄て包囲網に加わる? 
    http://www.sankei.com/premium/news/170116/prm1701160003-n1.html
    【2017/01/16 21:20】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    あの像は本当は、米軍の装甲車に
    ひき殺された少女がモデルだったんだそうです。

    で、その像を作った人は、最初は怒っていたけれど、
    お金をもらって、何も言わなくなったとか・・・・・。
    【2017/01/19 21:21】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >あの像は本当は、米軍の装甲車に
    >ひき殺された少女がモデルだったんだそうです。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1990.html
     うひーっ!…ググってビックリ、反米グッズ転用の「とばっちり」同然ではないか(ただし少女像/反米意図と慰安婦像/反日意図との同一性については慎重を期して見解保留)。グレンデール市なども反米フィギュアの来歴を抱き合わせた形となってメンツ丸潰れ、真相を知ったらさぞ心外だろうに。…まさか自身が母国の敵(?)になろうとは。今後は「反米/親韓のグレンデール市」とでも呼んでみようかしら。それが親北派の思う壺(米国内の分断?)なのだろうが、苹としては反撃/論駁の意図など微塵もなく、騙された米国市民への単純な皮肉/憐憫があるばかり。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1599.html#comment
     それ以前に、朝鮮戦争やベトナム戦争を交えた各種「慰安婦」混同の可能性が気に懸かる。前者については「2014/02/15 07:16」稿で少し言及して置いた(↑)。後者については、最近の記事ならコチラ参照(↓)。
    http://www.sankei.com/west/news/170120/wst1701200001-n1.html

    (補遺)
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1439
     「2016/12/31 22:08」稿で新潟大学書道科ネタに触れた。見たら萱原書房サイトが復旧していたので、当該記事にリンクして置く(↑)。~その後「書道美術新聞」1091号(2017.1.15付)に岡村教授の続稿が載っていた。これも取り敢えず打鍵して置く(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >緊急寄稿 新潟大“書道科”はこれから
    > 新潟大学では、平成十年(一九九八)に「書道科」から「書表現コース」へと改革が実施されて今日まで歩んできたが、この度再び、「書道分野」として組織改革が行われることになった。その間の事情は、既に本紙の先号において報道されている通りなので、ここでは説明は省かせて頂く。
    > ただ、通称「書道科」が“終わる”、“なくなる”ということでは決してないので、どのように変わるのか、現場の立場からその新たな改革の方向について、実際のところを報告させて頂きたいと思う。
    > 今回の改革の最大の理由は、少子化に伴う教員採用数の減少にあり、新潟大学の場合、全国的に需要の多い小学校教員の養成に専念することになった点にある。そこで「書道分野」が今後とも学校教員養成課程に入るため、学内で協議の末、従来大学院修士課程で同系列であった「美術教育専修」に、実技系学修上の共通点があるという理由で内含されることになり、同専修内に新たに「美術教育分野」と「書道分野」の二つの組織が併存する形となった。そして「書道分野」では、三名の専任教員枠と、一定数の学生定員を確保し、独立した講座制を堅持する方向である。
    > 従って今後の学修の目標は、採用の見込みのある小学校教員養成をねらいとして、かつ複数免許の取得を奨励し、「国語」や「美術」、また地域の文化に詳しい教員を目指す新たなカリキュラムを構想している。実際、近年は学校現場からの要請により、単に「書写」だけでなく、「言語」「くらし」「日本らしさ」などに直結した内容の出前講義を展開し好評を得ている。
    > 一方、従来の「書道分野」としての専門教育については、専任教員が数コマずつ実技及び理論に関する授業と、卒業研究を担当するとともに、加えて現在名物となっている「科展」「卒展」、さらに外部講師を招聘しての夏季錬成会など、課外活動の継続を図って、芸術的学びの舞台を残すことにしている。
    > 肝心の入試であるが「美術教育専修」の定員は、推薦一名、一般入試では前期七名、後期二名の計一〇名であるので、このうち書道分野の定員は、前期定員七名に含まれ、若干名を合格とすることになっている。その際、二次検査では、今まで通り「書道実技」のみでの受験が可能である。
    > センター入試の配点および詳細に関しては、大学が公開している「二十九年度学生募集要項」をご覧頂きたい。
    > ただ、「募集要項」を読むだけでは、残念ながら“書道科”(書道分野)の今後が見えてこないと思われ、全国から問い合わせを頂いていることもあり、本紙に改めて寄稿させて頂いた次第である。
    > なお、取得可能な免許・資格は、小学校・中高国語・中高美術・学芸員となっている。
    > ご不明な点は、直接大学にご連絡いただければ、丁寧に説明いたしますのでよろしくお願いします。
    >(新潟大学教授・岡村 浩)
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    【2017/01/20 23:28】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔様

    詳しく読み込んでいませんが、いつも通りの苹@泥酔節が戻ってきたように感じます。
    私はクラシック音楽には全く疎くて、どの交響楽を聞いてもその「差」というものの聞き分けができないのです。
    いったいどれが上手でどれが下手なのか、その聞き分けを教えられる者なら教えていただきたいです。

    中学時代に、ビバルディの「四季」のレコードを、音楽の先生が二つ用意してくれて、一つは楽譜通りの正確な音を演奏する楽団のもの。もう一つはリズミカルに流れるような音を奏でる楽団のもの。どちらが素晴らしいと思うか意見を聞こうと言うので、私は正確に演奏する方を支持しました。
    ところが先生の思惑はどうやら後者を選ぶことを促す意図があって、私の立場は木っ端微塵でした。

    そんな単純な理由で私はその先生が嫌いになりました。
    私が正しいとか間違っているということの真意には怒りがなく、単純にわたしのセンスが馬鹿にされたことへの怒りでした。

    更にこの先生、生徒全員に歌の独唱をするようにと課題を出し、4曲くらいの中から選んで歌うというものでした。
    その中に「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」と始まる楽曲があったのですが、私はそれを選んで歌ったのです。
    すると今度はこの教師、「この歌を選ぶ意図がずるいと言い出すのです。
    なぜなら、この歌はみんなが知っている歌だから、練習してこなくても歌える曲だが、そう簡単に歌える曲ではないことを知るべきだ・・・と言い出し、実はこの曲はプロでも難しいブレスがあって、素人がやすやすと歌える曲ではない、と言うんです。
    つまり、この曲を選ぶ人間は、他の曲をチャレンジして学ぶことを怠っていることがありありとわかり、その意味でこの曲を選ぶ生徒には厳しい評価が待っているというんです。

    つまり「赤とんぼ」をどんなにうまく歌っても絶対評価されないとう前提でこの教師は採点しました。
    案の定私の音楽の評価は5点満点の内3でした。
    そしてどんなに下手くそな歌でも、他の曲を選んだ生徒は4以上でした。

    自分の好みに合わない音楽を選ぶ生徒は切り捨てるという典型的な教師でした。
    【2017/01/21 14:10】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    続けます・・・。

    音楽というものを採点するその基準となるものは何なのだろうか。
    あんなに称賛されたワーグナーさへ、後半はどうなんでしょう。
    「耳」が受け持つ役割。目が持つ役割。鼻が持つ役割・・・、などなど、感性と言う名の曖昧な基準値で順番が決められてしまうこの世界。

    何だったら「芸術」と言う枠にあるものすべては「見るもの」「聞くもの」「嗅ぐもの」食べるもの」すべての拍手喝采で決めたらいいのじゃないかと皮肉を言いたい。

    理屈なんかいらない。単純でいい。美味しくないものを美味しいと言うほどバカげた現実はない。

    そんなバカげた人生から逃げようとしていた一人の青年が作った歌が、私はこよなく愛せる歌です。

    聞いてください。
    「日曜日よりの使者」です。

    http://www.uta-net.com/movie/18583/Uoq4feYdTBI/
    【2017/01/21 23:13】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    ブルーハーツの甲本ヒロトは御存じでしょう。
    このバンドが解散して、ハイロウズというバンドが結成されたときの曲です。

    ヒロトはしばらくノイローゼになって、曲が生まれなかったとき、たまたまテレビで見たダウンタウンの松本人志のボケを見て、自殺を免れたそうです。
    この曲はそうした松本人志の人間性を語る側面があるようです。

    日曜日というタイトルは、松本が出ていた番組の曜日に関係するようです。

    いずれにせよ、私はこの曲が世界の中で一番大好きな曲です。
    けしてこれが私の音楽性のすべてではありませんが、あきんどとして社会で色々と関わっていくうえで、万能な曲だと思っています。

    ♪悲しみが沈む西の空・・・そして東から上ってくるものを、迎えに行くんだろう、日曜日よりの使者♪

    このフレーズが心に響いてたまりません。
    【2017/01/21 23:31】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >あきんどさん
    ひどい音楽の教師だったんですねぇ~~~

    芸術って、生まれもった才能がほとんどですよね。

    わたしも音楽は不得意ですが、
    自分の感性にひびく歌はあります。
    で、自分の感性にひびきさえすればいいと思う。
    まぁ、その数が多いか少ないかで、
    芸術の価値が決まるんでしょうが・・・・。

