奥様
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    市ヶ谷亀岡八幡



    つくる会の総会は市ヶ谷のホテルグランドヒルで行われた。
    時間に余裕のあった私は、
    すぐ近くの亀岡八幡に行ってみた。

    境内に「八紘一宇」の石碑が建っていた。

    ここは防衛省に隣接している。

    それから、
    総会の前日、夫の用事は芝公園の中?のプリンスパークタワーホテル?であった。
    隣に石垣があり、うっそうとした林があるので
    私がここは何かな・・・と独り言をいうと、
    タクシーの運転手さんが、古墳ですよと教えてくれた。

    芝丸山古墳だそうだ。

    東京って・・・・・・・
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    【2014/06/03 16:49】 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(20)
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    【2014/06/05 10:47】 | # [ 編集]


     「八紘一宇」碑を揮毫したのは当時の東京市長だった様ですね。肝腎の「つくる会」総会については、こちら(↓)で概要を見ました。
    http://www.tsukurukai.com/News/index.html#26soukai

    (以下、視点を変えて余談追記)
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1426
     「日録」(↑)拝読後に全集を捲ると、下記の箇所に目が留まる。西尾幹二「人生批評としての戯作」、全集九巻P.129~130。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 江戸の戯作家たちはなぜいくつもの名前をもっていたのだろうか。他人の作品を自由に模倣したり、あるいは弟子に書かせて平気でいられたのはなぜだろうか。文学者の個性とかモチーフの独創性とか、われわれが文学に関して平生にいだいている近代的な固定観念を一度こわしてかからないとよくわからないことが余りにも多い。江戸の泰平の文化が、もう二度と戻ってはこない一回的な、密儀的な閉鎖空間であったと以前に述べたのはその意味からである。
    --------------------------------------------------------------------------------
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1599.html#comment
     …これまで脱線話の成り行き上(↑)、あたしゃ書道の側から著作権を云々してきた。しかも視点が予め文学「抜き」だと、前提となる模倣が「写本から文学へ」突き抜ける所まで届かない。もしかしたら発想自体が元々こちらでは「非」または「前」文学的か、或いは文学という近代概念(?)を掴み損ねた所から出発している所為なのかも。だから苹は個性にも無個性にも頓着する必要がなく、結局どちらの側にも立てずに居るのが却って自然と腑に落ちる。
     読み方の流れ次第で同じ字形が漢字にも仮名にもなる様な、存在の同一と機能の非同一が共存するタイプの起源が先ずそこにある。やがて「読み」の共立不可能性に向かって言葉/文字が輪郭を獲得すると、音声が文字を搦め捕るのではなく、文字が音声を掴む所に仮名の成立を見る事も出来そうな。そこでは一つの音声が複数の文字を欲張ったのではない。初めは輸入文字それぞれ個別に一つの音声で間に合わせようとしたのに、大陸の音が日本の音の邪魔をした結果、漢字は複数の音声で読まれる羽目になったのではないか。そう考えると仮名の成立以前に、別の意味で「一字一音」と「一音一字」の違いが息を吹き返してくる。(因みに、仮名の側での発想は日録感想板(勝手応援板)の「ひょっとして…しつこい?」(2004/04/06 00:41)稿が初出。今の天バカ板↓では「【再掲】国語問題04」(2011/09/30 (Fri) 21:48:35)稿中で再々掲。)
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7438296
     西洋アルファベットの場合、同じ文字が別の文字として読まれるケースはあるのだろうか。嘗て音楽雑誌で指揮者サヴァリッシュが元々VとUは同一だったと述べていたのを見かけた記憶ならあるが、平たく不可逆に綴られていく音声的な文字表記に対して可逆的なアナグラムを交えると、あちらの文字世界にも相応の豊饒さが汲み取られそうではある。しかしながら漢字文化の場合、表意/表語的な文字から音声へと向かう仮名化の流れにはまた別の事情が絡むだろうから、単一の音声転写文化に見えるアルファベット受容の歴史は苹にしてみれば相対的に縁遠い。かてて加えて更なる別の絵画的遡行~例えば榊原悟『江戸の絵を愉しむ』(岩波新書)P.123図版みたいなのもある(こちらは本文↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > その「絵文字」、いうまでもなくその名のとおり、さまざまの「絵」を寄せ集め、組み合わせて「文字」にしたもので、出来上がったものは「文字」だが、その着想と手法は「寄せ絵」となんら変わらない。そして国芳が、この「絵文字」にも強い関心をもっていたことは、猫のしなやかな身体と、「なまづ」「かつを」「うなぎ」「ふぐ」の魚体とを組み合わせて、それぞれ当該文字を合成した「猫の当字」シリーズがあることからも疑いないだろう(図Ⅱ‐15)。しかもこれに先行する東西庵南北(?~一八二七)戯作、勝川春扇画『身振いろは芸』(文化八年〈一八一一〉)には、早くも猫や魚ならぬ人体で、「いろは」四十八文字が見事に合成されているのだ。これじたいもまた、おそらく宴席での人体パフォーマンスをヒントに着想されたにちがいないが、人体を合成して別のものを形成する手法は、まさしく国芳の顔の「寄せ絵」と軌を一にする。
    --------------------------------------------------------------------------------
     こうした背景を踏まえて所謂「通」との関わりに踏み込もうとすると、なにやらハイカルチャーの方がむしろ単純に野暮で、サブカルチャーの方が文化面の生きた変奏的「粋人」性(?)を担保していたかの様に思えてくる。この場合のハイカルチャーは教養と云うより常識か空気の世界で、それを当たり前に呼吸していればこそ、次なる相互諒解の行為/行動へと踏み込めたかの様な。…ところがどっこい残念ながら、苹には致命的な欠陥がある。「通」の世界が分からないだけならまだしも、「野暮」の感覚が分からない。多分これは大いに深刻なのだろう。そもそも基準や判断が表向き「ない」のだから。
     他者に対する無関心と云えばそれらしくもあるが他者「を」嫌いではないし、好きでないかと云えば「それも好きのうち」に入ってしまうから厄介だ。そこに野暮の入り込む余地はない。こちらの存在そのものが野暮だとすれば、もはや自然体と云うより他はない。通も野暮も半可通も所詮は他者の感覚で、自分の感覚ではない。都会には都会なりの、田舎には田舎なりの(←ちと脱線気味?)空気/教養/迷信がある事なら想像できるが、そこに溶け込んだ覚えはないし楽しんだ記憶もない。「通」とされている世界への興味ならあるが、どのみち楽しめないと「通」にはなれないのだろう。
     ここまで書いて、ふと思う。~「野暮の、野暮知らず」と。
    【2014/06/11 23:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    おそらく苹@泥酔さんは、「超通」であり
    また「超野暮」でもあるのでしょう。

    つきぬけているからね。
    【2014/06/14 21:06】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (補記~傍目のあれこれ)
    http://www.youtube.com/watch?v=5w3SWA9WbPY
     BSジャパン2014.6.6放送の映画「舟を編む」三時間録画を翌々週、倍速再生二時間で見た。…どうも感覚がズレているらしい。こちらにしてみれば恋文を毛筆で書くのは普通。具体的に映像化された巻紙の字も、たぶん読めないほどでは…と書いて念のため確認したが、草書交じりのアレではマァ仕方ないのかも知れない(↓)。
    http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/0f/ed1d60eb5be1b339365b3e20addbcdbf.jpg
     とは云え実際、読めないほどではない。ざっと見ると「天高く馬肥ゆる秋/ますゝゝご清栄のことと/存じます。正直このよう/な手紙を書くのは初/めてになりますのでお見/苦しい箇所も多いと思/(い)ますがどうぞ最後迄/(読)んで頂ける」云々。こうした小道具のクオリティは高い。編集部のホワイトボードに掲示の「大渡海」三字貼紙など地味かつ平凡な書きぶりで、程々のウマサに留めたリアリティが好もしい。
     この映画は辞書編集現場をめぐる真面目な作品で、自分の辞書的頭脳(ただし誰もが劣化版w)と先ず向き合わねば、辞書を引く前後に気付く言葉のズレが引き立ってこない。それでも恋文は筆に向いた言葉で書くのが当然と思いたい。すると結局なんの解決にもなっていない事が分かる。感覚の問題に辞書が要るのかも不分明で、理屈抜きの領分=常識に思いを馳せると、そこが却って怪訝に思えなくもない。
     「通」には「通」同士の共有辞書が要る。しかし通じるべき筈のものが遮断された環境に、果たして「通」は要るのかどうか。コミュニケーション自体が不通状態なら、そもそも「通」という言葉通りの存在自体が成り立たない。…いつからだろう。「通」の世界が高踏的になり、「不通」が「普通」になったのは。

     「通」にも色々ある様で、ほっときゃ際限なく膨張したり収縮したりするらしい。専門家と似た面は職人的主体に傾くが、どちらかと云えば好事家の審美的批評が目立つ世界なのだろう。こうなると付いていけない。事(技術)と物(作品)とでは継承の仕方が異なる一方、どこか重複して居ないとバランスが取れなくなる。そうした意味で示唆的な記述を先日偶々「ヤフー知恵袋」で見つけた。日本刀について、「メモ:以前、知り合いの刀匠と研磨師と3人で話した事があり、2人が口を揃えて「刀を打ちもせず、研ぎもせず、目利きするなんて出来る訳がない」言っていた事が印象的でした」と書いてあった(↓)。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1022377650
     この点、書道は嘗て「国民の芸術」だったので審美水準はそれなりに高い筈。ところが実際は余りに高踏的なため、却って理解し難い事が多々ある。批評の血圧が高い例では中林梧竹コレクターの海老塚的傳(四郎兵衛)があり、昭和十一年の「「梧竹の解剖」を読む」で西川寧と論争になった。これは対象が書家の書だからまだいい。技術面から「教育的に」アプローチできる。しかし精神論や他芸術との絡みが出てくると扱いに困る。

