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    田母神応援とフランス漫画祭への失望



    今回は大切な内容がもう一つ!

    以下はある人の総理大臣への手紙。
    内容が私が思っていることと同じなので、転送します。
    それにしてもフランス、失望したよ~~~
    南フランスに親近感を持ったばかりなのに、、、

    まったく!!!(怒)

    日本の外務省は何してるんだ。だいたい、賠償済みのようなニュアンスはおかしいよ。
    慰安婦問題はないと言わなければならないでしょ。

    安倍首相閣下

    閣下におかれましては、フランスのアングレーブで開催された漫画展において、韓国側の日本を貶める慰安婦捏造漫画展は許可されたが、韓国の捏造慰安婦に対抗して慰安婦の強制連行は無かったことを訴える日本の漫画展は政治的だという
    理由で突然フランス側主催者に撤去された事をご存じかと思います。撤去の理由が政治的漫画だからというならば、撤去されるべきは、日本を貶める為に官民挙げて推し進める「ディスカウントジャパン」運動としての韓国の慰安婦漫画展こ
    そが先ず撤去されるべきなのです。漫画祭実行委員のニコラ・フィネ氏(アジア担当)は産経新聞に「日本の展示団体は極右団体で、彼らに展示はさせない。これは表現の自由の問題ではない」と日本の主張を切り捨てたそうです。

    日本にとってはクールジャパンを標榜する“文化イベント”のはずが、主催者側の一方的な韓国優遇で日本を誹謗中傷する政治的プロパガンダの場となったのですが、この経緯は余りにも不自然であり見過ごすわけにはいきません。日本側に反論の場を与えず有無を言わせず展示会から追放した主催者側の仕打ちは余りにも無礼であり国際感覚からはずれています。フランス人の観客はこの漫画展を見て、「こんな歴史があったことを初めて知った」「ショックを受けた」「子供には見せられない」などと、韓国の展示を鵜呑みにする人たちもいたと言います。民間の催しとはいえこのまま見過ごすならば、日本はますます慰安婦問題で韓国の陰謀に打ちのめされ、取り返しのつかない禍根を末代まで残す事になります。

    クールジャパンで観光客倍増の国家戦略も、韓国の陰謀の前に潰えざるを得ないのは目に見えています。この期に及んで政府の不作為は絶対に許されません。死にものぐるいで日本を貶めようとする韓国に立ち向かうには、日本も死にもの狂いであらゆる手段を労して韓国に対抗するしかないのです。手始めに、追放されて漫画展を開けなかった日本側出展メンバーに会場を確保するよう、外交チャンネルを使ってフランス政府に申し入れて下さい。埓があかないのならば、その時は日本大使館を開放して大使館主催の漫画展を開催して下さい。慰安婦問題では日本の名誉のために民間が死にものぐるいで頑張っていますが、それにも限界があります。総理、いよいよ国家がおもてに出て日本に降りかかるこの厄災を払って戴だかないと、日本の名誉は泥まみれになります。

    戦争に負けた日本にも失ってはならないものがあるはずです。
    それは名誉であり誇りであります。
    首相閣下におかれましては、靖国の英霊のご加護を信じ、日本の為にご決断下さいますよう衷心よりお願い申し上げる次第です。

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    【2014/02/01 09:31】 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(37)
    この記事に対するコメント

     このところ日本の文化、歴史と伝統、昔話といったものに目が向く様になってきたのは好ましい傾向なんだろうけれど、時には度が過ぎると目をひん剥く事になる…(汗)。
    http://www.dailymotion.com/video/x1an0t2_hozuki-no-reitetsu-04_fun
     例えばコレ(↑)の12:34以降。BSで放送中の深夜アニメ「鬼灯の冷徹」は地獄の蘊蓄てんこ盛りで質が高いとは思うものの、それなりに戸惑いもあった。ところが第四話の後半「かちかぢごく」では迂闊にも見事ツボにはまり、果ては「恨」~日韓関係の「心の闇」(笑)まで、当方あらぬ連想が及んじまったから困ったもんだ…(orz)。その辺を深読みすると、意外な視点が発見できるかも知れない。
    (おのれ狸 おのれ狸 おのれ狸 おのれ狸 おのれ狸…)
     日本人はウサギ小屋に喩えられる規模の家に住む一方、韓国人は日本昔話「かちかち山」に出てくるウサギのごとく(?)狸を恨む。まるで狸と日本人の区別が崩壊しているかの様な。しかし日本人とて田舎では百坪前後の土地に二階建ての持ち家が少なくないし、韓国人だって皆が皆「かわいいのに獄卒根性」ではあるまい。尤も双方、付和雷同の誘惑に屈しがちな共通点など、色々ありふれたスイッチはあるのだろうが。
     あの半島では地獄文化どうなのかしら。もちろん中国のも興味深い。上記アニメを隣国人が見たら、彼らは日本の鬼をどう思うのかなあ(日本鬼子!)。こちらのネタの方がアングレームには相応しかった気がする(↓)。
    http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140115/ent14011512000004-n1.htm

    (余談)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1580.html#comment
     以下こちら(↑)の続きになるけれども、天バカ板(↓)に先月末、予定のを出した。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/
     昨夏ここで出した、ヒトラー絡みのネタを含む投稿群。当時の麻生閣下相手では物足りず、中には大袈裟な疑惑を田母神候補や安倍政権に向ける筋があるかも知れないが、苹はそもそもヒトラー理解を疑っているのだから、その後に蓄積された理解をも疑うのが姿勢としては当然。
    【2014/02/04 22:07】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]

    私も漫画祭についてエントリーを書いてみました。
    関連が低いかなとトラックバックはしませんでしたが、私も漫画祭についてエントリーを書いてみました。
    http://www.emmanuelc.dix.asia/ja/2014/02/05/festival-international-de-la-bande-dessinee-dangouleme/
    英語でエントリー書く元気がないどころか、 Facebook や Twitter で聞いた事さえきちんと書ききれてはいませんけど…
    私も Togetter で批判を見てやっと気づいたのですが、漫画祭で漫画と訳されている(英語でも Comic と訳されているが…)のは、 bande dessinée (バンド・デシネ、フランスの漫画)の事で日本の漫画という意味ではないそうです。なので、クール・ジャパン云々というのは間違いみたいです。
    このようにアニフェスとかコミケの類とは違っていたのを誤解していたり、後、元々社会問題を扱う趣旨だった事とか、そこを間違えて失敗した部分はありそうです。
    【2014/02/05 16:42】 URL | Emmanuel Chanel #UJgkTtCY [ 編集]


    > Emmanuel Chanel さん
    久しぶりですね。
    外国とのやりとりはいろいろニュアンスの違いなど、
    誤解しやすいですよね。

    まぁ、とにかく韓国のやり方に負けてはいけませんね。
    【2014/02/05 21:16】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    総理大臣への手紙
    奥様へ
    総理大臣への手紙、私も全く同じ思いです。ところがこのyou tubeをご覧ください。
    http://www.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=7xAZjZAWKTQ&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3D7xAZjZAWKTQ%26feature%3Dyoutu.be&app=desktop
    今回はがんばって五分五分で、これからもこういうことがエンドレスに続く、と上念氏が嬉しそうに言っています。また2分31秒のところでは、アナウンサー(?)がよいしょして「産経新聞の報道では主催者は韓国の行ったことすべてに不満、と言っている」と、真逆の発言をしています。
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/140202/erp14020221470004-n1.htm
    記事も少しおかしいし記事の見出しも内容と全くあっていません。
    特に上念氏の発言には、民間の壮絶な努力に対する感謝も全く無く、国を思う気持ちも微塵も感じられません。
    【2014/02/05 22:34】 URL | Bruxelles #qXcWIg3k [ 編集]