    あきんどさんはこの曲の「詞」にやっぱりひかれているんですよね。
    【2017/01/22 11:58】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >いったいどれが上手でどれが下手なのか、その聞き分け
     あたしゃ糞耳ですから…(汗)。好きな曲は幾つかの盤を聴き比べ、分からないのか嫌いなのか区別が付かない類は暫く放置する傾向にある。そう頻繁に聴いてる訳ではありません。今世紀は殆どCDを聴いてない。パソコンに取り込んだのとかネット上のとか、それすら面倒臭い時は「脳内記憶を聴く」程度(クラシックでこの状態…他のジャンルは推して知るべし)。ただし気分やタイミング次第で感じ方が違うのは日常茶飯事、色々な盤を聴くうち突如「分かる契機」が降ってきたりする。そうなったら好きな曲の仲間入り。前に買って「分からなかった」盤を聴き返す契機となる。
     「演奏できないのに専ら聴くだけ」って存在(聴衆)はよくよく考えると面妖で、書道の「観客を育てない」傾向とは大違い。にもかかわらず楽譜や古文書は「読めない」のが普通だろう(この辺は相当しつこく書き散らしたから省略)。ただし音楽は読めなくても歌える。楽器すら演奏できたりする。喉や手指の動きを楽譜に反映/翻訳せずとも「初めのうち/当面は」どうにかなる模様。音楽では演奏/行為が譜面より優位だが、書道では字面が揮毫/行為より優位となる。つまり即興性の溶け込む表象や過程が異なる。

     ホンダのCMで聞き覚えのある曲、ライヴではああなんですねぇ。
     芸術の基準は正直「よく分からない」。基礎や構造や技術/技法なら教えられぬでもない教養的部分ですが(欧米では特に)、その延長にプロとアマの境界が褶曲されるらしい。すると却って昔の書道に似てくる。~昨年こんな記事を見かけました(抄録↓)。
    http://toyokeizai.net/articles/-/131450
    --------------------------------------------------------------------------------
    >ここまでピアノにかける情熱には心底頭が下がる。しかし最近良く言われる、親の財力と子供の学力の関係にも通じるような。
    >「そのとおりです。“東大生の多くが子供のころピアノを習っていた”という話を聞きますが、そうではなく“子供にピアノを習わせる余裕のある家庭の子が、東大に入る可能性が高い”ということだと思います。それと、アマコンについて1つ付け加えておきたいのは、日本と海外のアマチュア規定の違いですね。日本では、音楽大学のピアノ科を卒業しているとアマチュアピアニストとはみなされません。つまり彼らはアマコンに参加できないのです。ところが海外の多くのアマコンでは、ピアニストを職業にしていないかぎり、どの学校のどの学部を出ていようとアマチュアピアニストとして参加できます。この認識の違いは大きいですね。
    >これはおそらく、音楽家育成の専門教育機関ととらえられている日本の音楽大学と、音楽を教養の一環としてとらえるアメリカなど海外の総合大学との考え方の違いなのかもしれません。もうひとつ決定的な違いは、日本では“ダブルスクール”が認められていないこと。海外では“ダブルスクール”が当たり前で、アマコン上位入賞者たちの多くは、医学部や理工系学部などと音大を掛け持ちして学んだ“ダブルスクール”出身者たちです」
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     西独のシュミット首相、米ブッシュ政権のライス国務長官などもピアノ達者と聞く。演奏「できる」余技的水準は日本でも相当高いらしいが、所謂「芸能界」とは別物となっている模様。
     芸能界では予め聴衆が想定され、ファンになって貰おうとプロモートするのが通例だろう。そこから先は銘々が享受すればよい。しかし「芸術に観客や聴衆が要るのか」となると些か心許ない。芸術教育に芸術を持ち込むのも、そうしなければ成り立たないのは分かって居るのに、正直なところ疑念が残る。芸術は生活の領分に近く、交流も孤独も笑いも哀しみも総て呑み込んでしまう。カザルスは自分「だけ」のためにバッハを弾く時が幸福だったそうな(ロストロポーヴィチ談…だったかな)。
     あきんど様の体験は、「芸術への意志」それぞれが芸術教育を「阻み合った」類かと。

    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1494.html#comment
     「2013/07/15 10:39」稿(↑)で触れた1981スカラ座日本公演、アバド指揮のロッシーニ《セビリアの理髪師》全曲動画をついに見つけた(↓)。番組はNHK教育「芸術劇場」で、幕間の対談解説までしっかり入ってるのが有難い(1:31:36~1:41:28)。秘蔵のVHS三倍録画テープよりずっと画質が悪いが(音質は似たり寄ったり)、慣れれば大いに楽しめる。
    https://www.youtube.com/watch?v=bzdyA0EU-SI
     これを見た時、初めて心の底から娯しめた。クラシックの高尚なイメージ/先入観が完全に払拭されたし、「日本人もオペラを見て爆笑するのか」と驚いた。休み休みで構わない。端折らず一通り見る方が、ストーリーも含めて素直に楽しめる。でも市販映像を鑑賞済みの人になら、「日本人の爆笑」シーンくらいは例示して構わないのかも?(1:43:27以降や2:04:37以降など。)
    https://www.youtube.com/watch?v=7xsBAQpGZAI
     ところで前掲のマーラー歌曲では、クリスタ・ルートヴィヒによるレッスン風景のも発見(↑)。或る意味こちらの方が普通のクラシック演奏会より、ポピュラー系のトーク含みライヴに近いかも知れない。
    【2017/01/22 17:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >奥様、苹@泥酔様
    レスありがとうございます
    紹介させていただいた「日曜日よりの使者」ですが、これはライブ盤です。
    そこで同じ曲を別のビデオでもう一度ご紹介させていただきます。

    https://www.youtube.com/watch?v=pk6q3QriUDw

    いかがでしょうか。
    イメージがかなり変わりましたか。
    同じ曲だと言うのに、まったくイメージが変わりますよね。

    音楽って結局とらえ方でいくらでも変化するという証明かと思うわけです。

    でも本質は変わっていない。どんなにイメージ操作をしようとしても、作り手の真意は一つなんだろうと思うのです。
    ですから、どの楽団が演奏しようと、それを選ぶのは聞く側の勝手で、自分の好みの世界でしょう。

    それを教師が生徒にあーだこーだと語ろうとしても、所詮無理な世界ではないか。
    専門職として勉強するのならいいとしても、ただ単に中学の授業で限定的に教えるのはどうかと思う。

    「色んな演奏があるのだが、諸君はどれが一番気に入ったかな」という質問程度で十分かと思う。
    【2017/01/23 12:03】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >「色んな演奏があるのだが、諸君はどれが一番気に入ったかな」という質問程度
     中学時代、似た事がありました。ベートーヴェンsym.5《運命》冒頭部分二種聴き比べで、テンポが遅いのと速いのと。速い方に挙手したのは苹だけでした。~クラスの合唱指揮では「歌いにくい」と或る女子から苦情が出た。ずっと不思議がってたら卒業後、メンゲルベルクのマタイ等々を聴いて氷解。あたしゃテンポ変動が極端だったらしい。なぜかそうなった。ポピュラー系にルバートやアッチェレランドはあるのだろうか。
     素人なら尚更、「好きな」演奏と「出来る」演奏は別物になる。どんなに好きでも、それとは別の本性/欠点が無意識に出てしまう。これは書道でも同じ事で、自分の書が好きとは限らない…むしろ大嫌いだったりして(苦笑)。また余りにも有名な曲や書風には、それだけ自他の先入観や伝統/「慣れ」の影響が大きく出るだろう。~あれは指揮者デュトワが言っていたのかな、有名曲は振りにくいと(沢山の名盤があるため?)。だからメジャー/デッカ録音に恵まれた80年代、大方の曲目はラヴェルやストラヴィンスキーなどで、ベートーヴェンやブラームスではなかった。
     クラシック最大の特徴は「全部がコピー」とならざるを得ない所。とっくに大元は死に絶えた。自作自演録音があるR・シュトラウス、ストラヴィンスキー、エルガー、クライスラーなどの場合も、それには拘らぬ「表現の自由」がありながら、「囚われの自由」をも同居させねば「逆説的な自由」は得られないくらいオーセンティックな背反的求心力が却って求められてくる。…つまり楽曲と演奏とは別物。それがクラシック/古典を再現するという事であり、古典でない直近/流行の音楽に囚われる立場にしてみれば、「今」の現前する場所が互いに異なるという事でもある。