     …この際、「通」の世界の閉鎖性にも目を向けといた方がよさそうな。噂に聞く「一見さんお断り」の場を経験するには相応の伝手が要るだろうし、誰もが自由に出入りできる環境ではない。よしんば入り込めたとしても、紹介した側の責任が問われる形で「迷惑をかける」場合もあるだろう。その点、独学できる環境があると大いに助かるし、敢えて他者と交わる必要もない。しかしそれでは家元制度や社中が成り立たなくなる。つまり「狭い世界」へのニーズがある。逆らうと干されたり、破門されたり、陰湿な苛めに遭う事もあるだろう。ボスが全国に回状を出してターゲットの医者や研究者を働けなくするドラマや映画なんざ、どれも素人目には「本当にありそうな話」と映ってくる。
     だから「通」の印象は広義も狭義も、共に権威たっぷり胡散臭い。大学も研究所も企業なども、ありとあらゆる職人的世界がそう見える。男芸者になれない社会的落伍者は古今東西どんどん切り捨てられ、最後に生き残るのは少数のボスと大多数のイエスマン。ここまで来ると「通」そのものを自ら切り捨てた事にも気付かない。近年は「通」の末裔(?)を「オタク」と呼ぶ方が似つかわしく感じられるほどで、とどのつまり若者は要らず、老人でないと「通」たる資格はないかの様な。今や老人階級は暴君的イメージの下、家父長制の後釜システムを立派に歪曲しつつ引き継いでいる気がせぬでもない。
     もしかしたら、私は「通」の概念や世界や周縁や経験などを丸ごと憎んでいるのかも知れない。どの組織も全部が全部カルト的に見える。自虐精神の修行を喜ぶファナティシズムの仲間が要るとはどうしても思えない。尤も、危険な誘惑が待ち構えているのは入信前(?)から百も承知の筈ゆえ、傍目には総てが自業自得となるのだろう。

    (以上、三つの大段落を一週間かけて、下から順に書きました。その前に書いたのがコチラ↓)
    >「超通」「超野暮」
    >つきぬけているから
     うへっ(汗)…なんたる想定外の反応!w
     あの後、未読のまま何年も死蔵状態だった小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)をトイレに持ち込んだら「坊ちゃん=野暮」論が出てました。続きを読む前に先ず西尾全集を読んだらどうなるかと、またもや途中で放り出した次第。読書にも心の準備が要るみたい。予め程良く考えてから読み始めるパターンはいつもの事だけど、さりとて全集をトイレ配備するのは抵抗があるしなあ(汁…じゃなくて汗)。
    【2014/06/23 20:19】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
     野暮より出でて野暮に還る…(上から読んでも下から読んでも)。そんな構成を初めから意図していた訳ではないけれど、結果そうなった前稿にも「見えざる手」は無意識に潜み働いているらしい。野暮になるまいとすれば黙る以外に手はないのだろう。野暮を懼れず、野暮に羈せず。空気の読めない理由がそこに根差しているのなら、沈黙の嫌らしさにもまた「出口はない」んだろーな。
     あれこれ勘繰ってみたところ、どうやら「通」とはコミュニケーションの達人を指すらしい。それをどの世界が包むか次第で「通」の質が決まる。世界/環境の質が個人を育む。よい環境に人が集まる。「類は友を呼ぶ」では言い過ぎかも知れないけれど、ともかく友であろうとなかろうと何らかの魅力があるには違いない。でも多分、二重惑星みたいなイスカンダル奥様とガミラス西翁(?)んとこに宇宙戦艦ヤマトが飛んでくる様なイメージでは台無しだ。しかしいったん見立ててみると、存外これが面白い。例えば「皇統保守」艦ヤマト(?)の末裔が飛んできて西尾先生と共著を出すに至ったのは、そこに予め「通」の世界が共有されているからではなかったか。(採択戦が終わったら、ぼちぼち八木先生達も飛んできたらいいのになあ…と書いてみる。)
    http://www.nhk.or.jp/bakumon/prevtime/20140312.html
     …途中から見たNHK「探検バクモン」(↑)で先夜、新橋の花柳界が紹介されていた。これも「通」の遊びではあるのだろうが、はなから田舎者の苹は願い下げ。誘われたって誰が行くものか。こちとら身の丈に合ってないと落ち着かないし、いかに野暮偏屈だろうとビールぐびぐび、毎日の読み書き等々が最高の「遊び」である事は疑う余地がない。そうした場所に、余人は~特に異性はお呼びでない。あたしゃ時々、異星人を異性人と書き間違えたくなる。
     この手の気分なら、たぶん多くの人が理解できるだろう(特に女性は?)。…昨今は女同士で盛り上がるのをガールズ・トークとか女子会とか云うそうな。そこに男(最悪なのは亭主?)がのこのこ出てきたら?…斯う云う場面を苹は「野暮」の一例と観念して居る。ところが更に妄想を膨らませて「料亭で女子会」となると、もはや男の遊びではなくなり場所が忽ち中性化する。そこにセクハラの出る幕はない筈。しかし国際的には同性同士でもセクハラ扱いの行為認定がなされつつある様で、ならばロシア式の挨拶(こんな感じ♪↓)はどうなる事かと逆にハラハラ(?)させられたりもする。
    http://s3.amazonaws.com/imgly_production/1944375/large.jpg
     話のついでに「美人」。これも美女とは限らない。赤壁賦の「望美人兮天一方」然り、離騒の「恐美人之遅暮」然り。どちらかと云えば、お騒がせモードに近いのは「傾城」の方になるのかな。しかしこれでは文字通り、城(所属政党?)が傾きそうなイメージになっちまい、畢竟どう見ても物騒だ。そこで言葉を撰んでみると…悲来乎、悲来乎。こころ離るれば騒がしきは長広舌。斯くて已に沈黙の機を逸せり。(要するに、こちらの話題へと絡む訳でござんす…↓)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1657.html
     そんなふうに考えると、通と野暮は紙一重なのかも。どちらも彼岸の現世で、かつ現世の彼岸を禅牀に夢むがごとき仮託を美人に重ぬるも、不二の高嶺に花をもとめたとて場所が岩山ではコミュニケーション(通?)だかサバイバル(野暮?)だか知れたものではない。…難しいのは、どちらにも宿り得る「執念」。こればかりはストーカー同様、自他ともにさぞ度し難かろう。
    【2014/06/27 02:12】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (余談Ⅰ)
     ふと思い出した一冊に、今橋理子『江戸絵画と文学 〈描写〉と〈ことば〉の江戸文化史』(東京大学出版会)がある。以下、「はじめに」から引用。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 〈絵画と文学〉あるいは〈文学と絵画〉という研究テーマは、西欧では少なくともすでに十六世紀半ばぐらいから、人文研究においては意識されてきた。古代ローマの抒情詩人ホラティウスの「詩は絵の如く」の言は、つとに有名だが、ほかにも「絵は黙せる詩、詩は語る絵」(プルタルコスが古代ギリシアの詩人シモニデスの言葉と伝える)という言説など、両者の親密な関係を理想とする理念は、二つの分野を〈姉妹芸術〉と位置づけてきたのである。絵画や図像(=イメージ)と、ことばや文学(=テキスト)を対立させつつ、つねに両者の底流に〈姉妹〉関係を想定する考え方は、西洋の美術ではおなじみである。そして例えばキリスト教社会では、あらかじめ存在するテキスト(→聖書)をイメージ(→キリスト教主題の図像)に変換することが積極的に奨励されたため、テキストはイメージの〈姉〉として、その優位性が強調されることもあった。
    > では一方こうした関係を、日本の美術では歴史的にどのように考えてきたのだろうか――。結論的に言えば、そのような関係を問う試みはほとんど無かったと言ってよい。というより、日本美術を含む東洋の芸術においては、そもそも「書画」という語や、あるいは「詩画一致」とか「詩書画三絶」という理想が、芸術上において延々と掲げられてきたことからも明らかなように、本来的に絵画(=「画」)は「書」(=文字または漢詩などの文学)と切り離されて思考されること自体が少なかったのである。そのために〈絵画〉と〈文学〉は、必然的に二項対立のものとされることがなかった。ちなみに「絵画」という用語が「書画」のことばから転じて作られ、明治政府の官立機構や事業の中で使用され始めたのは、明治十五(一八八二)年のことだったが、同様に西欧語のLiteratureが「文学」の翻訳語とされ、辞書に表記されたのは、そのわずか一年前の明治十四年のことだった。
    > 近年、〈日本美術史〉の成立の経緯を「ことば」の問題から明らかにした佐藤道信氏は、日本の歴史上における「絵画」の用語の成立を、「絵画の自立をめざした文学と絵画の分離」であったと明快に位置づけている。私は本書で、東アジアの視覚芸術が、元来文字芸術と切り離すことができなかったという伝統を充分に意識し、踏まえた上で、あえて〈絵画〉と〈文学〉という「近代日本語」の概念を導入することで、江戸絵画の複雑な様相を改めて照射したいと思うのである。
    --------------------------------------------------------------------------------
     …西洋の文献に疎い苹は、先ず支那古典(こっち方面も疎いのにw)の記憶を辿る事になる。いつもの絡みで詩書画一致(例えば王維や張彦遠)。一方が一方を部分的に内包/重合しつつ互いに顛倒し合う関係は両者の融合/統合を意味せぬまま、次々と他を取り込みながら共立するのに、今で云う「総合芸術」型の纏まったカテゴライズ/自己保存へ向かう訳でもない。対比の対象はことごとく〈内〉であって(六芸とか琴棊書画とか)、ともすれば分裂しがちな契機をはらむ〈外〉ではないかの様な。敢えて喩えるなら、ちょうど日本が支那の一部である様に。
     勿論こうした表現には問題がある。こちらから見れば日本は支那の一部でないし、むしろ日本文明の方が他者としての支那文化(後には西洋文化)を取り入れてきた。それでもなお「支那の一部」たり得るのは、支那文化が疫病の様に伝染してきた歴史的事実と、癒える必要なき無害かつ有用な免疫的事実とが、ここで云う「支那」を漢字文化圏に「した」からなのだろう。政治的国家的「支那」が大陸内々どれだけ興廃を繰り返そうと、民族が入れ替わろうと一向に構わない。こちらにはこちらの単一な日本民族、万世一系の皇統が文明的かつ伝説的に引き継がれていればそれでよい。言い換えるなら、呪いが実体を搦め捕るのではなく、実体が呪いを掴む所に物語の成立を見る事も出来そうな。呪いは免疫的リアリズムを経て、実体のダイナミズムを至極主体的に支那との距離へと組み替える。主体意識をめぐる錯覚は常に本態的で、支那にも日本にも従属できないまま~或いは政治とも文化とも無媒介に、最も肯定的なアナキズム文化圏を準備する。(旧稿参照↓)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1580.html#comment
     お気楽な非政治性をアナキズムに結び付けると冒涜めいて見えるだろうか(アナキストに失礼?)。しかしこれが苹にとっては自然な感覚で、そうとでも捉えない限り日本の殻は構築できなくなる。殻には内壁と外壁があり、隔てられたまま虚構と実体が入れ替わる触媒性によって「殻」自体が生きているかの様に振る舞う。殻の内側を見れば「空虚な中心」と映る面もあろう。外側を見れば「日本文化は外真似だらけ」と映ったりもするだろう。これらはどれも真っ当で素直な見え方(「見方」ではない)だと思うし、他者/外国人の眼差しに自己仮託した客観の試みと受け取るなら、見え方と見方を隔てる壁/意識の方が邪魔に見えても不自然ではあるまい(だから易々とグローバリズムの罠にも寛容になれる?)。…もし壁が意識的な振る舞いを表徴するとしたら、殻の方はどうなのか。ここでの壁は直接「大地に屹立」しているのではない。ぽっかり海に浮かんだ殻そのものが壁と不可分で、しかも殻そのものが大地のごとく島やら山やら抱え込む。あくまで殻の方が先にあり、壁は押し寄せてくる前後になってから、或いは津波の様に「気付かれる」のかも知れない。
     大陸の大地~こと内陸部には、通常の意味で云う「津波」が来襲しない。その代わり時たま異民族が「津波の様に」来襲するので似たり寄ったりと云えなくもないが、相手が人と自然とでは格が違い過ぎて戸惑いが残るのか、異民族は人ではない。動物であるらしい。だから屈服させ、支配しなければならない。そこが自然相手の場合と決定的に異なる。~按ずるに、大陸の人々は「身の丈に合った」防衛力/攻撃力を信頼していたのだろう。しかし生者の知る限りでは多くの場合、進撃の異人に対し神風は吹かなかった。吹いたところで海がない。砂嵐なら期待も出来ようが、どのみち敗者/死者の視点ではどうだか。ここに生者(勝者?)の限界があるのかも。苹が子供の頃に読んだ竜巻の話は、既にアメリカの夢物語で糞塗れとなっていた記憶がある。