    >Bruxellesさま
    見てみました。
    日本は今までこういったことで、全く手を打ってこなかったので、
    今回の件は政府にもいい勉強になったでしょうね。

    韓国って、いつでも同じようなことをしていますね。
    政府は賠償済みというのではなく、『従軍慰安婦』はいなかった、慰安婦はいたけれど・・・と、きちんと反論しなければいけませんね。ナチスと同等の扱いにしようという、悪意とずっと戦わなければなりません。
    【2014/02/06 20:36】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     所謂「尖閣戦争」勃発後の2010年10月、「ひのもとおにこ」プロジェクト(?)が発足。ほぼ時を同じくして「鬼灯の冷徹」草創期作品が発表、改題連載と単行本化を重ねて本年、アニメ化に至った模様。そうした丸々三年の熟成を踏まえ、見方次第では中国を意識した上での日本的「鬼」描写が発信され続けているかの様でもある。にもかかわらず政治的な色彩は極めて薄い(ただし当方、原作漫画は未読)。
     異色の成熟は充分な時間と丹念な手間暇を要するのだろう。或る意味そこが素晴らしい。漫画の脱風刺化が風刺の刺激性を沈黙させ(暗喩化)、後には漫画本来のエッセンスが残る一方、野生の風刺性は文学に接近する。この構図は伝統的かつ歴史的で、過去の例では水墨画と画賛の関係に近い。また「おにこ」自体は初期の「守り」の段階であって、今は日本の鬼が「攻め」の段階に入ったかの様にも見える。
     似たプロセスは音楽でも窺える。作品が「古典になる」瞬間を意識させた例では、カラヤンが新ウィーン楽派のアルバムを録音した際の批評、19世紀的演奏様式から新即物主義への変化、オーセンティックな古楽演奏の勃興などがある様に。その間を貫くのは原典重視姿勢。伴う価値観の中身は時代に応じて変化した。メンデルスゾーンはバッハの楽曲自体を発掘復興。フルトヴェングラーのブルックナー演奏はシャルク改訂版でなく原典版。どれも後の演奏様式から見れば古めかしいが、それぞれの時代に即して「古くとも新しい」。
     たとい動機が中国の横暴に発したものでも、鬼は明らかに古典の文脈へと寄り添う。ならば日本の文脈を国際的に紹介する上で、所謂「従軍慰安婦」の物語はどうか。…韓国側と同じ土俵の海外試合もどきが一種のテロを連想させる感覚は理解できる。漫画「はだしのゲン」は雑誌連載時たいそう不人気だったと聞くが、あれは読者の意識が低いからではなく、漫画の「面白さ」を作品自体が内発的に蹂躙してきたからではないのか。
     寄席での演説を「これも落語だ」と強弁されても傍迷惑。落語を知らない人なら「そうか、落語は真面目な演説を含むのか」と信じ込むかも知れない。それと同様、あちらの漫画と異なるエスニック漫画として日中韓のを学び直されても困る。寄席に演説もどきの茶番を持ち込む韓国に対し、隣接スタイルで論駁して何になるのやら。~動画の雰囲気(↓)を見る限り、テキサス親父は場所を弁えて居なかったのではと疑いたくなる。
    http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1391493397/l50
    --------------------------------------------------------------------------------
    >441 :名無しさん@13周年:2014/02/05(水) 20:04:05.15 ID:d0na+wu7P
    >動画回転数をあげて韓国のプロパカンダを注目させよう
    >
    > テキサス親父による漫画祭の様子。
    http://youtu.be/fiw3eMQD7ms
    >
    >テキサス親父日本事務局の動画
    http://youtu.be/VzXiCIfOPqQ
    --------------------------------------------------------------------------------
     以下、どうでもいいけど前掲「かちかぢごく」の名台詞。
    ・ウサギ獄卒「あ、それとも、うんこ食べます?」
    ・下級獄卒「いやぁ、こうだったら誰もウサギに同情しませんよ」
    【2014/02/08 01:29】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (補記)
     先夜は漫画祭の場を寄席に喩えてみたけれど、たぶん隣にゃ馬耳東風のまま。ならば日本は何をすればよいか。もう「従軍慰安婦はなかった」路線では生温い。いっそ「ないのが当然」を背景とする所まで踏み込んで、日韓併合時代を思いっきり薔薇色に描けないものかしら。当方いい加減、政治面や歴史面ばかり取り沙汰されるのにはウンザリしとる。文化面や人情の機微は当時どうだったのか。時代劇でさんざっぱら描写ノウハウを培ってきたのに、舞台が江戸や戦前日本ならよくて半島は駄目って事ァないだろう。背景は史実に即しつつ、それでもなおイメージ上の抵抗あるなら、この際「おにこ」みたいに「上書きしてしまえばよい」。お家芸でここぞとばかり、マニアックな深読み意欲を掻き立てる仕掛けに工夫を凝らすのでござる。
     …でもネェ。学者や研究者は根が生真面目なせいか、なかなか世紀末のNHK人気番組「お江戸でござる」みたいなのは書いてくれないのよね。史料が少ないのなら書けなくても仕方ないけど、そうでないなら試して欲しい。さすがに「萌え萌え半島プロジェクト」では命名ふざけ過ぎかも知れんが、そんな下支えのシンクタンクがあってもよい。なにしろ戦前は韓流/日流ブームの極致(=併合)で、玄界灘を行ったり来たりしてたのは紛れもない事実だろ。戦後帰国せずに居座った「在日」達もたんと居る(なぜだ?)。そこんとこを遡って平和に萌え萌え解釈、あくまで戦前のを平時の話と捉える。ストーリーの展開上まだ起こってもいないのに、わざわざ予め戦時中や戦後を前提すべきではない。
     差し当たって史実に詳しそうな古田博司先生なら、この辺どう考えるのかなあ。余計な戦中戦後や併合前に振り回されず、ひたすら虫眼鏡で併合時代だけを見るの。話はそれからだ(←慰安婦云々は後の出来事)。もし可能なら文学でも漫画でもアニメでも、見直しの余地や裾野はグッと拡がってくる筈。個々人の物語にとって、顧みれば歴史は魔物だ。
    【2014/02/13 03:37】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (補記の続き)
     前稿を読み返すと、まだまだ言葉が足りない様で落ち着かない(汗)。~戦前なら慰安婦が居ないのは当然(←ここで失笑が出る筈?)である一方、それを政策でなく生活の側から見れば何が浮かび上がるか。差し当たり併合から日中戦争突入まで(1910~1937)を平時とすれば、その間の一切合切が背景となって次の出来事へと続いていく。ところが現在、背景の印象が日韓では大違いとなっている模様。
     戦前の平時(併合期)であれ戦後の平時(所謂「漢江の奇跡」)であれ、日本の資金とインフラを大量投入した経済成長時代が相対的に薔薇色でなかったとは考えにくい。にもかかわらず~と云うより、だからこそ日本側から見れば、イメージどん底の慰安婦云々とは落差が大き過ぎて戸惑う事になる。他方、半島側では薔薇色時代との落差自体が存在してはならぬのかも。イメージの断絶なき「虐げられた歴史」の連続性を象徴するのが慰安婦問題の実相と見るなら、先ず背景を薔薇色に染める所から始めねばなるまい。
     そんな事は誰でも分かっている筈。でも出来ない。慰安婦問題が栓になっているかの様で、瓶の中からは薔薇の香りがして来ない。いつの間にか敗戦間際のイメージで戦前を捉えるのが癖となってしまい、それが日本側でも独特の作用を齎しているのでは。こちら内地は物資の不足に喘ぎ、空襲に悩まされ、果ては原爆投下に至る。…ところで当時、半島には空襲がなかったとか。日本が半島の防波堤となった。半島が焼け野原になったのは戦後の戦争で、その意味/差異が戦後日本の生活感覚にはピンと来ない。
     大東亜戦争と朝鮮戦争を混同する様に仕向けられると西洋人は弱かろう。存外ここにも隠れた誤解があり得るのでは。論理的に混同するから、戦前の薔薇色半島が想像できない。問題で「ない」から問題に「しない」と問題に「ならない」。前者では敗戦国の一地域なのに被害国の様に振る舞い、また後者では戦勝国の様に振る舞う理由も、そうした面から見れば少しく腑に落ちるのでは。戦争ロンダリングによる対外的イメージ操作(プロパガンダ)は、無言かつ無意識のうちに遂行されねばならない。
     「それと従軍慰安婦と、何の関係がある?」…たぶん、関係があるのではない点に関係がある(つくられる)。慰安婦問題を中国勢が支援する理由について怪訝に思っていたら偶々、朝鮮戦争の背景が浮かび上がってきた。考え過ぎだろうか。第一の牙は日本相手(大東亜戦争慰安婦)。第二の牙は米国相手(朝鮮戦争慰安婦)。どちらも中国にとっては都合が宜しかろう。
    (以上は昨夜から今朝にかけて、主にいつも通りの泥酔稿。)