    (お・ち・ん・ち・ん)
     苹は男女どちらだろうか。本名も年齢も本当の所は分からない。それがネット上の苹でござんす。取り敢えず此処では男って事にして置こう。…あたし入院中、アレ挿れられたのネ。(註…辞書的には「挿す」か「入れる」だが、ここでは巷間通用表記とする。)
     …アレ「に」挿れられた。初めての尿道カテーテルだった。初体験の時って、言葉が出なくなるものなのね(うっふん♪)。あの瞬間が突然やってきて、戸惑う間もなくスルッと挿れられたの。…女の場合が少しだけ想像できた気がする(←なんのこっちゃw)。因みに、挿れてくれた看護師さんはうら若き女の人だった。
     入院中、体力減退の身にぶら下げた小便袋は重かった。~退院が近付いた或る日、別の女の看護師さんが突然やってきてカーテンを閉め、「抜きます」と告げた。下半身を露わにした苹は衝動的に要求したくなったが、ふと「必死に」言葉を飲み込んだ。あの時こう言いたかったのだ。「痛くしないで…」と。大の男が要求する言葉ではあるまい。…すると、みるみるうちに看護師さんの表情がこわばってきた。何か要求したい事だけは伝わったらしい。警戒心が見て取れる。なんでだろう?
     或る可能性に気付いたのは退院後、暫くしてからだった。もしや彼女は、咥えるか手淫して欲しがっていると思ったのではなかろうか。なにしろ目の前に剥き出しの男根がある。でも苹はそれどころでない。「痛くしないで…/優しくして♪」としか考えられない。その証拠に、屹立して居ない…。
     御覧の通り「悟りが悪い」苹だから、何事も気付くまで時間がかかる。音声言語は常に誤解の種となる。その点、文字言語なら幾重にも推敲できるから好都合。…すぐ返信した様に見える投稿でも、ネタ集めには相応の時日がかかっている(←愚痴)。

    (「日録」の古証文~「初体験なき追体験」のレコード)
     何十年前の話だか、演奏会で老婆が呟いたそうな…「ワインガルトナーはよかった」と。今ならベームやカラヤンを懐かしむ感覚に近かろう(60~30年前)。流行の幅も世代レベルの振れ具合になると歴史感覚のリアリティが蘇り、そこに録音/編集技術の百年が大きく関与する。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=335
     再現可能なリアリティが編集され始めた時代は概ねナチス期と重なる模様。その四半世紀後、西尾先生は違和感(?)をレコードから嗅ぎ取ったらしい(↑)。まさか本気で自身にスノビズムを疑った訳ではあるまい。そもそも記憶は編集的だが、商業的編集の通俗性もまたオーディオ経由では再生品質の幅に左右されつつ、知覚の手前となるといざ「さも記憶の来歴であるかの様に」伝染するのだろう。そこに過去と今との語らいが現前するのは言うまでもあるまい。

    (備忘録)
    ●【正論】年頭にあたり 家族や国家巻き込む「長呪」の危険性 超高齢化社会をどう生きるか 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫
    http://www.sankei.com/column/news/170111/clm1701110004-n1.html
    ●【書評】評論家、宮崎正弘が読む『「憧れ」の思想』執行草舟著 強力な磁性を持った思想書
    http://www.sankei.com/life/news/170129/lif1701290012-n1.html
    ●「生涯未婚」の原因は、本当におカネの問題か 「中間層」が消滅しても変わらない男女の意識
    http://toyokeizai.net/articles/-/155624
    【2017/01/30 05:49】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    絶対安静だったんですね。
    その後、もう入院するはめにならないように、
    いくつかは気を付けておられるのでしょうか?
    【2017/01/30 21:15】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >絶対安静だったんですね。
     …いや、その札は見た事ありません。「絶食」札なら何度も看護師さんが下げてったけど、切実な喉の渇き以外は全く気にならなかった。…あたしゃ普段は日に一食か二食、半分はビールで栄養補給。稀には三日に一食くらいの時も(爺様入院の直前)。子供の頃から空腹と食欲が結び付かなかった。でも飲み物だけは我慢できないっ!(甘いのは除く)

    >いくつかは気を付けておられるのでしょうか?
     うっ…(絶句)。退院直後よりはマシになった筈でも、件の医者様は「全然コントロールできてないじゃない」と(2017.1.21)。一時は縁切りを考えましたが年末に「かんぽ」の人が来て満期云々、入院の話をしたら保険金が下りるから入院証明書を貰ってくれと。手続き後めんどくさくなりそのまんま、今はヤクの売人と嫌々SMフーゾクで落ち合ってる気分…この話、やめませう(汗)。
     …と書いた後で検索したら、尿道カテーテルを使用するのは絶対安静時が多いとの噂。あっしの場合は尿量の正確な計測が目的だった様です。

    (余談~あの船は今?)
     地元ニュースで初めて見た時「変な名前だな」と思った。サントリーの清涼飲料水みたいだし、「赤字で運行休止」(2008)の「宝の持ち腐れ」感が全力で貧乏臭い。おまけに「ウェーブピアサー型高速船」だそうで、特徴的な形には見覚えがある。…そうだ! 2010年に大活躍(衝突)したシーシェパードの捕鯨妨害船「アディ・ギル」号だ!
     そんな歪んだ印象が、大震災でガラリと変わった。自衛隊が動いた。福島~岩手の陸路ばかりでなく、眠れる宝船を海路でいきなり活用する機動力の高さには舌を巻いた。…もうじき、あれから六年になるんだなあ…(合掌)。
    http://www.sankei.com/premium/news/170201/prm1702010002-n1.html
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    >2017.2.1 07:00更新
    >【防衛最前線(107)】
    >自衛隊で第二の人生 北海道と本州をつないだフェリーの「はくおう」「ナッチャンWorld」
    >(1/3ページ) .
    > 自衛隊には戦車や護衛艦、戦闘機をはじめ多様な装備品が存在する。いずれも自衛隊向けに作られた“オーダーメード”ばかりだが、その数少ない例外が、島嶼防衛や災害派遣時の輸送手段として期待されている民間輸送船「はくおう」と「ナッチャンWorld」の2隻だ。かつて北海道と本州を結ぶ高速フェリーとして活躍した性能を生かし、さまざまな訓練や昨年4月の熊本地震などで大活躍。有事における補給の“切り札”として第二の人生を忙しく送っている。
    > 2隻は現在、フェリー会社や商社など8社が共同で設立した特別目的会社「高速マリン・トランスポート」(東京)が所有し、平成28年3月から37年12月まで10年近くの契約で、自衛隊が優先的に利用する権利を持っている。契約に先立ち、陸上自衛隊が26年夏ごろから2隻を訓練輸送などに利用しており、この“お試し期間”を経て採用された形だ。
    > 普段は自衛隊の訓練や災害派遣などに利用。緊急時には72時間以内に出航できる態勢を取ることが義務づけられている。また、他国から武力攻撃を受けるなどして防衛出動の事態に至った場合は、自衛隊に船そのものを提供して海上自衛官や予備自衛官が乗組員となり、現場海域へ向かう。
    > 自衛隊がこの2隻を選んだのは、その輸送力と速力に注目したからだ。
    > 以前は新日本海フェリーで活躍していたはくおうは、総トン数約1万7300トン、全長約199メートル、全幅約25メートル。乗客507人や大型車約200台を運ぶことができ、速力も29・4ノットまで出すことができる。
    > また、ナッチャンWorldは、東日本フェリー(現在は解散)などで青函航路の高速フェリーとして活躍した双胴船で、総トン数約1万700トン、全長約113メートル、全幅約30メートル。乗客508人や乗用車110台、大型車50台を運ぶことができ、速力も40ノットまで出すことができる。
    > いずれも自衛隊の輸送艦で最も大きい「おおすみ」型と比べても遜色なく、新しく建造するよりも費用は安くて済む。防衛装備庁によると、優先利用に伴う契約金額は2隻で約250億円だ。
    > 既に自衛隊の利用に合わせた改修も施され、このうちナッチャンWorldは昨年秋に終了。交代する形ではくおうが今年3月までの予定で改修中だ。改修作業では、海水から飲料水を作る「造水装置」の設置や座席の取り外し、戦車や装甲車といった重量物を搭載するための補強などが施されている。
    > なお、名称は民間フェリー時代を踏襲している。それぞれの母港は、はくおうが相生港(兵庫県)、ナッチャンWorldが函館港(北海道)だ。
    > 2隻を導入した背景には、一方的な中国の海洋進出がある。尖閣諸島(沖縄県石垣市)をはじめとした南西諸島の島々を守るため、または万が一にも島々が侵攻されて奪還作戦を遂行するためには、陸上自衛隊を中心とした上陸部隊の機動的な展開が不可欠だ。
    > 奪還作戦では陸自の西部方面普通科連隊(長崎県)が中核を担うことが想定され、はくおうとナッチャンWorldがあれば隊員を迅速に戦地へ送り込める。さらには在日米軍を運ぶことも想定しており、28年10月にははくおうが、横浜港から那覇港まで訓練のために人員や車両を送り届けている。
    > 一方、同年4月に発生した熊本地震では、はくおうが被災地に向かう陸上自衛隊員や車両などをのせて熊本県八代市の港に接岸。その後は5月下旬まで停泊し続け、「ホテルシップ」として被災者に1泊2日の宿泊と食事、入浴のサービスを無償で提供した。
    > もとは民間フェリーだったこともあり、個室やレストラン、大浴場などを備えた居住環境は好評で、のべ約2600人が利用している。それらの設備は改修後も残され、引き続きさまざまな場面で利用する人たちの疲れを癒やすことだろう。
    > 2隻にとって、今後の運航環境は民間フェリー時代よりも過酷かもしれない。しかし、国を守り、苦難にあった人々のために尽くす第二の人生もまた、価値あるものであることは間違いない。
    >(政治部 小野晋史)
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    【2017/02/05 02:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    もらえるものは、ちゃんともらってくださいね。