    (余談Ⅱ)
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1436
     「日録」(↑)に、「(二)江戸の朝鮮通信使は朱子学の優位で日本人に教える立場であったのに荻生徂徠の出現で日本の学問が動いて立場が逆転した。この転換に詳しい適確な本を教えて欲しい」とある。
     浅学の身からは、勿論なーんにも出てこない(←素直に開き直ってますぅw)。ただし「中野三敏」のキーワードで検索すると、この手の記述が引っ掛かる(↓)。
    http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130814/1376407060
    --------------------------------------------------------------------------------
    >……朱子学は宋代の学問ですけれども、禅宗辺りからの影響で心の学に目覚める。しかし心の弱さに着目して、心の外にある天の道理とつながった本然の性というような考えに立ったので客観唯心論と言われます。そこからさらに何百年も下った明代では、宋代の学問をそのまま受け入れるわけではなくて、宋代の学問をもう一つ発展させたかたち、その、唯心論をさらに発展させる。そういう客観から主観へという流れの中で、もう一つ朱子学を発展させたのが陽明学だというふうに考えた。それを取り入れるんであれば、何も遠慮する必要も何もなくて、そういうふうに考えられたのが、おそらく江戸時代の学者にとっての陽明学であったと思います。そして、その結果、朱子学を乗り越えた陽明学をベースとして非常に豊かな発展というものが、江戸の儒学の中で考えられる。それを、これまでは、仁斎学や徂徠学は日本独特の発展だというふうに考えてきて、朱子学から見ればかなり儒学の領域を逸脱するものであるというふうに考えられてきたんですけれども、私は仁斎学も徂徠学も、いずれも朱子学の発展系としての陽明学をヒントにして、そこからもう一度朱子学を批判しようとした。その流れとしてあるんだと考えるのが、一番簡単な、また分かり易い立場なのではなかろうかと思っております。
    --------------------------------------------------------------------------------
     上は著者の記述の引用らしい(あたしゃ買い忘れてた)。下は別のサイトで、感想。
    http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2013/05/2012-2ca1.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    > ポイントは、《現代日本人は、徳川日本のことについて、ほとんど何も知らないに等しい》ということ。
    > 詳らかにいうと、衝撃の事実とは、
    >現代日本人が図書館、書店等でアクセス可能な、活字に翻刻された徳川期の古典(文学や思想書など)は、徳川期に成立した書物のたかだか1%に過ぎない。
    >それも
    >《明治維新の大業》が成し遂げた素晴らしい事跡を前提として、そこから過去に遡及し系譜として認定できそうなことなら《褒めてやろう》という観点から、ピックアップされた書物だけが翻刻され活字化されてきた。
    >ということなのだ。
    > 現代日本で、多少ともインテリの自負のある者なら、例えば、岩波古典大系やら岩波思想大系やらを折にふれた読むことで、少なくとも自分は《日本の古典》に触れてると自惚れているいるわけ。私も含め。ところが、そんなものは徳川期に生み出された文書の氷山の一角であり、そのなかに《近代》を異化し、《近代の価値観》にけたたましい不協和音を起こすものなど、明治以降の《エピステーメーによる無意識の検閲》によって、ほとんど含まれていなかった可能性が極めて高い、ということな訳ね。
    --------------------------------------------------------------------------------
     以上、余談でござんした。
    【2014/07/01 23:34】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    そうなんだろうなぁ~~~
    岩波も読まないから、江戸時代の著作がどんなんだか、
    本当は全然知らない。
    学校で習う、ごくごく有名なやつも、一部分しか読んでいないよね。

    今「村上海賊の娘」だったかな、
    読んでいると、昔の海賊のことについて書いてある文献とか、
    そういう戦国時代のことを書かれた文献をいっぱい参考にしてある。

    へぇ~~~

    歴史教科書には載っていることは、本当にごくごく一部なんだとしみじみ思います。
    【2014/07/03 08:54】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     中野三敏と云えば、今じゃイメージは和本リテラシーの宣伝マン(?)。その名と「徂徠」で検索したら稍や専門的なのが見つかったけど(ajih.jp/event/A中野三敏「提言」.pdf…リンクすると長くなる)、苹の頭では理解が充分な所まで及ばない(汗)。前稿後半でアレ出したのは、「伝手を探して神田の古書店を案内して貰ったらどーだろか」ってのが本意なの。まだ活字になってないのが結構ありそうで。…ところで巷間「餅は餅屋」と云うけれど、そっち方面の在野研究者にも「週刊誌を読むタイプ」って居るのかなあ?