    (番外~同日21:30頃)
     …やっぱ書いとこう。雪が出鱈目に降ってますなあ。お見舞いをば。
     これだから危機管理は自衛隊なんだ。都民の事に横から(北から)口を出すのもどうかと思い黙ってましたけど、こっちでは毎年恒例ゆえ危機感(危機対策ではない)が麻痺してる面もある。そこに来た来た舛添都政、お手並み最初のバロメータ。採点どうなる事かしら。どこでも除雪費の枯渇は珍しくない。頼みの綱は土建業者の除雪作業なれど、ブルドーザーやトラックは老朽化が著しい。除雪用具は雪国必須の武具一式、すわ豪雪と県民皆兵、ブル援軍を待つ籠城戦が始まる。それが当たり前だから危機感がない。危機対策すれば危機感がなくなる(と錯覚できる)。そこに余裕と礼儀が機能するのかも。四季が民度を鍛え育むって事かしら。さもなくば生活できない。雪は軍よりも強し(…ん?↓)。
    http://www.youtube.com/watch?v=chXK5iD_ELs
     あれば読みたくなるのが、タイムリーな「西尾幹二の豪雪体験記」。ご多忙で書いてくれないだろうけど、都知事選の感想を締め括るには恰好のネタになるだろうなあ。この際ゲストエッセイでもいいや、東京にとって雪とは何か。…その日も確か雪が降っていた。若手将校が突入し、(以下略…積雪35cmとの事↓)
    http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki18/index-j.html
    http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-143.html
     あと…今朝のを出した後、これを読んでガックリきた(orz↓)。取り敢えず告白。
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/140215/kor14021518010002-n1.htm
    【2014/02/15 07:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    そうか、そちらでは大雪は日常なんですね。

    こちらは関東が大雪なのに、ちっとも降りませんですた。
    雪だるま、つくりたかったなぁ。
    【2014/02/16 21:29】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (余談~緊急投稿)
     昨秋は日展で不正審査、今度は全日展(日展とは別物)で幽霊出品が騒動になってる模様。…そう云や昭和の頃に誰かから声が掛かり、付き合いで出品した事があったっけ。そしたら当時の苹レベルでも書芸大賞(だったかな?)とやらで幻滅、以後それっきりになった。平成に入ってからは読売展での秀逸が最後。あれこれ煩わしくなって社中展にも出さなくなった。書く時間を授業の教材研究に回したかったし、基本姿勢は「部活より授業優先」だったし。それが拙かったのか、可能な限り真面目に授業を工夫しても勤務評価に結び付かないのが高校の芸術科目。やりたい事やった挙句クビになったのだから本望ではあるけれど、なんだかなあ。
     公募展にもピンからキリまであるけれど、どんな仰々しい賞を並べたところで中身が伴わなければ話にならない。誉れと云えば誉れなのだろうが、わざわざ表彰式へと貰いに出向かねば失礼にあたるレベルだと却って気が重く、初めから出品しない方が落ち着ける事もある。さりとて自分のレベルを確認したい気持ちも半分とあらば、そこで脳裏を過ぎるのが架空出品…匿名出品。昔と違ってネット匿名時代とあらば尚更だ。あり得ない話ではない。入賞歴が論外レベルなら匿名で構わない。そのまま捨て置けばよい。所詮どこでも出品料は捨て金だし、賞金が出る訳でもない。
     要するに、賞が欲しいのではない。入賞者の気持ちにも色々あるのだ。誰が書いたか分からないから自作自演を疑う、そんな外野もあるにはあろう。しかし出品者側にしてみれば、例えばハンコが同じで名前が別…つまり自前のハンコがないから仲間内で使い回してるだけ…そんなの学生レベルなら山ほど居るぜ。全日展とは実際そうしたレベルの公募展なのだ(昭和当時)。嘗て一度だけ出品して入賞した苹が証言しているのだから間違いない。(尤も、苹の場合は実名出品だしハンコも自前だったけど、あれは高校時代に授業で刻ったモノじゃなかったかなあ。)
     それを何処の馬鹿どもが大袈裟に騒いだのやら、こちらは呆れ果てるばかり。況んや、政府の大臣までもが真に受けているとあっては看過できない(↓)。もっと冷静になれ。
    http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140218/crm14021811590002-n1.htm
     もし疑惑が本当なら、それはそれで対処すべきだろう。しかし世間では、入賞歴を恥と感ぜられる事もある。なぜ日展や読売展や毎日展でなく全日展なのかと。それだけ書展ヒエラルキーへの視線は苛烈で難しい。~因みに龍源齋大峰(産経国際書会常任顧問、全日展書法会会長)は全日展での役職を辞したとの事。
    【2014/02/18 16:45】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹さん
    あれってどういうことか、私には理解不能でした。