    【2017/02/05 19:54】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     先日「つくる会」二十周年動画で西尾先生のメッセージ代読シーンを見たところ、セレブ奥様の壮絶な顔面暴露に思わぬ衝撃を受けた。絶対安静とまではいかぬものの、心の準備がないと稍や心臓に悪いかも(嫌なら見るな?)。…別に顔や化粧/お面や雰囲気がホラーって訳ではない。それとは別の話であって、閲覧者特有の心理的影響には個人差がある。(…取り敢えず、忘れよう。)
    https://www.youtube.com/watch?v=KB_O_GrVVIM
     …てな冗談はともかく。

    (国語の敵)
     以下はいつもの情報源、「書道美術新聞」の一面コラム欄。
    http://kayahara.com/modules/column/index.php?page=article&storyid=220
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    >風信帖(1092)
    >投稿日時: 17年02月01日
    > 今回の学習指導要領の改訂の動きの中で、本紙はこれまで「高校延伸」を重点的に報道してきたが、実は今回、小・中「書写」は上方(高校国語)への延伸だけでなく、下方(小学校低学年)への延伸、低学年への「毛筆書写」の導入も、合わせて実現する可能性がある
    >▼具体的には、今号の長野氏の寄稿にもあるように、もともと教育界には子供の教育現場を預かってきた経験から、毛筆を使った「書写」指導を小学一年生から始めたほうが効果的との根強い考え方がある。このため教育界は近年、この問題に関する実践研究を組織的に続け、文科省にその研究結果を報告するなどの努力を重ねてきた
    >▼だから教育界が今回の改訂で目指してきた〝本命〟は実は「下方への延伸」で、上方への延伸はある意味、驚きの結果なのである。つまり、「高校国語への延伸」は書写・書道の側からの構想ではなく、国語側から提起された改革案だということで、従ってこれは書写・書道の側が、そういう大きな期待、大きな使命を託されようとしていることと理解しておく必要があろう
    >▼それにしても、この双方向への延伸が現実のものになったら、教育界も書道界も、とても忙しくなるのではないかと思う。今年は、「書道界中興元年」――。
    >(書道美術新聞 第1092号1面 2017年2月1日付)
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     驚いたのは、「「高校国語への延伸」は書写・書道の側からの構想ではなく、国語側から提起された改革案」の箇所。
     要は国語畑からの「外圧」だ。棚から牡丹餅と喜んでは居られない。「もっと国語に役立つ書教育をしろ」と突き上げられたのが真相ではないのか。書教育の現場が目に余る惨状だから苦言を呈したのではないか。変体仮名や草書が読めないまま放置しても「履修した事になる」のなら、そんな高校書道は要らない。抑も国語畑は大学入学初日から「学び直し」の手間隙を余儀なくされてきた。
     中には堪忍袋の緒が切れて、芸術科書道の時間を国語に回せと言いたくなる人も居るだろう。…それは不可能、「芸術だもの」(w)。書道の生徒が音楽と美術に割り振られるだけなら、どのみち国語は損をする。だから黙って堪え忍んできた。芸術キチガイに国語の気持ちは分からない、何を言っても無駄と諦めてきたのかも。しかし今後は大学全体に火の粉が降りかかり、背に腹は代えられなくなる。新潟や岩手の「書道科に幕」は、国語/国文科が書道科リストラ(吸収合併)に踏み切る前夜の最後通牒を意味するかも知れない。
     そう考えないと説明が付かない。書教育の比重を高め国語教育との連携を密にするなら、むしろ書道科との学問的横断を強化する筈。しかし傍目にはどうだろうか。戦後の書教育没落イメージが或る限界/分岐点に達した頃~遅くとも平成改元以降は、他分野側の無理解/歪曲理解が多数派を占めてきたのではないか。近年はメディアが舛添都知事の「中国服で書道」云々を面白おかしく取り上げた。その前は日展や全日展や大分高のスキャンダルがあった。あの数々を見て、畑違いの学者/知識人達はどう思っただろうか。戦後ずっと見てきたが書道科なんざ焼け石に水、屁の突っ張りにもならなかった。書道そのものに社会的説得力がないのなら、いっそ国語に纏めた方がよい…とならないか。

     古文書畑に近い立場なら「国語に取り込め」で構わない。しかし開国や敗戦占領の影響下にある国語畑は「国語から追い出せ」の立場で、この傾向は畑違いの教員や民間の感覚にいっそう根強い。端的な事例は「2016/03/13 23:49」稿で既出のコチラ参照(↓)。
    http://shokaki.hatenablog.jp/entry/2016/02/28/194645
     更に補記(↓)。
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1426
     国語/日本語は論理に弱い劣等言語~てなイメージは今も残って居る。国語は必ずしも日本語でなくてよい。この立場から見れば上記の解釈は大甘だろう。国語に取り込む必要はないし、芸術(西洋芸術)でもない。筆記体の英習字(ペンマンシップ)同様、さっさと書写/書道は滅びればよい。英語国語化論と漢字廃止論と書道撲滅論は同根で、学校教育/受験教育に伝統文化の価値はなく、むしろグローバル化の邪魔になる。英語科出身の校長が「読めないものは教えるな」=「平仮名の読める生徒を育てるな」と書道教員に指導しても筋は通るし、国語教員が日本語を教えるのもGHQ基準で見れば「問題がある」。
     つまり日本語が「国語」、書道が「芸術」へと棲み分けてきた戦後の伝統により、「国語」の可塑性(英語化など)は辛うじて癌化しなかった/封じ込められてきた面がある。現に中学国語科書写の場合、どの地域にも形骸化や未履修の「伝統」/自己規制体質が顕著に見られた。それをいきなり高校レベルまで「延伸」すると何が起こるか。「国語」が伝統派とグローバリズム派に内部分裂するかも知れない(「2016/07/01 20:04」稿を参照)。すると多分、外野の教員、管理職、保護者、生徒らは一斉にグローバル派を支持し始めるだろう。なぜなら「読めないのが当たり前だから」。これが先に述べた「分岐点」以後の世界/常識である。
    【2017/02/11 06:51】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    げ・・・・見たの?

    国語への延伸・・・・
    それって、結果的には良かったってことですか?
    【2017/02/13 19:50】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >げ・・・・見たの?
     見たら忽ちメッセージが記憶から吹っ飛んだので、次は画面を隠した上で聴き直そうかと。まさか動画の威力/情報量が肝腎の音声/内容を遠ざけるとは思わなんだ。~「日録」では「西欧の地球侵略と日本の鎖国」(2016.12.13~2017.2.4)の文字起こしに時間がかかるためか、動画の方が先に出てましたっけ(2016.6.22)。でも今回の代読は原稿そのまま「すぐにでも」出せそうだから、動画によろめかずとも済む筈…。(顔面記憶はピンキー動画で洗脳完了…でも視聴二度目は無理?)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1776.html#comment
     前稿冒頭のを書いてる最中、あたしゃコレ(↑)の転載用タイトルが決まらず困って居りました。推敲の最終段階で「化粧/お面」と書き足したら、それが翌日の天バカ板タイトル「言葉の「お面」」(↓)に繋がった次第。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11465125

    >国語への延伸・・・・
    >それって、結果的には良かったってことですか?
     さあ、どうでしょう。歴史畑での「つくる会」効果は初手から政治的にこじれ、今も尾を引いて居る。片や国語畑では国語/現代文(since 1900)が聖域化され、開国前の日本語/古文/漢文は半ば外国語「扱い」されているかの様な。また日本の前史/有史ほぼ全般を担う書字文化(整版文化を含む)は漢字輸入以来の「発展/変容」にのみ独自性を見出し得る点で些か起源が弱く、ヨーロッパが輸入文字文化を土台に発達してきたのと概ね似通って居る。
     日本の場合、その土台を地味に根こそぎ破壊したのが国語教育。今や反歴史的な国語信仰に近い。信仰と政治が結び付いた例は山ほどあるが、信仰と国語が結託した例ならどうか。隣の半島では理屈抜きのナショナリズムが勃興した。しかも「ハングル教育の父」が日本の国語教育だった。そんな事は誰も信じたがらないくらい、頭ごなしに「信仰の暴走」が始まったのも実は日本が先だった。まだ顕在化していないから意識の端に上らないが、多分それくらい厄介な状況になっているのだろう(無視/思考停止の常態化~具体的には中学国語科書写の未履修/形骸化)。
     教材の精選、と聞けばどんなイメージが浮かぶだろうか。削減/淘汰と同一視するケースが多いのではないか。「精選した教材を増量するゾ」と奮い立とうものなら、「ゆとり」と「たるみ」を混同するタイプの人々から袋叩きに遭うのではないか。従来の内容量を圧縮して出来た「ゆとり」に基礎を詰め込めば「たるみ」の余地はなくなるし理解も深まる筈なのに、淘汰された基礎を復活するのはケシカランと相成った(「読める様にしちゃイケネェ」)。