    (独り言)
     私は普通に手紙を書いた事がない。筆まめでない、と云うよりは筆そのもの(肉筆…印字…文章…)を…でもないか。それより自身を含め、言葉そのものを信用していないのかも知れない。だから誰かに信用して貰いたいと思った事はないし、所詮そんなものは相手の勝手次第。こちらはこちらで勝手に書く(可能な限り正確かつ真摯に)。それで駄目なら仕方がない。「勝手」の中には「ままならぬ」状態も含まれるものと、初めから観念していた面もある。小学校時代の作文が既にして「そうだった」。書けないものは書けないから、「書きたい様に(=素直に?)書け」と言われても困る。~数十年後の今にして思えば、最大公約数的な言い回しの「書きたい事がない」にも幾種類かあって、そこを無理矢理ひとつの言い回しに纏めるしか出来なかったのが遺憾と云えば遺憾ではある。「事=言葉」と代入した場合も、「書きたい言葉が出てこない」となるのはニュアンスとして当然そればかりでない。
     後に私は「輪郭」という言葉を見つけた。それ以前に「書いたところで、相手が読めるとは限らない」と…つまり、ひねくれていた。先ず書記様式の断絶があった。「読めないものは読めない」と前提する国語の常識が(教えるのではなく)教えない事により確立されると、「読めない文学」と「読める文学」との対立様式もまた自ずと方向が定まっていく。教わっていない「読めない文字」は教育規範上「存在しない」から論外。それより「読める文字」の組み合わせの方が現代文と古文を分かち、両者を繋ぐ翻訳の仕方が訓練されていく。そこに書字文語(主に草書変体仮名交じり)の出る幕はなく、専ら活字文語が「輪郭」の統一性と差異の在り方を担う。にもかかわらず昭和末期頃までの書店では、実用書コーナーと芸術書コーナーとで書道本が明確に区別されていた。実用書道と芸術書道の狭間で宙に浮いていたのは教育書道の本だった。
     もしや、教育と文学は相性が悪いのでは。~そんなふうに考える小学生(←苹)が中学以降どうなったか。育ったのか育ち損ねたのか、国語の土俵では判断いたしかねる(苦笑)。文学とは活字文学の事であり、近代文学も古典文学も印刷すれば字面はみな一緒。そこに新旧仮名遣いの問題が絡むとややこしく、くだらなく見えてくる。例えば変体仮名「尓」を「耳」や「二」と書くのも平仮名「仁」(に)と書くのも同じ事で、表音的仮名遣いの場合は「不」(ふ)を「宇」(う)と書けば「変体仮名が一つ増えただけ」と見る事も可能な筈。つまり一方では歴史的変体仮名を廃し、一方では表音的変体仮名を加えたのが明治と戦後の国語政策だった事になる。…そんな見方が何故できない。歴史と伝統に即した筆文字を読み書きできるなら、この方がよほど自然な発想と云えまいか。きっと昔は同じ考えの人が居た筈だ。旧字旧仮名論者の活字臭にウンザリしたら、多分この手の話を持ち出すに限る。
     ところで本稿、何故こうなった?~実は、手紙の書ける人達が羨ましくてネェ…。
    【2014/07/06 21:55】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (余談)
     前掲の「ajih」を調べたら日本思想史学会のサイトだった。そっち繋がり&中野三敏で更に検索すると、本格的な研究者らしいのがぞろぞろと。あたしゃ思わず怖気付く…あなたの…じゃなくて「わたしの知らない世界」(キャーッ!)。おそらくミステリアスな陰翳が真夏の怪談話の様に…と書けばミスリードになるけれど、正直あんまり近付きたくないわいナァ。なにしろ心の準備が要る。苹なら十中八九、頭の中がパンクする。
     そんな最中こちらの爺様、2014.7.7朝9:30に転院するとの連絡きたる。7.5の発熱39度が下がらないそうで、一同すっ飛んでったら医者が恐い事を云う(年が年だから云々)。それを聞いた婆様フルスロットル、泣き喚くでもなく早速いそいそ、「万が一」の支度に取り掛かっちまった。冷静に聞けば三週間の目途で治療予定との話だし、7.9と7.15の見舞いでも医者から特段の説明はなかった。とは云え年寄りの肺炎が油断ならぬのは確かなれば、他の事になかなか手が着かない。
     それでも夜は相変わらず飲んで居る。飲むと何か書いて居る。いったん書道ネタが暴走し始めると、やめられない、とまらない。…臨書について想像は膨らむ。古典は対象。臨書は方法。師匠から学べるのは方法であって対象の深奥ではない、等々。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1438
     例えば「日録」(↑)で渡辺様のを読むと、書道のみならず文学でも似た事があるのだなあと説得された気になったりもする。そこではプルーストやサルトルの例が出てきたが、あたしゃ両方とも読んだ事がないし興味も薄い。しかし対象とは全く別に、類似や模倣をめぐる方法面には好奇心を擽られる。変態趣味に近いのか「中身より下着」式の玩物喪志に心奪われると、書道言語学(?)やら何やら造語して煙に巻きたくなる。書家が「眼高手低」のマゾならば、苹のは差し詰めガラガラポンのサドおけさ。アリャアリャサとばかり外面を捨象しにかかるが、実際それぞれ人によって臨書の出来映えは異なるため、臨書の外面から学ぶ手口は~内発的な方法面から出発するのと逆向きである以上に、臨書対象と臨書作品との混同や顛倒に結び付きやすい。そこに模倣の難しさがある(臨模、翻刻、伝来の仮託など)。臨書の臨書を双臨(再臨?)とか云った筈だが、それが時には作品となるのが~たぶん西洋的感覚では不思議と云えば不思議。
     …あ、そうそう。変態と云えば指揮者かな。下世話では「変態マゼール」との評判が高かった(?)けど、肺炎こじらせて死んじまったそうで残念。メータや小澤と同世代。

    (おまけ動画)
     小澤征爾、ボストン監督時代の指揮姿。独唱はプラシド・フラミンゴ(!)。
    http://www.youtube.com/watch?v=NHLQjrNPPME
    【2014/07/15 20:57】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    その後、おじい様の具合はいかがでしょうか。

    みんないつかはあの世に行ってしまうのですが、
    それがいつかは分からない。

    命ある限り、書道ネタよろしく~~~
    【2014/07/16 17:19】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     前稿訂正。~確認したらマゼール(2014.7.13歿)はクライバーと同い年で、小澤や西尾先生より五歳年上だった。気にする人は気になるのかも知れないが、女性の年齢に比べれば(←ここから先は別方向に脱線しそうなので以下自粛)
     …それより気懸かりなのは、遺品の行方になるのかな。苹の場合は蔵書も文房四宝も総てゴミ扱いになる筈で、どの程度の価値があるか誰も知らない。たぶん田舎の高齢化インパクトは、文化面の打撃がかなり大きくなるに違いない。闇から闇に葬られるのは自治体でも同様で、教育委員会所管の寄贈品紛失は巷間「よくある事」とガッテン承知の助でござんす。そもそも、まともな保管場所がない。部屋割りの都合で各部署が引っ越しするたび、邪魔な物は次々と「処分」されていく。そうしてずっと後になってから、調査で初めて「紛失」が発覚する。
     名のある先生方の遺品は幸福な方だろう。遺族に見る目がなくたって、運か準備がよければ編集者や専門家が後片付けを手伝ってくれるのでは。…ちと楽観的に過ぎるだろうか。それでも売り飛ばされ散佚するならまだマシだ。数年前にテレビで見た孤独死報道の場合、処理業者は総てゴミとして処分していた。それでも都会は業者がいる分マシかも知れない。田舎にそんな業者はない(たぶん)。孤独死する前に住人が居なくなるから事情が違うのかも知れない。後に残るのは廃屋で、冬になると雪の重みで潰れていく。つい先年は青森駅の近く、国道(県内最大規模の幹線道路)沿いの大きな廃屋が派手に潰れてニュースになった。あれも真冬の出来事だった。
     それとて、もうじき限界がくる。…若手が都会に出て行った後、ひとりの老人と遺品の山が残る。やがて遺品がゴミになる。そうなっていないのは高齢化の最中だからで、今のところ「まだ生きて居る」から「次の出来事」に至らぬまま済んでいる。もちろん昔は老人も若かった。中には知識人も居た。本人が死んだ後、遺品は家族がファフナーの様に蜷局まきまき守ってきた。その家族が高齢化している状態とあらば、最後の一人は大変だ。…そう云や昔、高齢化と少子化の「追いかけっこ」みたいな関係を学校か書物で学んだ様な気が。あれは確か「アキレスと亀」の話だった。当時は別に悲愴感たっぷりの拡大解釈などしなかったが、数十年後の今では具体的な中身がガラリと変わって映る。
     こんなの算数か数学の授業でやったら、生々し過ぎて物議を醸すどころでは済まなくなるんだろうな(汗)。あたしゃ苦手な方面だから、誰か数学や論理学に通暁した人、産経紙上か何かで思いっきり展開してみてくれないかしら。掘り下げれば何か出てきそうな気がする(例:「処分」に疾走するアキレスと、「紛失」を歩む亀との距離は?)。尤も発想自体に欠陥があるなら、それはそれで笑い飛ばしておくんなまし…。