    あの例の音楽も現実に残り、
    その書も現実にあるんでしょう?
    【2014/02/19 22:46】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    (蛇足)
     他にも騒動と云えば、差し当たっては佐村河内守ショック。あたしゃ聴いた事はないけれど、『レコ芸』2011.9号p.96の月評(宇野功芳)によれば交響曲は相当に暗いらしい。冬季五輪のフィギュアではソナチネが使われたそうで、マスコミでは演技と音楽の関係が取り沙汰されたりもした様子。…それで思い出したのが東京五輪決定時の仄暗き妄想。あたしゃ夢の中で大いに期待したネ。日本的どよめきが一斉に起こりそうな作りなら、シンクロナイズドで足をニューッと突き出すのが効果的だろうと。(曲は勿論コレ♪↓)
    http://www.youtube.com/watch?v=LtplzMFwItE
     それはそうと全日展の件、どうやら今回も騒動の火元は朝日らしい(「馬鹿ども」扱いしてゴメンね♪)。…中国は書教育に力を入れつつあるのに(中華文明の偉大なる復興?)、日本の足は引っ張るつもりなのかしら。それとも、まさか書道国会議員連盟の発足が気に食わなかったとか?(↓)
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=340
    http://www.nakatanigen.com/modules/archive/details.php?bid=767
     あっしの前稿は全日展を貶しているだけの様に見えるかも知れないが、本当の事だから仕方がない。全日展の上位賞レベルだと読売展では入選できない。また読売展の秀逸レベルだと日展では入選できない(最低でも特選レベル、読売新聞社賞レベルで五分々々)。しかし高校生の書道展よりは全日展の方が要求水準は高いらしく、その点ではクオリティを信頼してよいと思って居る。平たく云えば大学書道科生レベルでも月並みな方で、だから苹でも入賞できたという事。どのみち書家基準(読売特選レベル以上)では論外の扱いでござんす。だから経歴上は、作品はあれども(返却後に破棄されようとも)栄進した場合は後になるほど表沙汰にするのが恥になる(汗)。
     それより気懸かりなのは知事賞の行方。文化振興目的が「主催者側」(その中身は「学生レベルの出品者」群)に汚されたのを口実に撤退するのなら、やがて各地の新聞社も農協も放送局も軽々には協賛できなくなっていくだろう。~学校単位での出品が問題視された例は数年前に大分県で発覚した。その「学校」の部分を主催者に置き換えると今回のケースになる。つまり主催者には今後、出品者に対する監督責任が要求される事になる?…馬鹿々々しい。そこまで面倒、見てられるか。
    【2014/02/20 01:20】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (2014.2.23稿)
     小林芳規(よしのり)…なるほど、漢字で書くと…てな具合に勘違いした事がある(恥)。都知事選の「田母神としお」で人違い…はなかろうが、漢字を間違えると無効票になるなら、「としお」を「止之於」と楷書で丁寧に書けばどうなるかしら。いまさら聞けない内緒の話、試すに試せない本番の誘惑。「安倍」が書けなくて「変体仮名で書いた」と強弁する余地はあるのかいな。書道パラノイアもここまでくれば完全にビョーキ。
     妄想は宇宙だ。改名したら難しくなった石橋湛山を昔の名前(省三)で書いたなら。芸名やペンネームの方が有名な例は数多い。が、無名であっても多くの書家は雅号を持つ。その方がややこしい。どれも頻出字ばかりで、太郎や花子みたいな「ありそうで、ない名前」とは異なり「本当にある」。ひねくれてる場合は「読めない」「字が出せない」と散々だが、あり過ぎると今度は印象が匿名、偽名、通りすがりと大差ない。これでは朝日の記者でなくとも胡散臭く見えてくるだろう。出品数が一人一点と制限されてない場合(例えば全日展)、苹も複数の名前で書き分けたくなる。ただし鈴木翠軒系の苹軒、日下部鳴鶴系の苹鶴、上条信山系の苹山では余りに安易、語義からしてメチャクチャだ。古典に「鳴鶴日下」の語があるのとは訳が違う(蒙求集註)。かと云って念入りに仕立てると、今度は別の意味で詐欺師同然、「今や罠にかかった」と相成る(…ん?~連想09:14以降↓)。
    http://www.youtube.com/watch?v=YVDYkqbbM6I
     …ところで、ふと朝日の全日展ハンコ疑惑記事を思い出して連想したのだが、そう云や何紹基には何子貞って名前もあったよな…(清雅堂のコロタイプ本は大抵そうなってる)。…で、そのハンコを逆に読めば「貞子」になるって訳だ。(キャーッ!)