     …と書いて、いったん中断。2.20には「書道美術新聞」1093号(2017.2.15付)の新ネタも届いた事だし(↓)、あらためて考え直す必要を感じる。~この際、関連記事の末尾を打鍵して置く。
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1444
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    > なお、今回の「改訂案」の公表が本紙の通常の締め切り日の前日だったことから、本号は締め切り日を二日延ばして加藤氏に緊急執筆願うと共に、「国語」関係の全文と新「学年別漢字配当表」を特集掲載してお届けする。
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     …例えば教育者は学問(?)を教え、医者は病気を治す。そこで思い出すのが手塚治虫の漫画。ブラックジャックは天才外科医で、影響を受けた現役医者は少なくない模様。「ときには真珠のように」の話では恩師が脳病と寿命の境界に居て、手術で治そうとするが寿命が尽きる。最期の言葉は「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて おこがましいとは思わんかね……」だった。
     キャラの一人に「死なせる天才医者」ドクター・キリコが居る。~よくよく考えると日本には、「国語」以前の日本語を安楽死させつつ「国語の国際化」を図ってきた面がある。活字字体に準拠した歪曲教育が昭和三十年代から厳密化/エスカレートし続け、文化庁の文化審議会漢字小委員会が是正しようとしたら「多様な手書き字形を認めるのは漢字文化の軽視」との批判が出たらしい(前稿リンク参照)。見たらネット上に溢れていた。学校という名の教会で「国語」教の信者を増やしてきた結果がこれだ。
     一見ブラックジャックとキリコは対立軸を構成するかの様な。しかし治療だの医療だのと意識を方向付けるのではなく、どちらも寿命調節技術と割り切って/纏めてみれば何が浮かび上がってくるか。技術は道徳を巻き込む行為/倫理と重合し、時には犯罪と隣接したりする。そうした観点を「国語」界隈に持ち込めばどうなるか。キリコ的な立場を突き抜ければ検屍の出番となるが、そこに書道と古文書との裂け目/融点がある様な気がする。
    【2017/02/22 05:35】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     ずっと燻っていた事がある。~「2016/07/23 19:51」稿で、こう書いた(↓)。
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    > 世界どこでも国語/母国語は国民の実用ツールで、学者の占有領域と化すのは死語や古典語になった場合…くらいだろうか。国語の変化/変質に国民が一旦「そう」納得し始めたら、歴史感覚を道連れに一切合切「そうなる」可能性が高くなる。学問的啓発の余地は既成事実の強度に応じて無効化へと向かい、「常識」が国語の過去を「現実とは無関係な」純然たる学問対象へと隔離/保護/葬送する。つまり学者が国民を啓蒙する(大学の第一次危機)のではなく、国民が学者を淘汰する(第二次危機)。その狭間にあったのが所謂「大学紛争」形式と見るなら、わざわざ教授を吊し上げずとも済んでいる今の方が或る意味(?)効率的なのかも知れない。
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     ここで書いた「大学の第一次危機」は、反復(「n次」化?)可能な自己言及性の枠内で閉じていく。開国的でグローバルな“卵”の中心に予め「大学鎖国」の中核/卵黄があり、それを卵白の様な大衆/学生/学者が自己/核を簒奪するかの様に振る舞いながら、なおも外から区画/幽閉する。或いは壁(卵殻)の中に壁らしからぬ層としての卵白があり、それが実質的には「内なる壁」の役割を担いながら、卵殻/外を内側から解体する。つまり壁は内側から「生まれる」。卵白が壁に変容/生成し、卵殻はダミー同然となる。
     国民が新世代の学者に生成し、旧世代の学者は単線的に淘汰(時には啓蒙)されていく。或いは複線的かつ横断的な相互干渉により、学問の中身が揺れ動いていく。他方、そこから抜け落ちた種族は学者と国民を分断したり攪拌したりもする。~西尾先生の云う「中間知性の氾濫」(『ニーチェとの対話』)とは別の意味/水準かも知れない。流動する卵白に内部の隔たりはない。にもかかわらず縄張りはいっそう内的かつ強固で、例えば震災で家屋を喪失した避難民が直面する様に~壁は「ある」のではなく「求められる」。
     学者は失われつつある壁を修復するのではなく、新たな壁/場所の生成に直面する。そんな隙間に入り込んだのが「生成途上の学問」ではなかろうか。

     検索中、田中純(東京大学大学院総合文化研究科教授)ブログにAzzouni&Wirth編『職業としてのディレッタント』(KADMOS)の紹介/書評(?)を見つけた。冒頭、ブルクハルトの言葉が出てくる。「芸術においては無か巨匠であるかのいずれかしかないが、学問においては少なくともひとつの分野の専門家であるとともに、総合的な視野をもち、できうるかぎり多くの分野でディレッタントとなる可能性がある」~続きは以下の通り。
    http://before-and-afterimages.jp/news2009/2011/12/post-151.html
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    >編者たちは議論の大枠として、専門家、素人、ディレッタントの関係を次のように定める。専門家はその知識や方法のみならず、学問ないし芸術の共同体の一員であるという制度的な立場によって規定される。素人とは非専門家であり、啓蒙の対象であると同時に、専門家が依存する経済的・政治的な巨大集団である。ディレッタントはこの両者の境界に位置する。ディレッタントには知識があり、知的探究を好んでいるが、学問的・芸術的共同体の一員とは認められていない。しかし、にもかかわらず、ディレッタントは芸術や学問において創造的でありうる。共同体の一員ではないのだから、その活動はまずは私的なものとして始められる。ディレッタントの重要性は、専門化が進行するに連れて高まってゆく。「ディレッタントは専門家ほど学問分野の境界を真剣に考えないことによって、知のさまざまな領域の文化を結びつける。その限りで、ディレッタントは、作品制作上や認識論的な意味でのディシプリンの無さの特別な形態を特徴としている。」しかし、専門への特化が良しとされる現代において、ディレッタントであることは現実的には避けられるべきものと見なされている。そこで本書では「ディレッタンティズム」と「[天命としての]職業(Beruf)」は結びつきえないものなのかどうかが考察されることになる。
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     その後ヴェーバー『職業としての学問』の一節が出てくる。「写本のある箇所をどう判読するかという一点に全身全霊を賭ける情熱のない者は学問には無縁である」~なんと感動的な言葉だろう。しかし読み進めていくと、次の壁に突き当たる。
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    >ディレッタントを専門家から区別するのは、しっかりした確実な方法をもたないという点だ。それゆえに閃きはその重要性に見合った展開がなされないで終わってしまう。厳密な方法による検証に耐えられないという点で、それは専門的な知とは見なされない。
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     こうした壁~「確固たる学問的方法」は硬直的または形式的になりがちで、その手の体裁/学術論文が苹には結構「読みやすい」(「2016/10/04 01:00」稿で書いた通り)。面白いとまでは思わないが、壁の街/社会/ギルドには相応の作法/粧いが要るのだろう。文章だって化粧する。言葉の「お面」には集団的(市民的?)な独占欲が垣間見える。彼らは余所者/移民を喜ばない。移民を市民から区別するのは、がっかりした無力な絶望を持たないという点だ。市民は移民を飼い馴らすか追い出したがるだろうが、わざわざ移民してくる人々はむしろ希望に溢れ、絶望は後からやってくる。もしかしたらディレッタントは知的テロリストの卵かも知れない。学者にとって彼らには、恐怖と軽蔑のどちらが宛がわれるべきだろうか。

    (以下余談)
    http://orch.blog.so-net.ne.jp/2014-10-24
    https://www.youtube.com/watch?v=5pHTvK_qFGM
     私は嘗て、無自覚なテロリストの様に高校で教えた。国語の壁は活字が規範で、芸術科書道には抑も領土/教員採用試験がなかった。国語に移民して書道を教える「外国人労働者」は、読めない平仮名を教えると中国人の様に扱われる事がある。開国後と戦後の成り行きを鑑みれば故なき事ではないのだが、…それにしても日本の卵白は至極ぷるぷる美味しくて、卵かけご飯や卵焼きでは卵黄と区別できないくらい予め掻き回されている。
    【2017/03/03 05:21】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    そう、すべては変化、進化?していき、
    学問はその軌跡をなぞるだけなのかもしれませんね。