    (おばけ?動画)
     クライバーは2004.7.13歿。カラヤンは1989.7.16歿。
    http://www.youtube.com/watch?v=UNxFm7_XTyA
    http://www.youtube.com/watch?v=2zRxi-6bkzw
     さあ…皆さん。毎年7.20~7.24の恐山大祭に、ようこそ。
    http://simokita.org/sight/osore/taisai.html
    【2014/07/17 22:39】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (備忘録)
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140718/trd14071815000014-n1.htm
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    >【ネットろんだん】
    >ネット「終活」 死後のデータ削除サービス、歓迎と要望と
    >2014.7.18 15:00 (1/3ページ)[ネットろんだん]
    > インターネット検索大手のヤフーは14日、終活サービス「Yahoo! エンディング」を開始した。利用者の死亡が確認されると、ネット上に保存した文書や画像などのデータが自動的に削除されるのが売り。「人に見られたくないデータってあるよな」と好意的な声の一方で、「自宅パソコンのデータこそ削除して」といった“要望”も出ている。
    > 同サービスは、利用者の死亡を遺族からの火葬許可証の提示で確認。確認されると、事前に登録しておいた最大200人の知人にお別れメッセージを自動送信する。また、本人が利用していたヤフーの有料サービスを停止し、ネット上のクラウドに保存していたデータの削除も行う。
    >
    >草創期ユーザーが高齢化
    > 1995年にネットの本格普及が始まってから、まもなく20年。ヤフーによると「草創期を支えたネットユーザーたちが、人生の終末を考えなくてはならない年齢に近づいてきたため、今回の終活サービスの提供を開始した」という。
    > 掲示板やブログなどでは、「やっぱり、保存してあるデータは消去してから死にたい」「違法なものじゃなくても、人に見られたら恥ずかしいものとかある」と、好意的に受け止める書き込みが目立った。
    > ただ、中には「自分が死んだ後のことなんて、そんなに気になるもんかな?」「死んじゃったら、見られて恥ずかしいもなにもないと思うんだが」と、達観派の声もあった。
    > また、最大200人に送れるお別れメッセージについては、「俺が死んでも、死んだことを伝える相手がいない…」という寂しい感想も。
    > ヤフーによると、データ削除については現在、ブログやメールも対象にすることを検討中。一方、データを削除せず、遺族に移管するサービスも考えているという。
    > これについては、「自分が生きた証拠として残してもらえるのはうれしいような気がする」「家族に関わるデータは、ちゃんと保存しておきたいよね」などの声が多かったが、「家族だからこそ、なおさら見てほしくない情報があるんだよ」「なまじ親しい人のデータだけに、裏切られたと思うような内容だったらどうするんだ」という声も少なくない。
    > データ削除サービスは、あくまでヤフーが運営するネット上のサービスのみが対象だ。そのため、「自宅のパソコンに保存されているデータを破壊してくれるサービスをぜひやってほしい」といった要望がかなり目立った。
    >
    >真に“大事”なデータは…
    > その理由は、「パソコン内には、クラウドに置いておけるような生やさしいもんじゃないデータがいっぱい」「死んだ後に消さなくてはならない自分の全人格が否定されるようなデータは、クラウドに上げたりしないよ」など。
    > 自宅のパソコン内のハードディスクに他人に見られたくないデータが入っている人が多いようで、「火葬の時にハードディスクを棺おけに入れてくれるサービスがあればいい」と“斬新”な提案をする人も。
    > 一部には、「ごく親しい友だちと死んだときは互いのパソコンのデータを消去する約束をしている」と明かす人もいた。だが、多くの人にとって、そんな信頼できる相手を見つけるのは至難の業。やはり、生きているうちの常日頃から、身辺をきれいにしておくことこそが、何よりも効果的な終活のようだ。(壽)
    >◇
    >【用語解説】終活
    > 自分の死をどのように迎えるか、元気なうちに考えて準備をする活動の総称。注目される背景には、ライフスタイルや価値観の多様化がある。希望する葬式のあり方や、倒れた際の延命についての選択、遺族が行う手続きのための情報整理、財産分与など対象は多岐にわたる。死に備えて自身の希望を書き留めておく「エンディングノート」の活用も重要視されている。
    --------------------------------------------------------------------------------

    (雑感)
     書道ネタから遺品ネタに脱線した矢先、産経を見たらコレだ…(↑)。言われてみればその通り、パソコンもデータも遺品なんだよナァ。他者との隔絶が前提の秘匿データについてはともかく、コミュニケーションでは苹の場合、上手に終わらせる自信がない(それが自前サイト開設に及び腰な理由の一つではある)。他方、まだ廃屋と化していなくとも運営会社がさっさと掲示板事業から撤退したりするのを見ると、いづれ「なる様になる」点、実のところ過度に心配する必要はないのかも知れない。しかし埋もれたデータの理不尽な発掘を危惧する向きにとっては、相応に不都合なケースもあるのだろう。
     むしろ心配すべきは「言葉の生命」の方かも知れない。本人の意思とは無関係に「遺言となってしまう」言葉がある。言葉が場所を失うのか、場所が言葉を失うのか。はみ出た記憶の在処/機能は或る意味「脳ヘルニア」みたいなもので、しかも読まれた途端に少しずつ形(?)を変えながら伝染する。中身=記憶は必ずしも場所を選ばないが、場所の方は中身の在り方を選ぶ(最適化したり歪曲したり)。だから場所のオリジナリティは軽視できない。文献学や書誌学の片鱗に少しでも触れた事があるなら、所謂「終活」に秘められた野蛮の微睡みに気付かぬ筈がないだろう。そこでは誰もが眠る様に夢を見るが、夢の中身は匿されたままで、却って覚醒した後がこわい。
     野蛮を知らぬ者が野蛮な自己を純粋無垢に焚書するのも、自己焚書という野蛮への一歩を踏み出す破壊衝動に魅入られるのも、「野蛮が誰のものか」を各自の立場で所有する点では包括的に、どのみち累積的エゴイズムの遡及を相互追認せざるを得なくなる筈。そこが他者による一方的な焚書(理不尽)と決定的に違う。焚書の野蛮を去勢する上で、コミュニケーションから自己を回収しようとする振る舞いがどの程度まで可能か、稍や大袈裟に見えるくらいには疑わしく見える。
     ここまで書いて、ふと思った。~模倣と破壊は、自己や社会を任意に対立軸とする場合の「生成」に於て、同一の相を反射するのではなかろうか。言い換えるなら、模倣は光であり、破壊もまた光であると。
    【2014/07/19 21:28】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    確かに本人が亡くなったあとのブログって、
    遺品ですね。

    本人が亡くなっていなくても、
    亡霊のようになっているブログもいっぱいあります。
    いつか息をしていないブログは淘汰されていくのでしょう。

    言葉の生命・・・・・・ううむぅ~
    【2014/07/21 20:04】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     書いてる本人は真面目なつもりでも、傍目にゃ野暮だったり無粋だったり…(汗)。そう思うと気分転換ネタもて紛らわし、ひとまず懺悔してみたくなる。~先夜たまさか絶句した。或る界隈で「ふなっしーvsくまモン」等々、ゆるキャラ達が変わり果てた姿になってるそうな…(↓ひこにゃん、せんとくん他の面々も居るよ♪)。
    http://gori.me/wp-content/uploads/2014/01/game-character-action-game.jpg
    http://mogumogunews.com/2014/04/topic_6195/
     閑話休題。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1451
     「日録」(↑)で見て早速、買うか否か迷い始める前に全集14巻を注文してきた。殆どが既読だと買い方も変態じみてくるらしい。先ず目次を見てヒッヒッヒ。比べると「人生の価値~」ワック刊の85と86が抜けている(ただの「日録」記載漏れか?)。次に内容を見てヒッヒッヒ…と、書物は時に読者の人格を賤しくする事があるらしい。仮に「貴方は買う必要ありません」と窘められたとしても後の祭り、もう注文しちまったわい。~こんな場合、読むべき箇所と読み返すべき箇所との自律的峻別が試されるのだろう。或る意味この全集は、読者(全集魔?)に仕掛けられた観照の罠と云えるのかも知れない。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=57
     …そう云や初出当時、ゆるキャラ然(?)とした読者が豹変すると著者が戸惑ったりする例(↑)もあったっけ。その事を私は嘗て日録感想板で学んだ気がする。読者側にしてみれば、あの試みは決して無意味ではなかった。それだけに今、かの掲示板に脈動した生々しき息吹を読み返せないのは残念でもある。