    (2014.2.24稿)
     どうにも腹の虫が治まらないから、以下、書道の初心者・素人向けに徹して書く。
     書塾の師匠が清書を見て「大人の字だな」と言った。前提は「子供の字」で、「それにしては」と云う訳だ。普通の子は土曜の午後に半紙一帖(二十枚)で終わり、苹は五帖くらい書く。すると夕方になり大人がぞろぞろ集まってくる。自然と大人の字を見る様になる。~初めて読もうとした時、いきなり草書や変体仮名が読めたのには驚いた。読む前に先ず見ていたからだろう。また何十枚も書くと自然、筆順が筆脈を導く。
     すると形が崩れる(要するに下手w)。「字の乱れ」と云えば聞こえは悪い。しかしそれが草書や仮名には好都合で、「乱れるからこそ読める」という事実に気付いた時はもはや驚かなかった。むしろ納得した。下手な事と読める事とは関係がない上、「読める字は下手な字」という顛倒が周囲と私とを分かち、認識が「読める字にも上手い字がある」へと変化したのは一瞬の出来事だった。ただ後々、上手さと認識との関係が影絵の様に自他の訣別を促し始めたのには参った。
     いつも、そこに立ち返る。だから多分、昔話しか「しない」苹は世間から見れば病んでいる。健全なる文盲になれなかったのを恥じる気分…とまで云えば嫌味になるかも知れないが、近代がそう映るのだから仕方あるまい。上手くなろうとして上手くなった事は滅多にない。それより認識の方が嬉しい。そこに近代が伝染したのかも。なぜ日本は芸術を捨てたのか、明治維新を振り返れば納得できる気がする。ここでの芸術は輸入品でしか居られない。捨てたのではなく滅びたのだとしたら、健全な認識は〈外〉にこそ宿る。
     体験的な理屈を拵えようとしても、今や書家には太刀打ちできない。だから書家は教育に相応しくない。師匠は何処に消えたのか。学校は師匠を排除し続けて居るし(教育家より芸術家が上?)、教師は生徒の内なる師匠を覚醒させまいとする努力に余念がない。なにやら近代の呪いを感じる。当たり前だった事が当たり前でなくなった瞬間に理屈が始まるとしたら、これは一体どういう事になるのやら。
     …何故こんな事を書き始めたのか。きっかけは内閣総理大臣賞(等々)。ふと思い出して検索したら同賞いくらでもあったのネ。それも子供の書道展で。全日展は生涯学習を視野に入れた公募展だが、子供は排除されている。そこにヒントがありそうな気がした。
    【2014/02/25 20:46】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (全日展、拾遺)
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140228/art14022817090003-n1.htm
     どうやら疑惑は本当だった模様…(orz↑)。書道に顕著な展覧会ビジネスが肥大し続けた挙句、遂に限界へと達したのかも。その文脈でなら理解しやすい。戦前の巨大書道展では泰東書道院(昭5)のが代表的で、総裁には大勲位の東久邇宮稔彦王殿下を戴いたが間もなく分裂(昭7~)、最後に大同団結したのは大東亜書道会(昭18)。短期間に離合集散が繰り返された。
     日本書道作振会(大13)から数えて九十年になる巨大書道展史の大半は或る意味「戦後ビジネス」の範疇にあり、戦前と比べれば肥大の規模も勢いも顕著だった。中でも毎日展が華々しかった様だが、昭和五十年代末には重鎮クラスが門人を引き連れ大量脱退、読売展に移籍する。爾後三十年間、二大書展がお互い睨み合いながら日展を翼賛(?)しつつ現在に至る。
     そうした渦中、有象無象の弱小書展は生き残ろうと青息吐息の様子。他方「頭がよかった」のは朝日で、はなから公募などせず重鎮だけの二十人展を開催してきた(昭32~)。最もコンパクトでクオリティが高い反面、こちらは典型的な「上から目線」と云えなくもない。余りにも高踏的かつ芸術的で、ハイカルチャー(雅)の体現に酔いしれているかの様な。言い換えるなら、下支えする側(俗)の視点が欠如しているかの様でもある。
     戦後の巨大書展は構造的に固定化し、それぞれに権威と歴史を積み重ねてきた。読売・毎日の双頭時代だけで戦前の合計年数を上回る。今では読・毎で下積み時代を送った書家が日展で花開き、やがて朝日に「殿堂入り」する構造。…どうでっしゃろ、皆様の見方は。朝日報道の持つ意味がガラリと変わるのでは。書家にしてみればラスボス朝日の大号令、気にならない方がおかしい(苦笑)。
     たまに「社畜」って言葉を目にする。これを「会社の」でなく「社中の」と置き換えれば、社中ボス各位の統率力が最後は朝日に向かっていく。そうした構造の〈外〉にある書道団体は、〈内〉からの視点であろうとなかろうと大抵は下手。理由は大体の察しがつく。朝日以後の社中(排斥状態)が下手なのであって、朝日以前の社中(無視状態)は必ずしもそうではない…ただし地味で古臭いけど(汗)。
     古臭い書風には実用的俗臭が燻りやすい。しかし当方、そこのところを解毒する手段が少なくとも一つはあると思って居る。先ずは芸術(←西洋的意味)から学問(←東西古今不問)へと立ち戻る事。下手でも超俗に向かう姿勢あらば、そのうち俗と雅の混淆時代(幕末以前)に向かって輪廻~リセットする事が可能になるのでは、と。そもそも古典重視の姿勢自体、支那に偏るのはおかしい。
    【2014/03/02 00:36】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続き)
     いつも通りの手遅れ推敲、前稿を読み返してたら再三再四「朝日って…」と勝手にしみじみ。~こんなの書くと自爆型マッチポンプになりそうだけど、重鎮の先生方には是非「君子危うきに近寄らず」の姿勢で居て欲しいのネ。どうか利用されないで。でも正直な態度表明なら仕方がない。嫌でも中国や韓国と付き合わねばならぬ立場なのだろうから。
    「××先生、嫌中嫌韓の動きをどう思われますか?」
     コレやられると困るだろうナ(NHK会長の二の舞?)。みんな纏めて老害「朝日二十人衆」呼ばわりされたら大変だ。下手すりゃ弟子筋までもが一蓮托生になっちまう。そこで一挙に印象操作、今は日展が丸ごと人質に取られた状態。なんだか書道界への包囲網が構築されつつある様な。(昨秋の日展騒動では、総括の目途が年度末となってるらしい。)
     私の記憶が確かなら、若き今井凌雪は飛行機に乗っていた。殿村藍田は毛錐子(平たく云えば筆)を背嚢に大陸へと出征。西川寧も大陸に居たが、こちら学者は研究中。そうした世代が一通り歿し、遂に朝日から箍が外れた。さあ…やってくるゾ、戦後世代が。まだ戦前世代は残っているけど、当時は出征の対象外(=子供)でござる。本番はこれからだ。もし右から攻める気があるのなら、準備するには今が最後のチャンスかも?
     思えば過去十年以上の書き込みで、あたしゃ書道界との共闘に期待してきた。当時めい様(「つくる会」山形板管理人)の反応も悪くはなかったと思う。こちとら政治音痴の書道ヲタだからこそ、今なおヌケヌケだらだら書き続けて居られる。もし「日本教育再生機構」側に掲示板があったなら、アチラに「も」書き込んでいた可能性は極めて高い。それだけ運動の機微に無頓着、脳味噌には襞がないし朝日にも剥き出しの感情が湧かない(汗)。
     ならば他の書道愛好筋が苹以上にノンポリ丸出しでもおかしくあるまい。…でも構わない。女子高生のパフォーマンス書道に「うつつを抜かす」よりは。まともに伝統を追いかければ、芸術の現代を煩わす新奇な誘惑に呑まれる事もない。~ところで先日はオバマ大統領の美術史軽視発言に抗議が出たそうだが(↓)、これも日本から見ると「美術史」であって「美術」ではない点にビビビ。日本では「史」の教育が欠けているのだ。
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/140221/amr14022111300003-n1.htm
    http://hyperallergic.com/109775/presidents-obama-pens-personal-apology-to-an-art-historian/
    【2014/03/04 22:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     前稿訂正。めい様→たんたんめん様(「つくる会」品川区部サイト管理人)。
    http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/8618/mono/20030222.html
     内容は2003年シンポジウムのレポート(↑)。とにかく西尾先生が元気で、セレブ奥様は当時「頭から湯気」との表現を連発していた。因みに文部省が文部科学省になったのは2001年。看板の字を書いたのは今井凌雪(2011年歿)だった。検索したら飛行機ネタ発見(↓)。
    http://www.dclog.jp/en/2549444/534253620
     …ところで。
     この人とは一緒にやりたくない…そんな感情なら書道にも結構ある(剥き出しw)。なるべく顔を合わせたくない。話をしても通じるとは思えない。同じ書風・社中ですらそうなるとあらば、余所のが相手なら尚更だ。なるべく黙って唯々諾々、ボスに逆らわぬ様にする向きもあろう。何処の師弟関係にもありそうな話ではある。すると他方では、民主主義を下克上と翻訳した頃の感覚が生々しく甦る。
     中には芸術家肌のエキセントリックな人も居る。相手が悪いと始末が悪い。国定教科書執筆後の精神衰弱で有名な鈴木翠軒は戦後の日展に君臨していた頃(二頭体制)、興奮の余り敵役(?)を罵ったそうな。「このクソ坊主!」…その時の相手が豊道春海、天台宗の大僧正で書道界の黒幕。この二人は戦前の離合集散時から大物だった。幕末まで遡れば江戸っ子の書画家にもエライのが居たそうで、総称は「根岸の三天狗」だとか。
     嫌気がさして書壇から離れると、書は表現から追憶へとうずくまる。嫌ではないのに~むしろ愛しているのに、離れる感覚は同性愛とさも似たり。ミシェル・フーコーは「恋人がタクシーで去る時」と表現していたのかな。それとは別に、グレン・グールドの場合「ぼくはエクセントリックじゃない」。…愛の背中に否定がうずくまる。イヤよイヤよも好きのうち…おっとアブナイ、こんなパルスを真に受けると大変な事になる(自戒?)。
     感情の遠近法は、対象との距離(と云うよりは輪郭か)に応じて効果が増減するらしい。朝日には湧かない「剥き出しの感情」も、相手が見えると徐々に怪しくなってくる。ここはなるべく冷静かつ慎重に踏み留まりたい…との願望が意識の表層で言葉になるタイミングを見計らって今日、いつもの雑誌二冊を買ってきた(西尾全集の方は注文)。
     『WiLL』2014.4号に、西尾幹二「「反米論」を超えて」がある。副題は「米国の「慎重さ」を理解してあげよう」。P.285の記述を「日展の虎の威を借りて、書道界に対する政治的欲望を満たそうとしている」と読み替えたくなるのは、なんぼなんでも妄想の度が過ぎるんだろうナ。~それはともかく、面白かったのは以下の表現。読み流すのが勿体ない、珠玉の主題労作だと思った。
    「中国の挑発に簡単に乗るにはあまりに多くを知っていて、慎重であるべきときには慎重であることが最大の攻撃であることを、アメリカ政治は本能的に弁えているのだと思います。」(P.273)
    【2014/03/07 23:02】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    そうそう・・・・・・そんな人がいましたねぇ。たんたんめんさん。
    山形のめいさんも・・・・・私がS子さんとさんざん喧嘩したことも・・・・・