    変化、進化する前が遺跡のようになる。

    でも、そこから今までの線の延長を見ないと、
    つまり過去の時点を把握しないと、
    未来が真っ暗闇になりますよね。

    過去を失ってはいけません。

    白身?卵白?ん?
    【2017/03/06 10:43】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (四方山話~旧稿回顧)
    http://www.tsukurukai.com/taishi.html
     此度の学習指導要領改訂に際し、「つくる会」が聖徳太子ネタで噛み付いた(↑)。明治初期までは様々な呼称あるのが当然で、老舗の「何代目×兵衛」や雅号やペンネームは今も珍しくない。支那の事例については先年あれこれ書いた事がある(↓)。
     嘗て下記の授業を展開した身には、「つくる会」の反応が稍や大袈裟に見えなくもない。ただし「聖徳太子(厩戸王)」の儘ならば。それを中学で「厩戸王(聖徳太子)」とするから話がおかしくなる。他にも幕末の桂小五郎が明治の木戸孝允で木戸松菊なんて話がゾロゾロ出てくる世界なのに、わざわざ「厩戸王」を持ち出すのみならず、記述の順序まで入れ替えるとは…その理由を中学の定期考査で問うても構わないって事かしら(高校ならともかく?)。
     以下は旧稿の前半。「【再掲】「恥を忍んで」12」稿(2012/02/03 (Fri) 21:58:10)所収。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812046
    --------------------------------------------------------------------------------
    >7588 No.7586の続き(改稿) 苹@泥酔 2009/07/11 21:29
    >
    >  これを書くと「なんぼなんでも遣り過ぎだ」と云われそうだが、取り敢えず前稿の続きって事で。~その前にいくつか、ぼんやりした疑問を。学習指導要領は指導の上限か下限か。どの程度の制約に縛られるのか。指導要領からの逸脱とはどんな状況を指すのか。そしてもう一つ、そもそも基礎とは何か。
    >
    > 嘗て私は芸術科書道の授業で書道史を取り上げた。「書道Ⅰ」の最初に出てくる面々も当然その中に出てくる。…ここが他の教科と大きく違う。蓄積と反復の位相が転倒し、反復による自己言及的な蓄積が「別の蓄積」と等価な水準で盆踊りを始める。するといつしか死者が蘇り、しかも甦った死者は死者自身ではない。「私」のドッペルゲンガーの様に見つめられ(鑑賞)、頬を赤らめる瞬間に死者が微笑む(自運)。その彼方に幻のごとき知識が絡む。それはあくまで手掛かりに留まり、パズルの様な組み合わせから印象の里程標が生まれる。
    > 差し当たって、ゾロゾロ出てくるのは欧陽詢、虞世南、チョ(衣偏に者)遂良、顔真卿、王羲之。そうした面々が「書道Ⅱ」や「書道Ⅲ」でも繰り返し出てくる訳だ。ただの復習では面白くない。私は何か余計な事をしてみたくなる。
    > 中には大学の史学科や中国文学科などに進学する生徒も居るだろう。居なくたって基礎知識くらいは身に付けて置いた方がいい。あの手の支那人には名の他に、字や号などの別称がある。なにやら名前で呼ぶのは失礼にあたるらしい。そもそも跋文に「顔真卿」などと書くかね。大抵は「顔魯公」だろ。それくらい大学に行く前に覚えてろっつーの。てな訳で苹は余計な事を教えるのであった。
    > 例えば「信本、伯施、登善、清臣、逸少」の字グループと「率更、永興、河南、魯公、右軍」の官職呼称グループに分け、現代人の人名感覚から相応の距離を取ろうとした。「王右軍と云えば王羲之の事だな」と分かればそれでよい。ただし「漢字で書け」と出題するのはちと酷なので、定期考査では語群から選ばせるか何かする程度に留めた。
    > しかしながら「わざわざ初唐三大家の字まで出す必要があるのか」と問われると返答に困る。たぶん宋の三大家なら構わないんだろうけど(これもダメだったりして?)。蘇軾と来れば子瞻に東坡に文忠。黄庭堅は魯直に山谷に文節。米フツ(草冠に市、もしくは黻)は元章に海岳(嶽)に南宮。「黄州寒食詩巻跋」を習えば東坡や魯直が出てくるし、書論をやれば「海岳名言」、「米海岳の名言集かしら」と思い至る。日本の例で云えば「福翁自伝」のタイトルを見て「福澤諭吉(雪池)晩年の自叙伝かしら」と思う様なものか(諭吉でなくても大目に見たりして…同じ「福」で始まる人なら恆存とか赳夫とか康夫とか)。
    > さすがに授業で扱った事はないが、欧陽詢の書に「仲尼夢奠帖」ってのがある。そう云や中学三年の正月、面白半分に全臨した事があったっけ(遠い目…)。「仲尼」と来れば真っ先に思い付くのは孔子なのだろうが、この語彙は確か孝経にも出てきた気がするなあ。
    >
    > さて。
    > そんなふうに進学先で役立つかどうかを考えると、どうしたって従来の書教育感覚には収まりきらない内容まで踏み込む事になる。強弁するなら「必ずしも教科書に載ってない訳ではない」。孫過庭の「書譜」には「逸少」が出てくるし、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」図版の脇には、ともすれば魏徴の名前までが出てきたりして。
    > そこで国語だ漢文だ。魏徴の漢詩なら大学入試に出る事もあるんじゃないかしら。もし「教科書に載ってない題材を試験に出すな」と言い募るなら、数学の応用問題はどうなってしまうのか。「丸暗記で対応できない計算問題は教科書に載ってないからダメ」とならないか。それと似通った発想で書教育を捉えれば、教科書の見方が自ずと変わってくる筈だ。「ただ書き写すだけ」と思っている人に限って、元々は国語の範疇にあった筈の言語芸術、教養芸術だという事を忘れている。GHQの占領政策を懐柔するため、さも視覚芸術であるかの様に装ったツケが、半世紀以上を経た現在も相変わらず総身に回っている。
    > 私にしてみりゃ、これだって立派な歪曲教育だ。殆どの大学専攻科ではまともな指導をしているらしいのに、それが下まで降りてこない。…まあ、高校以下で歪曲教育する側から見れば大学教育の方が間違っている様に見えるのだろうから、厄介な高学歴連中をそのまま受け入れる訳にはいかない事くらい大略の想像がつく。それよりは市井の「お習字」の先生を非常勤講師に雇った方が好都合なのも分かる(気に入らないなら簡単に解雇できるし)。高校教育を小学校レベルのまま高度な歪曲で包み込め。そのための方便としての「芸術」が学校教育には必要なのだ。芸術そのものを西洋文化で包んで丸ごと曲解させれば、日本や東洋の芸術に対する理解や実践の在り方そのものを根こそぎ破壊できるのだ。
    > この点で私の教委批判と現場批判とが融合する。彼らは問答無用で「受験に役立たない科目」とのレッテルを貼り、潜在的な「受験後に役立つ余地」をも正面から潰しにかかる。教委は教員採用試験の実施を阻止し、そのための理由を現場から掻き集める。かてて加えて大抵の場合、どの高校でも書道担当教員は一人だけ。要するに孤立無援となりやすい。大学側としても学生の就職先を敵に回すのは得策でないのだろう。いつだって及び腰。何の力にもならなかった。それを不本意に思う大学教官が少なからず居る事は知っている。しかし「その後が続かない」。少なくとも十年前の段階ではそうだった。私の見るところ、毎年バカの一つ覚えみたいに採用試験を実施してきた岩手県を除いては。(実態はどうだか知らないけど。)
    (以下略)
    --------------------------------------------------------------------------------
    (寒食詩巻跋の「魯直」は「魯公」の誤記…今になって気付いた…orz)