    (近況)
     「海の日」迄の連休期間、岡山から親戚が来た。青森在住の親戚の娘(今や熟女)で、結婚後に旦那の転勤で岡山へ行った。男女二人いる子供のうち女の子と二人連れで、青森勢では娘の妹(これまた熟女)と熟女姉妹の母(つまり老女)も付いてきたから〆て四人連れとなる。~女の子は看護師になったそうな。コレと云った話題のない苹は手持ち無沙汰(←大嘘w)の書道ネタで、「医学畑なら少しは話が通じるのでは」と脳機能関連の四方山話を少々。取り敢えず漢字と仮名に絡む所謂「神経文字学」方面へと話を振ってみた。その時は詳しく踏み込まなかったが、掻い摘めば前提は以下の様になる。
     変体仮名は小学校令(1900)で廃止が決定済み。また同年は漢字仮名の乖離症状が最初に報告された年でもある(三浦勤之助)。活字本が普及してから二十年以上が経過してなお過渡期と云えるかは不分明なれど、手書きの混淆書記様式(草書変体仮名交じり)に漢字活字と仮名活字の乖離や硬直が影響していただろう事は想像に難くない。また漢字書記の多様性を踏まえて報告を読めば、「以ふに仮名は所謂音標にして一の符号に止まり一の綴りに他ならざるも」の直後に続く記述の解釈が些か微妙になってくる→。…「文字は形象にして畫の如く物の如く又音もあり訓もありて所謂Association即関聯に富めるを以て然るならむ」とは実際どう云う事なのか。音と訓が具わる特性は今ならいっそう漢字らしさを纏って視覚に密接/膠着/硬直するが、なにしろ当時は過渡期の末期(?)、「漢字の音」は「仮名の音」でもあった(広義では宛字もネ♪)。まして草略体で書かれたならば、うち一体に限定した仮名概念(音標文字)を活字基準で凝集する向きと相対的に、漢字はまさしく視覚上「富める」文字として平仮名を絶え間なく包含してきた筈である。
    (↑こんなふうに、ホントは整理してから喋りたかったのネw)
     そんな前提で話を進めると、今度は臨床的ニーズの欠如が焦点となる。爾後の医学は時代を遡らない。江戸時代を生きた患者が、既にして居ない。みな墓の中だから、ニーズもないのは当然。しかし「読める人」が相手なら、今でも話は別かも知れない。古文書が読めるのと読めないのとで、脳機能に差異はあるのだろうか。中野三敏の推測では読める人が国民の1%未満(0.004%だそうな)。と云う事は、被験者も患者も圧倒的に不足してるってこった。これでは誰だって、さぞ研究しにくかろう。
     さて。
     「…それが、やりたい事なの?」と妹氏。「うん、5%くらいは」と苹。すると怪訝そうに「後の95%は?」と云うから、「全部つながってるの」と苹が続ける。どうやら相手は、話の全部が書道ネタだとは思って居なかったらしい…あたしゃ後になって気が付いた(汗)。~書道全体の約5%が脳味噌ネタに絡むなら、実技の割合はどれくらいになるだろうか。三割か四割程度じゃないかしら。他には言語学、歴史、美術的な諸々に東洋哲学。そこに文献学や書誌学、文字学なども絡んでくる。少なくとも大学レベルでは、上に行くほどそうなっている。他方、小中高は学問教育の場ではない。むしろ学問を偽装した受験教育の場で、イデオロギー道徳や戦後常識への信仰レベルを審判する大伽藍に近い。
     片や妹氏の姉は、「認められる」事に意義があると(もしくは苹の分別がそうだと)思って居るらしい。…馬鹿々々しい。どの会派にも属さぬ馬の骨を、誰が認めるものかい。考えてもみよ、もし極右傾向の西尾読者(←喩えは悪いが?)が左翼の賞賛を浴びたら、さぞ当人は頭が惑乱するに相違あるまい。それと同じくらい書道畑の過半(?)は芸術頭で、苹とは相容れないだろうからコチラ十数年前に書道界を見限ったのだ。ただし「愛を見限った」のではなく、「見限る愛」を籠めたつもりではあるのだけれど…。
    【2014/07/24 23:38】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     前稿の引用箇所に誤記があった。孫引きネタ元の本文にある「三浦勤之助」は、文献欄の「三浦謹之助:臨床講義.医事新聞584:249-256,1901」が正しい模様。東京帝国大学医科大学付属第一医院内科教室にて、1900年10月講との事。
     真面目な人なら図書館で原本を確認するかも知れない。専門的な生真面目さと縁の薄い読者なら、内容を盲信するか半信半疑で読むだろう。重箱の隅をほじくる様なしつこい読み方を楽しめる場合は専門家に近いか変態的か(?)…だから苹は紙一重の変態属性に同情的だし、ともすれば羨ましく思う事だってある。他方、膨大な資料を渉猟しながら書く著者にとっては苦々しき面もあるだろう。慎重に読まざるを得ない心地になると、今度は自他双方向に猜疑心が乱反射して、ますます感想が書きにくくなる。
     するとこちらは感想以前に、視点を別枠に転写するなどの手法で頭の固さをほぐしつつ、多角的に模索したくなる。…話の全部が書道ネタという事は、見立ての全部が別枠に絡む事でもある。例えば近代医学以後の視点で近代医学以前の生態を解釈した際は、言語生活のみならず食生活などにも「不健康」な面がワンサカ出てきた筈。しかしながら一日三食が定着したのは明治の富国強兵が契機だったと聞くし、栄養価の高過ぎる今では一日二食(鎌倉時代の様な?)を見直す動きもあるとやら。にもかかわらず~長らく生活習慣に定着した非迷信的/科学的常識は全体との繋がりやバランスと無関係に判断の基盤をなす上、新たに組み立てられた文明開化モラルをも歴史修正(?)的な視点が脅かすとあらば、誰だって子供に「朝昼晩、規則正しく食べなさい」と教育するのをやめる訳にはいくまい。ここでは「科学の理屈」(上記例では「規則正しく」の優位)が「モラルの屁理屈」(「朝昼晩」の優位)へと裏返る。げに解釈は恐ろしい。
     他方、過去を正しく読めて居るか問い返す歴史問題の大枠が魅力的なのは、それ自体が過去を丸ごと呑み込む所に成り立つからでもあろう。呑み込まれた側にしてみれば枠は大きい方が、自前の枠をつくるに何かと都合がよい。悪く云えば隠れ蓑、虎の威を借る狐の所業。そうした受け皿、ニーズの沸点に偶々「つくる会」の運動が達したとしても、こちらとしては同情こそすれ、過度の批判を加える気にはなれない。また「言論は無力」といった言葉の場合も、あれは発したのが重鎮中の重鎮たる西尾先生だから「さまになる」のであって、有象無象(専門家を含む!)なら一蹴されるのがオチだろう。おまけに模倣や剽窃は、時に「価値を洗浄する」事がある。説得と似ている様で実は共感を逆流し、それが更なる説得の価値を増幅する。もちろん中には行き過ぎもあるけれど。如何に自分が保守的か、愛国的か、革新的か、柔軟か…数え上げたらきりがない。
     そうした「つくる会」の運動効果を挟む前後に、異色の人生論が相次いで出版された。西尾先生の嗅覚を「別枠で」読まされた気分と云ったらよいのだろうか、会長でなく名誉会長でなければ(?)書けない立場/言葉が、会長就任以前から着々と積み重ねられてきた気がしてならない。どの頁にもストレスの影がある(単行本三冊と「日録」掲載稿)。しかも解毒剤の製法まで仄めかしてあるかの様な。~著者の体験、経験から湧き出る泉を浴びた読者は、西尾柄のタオルで身を拭ったりするかも知れない。或いは夜な夜な西尾ヲタ特製の抱き枕(オエーッ!)…いや、喩えは何でもいいけれど、とにかく真似たり縛られたりする必要はない。そんな苦み走った自由(?)に屠られた記憶/各冊が、今回配本の全集巻には纏めてあるらしい。(その本2014.7.28現在、未だ届かず。)
     …てな事を、取り敢えず今夜の「TVタックル」録画中に書いてみる。
    【2014/07/28 23:26】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (補記)
     神経文字学の視点で書道脳/古文書脳は仮構可能か?…話を急ぐ。(急いでどうなる?)
     昔ながらの筆文字を読める相手に余計な説明は要らないが、読めない相手に「なぜ読めるのか」を説明するのは難しい。当方ネットでは駄文を長々と十年少々、それ以前は生身の高校生相手にガチで肉体接触を挑んだりしてきたものの(←ヤラシイ意味じゃなくて、ただの手取り指導ね)、あれでまともに通じたとは思えない。それどころか年々歳々、言葉と体験との交換原理が構造的に違うらしい事への不安は否応なく増すばかり。義務教育時代に自前の読み方が定着し終えた生徒達に全く別の読み方を教えるのは、それまでの読み方(言葉は人格を映す鑑…)を全否定する事になりかねないからだ。
     この点、不慣れな古文や漢文を題材とするのは却って都合がよい。そこを上手に軟着陸させてきたのが戦前の習字教科書だった。先ずは生身の父祖(世代)と文字感覚を同じうするギリギリの所での、全国規模で共有可能な書字規範から始める。言い換えるなら現代文と古典との、書字マテリアルにおける漸近。ゆえに国定手本筆者の責務は、後から思えば途方もなく重大だった。そこが今の、いきなり拓本図版の過剰投与(有り体に云えば古典ドーピング!)から始める高校書道とは決定的に違う。もちろん題材/文章としての古典と、書道の規範としての古典とは異なる。そこを混同されては困る。
     …ふと世紀末のアブナイ本を思い出した。女子高生が仲間連れで「援」をする。客と接触したら、なんと相手はヤクザだった。連れ込まれて複数で始める。友達は薬物どんどん打たれてて、「もっと、もっと」と喘ぐ姿はまるで別人(後で調べたら出所は黒沼克史著、文藝春秋刊1996のP.178前後だった)。…どこか書道の「古典ドーピング」と似てやしないか。過剰投与で死ぬタイプを芸術科書道選択者の大半に見立てるならば、「もっと、もっと」が書道部員のタイプ…と書くと現場の先生から怒られちまうかもナァ(汗)。熱心な学校では合宿や錬成会がある。大抵は実技練習ばかりで、座学の方は聞いた事がない。
     それは扨て置き、あらためて考えると面妖な話ではある。小三から中学卒業まで七年間、高卒までなら十年は書写・書道に「親しんでいる」筈なのに、碌すっぽ読み書きが出来ない。これが別方面なら、読み書き中心の受験英語と実用の英会話を対比させたり、或いは所謂「英語脳」といった形容で議論を組み立てる向きもある。芸術書道と実用書道の場合は視覚情報の処理プロセスが言語意識に直結しない限り「読めない」のは当然だろうが、それとて結局は程度の問題で、可読性が絵画的構造知覚を破壊する訳ではない。ただし「時期尚早」の「過剰投与」で、英語や書道が嫌いになる事はある。
     理詰めの説明や理解の仕方が問題とも、或いは「慣れ」の問題かとも。前者は書教育で欠陥が目立ち、後者への執着は英語環境の「楽天」的な対策に垣間見える。どっぷり浸かる環境があれば誰でも適応できるがごとき発想は、健常者なら欧米人にも通用するのだろう。とは云え彼の方、すぐれた文盲は数多いらしい。綴りを記憶できなくとも音声言語で間に合ったりする。日本語なら「漢字でどう書くの?」となりやすいのに比べて、英語に紛れ込んだ特殊な語彙(専門用語)は一々知らずとも意味を綴りから類推できずとも、さほど日常生活には障りないらしい(←本当かしら?)。仮に音声言語もて文字言語を呪ったところで、あちらでは果たして文字言語が音声を掴み返すのかどうか。
     この辺になると苹の手には負えない。やはりバイリンガルの方々でなければ。~掴む現実味が自然消滅するにつれて駆使できなくなった書字/文字言語と、掴みたくても駆使できないまま右往左往する英語/音声言語との間に、何か関係がありそうな気がしてこないか。一方は廃棄した結果の喪失状態で、一方は掴み損ねた結果の喪失状態。予め失う対象がある/あったから喪失なのではなく、「こんな筈ではなかった」とする理念的で欲動的な対象もまた、獲得以前に喪失を予定されたかのごとき喪失たり得る筈。なぜ幕末明治の人々が読み書きだけではなしに英語をペラペラ話せたのか、その原因を現代人は余りにも、努力や動機や方法のみに還元し過ぎてきたのではないか。
     英語を語る人の多くは英語しか見ない。西欧諸語は参照しても支那語は遠く、日本語は当たり前に過ぎて論外。その日本語とて「国語ナショナリズム」の文脈で語られる事なら多いものの、あれだって本当は生まれてから百年少々の現代文が政治的に巻き込まれただけで、ほんの少し前まで現代文だった「古文/漢文」の対概念に仕立てられただけ…と、見方次第では云えなくもない。その両者を包含するマテリアルが活字で、こちら苹は書字文語が活字文語に逐次翻訳された後で新たな「古文/漢文」イメージが捏造され定着したと見ている次第。すると英語も日本語も、日本に導入されたのはほぼ同時期(誤差は四半世紀前後?)と見て構わない事になるのでは?~議題が英語であろうとなかろうと、日本語については予め盲目となるべく仕向けられているかの様な。
     言語の普遍性についてはチョムスキーに関する本を読んだ際、霊的な胡散臭さを感じた事がある。当時の私は専ら「変形生成」の語を書道頭で勝手に援用/拡大解釈する方向だったが、もし上記の「喪失状態」にチョムスキーの云う意味での「深層構造」が関わるとしたら、あらためて読み返さないと話が先に進まなくなるかも知れない。その場合は当然ながら音声中心主義の見方でなく文字中心主義、差し当たっては大分水嶺理論と絡めて考える事になるだろう。手持ちの参考書/入門書では茂呂雄二、認知科学選書16『なぜ人は書くのか』(東京大学出版会)P.46辺りに関連記述がある。また漢字と仮名については御領謙、認知科学選書5『読むということ』(同上)P.121に第5章「日本語読語過程の実験心理学的分析」がある。