    西尾先生の文章というか、言葉の魔術はすごいものがありますよね。
    【2014/03/09 21:42】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >S子さんとさんざん喧嘩したことも
     「つくる会」は崩壊した(←いきなり、なんだ?)。…と云うよりは分裂とか内紛とか。これが町内会なら静的意味では「地元」が前提にあり、動的意味では「生活」上の必要に支えられる。余所者だらけなら話は別だが、地元民なら元に戻る事もあるだろう。そこには記憶の集団的かつ歴史的な蓄積があり、まさしく「保守」の姿勢そのまんま。
     なんなら「保守の呪縛」と言い換えてもよい。好き嫌いの問題ではない。腐れ縁を苦々しく思う一種の諦観が、あるがまま宿縁となって互いを支える。夫婦喧嘩の場合は離縁が理不尽であるほど離婚は阻まれたらしく、逆に理不尽だった部分を平等公平に地均ししたら離婚が激増した。そこに一蓮托生の堪忍はない。もしかしたら事実婚とは、爛れた結婚システム(!)から精神の繋がりを「永遠に不毛なまま」取り戻そうとする、云わば諸行無常の一形式なのかも知れない。
     「つくる会」は崩壊した(しつこいぞ!)。…でも互いに保守は保守。それを離合集散の文脈で予感したら、山形板の桜子様が支援板に乗り込んできて、苹との論争状態になったんだっけ。でも数年後に現実となった崩壊は消滅でなく「ただの分裂」だから、別段「コリャ一大事」とまでは思わなかった。結局どこまで行っても離合集散の文脈なのネ。

    >言葉の魔術
     …ふと思う。近代民主主義に運命づけられた擬似感情のフレキシビリティを、最もこれ見よがしに政治化した先駆者がヒトラー政権だった。総統だから先駆者たり得たのか、先駆者だから総統へと成長できたのか。ヒトラーの蒔いた種子は各地で植物状に民族へと潜入したが、その戦後的プロセスを「慎重さ」に基づく態度と見なすならば、動物的なものは分類上~或いは仮の姿ではあるにせよ、どのみち異端となるだろう。
     西尾先生の指摘する「慎重さ」に、攻撃性が内含されている事を私は屡々忘れがちになる。所謂「攻撃は最大の防御」との比較に於てそうなるのは明白だが、であるにしては「あまりに多くを知っていて」の方が気になるのは何故かしら。躊躇と慎重とを分かつ溝が、既にそうあるべく判断されているかの様な。「判断を保留した」のではなく、「保留すると判断した」と読める点が戦略的で、仮にそうなら米国が失望どころか非難姿勢を打ち出したとしても、日本は基本姿勢を転換する必要がないのでは。
     ふと思い浮かべるのはヤクザ映画。親分が子分を痛めつけるのは、それを見て恐怖するのが誰かハッキリ分かっているから。…誤読だろうか。日米同盟を親分と子分の関係と割り切るなら、日本が子分の役割を演じる上で、米国には親分らしく振る舞う義務がある。靖国参拝を続ける日本に「仕方ない奴だ」「もう抑えきれない」と呆れるか、それとも何らかの対日制裁を仄めかすか。前者の文脈なら日本の防衛体制強化は可能な筈。
     動物的軍事と植物的政治とのコントラストに戸惑うなら、嘗ての日本的陰翳はよほど衰弱しているのだろう。嘗て陰翳は、墨の五彩(黒にも色々な黒がある)と似通っていた。
    【2014/03/13 02:26】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (前稿補遺)
     あの分裂(つくる会と教育再生機構)に思うのは、なおも保守であり続けると自覚する互いが、互いの相手に対して「保守の否定」をも招き寄せる事。そこが不思議な様で居て存外さほど不可思議でもなく、思議なき呼吸を繰り返す度、実は誰もが否応なく保守になっていくのでは。さもなくば疲れてしまう。どことなく否定と休息は似ている気もするが、そこまで惚けた気分ではないらしい。だからなのかな、私が追憶に美を感じるのは(…結構アルカイック?)。人は墓があると拝んだり暴いたりし、墓でもないのに祭祀したり集ったりする。「敵ながら天晴れ」で構わないのが日本文化なら、分裂した一方にとって他方は「墓の様であってよい」のかも。
     心の中にも墓地がある。…書道の場合、どうだろか。
     それは昔も昔、「子供の頃の書塾にて」…重鎮の本には時折そんな話が出てきたりする。みな昔から後年の様な字を書いていた訳ではない。師の書を学ぶ最中でも、たまには「師の師」に学ぶ契機自体が、はなから姿勢に於て重層的だった(師の師と古典は或る意味「同格」)。例えば『現代日本書法集成』(尚学図書)で上條信山の分冊を読むと、直接の師系を宮島詠士や張廉卿に遡るばかりが能ではない事に気付く。信山は詠士に出逢う前、西脇呉石(国定手本乙種筆者)の書を学んでいた(P.6↓)。そこに「隠れた基礎」がある。古典を学ぶ以前の基礎。基礎以前の基礎。
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    > 今から考えてみると、呉石先生の書は、根源は歐陽詢の九成宮醴泉銘にあったわけで、それをごく平易に、一般化したもの、入門期の手本としては最適なものであった。当時は、鳴鶴や、一六の三体千字文も流行していたが、風格や、味わいがあるにしても、少年時代の手本としては少々無理なところがあった。呉石先生の千字文に出会ったことは、少年時代の私にとって大変な仕合わせであった。
    --------------------------------------------------------------------------------
     ここに苹の乙種的経験(巻菱湖系)が繋がる。呉石は師匠の村田海石(萩原秋巌の高弟)が歿した後、日下部鳴鶴に師事した。そして鈴木翠軒の師系は丹羽海鶴から鳴鶴へと遡る。するとそこから、呉石と翠軒の書線類似に遺伝法則めいたものが見えてくる。古典ばかり学んでいる者には見えにくい世界が、すぐ前の世代に現前している。今や師系は墓の中でも、そこで培われたものを過去帳の様に遡れば明治が分かりやすくなる。
     こうした認識は昔なら当たり前だった。流儀書道の残滓が明治期に「流派」意識へと近代化(?)された面はあるものの、そこには古典のバイブル化を阻む現実の師匠価値が先ず前提として在った。つまり「師匠が古典の暴走を阻む」免疫的機能を発揮した面もあった。従って「流派」は必ずしも原理主義的ではなく複眼的である。ところが古典の方は野生の歴史的蓄積であり、完全依拠した途端ともすれば四の五の言わせぬ原理主義的な聖典と化してしまう。~これを推進して学校から師匠を排除したのが戦後教育の一大特徴だった。誰も教科書手本の筆者を意識しないと、手本から筆者(特殊的主観)を疎外した地平に古典(普遍的客観)の影を刷り込む手口が蔓延し、果ては権威を聖化するに至る。(アメリカ的な占領政策による芸道否定が裏目に出た形、と云ってよいのかも。)
     「教科書に反する学者は間違っている」式の顛倒現象も、義務教育の書写教科書なら一目で分かる。唯一無二の手本書風イメージが硬直化し、究極の流儀書道イメージがいっそう子供じみた形で再来した結果、信者達は必ずや「例外なく下手で読めない古文書」の世界に違和感を抱くだろう。他のものを見た事がない。読んだ事もない。手習いの行為を単純に信じる以外、学ぶ手立てがない。この傾向は書塾に通った経験のない生徒ほど顕著かも知れない。今では書塾の師系意識が芸術的領分に自己限定され、基礎基本の領分では系譜意識をむしろ邪魔者扱いしているかの様にも見える。これでは塾も学校も大差ない。塾が学校に準拠しつつ濃密な指導を展開する方式で、教育の全体主義が既に半ば達成されているとしたら、「生徒も先生も教科書の被害者」式の論法は今後いっそう過激な形で定着していくに違いない。(その一例が沖縄の竹富町?)
     ハイカルチャー(雅)の書は大昔の日支文化そのままで構わないが、俗書の方は実用の「生きた日本語」が大前提。そこを破壊すれば「どちらも読めない字」となり垣根が失せる。この視点でグローバリズム(雅?)とナショナリズム(俗?)を捉えると、どうせどちらも分からないのなら「寄らば大樹の陰」を選択するのが自然だろう(大は小を兼ねる?)。そこにグローバリズムの罠がある。これに引っ掛かったのは戦後でなく明治以降。そのためだろうか、苹は戦後ばかり目の敵にする「維新的」崇拝者(念のため…「維新の会」の事ではない)に懐疑的とならざるを得ないし、置いてきぼりの「維新以前」には追憶の眼差しを傾けたくなる。ことほど然様に、基礎は美しい。