     …以下、岩手のケースについても回顧して置く。
    ・『書道美術新聞』第801号(2004.6.15付)第一面記事本文
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 今年も全国で公立高校教員採用試験(二〇〇五年度採用)の募集要項の配布が始まり、各都道府県の公立高校芸術科「書道」教員採用試験の実施状況が明らかになった。美術新聞社の調べによると、今年は静岡県の六年ぶり実施のニュースはあるものの、富山、福井、と鳥取と合わせてもわずか四県が実施するのみで、前年度の九県からさらに大きく後退して過去最低の数字となり、これ以外の北海道をはじめ、千葉、埼玉、東京、神奈川の首都圏、愛知や長野、京都、大阪、兵庫の近畿圏、福岡、沖縄等を含む四三都道府県がすべて実施しないことも分かった。特に今年は過去五〇年にわたってほぼ毎年「書道」教員の採用試験を行ってきた岩手県がついに不実施県の仲間入りをしたことも、高校書道教育関係者の間に大きな波紋を広げている。(四面に実施四県の募集要項)
    > 全国の公立高校の「書道」教員採用試験は特にここ数年、長年にわたって継続的に実施し、あるいは比較的頻繁に実施してきた埼玉、新潟、島根、愛媛、高知、佐賀といった各県が次々に実施を見送り始めたため、全国の教員養成系大学・学部で「書道」教員免許を取得して卒業してくる書道教員志望の若者たちにとっては、氷河期といえる厳しい就職環境となっている。
    > 今年の採試実施状況と、「岩手ショック」について、関係者の話を聞いた。
    >               ◇
    > 【赤堀修一・全高書研会長の話】高校の書道教員の配置や単位の確保については、全高書研でも十年来の課題として、ことあるごとに必要性を文部科学省や各教育委員会に訴えてきた。以前は高校普通科では芸術科目が四単位を下らないようにという芸術科目を保護する大枠が決められていたが、これも学校の独自性に横槍を入れるものだとして学習指導要領が変更になった。そして、各高校に芸術科目の位置付けの決定を委ねたわけだが、教員定数の決まっている高校側から「書道の教員がほしい」という声が届かなければ、教育委員会でも採用試験は実施できない。その結果、採用が年々細り、とうとうここまで来たということだ。この厳しい現実を直視し、まずは現場の高校書道教員ひとり一人が、今の高校生に合った充実した書道教育を行ってきたのかと、今一度足元を見つめ直すことから始めなくてはなるまい。いたずらに悲観しているだけでは、展望は開けまい。
    > 【玉沢友基・岩手大教授の話】今回のことは、私にとっても寝耳に水の話で、学生から聞いてびっくりした。岩手県では、私の記憶する範囲でもずっと書道の教員採用試験を実施してきており、年によっては採用者がなかったことはあったものの、採用試験自体を見合わせたことはなかっただけに、我々教員養成に携わる側もショックだ。もちろん、「国語」での募集や、スポーツ・芸術分野で実績を持った人を対象とした特別選考もあるとはいえ、国語一本で勝負してくる人たちに競り勝つことや、一般的にも認められる実績を学生時代から持つのは難しい。岩手県の書道は、高校の書道教員層が中心となって支え、地域や社会で活発に活動してきている。もしもこの先、県立高校の書道教員の採用が極端に減るようなことになったら、地域や社会でも、今まで築いてきた書道の地盤に大きな影響を与える心配もある。
    --------------------------------------------------------------------------------
    ・同紙一面コラム「風信帖」
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 全国に公立高校なるものは四、一〇〇校もあるのである。このうち七割前後の高校で「書道」の授業が行われているというから、ざっと三、〇〇〇校でやっている計算だ。もしこの三、〇〇〇校にすべて専任の書道の先生がいたなら、毎年一〇〇人は補充採用があって不思議はないわけである。それが何と今年は四県だけ――▼むろん、今や高校の書道の先生の〝専任化率〟は半分以下ともいうから、シビアにみて三分の一と仮定したって、毎年三〇人は補充があって当然なはず。それが四県――。ここ数年、一七県→一二県→九県と減って来たことを考えれば驚く方がオカシイともいえるが、とにかくここまで来ると、もう来年にも〝ゼロ回答〟があってもオカシクナイ!▼〝五〇年の輝く伝統〟を捨てた岩手県の教委は、「今年は音・美も見合わせましたから」と、「書道」だけが特別に取り上げられることに不満げな口ぶりだが、音楽や美術と書道とは根本的に事情が違うと関係者は口を揃える。つまり音楽や美術は高校の採用試験以外に、高校の四、五倍かそれ以上の採用規模のある中学校教員への道が開かれているからだ。これは単に、高校書道教員を志す若い人たちにとってだけの問題ではないと思わざるを得ない。
    --------------------------------------------------------------------------------

    http://biz-journal.jp/2017/03/post_18235.html
     ところで、ここんとこ話題の森友ネタでは教育勅語も取り沙汰されてる模様(↑)。あっしに言わせりゃ、必ずしも内容の問題ではない。あの文体が「国語」教の信仰に反するから皆、たぶん憤って居るのだろう。…古臭い。読めない。グローバルでない。なんなら日本国憲法を文語体や漢文体に翻訳してみればよい。きっと左翼もソッポを向くだろう。要は政治と国語の二重底、二つの「イデオロギー」が仲良く揃った挙句の時代錯誤。
     日本國民ハ正義ト秩序ヲ基調トス國際平和ヲ誠實ニ希求シ、國權ノ發動タル戰爭ト武力ニ因ル威嚇又ハ武力ノ行使ハ國際紛爭ノ解決手段トシテ永久ニ是ヲ放棄ス。
     前項ノ目的ヲ達スル爲、陸海空軍其他ノ戰力ハ是ヲ保持セズ。國ノ交戰權ハ是ヲ認メズ。

     あと前稿絡みでは、これが面白かった(↓)。
    http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1064786544.html
    【2017/03/09 19:22】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (泡沫雑記)
     前稿末では「武力ニ因ル威嚇」云々としてみたものの、「因ル」(原因)と「依ル」(手段)とでは微妙に意味が違ってくる…。普通なら後者だろうけど、ウッカリ前者にしたら「ややこしくなっちまった」(汗)。原文は「武力による威嚇」又は「武力の行使」。素直に読めば日本の武力って事になる。ところが「海外武力に起因する」日本側からの威嚇だと、北鮮ミサイルに対する警告や対抗措置にも憲法上の縛りが掛かる筈(?)。漢字で書けるものを仮名にすると…解釈の幅がヤバイなあ。(ヤバイって、どんな意味?↓)
    http://www.recordchina.co.jp/b159324-s0-c60.html

     六年目の3.11、西尾先生のが載ってる二冊を買ってきた。『正論』2017.4号は「つくる会」二十周年メッセージの増補稿で、あたしゃ代読/顔面動画の誘惑から解放された気分。『WiLL』は前々稿を出した後に読めたのが幸運だった。例えば末尾の「高度人材」云々なんざ、自前の考を準備してから読まないと内容の距離が「生まれない」。自分のない読書は忘れるのも速い。距離は壁を生成するが、内容が記憶を前提すると「壁が浸透膜に変容する」(←誤読…とも云う?)。
     ところで後者の別記事P.161には、こんな発言が…(「殺」字のみ仮名表記に変更↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >石平 これが日本の大きな問題です。戦後教育の中で、「戦争=悪」と刷り込まれてきました。中国では正反対です。戦争は素晴らしいことだと教えられてきました。
    > 日本のアニメを見てください。子供が銃を持って敵をころす――そんなアニメ、あり得ますか。
    --------------------------------------------------------------------------------
     …そんなアニメ、ありますた。今期放送中の「幼女戦記」が面白い(↓)。
    http://youjo-senki.jp/
    http://www.youjosenki.com/youjo-senki-episode-1/

     印象深い物事(顔面動画とか)をストレートに忘れるのは難しい。しかし初見の記憶を別の記憶に置き換える程度なら存外容易で、これより効果的な「忘れるコツ」を苹は知らない。~大抵の先生は「覚えるコツ」に執心する所からすると、多分あたしゃ教育に向いてないのだろう。人工知能は人間の様に「忘れる」事が可能だろうか。難しいのではないか。記憶を「忘れる」には、「消去する」のと全く異なる脳内麻薬的アプローチ/プログラムが要るのではないか…。そんな具合に余計な脱線ばかりするから、今も昔も効率が頗る悪い。(…と書いた後、偶然こんな記事を発見↓)
    ●ニューラルネットワークが持つ欠陥「破滅的忘却」を回避するアルゴリズムをDeepMindが開発
    http://gigazine.net/news/20170315-elastic-weight-consolidation/

     常識/迷信が学問の名の下、学問に勝利した。神の共食いを看取る司祭が更正したら真人間になった。少なくとも教育界では人間が神を審判せねばならぬらしい。神は学問から弾かれ、どこかに飛んでいってしまった。もしかしたら神は教育界に逃げたのかも知れない。今や神は学問の下僕として人間に仕える身、奴隷と見紛うばかりの清らかさが眩しい。
    【2017/03/19 20:01】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん

    久々にじっくり拝読しました。
    「天バカ・・・」なるものの存在は知りつつも、ほとんど訪れたことはございません。
    しかし、苹@泥酔さんがその板で私あきんどの話題を振りまいてくださっていることだけは存じております。
    個人的な話ですが、蘭ちゃんにはもう個人的な恨みはありません。
    というか、今もあるのは心配だけです。これ以上のコメントはやめます・・・が、ただ一つ伝えることがあるとしたら、出会った頃の私と今の私は基本的には変わっていませんが、環境はかなり変わり、この間私は様々な経験をしました。そのほとんどをある会社でパート社員という立場で生計を立て、昨年ようやく社員になりました。

    蘭ちゃんが今どんな仕事を基本としているのか、それだけが心配です。
    不動さんのところで初めて会ったときに聞いた話を今も忘れていません。
    頑張れよ・・・と言う思いは今もあります。


    さて、森友学園話題ですが、私はこんな見解が基本です。
    『何が正しく何が間違いか』・・・と言う認識は、誰も教えることができない。教育というのは導きが基本であって、押しつけがましいものが基本ではない。だが、鍛錬というものが意識できる環境が必要であることは、いつの時代も変わっていないはずで、それが無ければ甲子園なんかとっくに存在しないわけで、森友学園が目指しているものと甲子園の意義は、それほど縁遠くないことを認識しなければならないと考える。