    (備忘録)
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140801/trd14080114300017-n1.htm
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    >【教育再生考 現場からの報告(4)】
    >英語教育 進む早期学習 渦巻く賛否 
    >2014.8.1 14:30 (1/3ページ)
    > 「90-30=?(ナインティー マイナス サーティー イコール?)」
    > 小学1年生の算数の授業。外国人教師の問いかけに、子供たちが競うように手を上げる。
    > 「I know, I know(アイ、ノウ アイ、ノウ)」
    > 廊下と教室を隔てる壁のない開放的な校舎から聞こえてきたのは、子供たちが話す流(ちゅう)暢(ちょう)(りゅうちょう)な英語だった。
    > 群馬県太田市などが平成17年に開校した「ぐんま国際アカデミー(GKA)」は、国語と社会科を除く全教科を英語で教える「公設民営」の私立小中高一貫校だ。日本語を話さない外国人教師が教壇に立ち、英訳された教科書で学ぶ「イマージョン教育」を実践している。
    > GKA初等部の井上春樹副校長(69)は「日本で暮らしながらバイリンガルに育てるなら、日常的に英語を使うイマージョン教育以上の方法はない。これからの英語教育の方向性を示しているのではないか」と胸を張る。
    > 実際、成果も出ている。平成23年度のTOEICで、同校の中学3年生の得点は平均572点。大学生平均の450点前後を大きく上回り、うち2人は900点の大台に乗った。
    > 一方、英語以外では課題もあるようだ。同校は今春、高等部から初の卒業生を出した。しかし開校時4年生として入学した1期生60人のうち、卒業まで残ったのは17人。大学入試を意識し、数学などほかの教科の指導に対する不安から、高校進学を機に転校する生徒が相次いだという。
    >
    > ■子供たちに負担?
    > 「私立だけでなく、公立でもイマージョン教育をやってみてはどうか」
    > 今年2月に開かれた文部科学省の「英語教育の在り方に関する有識者会議」の初会合で、社内公用語を英語とする楽天の三木谷浩史会長兼社長(49)が、こう提案した。
    > 企業活動が急速にグローバル化する中、英語のできる人材の育成・確保を経済界は強く求めている。日本ではこれまで、中学から大学まで10年近くも英語を学ぶのに、まるで使えない人が少なくない。ならば、日常的に英語を使う習慣を、小学生のうちから増やしたらどうか-というわけだ。
    > しかし、英語教育改革の先駆例として注目を集めるイマージョン教育は、子供たちにかかる負担が小さくない。英語が分からなければ、あらゆる教科で行き詰まる。母語に触れる時間が少なくなるため、漢字の書き取りや読書など家庭学習で補う努力も必要になる。
    >
    > ■小中接続に課題も
    > 英語教育の充実を目指し、小学校で外国語活動(英語)が必修化されて今年で3年。文科省が昨年実施した英語学習に関する調査では、小学6年生の約76%が「英語が好き」と回答したのに対し、中学3年生では約53%にとどまった。
    > ベネッセ教育総合研究所の加藤由美子主任研究員(49)は「小学校の英語活動は聞く、話すが中心で、英語の音声に慣れ親しむことを目標としているが、中学では読む、書くも加わり一気に学習の負担感が増す」と指摘する。
    > 同研究所が23年秋に中学1年生を対象に実施した英語に関する調査でも「小学校卒業までにやっておきたかったこと」として「英単語を書くこと」が最も多く33%を占めた。英語教育のちぐはぐさが、浮き彫りになった格好だ。
    > 教育関係者からは、「英語教育の必要性は認めるが、早いうちからやればいいというわけではない。教師が一方的に知識を伝える授業スタイルを改めるなど、量より質の向上が重要だ」との声が上がる。
    > 国が小学校英語の検討に着手したのは昭和61年にまでさかのぼる。当時の臨時教育審議会が「現在の英語の教育は長期間の学習にもかかわらず極めて非効率であり、改善する必要がある」とした答申は、30年近くたった今も、そのまま当てはまると言っていい。
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    【2014/08/04 23:41】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    日本って国は英語が必要に迫られていないから、
    上達しないらしいですね。

    ノーベル賞を取った人も、留学して居ない人もいたし・・・・

    うちの四歳の孫に英語教育を娘がさせているけれど、
    私は疑問視内緒でしています。
    【2014/08/07 21:35】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >日本って国は英語が必要に迫られていないから、
    >上達しないらしいですね。
     相手も居ないのに英会話ブツブツ→独り言が薄気味悪い→変質者じゃないかしら→(!)…てな具合に連鎖するのが、コロニーを含む同質社会では自然な感覚だとするならば、「いま勉強中なんだな」と傍目に映る環境自体が異常だったり、そこに「駅前留学」みたいな商機が生まれたり。学ぶ側にとっては駅前の「出島」化に近く、教える側は「入植者」的な立場か。いづれにしろ箱庭的(自閉的?)とならざるを得ない点では、「別の島国根性を相対的に意識化する土壌になって逆効果」と見る事も可能な筈。いっそ学問的ツールと開き直り、読み書きに徹して構わないのならまだしも。
     ただ、幼少時から外国語の発音に耳を慣れさせる意義はあるんでしょうな。しかしこれとて所詮は外側が中心の見方。内側から「方言も聞き取れない奴に外国語が聞き取れるか?」と混ぜっ返せばどうなる事やら。~最近見た再放送録画では、小泉孝太郎主演ドラマ「名もなき毒」第三回が思い浮かぶ。編集長役の室井滋が、講演録音のディープな栃木弁に困り果てていた。また数年前の2chネタでは裁判記録の津軽弁が懐かしい。「うんでもいでまるど」で検索すればすぐ見つかる。
     「共通語」的な視点を国語(日本語)と英語それぞれに中心化/規範化した上で相対化すれば、双方から方言が捨象されてフォーマルなモデルしか通用しなくなってくる。そこにブロークンな英会話を持ち込んでもビジネス英会話に徹しても、どのみち日本語と同水準かそれ以上の社会階層的TPOがいっそう微視的に要請されてくるのは仕方のない事かと。そこを学校みたいに「綺麗な言葉遣いで礼儀正しく」とやり出したら、今度は「教わらなくとも自然に覚える」暗黙知の領分が牙を剥いてくるに違いない。
     外国語の分からない苹にも、それくらいの予測はつく。厳密には日本語も方言も不得手な身だから尚更だ。…これって、ちと考え過ぎかなあ。印象上なんとなく、訥々とした高級語/雅語と流暢な幼児語/俗語くらいの落差はありそうな気がするんだけど。