    (続報)
     2013.11中旬以後の天バカ板グーグル検索障碍は、どうやら今月中旬(2014.3.14頃?)に復旧した模様。~ちょうど時期が大学入試と重なると、こちらとしてはまたぞろ疑いたくなってくる。もしや小論文や面接などに影響するのを、入試対策当局が予め回避しようと事前に画策したのではないかと。なにしろ受験生はネット世代の高校生で未成年。書道畑なら誰もが知ってる拙稿レベルでも、使い道がないとは言い切れぬ。
     それらしき筋が拙稿を閲覧した形跡は「書道美術新聞」870号(2007.6.1付)の連載記事に確認できる。兵庫教育大学の小竹光夫教授が一度だけ拙稿に言及していた(初出は支援板で、天バカ板には転載済み)。その頃から監視してくれる御仁が居たのなら、拙稿をコピペしたり似通った内容を披瀝してもネタ元はすぐにバレるぞヨ(苦笑)。おまけに内容が正しいとは限らない。地雷を踏んだらどうしましょ(爆)。
    【2014/03/19 21:40】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ●覚書Ⅰ~古典の暴走(2014.4.2稿)
     「古典の暴走」について少し補足して置きたい。とどのつまりは「解釈の暴走」だが、書道の場合は戦後往々にして「見た目の魅力」(特徴的表現)に囚われる傾向が強く、それが基礎(苹の云う「基礎以前の基礎」)を蔑ろにする最大の動機となるかの様でもある。勿論どんな表現も古典が基礎にある事は変わりなく、また当然ながら古典の基礎には、より古い古典が前提/規範として存在する。そうした芋蔓式の表現連鎖がやがて時代差に応じて逆に「古典を」基礎から遠ざけると、今度は基礎的古典の復興が時折なされる様になり、それ以外の高度/応用的な古典が基礎古典の後景へと仕分けられる。大抵は数百年の間隔で、表現の拡張を経た「揺り戻し」のパターンが繰り返されるものの、だからと云って基礎的古典復興の立役者が基礎的書風しか書かない/書けない訳ではない。
     硬筆時代の感覚では併用・専用を問わず毛筆が相対的位置となる。筆記具としては特殊な扱いへと後退し、毛筆自体が「日常性の喪失」を前提するので古典の規範性もやがて薄れていく。それ以前=毛筆専用時代は、誰も規範が暴走するとは思わなかったに違いない。むしろ危惧されたのは表現の暴走で、唐代の孫過庭はこれを「古質今妍」と形容した(書譜)。規範性の薄れ方は硬筆型と毛筆型とで差異があるらしい。硬筆の書的表現が正面から展開された例はなく、むしろ基礎喪失を前提に丸文字、変体少女文字などの造語や分類が試みられた程度に留まる。その後は印字表現の領分でフォントの多様性が取り沙汰されていくのと相対的に、手書きの規範自体が毛筆時代の基礎モデルへと逆行/収斂していく傾向が見られる(手書き自体の実用性喪失?)。
     この視点から今の民間書表現を観察すると、古典に見立てられるもの(仮象/模範)は総て「お手本」の暴走に近い仕方で受容されてくるらしい。或いは書字自体に限らず、書字行為(パフォーマンス)をも含めた誇張の全体を「暴走」と見なしてもよい。ここではいかなる暴走も先ず「暴走のお手本」あるがゆえに、入門的懐古姿勢のまま無批判に正当化されるか、もしくは社会的/マスメディア的に認知/受容される。すると同じ視点から、伝統的な書表現もまた同様=相対的に解釈されてくるだろう。例えば悪しき「お手本」を猿真似させるボス同士の談合もどきが日展審査の実態であるとか、その手の発想が今では普通になっているのでは。それが所謂「芸術」イメージ(=芸術は稽古事ではない?)との間で強烈な齟齬をなす。
     芸術とは独創であり模倣ではないとする先入観が跋扈すると、本来そうでなかった西洋芸術との間にも歴史観の断絶が忍び込み、「西洋=近代」と短絡する進歩主義が過去を盲目にする。そこに反省はない。ただ未来があるばかり。そのくせ有名作品という「過去そのもの」は称揚され、恰も「真似てはいけない」規範であるかの様に神聖視=禁忌化される。孤立した日本の芸術ヒステリーは常に脱歴史的で、国際理解の歴史性からも二重に孤立してしまう。だから教育における美術は美術史ではないし、書道も書道史ではない。既に見捨てられたものが暴走したところで、痛くも痒くもない。つまり「暴走する自由」が芸術を領有した事になる。