    教育というものがけして簡単ではいと認識しますが、人間子作りすることには本来あまり深い理念が備わってそれを為しているかと言うと、ちょっとそれは違うだろうと言わざるをえないわけで、その延長線上にある子供の教育という現実に、誰だって悩み、誰だって一喜一憂するわけです。
    いわばそれが人生の「濃縮ジュース」みたいなもので、それから解放された瞬間にようやくオレンジの味の純粋な爽やかさに浸れる・・・というのが子育ての現実で、これを一々あーだこーだと社会が言い出すから、子作りが難しい方向にしか行かないわけで、子作り位は自由にさせてあげなさい・・・というのが私の本音かな。
    勿論礼節がそこに必要なのは当然なんですが、そこをちゃんと言い聞かせないと、なにやらかすかわからないのが現代社会のようですね。

    さてさて、教育の無償化ですが、たまたま仕事場で知り合った、元塾の先生と言う人がこんなことを言ってました。
    「子供が親を尊敬することの一つに、親が一番大変な時期に勉強させてくれたという恩恵を感じなければ、本当の勉強は成り立たないのではないか・・・」と。

    けしてこれが正しいとか間違いだとかではなく、これが現実だと言うことですね。
    つまり、子育てと言うのはけして子供だけが育っているのではなく、親の立場も同時に成長する時期なのかもしれません。
    そうした時期に社会がちゃんと認識してくれる環境が整っているかどうかという観察が欲しいのは、親の本音かなと思います。幼児教育も大変ですが、思春期を迎えるころの子供の教育はもっと大変なのが現実です。

    ようやく手が離れたかなぁ・・・と思った頃に、どかーんとまた問題が炸裂するんです。しかもその頃の親の年代は社会的にも重要な立場の年代で、二重の苦労なんです。
    自分のことで悩む暇なんかありゃしません。すべては他人の悩みで苦労する仕組みです。

    そんな現実ですから、大好きなお酒にしか頬寄せない日々が続くわけで、終いには胃潰瘍は必須科目となるわけですよ。

    できれば苹@泥酔さんがそばにいてくれて、書道の趣味が自分に備わって、この世界から新しい自分というものが発見出来たら、どれだけ幸せかなと、今頃思うわけです。

    【2017/03/21 03:42】 URL | あきんど@泥酔 #k7Eg95eM [ 編集]


    >書道の趣味が自分に備わって、この世界から新しい自分
     ↑を承けて書き始めたものの、すぐに中断した。こんな調子(↓)で続けると後が長くなるし時間もかかる上、その前に何か別のを書かねばならぬ気がして落ち着かない…。
    --------------------------------------------------------------------------------
    (書と忘却)
     テレビの解説で時折「自分の相撲」云々を耳にするが、伝統的な書道畑に「自分の書」云々は聞こえない。烏滸がましいのか禁句同然、大抵は「書の精神性」(←誰の?)程度に留める模様。それどころか「自分」など無い方がいいとされて居るかの様な。しかしながら無私も忘我も相撲では別のニュアンスとなりそうで、何故か「自分」と衝突する気配は感じられない。書道では通常「一家を成す」と表現するが、そこまで行かずとも筆跡の個人差は無自覚のまま滲み出る。自覚が無自覚の邪魔になる場合、或いは「自分」そのものが意識と無意識の間を惑わせる事にもなろう。思考停止に寛容と云えば語弊がありそうなものの、どうした訳か稽古(の差異?)が面妖に思えてこなくもない。
    --------------------------------------------------------------------------------

     このところ「日録」コメント欄が活況で、そちらを閲覧してたらアッという間に半月が経っちまった(汗)。他には天バカ板への拙稿転載群とか、十年以上前の「おちょくり塾」記録とか。後者は爺様が惚けて入院する頃から御無沙汰だった。久々にトップページ(「うえっぶ庵」)を見たら、板は行方不明となっていた。「夢空廊漫遊」の方は現役らしい。
     以下追想。…こんなカキコ、あったなあ(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >[561] お休みをいただいていたら 投稿者:あきんどにいさん 投稿日:2004/05/12(Wed) 09:38
    >
    >先生がこちらに初登場されていたんですね。
    >驚きです。
    >
    >荒間さんがレスを入れていらっしゃらないので、私のほうから少しだけ補足させて頂きますね。
    >私と荒間さんは偶然近くに住んでいることを知ったのは昨年の夏ごろです。
    >でもまだお会いした事もないですし、お互いにどんな職業なのかもハッキリは認知しておりません。
    >
    >ただ漠然と解っている事はある山を挟んでお互い居を構えていると言う事だけです。
    >しかし残念ながら弟子屈ではなく、札幌の南方約100キロ下った場所です。
    >政治家としましてはハトポッポというニックネームの方が活躍されている場所です。
    >
    >先生が弟子屈に訪れたのは昭和30年ごろですか。
    >私はまだ生まれておりませんね。
    >当時は舗装道路もまったくない時代でしたでしょうから、訪れるだけでもひと苦労でしたでしょうね。
    >しかし当時と変わらないものはこの雄大な景色です。
    >是非一度多くの方に訪れて欲しい気持ちと、地元の人間として熊の存在を頭の片隅に入れておいて欲しい気持ちをこめて、あのような投稿を致しました。
    >
    >北海道はどこまで行っても北海道だということが一つの条件としてあります。
    >日本が島国である事の例として北海道はそれを凝縮した部分が存在します。
    >縄文時代の日本の姿がもしかすると北海道にはまだ残っているのかもしれない・・・そんなロマンを抱いて訪れて欲しいです。
    >札幌や旭川など大きな町に行くよりも、一本の小川に心を揺らす事の楽しさを味わって欲しいのです。
    >
    >そんな体験を先生は既に50年ほど前にされていたのだろうなぁと思いました。
    >自然の美しさと恐ろしさを両方感じる事は生きている事への大きな糧となるのでしょうね。
    >理屈では語れない静と動の深さをこの夏是非北海道で味わってみていただいては如何でしょうか。
    >
    >臨時北海道観光協会でした。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >[560] こっちにまでお書きになるなんて 投稿者:年上の長谷川 投稿日:2004/05/11(Tue) 18:02
    >
    >先生の感性は柔らかいですね~~~
    >
    >私は二年前に、生まれて初めて北海道に行きました。
    >風景が本土とはちがう!とは聞いていましたが、本当に広いし
    >道路のよこのピートやジャガイモ畑のこげ茶色の畑も、
    >家々の庭先の様子も違っていました。
    >
    >摩周湖、阿寒湖、層雲峡などをまわったので、今度は函館に行きたい!
    >格安ツアーで二泊三日でなんと広島から一人約4万円で行ったのです。
    >片道の飛行機代よりも安くて、社員旅行?にして団体で行ったんですよ。
    >
    >翌年、先生は北海道でぎっくり腰になられたのでしたよね。
    >ああいった、なんでもない旅の描写も先生は上手だから
    >読んでいる人間に風景が浮かんできます。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >[559] 一度だけ行きました 投稿者:西尾幹二 投稿日:2004/05/11(Tue) 02:22
    >
    > 
    > いやあ吃驚しました。荒間さんとあきんどさんが北海道にお住まいとはかねて聞いていま
    >したが、まさか弟子屈をはさんだ地点にお二人がいるなんて、不思議です。
    >
    > 知っています。「てしかが」と呼ぶんでしょう。一度だけ行ったことがあります。
    >
    > 大学2年の夏,友人4人が連れ立って、テントを担いで阿寒,摩周、屈斜路などを回りました。熊のことは聞いていなかったのですが、たいていは安旅館に泊まり、テントは人里はなれた所は避けて、バンガロウなどの並んでいる所をえらびました。
    >
    > 懐かしい、思い出ふかい夏の日々でした。  
    >
    > たしか屈斜路の前の晩、弟子屈の安旅館に泊まりました。一泊二食付きで、500円くらいだったと思います。昭和30年の夏です。
    >
    > 4人でよく議論しました。女の子とは関係のない旅でした。
    >
    > 知らぬが仏で、熊の恐ろしさは考えなかったのですが、北海道の自然のすごさには少し心が
    >震えました。屈斜路湖の沖合いにボートで出て、原生林が水面に蔽うように垂れ茂っている暗い場所を見て、自然そのものの恐怖を感じました。
    >
    > 荒間さんとあきんどさんがいつもあの大自然の神秘のそばから発信しているのかと思うと、
    >いいしれぬ不可思議さといとおしさを感じないではいられません。
    --------------------------------------------------------------------------------

     加齢に抗う女性は終盤、妖怪らしさが増してくる模様…(極端な描写例↓)。
    http://blackmamesu.at.webry.info/201001/article_76.html
     悟れる熟女は昔「年上」を名乗っておった。西尾先生が「私より年上と思われるよ」と忠告したら「セレブ」を名乗り始めた。「日録」には「しかも美人である」とも書いてある(2005.6.12稿↓)。…今では老婆な筈なのに、先日は代読妖怪が美人に見えたからオソロシイ。だから即座に「忘れよう」と決心したのであった…。
    https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=206
    【2017/04/04 20:39】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


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