    (またまた備忘録)
     先夜いつもの「考え事をする」夢に、珍しく「思い出せない夢」が出てきた。夢を思い出せないのではなく、夢の中で思い出そうとする…それは「拠」の旧字体「據」であった。千字文の何処に出てたかなあ(→思い出す前に話題が飛ぶ→)。瞼に浮かぶのは楷書なのに胡散臭い。虎構えの下部が「豕」なのはオカシイ。あれは普通なら「處」の書写体で書かれる筈なのに、納得が行かない。篆隷からいったん草略体を経て楷書にフィードバックする間、草略段階での似通った字形は字源が違っても整理統合される傾向にあった筈だし、実際そう書かれてきた。虎構えは書写体なのに下部が「豕」なのもチグハグだろ…と、そんな事を執念深く、目が覚めるまで考え続けた。
     すると翌朝、「書け~書け~」と呪った訳でもないのに産経記事が(↓)。「書写体」は一般的な語彙でない、とでも判断したのかしら。ならば今度は赤字の人を呪ってやろーかw…てな冗談はともかく、これが「ご時世」って事ならテレビでも画仙紙を「大きな半紙」と言い換えてた事だし、半紙/半截あれば全紙あり。その範囲内なら許せなくもない。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140806/art14080608500004-n1.htm
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    >【国語逍遥(49)】
    >「漢字を創る」 国字にみる大胆な「省略」 
    >2014.8.6 08:50 (1/3ページ)
    > およそ作家、文学者などと呼ばれるような人は漢字もよく知っていて、誤字を書くはずがない。ましてや明治の大文豪、夏目漱石ともなれば-。
    > と思いきや、何だ、かの漱石大先生もわれら凡愚とたいして変わらないではないかと、妙にうれしい気持ちにさせてくれる一書が『直筆で読む「坊っちやん」』(集英社)である。帯には「漱石先生『漢字検定』不合格ぞなもし!」の愉快なコピーが躍っている。
    > 「坊っちやん」の直筆原稿を読むと、いきなり表の(1)~(4)(左は漱石の筆跡を本欄筆者が模写したもの、右は通用字体)のごとき見慣れない文字が続出する。もっとも、これらがどれも誤字かといえばそうとも断言できないようで、古い時代には俗字体として多くの人が使っていたものもあるらしい。正誤の判断は一筋縄ではいかない。漱石は筆名の「漱」も(5)のように書くことがあった。
    > 『見えない文字と見える文字』(三省堂)の著者、佐藤栄作氏は、中国・清の康煕帝の勅命で編纂(へんさん)された『康煕字典』が日本に伝わって以降、康煕字典体と合わない伝統的な字体の地位が急落したと指摘する。一字に複数の字体が存在し得ることが漢字の特徴だと捉える氏は、「一つの漢字には一つの字体」が浸透したことで、「漢字の漢字らしさを、この200年で失っていった」と残念がる。
    > そこであらためて漱石の自由奔放にも見える筆跡を眺めやると、漱石こそは漢字の漢字らしさを存分に楽しんだ作家ではないかと思えてくる。
    > 「漢字らしさ」といえば、容易に新しい字を創りだせることもまた、漢字の大きな特徴だろう。古代中国で発明されてから今日まで、漢字は限りなく“増殖”を続け、5万とも10万ともいわれる数にまでなった。
    > わが国でも漢字(国字)が量産された。複数の漢字のパーツ(部品)を結合させればどんな漢字でも創ることが可能で、そのような結合によって「働」や「峠」などの国字が創られた。結合に際し、筆画が大幅に省略されることもあった。
    > (6)~(8)はいずれも『国字の字典』(東京堂出版)に載る国字を模写したものである。(6)はシャカ(釈迦)、(7)はボサツ(菩薩)、(8)はコンゴウ(金剛)と読ませているが、よくもまあ、ここまで大胆に省略したものだと感心せずにはいられない。
    > 私も実際に卒塔婆に(7)の文字を見かけ、その字をササボトケと通称する人たちがいるのも知っている。草冠をカタカナのサに見立てたものだろう。
    > どんなに難しい漢字でも情報機器が瞬時に打ち出してくれる当今とは違って手書きの昔は、人は少しでも書く面倒を省こうと工夫を重ねたに違いない。経文などに頻出する「釈迦」「菩薩」「金剛」も、右の国字を使えば随分と省力化される。もちろん元の字を忘れてしまっては困るのだが、古人は案外、漢字を創り出すことに楽しみを覚えていたのではなかろうか。
    > 弊紙などが主催する「創作漢字コンテスト」にも省略を用いた作品が毎回、数多く寄せられる。写真は前回の選考結果を伝える紙面(昨年12月24日付)の一部だが、Z会優秀賞に輝いた「●」(よてい)もやはり「予」と「定」の一部省略による合字である。
    > 審査を手伝うなかでこの字が特に気に入った私は紙面でも、漢字には生活に即して使いやすいように変化したものがあるかもしれないと評した。手帳に予定を書き込む際、「●」を速記文字のように使ってみるのも面白いと感じられたのだった。
    > さて現在は、第5回「創作漢字コンテスト」の作品を募集中である(9月19日到着分で締め切り)。コンテスト事務局(電)03・3275・8134)などで詳細をご確認のうえ、奮ってご応募ください。(清湖口敏)
    >●=マの下に疋
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    http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/v-006/
     附表の四字は同書P.63「異体字について」の模写。この類の多くが所謂「書写体」で、狭義の異体字は造字構造がガラリと変わったり別字の要素が共用されたりする。多くの字例を見るなら書道字典が便利だが、たぶん使いにくい筈。その点、水野栗原『千字文異体字類』(近藤出版社)は楷書限定ゆえ分かりやすい。読み物と割り切るなら江守賢治『解説字体辞典』(三省堂)が必携の一冊。
    http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen2lang/invisi_visimoj/
     それより興味深かったのは、この記事で初めて存在を知った「佐藤栄作」本。ネットであれこれ調べたところ、核心部分が苹の見方と近似しているらしい。そう捉えてよいなら、「見えない文字」は深層構造に潜む包括的文字概念。「見える文字」は表層構造で分化した具体的書字/文字像。~まだ読んでいないのに胡乱な奴と思われそうだが、過去十年余りの拙稿を裏付ける(?)書物がやっと読めるのかと思うと嬉しくならない訳がない…。

    (更に脱線~附録)
    http://youtu.be/DCawA6r9biQ
     原稿を楽譜、活字出版物を演奏に見立てると、gerubach動画群(例↑)がすぐさま思い浮かぶ。半年ほど前に発見した時の強烈な印象は終始一貫、どれも常習性や眩暈などの危険な中毒作用に満ち溢れていた。音楽(特にバッハ)を愛好する方々は要注意。お初には取り敢えず無難そうな(?)フランス風序曲を出しとくけれど、無伴奏vcでは自筆譜と出版譜が同時に流れるなど、やたら手の込んでいる所が頗るマニアックで面白い。
    【2014/08/12 02:24】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    ふろくが面白かったです。

    【2014/08/15 20:39】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (念のため…補記)
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1455
     前稿の細部を推敲してたら「日録」更新が(↑)。それ見た直後に慌てて投稿したけれど、あっちに言及すればもっと時間がかかるし、「更に長くなる」のは避けたい。そもそも「佐藤栄作」ネタの一部だって、短縮する前は内容こんなだったし(寝惚け気味で書いたボツ稿↓)。
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    > 著者の云う「見えない文字」は、苹の言い回しだと「深層構造」に相当するらしい。苹は書かれた文字を表層構造上に捉え、それが文字認識を司る深層構造へと理念的に到達した時点で文字認識されるとした。喩えるなら~理念的な深層の鵜匠が、表層にある鵜のごとき様々な書体を操るイメージ。鵜は様々な文字/言葉を飲み込むが、それらは消化されぬまま脳内鵜匠にエンコードされると同時にデコードされる。これが変形生成であり、その文法(識字アルゴリズム)は変形自体(多様性)とも生成自体(解釈性)とも異なる場所で、両者を理念的なままオリジナルに司る。そこには書風も書体も字体もなく、これらはなべて対象の次元に属し、つまるところ識字アルゴリズムとは関係がない。だから漢字と仮名は万葉的対象次元で互いに突き抜け合う共立可能性を有する所から始められたのであって、むしろ漢字と仮名がそれぞれ共立不可能な次元へと分化したのは、漢字と仮名それぞれが概念としての輪郭を表層への移行過程で獲得した後になる。
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     これでは言い回しに若干のフライングが感じられる(元々のクドさとは別)。また基準文字像にも留保が残る。今でこそ漢字の基準は楷書(と云うより活字)だが、幕末以前は行草の比重が大きい。つまり基準に「細部は含まれない」。曖昧な骨格としての深層から表層へと具体化される時に細部が付加されるので、異体字に見られるタイプの差異は深層の基準と関係がない。(←この感覚は今でも平仮名に生きているのだろう。「そ」の上部に「ソ」型と「フ」型の基準がない様に。)
     「楷書がくずれて行書、更にくずれて草書になる」ストーリーも今では間違いとされているが、昔そうではなかった。さもなくば「国(國)」や「衞(衛)」などの日本式「草書」(筆順が違うのネ)は生まれない。現行の「正しいストーリー」が普及・定着したのは敦煌発掘以後の二十世紀で、史料の大半は大英博物館やフランス国立図書館にある。それはあくまで支那の文字史。日本伝来後の識字史ではない。

    (以下、奥様宛)
    >ふろくが面白かったです。
     毎度々々、ともすれば専門的なクドさが出て相済みません…(平伏)。あの附録を出し渋った理由は自身の眩暈にありますが、その後マタイ冒頭の児童合唱「ご開帳」に大笑いしたり、ゴルトベルク各変奏の一部冒頭で現れる三段譜にハッとさせられたり、見れば見るほど味があって疼々してました。また~演奏は本来なら融通無碍な筈なのに、音源として固着すると活字出版物と何ら変わらない性格を帯びてくる事にも目を向けずには居られない。
     ところで…装飾音は音符の草略なのか、それとも敷衍なのか。音楽の専門家なら基本、そこんトコどう捉えてるんでしょうかねぇ。素人の愛好家には縁遠い世界ながらも、何かヒントが隠れているには違いない…。
    【2014/08/16 07:49】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


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