    ●覚書Ⅱ~妄想の暴走(2014.3.24稿)
     前稿末でグローバリズムとナショナリズムをムリヤリ雅と俗の関係に見立てたら、「高雅なる欧字文化圏」と「低俗なる漢字文化圏」を対比せずには気が済まなくなってきた(orz)。…時は幕末、帝国主義が真っ盛り。グローバリズムは帝国主義の世界支配計画で、植民地支配されてたまるものかと日本は開国、維新、欧米化へと踏み切った。もちろん開国と欧米化は別物で、開国したら最新の支那文化も西洋文化と同時に入ってきた。すると漢字文化圏と欧字文化圏の対比与件に同時性が加わるや、一体どっちが進歩的で文明的かと、さーて比較だ研究だ。東西々々、みんな挙って用意ドン!
     ここで引っ掛かるのは尊皇攘夷から脱亜入欧への流れ。なにやら苹には、ナショナリズムがグローバリズムへの移行プロセスに見えてくる。そのくせ両方とも愛国だから、事は甚だややこしい。グローバリズムが愛国で何が悪い。愛国ゆえに自国文化を捨てるのは、「健康のためなら死んでもいい」のと同じくらい熱烈な愛国精神に基づいている。なんなら支那語を国語にしてもよかった筈だが、当時の支那は正真正銘の敗者で無理。どうせ日本語を捨てるなら、いっそ英語を国語にした方がいい…森有礼には先見の明があったのかも。しかしこれでは本末転倒の言語植民地。なんのために維新したのか分からなくなる。
    ・開国…相手は欧米に限らない。支那でも全く構わない。
    ・維新…日本の独立を維持し、外国による植民地化を阻止せねば。
    ・欧米化…欧米の文化的植民地になる一歩手前。…アレ?
     違いを纏めると斯う見えて覿面、途端にナショナリズムが分からなくなる。雅が上で俗が下なら、ナショナリズムは下克上(共産主義?)であって構わない。するってぇとグローバリズムは、「私も仲間に入れて♪」てな具合の積極参加になるのかいな(世界支配への共同参画?)。しかし当時そんな国力は日本になく、富国強兵など普通の(=健康な)帝国主義を取り入れるだけで精一杯だった。しかも新国家建設の養生訓(?)は欧米語で書かれているときたもんだ。文明国に靡かずんば、何を以て愛国たらしめん?
     そもそも苹は、ナショナリズムを「俗」扱いしたのが間違いだったのかも知れない。でも代わりの言葉が思い当たらない。もっと軽々に、自国文化を捨てられる概念が必要なのだ。なにせ知識人は俗調を嫌うのが習い性、ハイカルチャー専門でないとプライドが保てぬ点は朝鮮の両班もどき。尤もアチラは盟主の漢文基準に固執して「ハングルそっちのけ」だったらしいが、コチラでは仮名文化がナショナリズム以前の土俗的な文化伝達機能を担保した点で病膏肓。~対象を以て主体を鑑みるのと、主体を以て対象を鑑みるのとでは大違い。対象(隣の芝生?)と主体(オレオレ詐欺?)のどちらにナショナリズムの文明的基盤を置くか次第で、文化の尺度は対外的判断の距離感覚を変えるのだろう。片や自前文化の足下は、膨れた腹に隠れて見えない(どすこい!)。
    【2014/04/02 20:32】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ●覚書Ⅲ~言文一致思想の暴走(2014.4.6稿)
     言文一致の目論見は別の言文不一致へと変質し、ただ言文一致の思い込みだけがいっそう極端な形となりつつ定着していった。~全集九巻「文学評論」所収の西尾幹二「明治初期の日本語と現代における「言文不一致」」のみならず今野真二『日本語のミッシング・リンク 江戸と明治の連続・不連続』(新潮選書)P.240でも、前提はあらかた響き合っている模様(抄録↓)。
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    >「機能を異にしている」話しことばと書きことばとはほんとうに一致するのかというのがもっとも大きな疑問である。「言文一致」とは「話すように書く」ということであるので、「文を言寄りにもっていく」ことになる。その時に文がもっていて言がもっていない機能は捨ててしまうということなのだろうか。そんなことができるのだろうか。文が言と完全に一致した瞬間は、文が消滅した瞬間になるはずだ。それは考え難い。したがって、ここでは「言と文とは(そもそも機能が異なるのだから)一致しない」ということをまず確認し、いわゆる「言文一致」とは、「文を(これまでよりも)言寄りにもっていく」ことと考えたい。
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     …言葉の輪郭は当たり前に通じるものほど見えにくく、時に「お前、空気が見えるか。見えないだろ。見えないものは見えちゃいけない」と説得されている気分になる。言葉に真空状態がつくられると空気は存在を主張し始めるが、意識される事は殆どない。読まれない空気もまた読めてはならず、読めるものだけが読めてよいという言論統制が空気の側の立場となる。~あたしゃそんな事を無意識に執念深く考え続けていたのかも。従来の言文一致や言文不一致ではハッキリ納得できなくなったと自覚したのが「2013/07/04 23:19」稿だった(抄録↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1494.html#comment
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    > 江戸時代と近代の間には断絶も連続もあるけれど、特に国語方面では活字による日本文化制圧の影響が大きい。書字と活字の断絶が歴史認識の背後で燻ってきた。昔式に書く明治人の字を誤読する危険と共にあった。明治人と云っても色々あって、御家流を引きずる世代の後は菱湖流の時代へ。やがて菱湖流の後期スタイルが明治四十年代以後いっそう教科書的となり、昭和初期へと繋がった観あり。その途中を図版で見ると、まだ東京支部板に出してないのが色々と。当時はどうやら言文一致への動きばかりでなく、文文一致への動きと云うか…つまり書き言葉と読み言葉の違いが顕著になった面もありそうです。
    > 読み言葉の方は速やかに活字化されていったし、平仮名より片仮名が多用される傾向も強まった。それに比べると書き言葉の方は手書き自体が目的ゆえ、行書も草書も変体仮名も実用の範疇で現役のまま。この混淆していた二つを統合する上で習字教科書(国定時代)が果たした役割を、民間の出版手本類(金港堂など各社)との比較から考察する仕方があってもいい。そこから先を明確に整理/分離すれば、国語教科書は読み言葉、習字教科書は書き言葉の範疇となる。
    > 読み言葉、書き言葉、話し言葉。そこから書き言葉を排除する見方が国語の歴史で、大袈裟にはこれも一種の歴史歪曲と云える筈。しかし国語の専門家も、書道の専門家も、歴史の専門家も、その辺の視点で言及した例を見た記憶が苹にはない。だから単なる思い込みかも知れず、後は客観的な誰かの検証を待ち望んでいるばかり。~書道評論家の場合、実用の書は既に滅びたと諦めている人が大半じゃないかなあ。もう滅びたのだから振り返る必要はない、そんなものは未来志向ではないと「前向きになっている」かの様な。現代史を放棄した歴史教育みたいな感じ(現代史は政治であって歴史ではない?)。
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     それまでは色々ややこしい材料に頼っていた。最初は大学の卒論にするのを断念したテーマ「書法の概念と人間の分裂」に始まり、その後はドゥルーズやガタリなどを経由したり。よほど国語/言語に呪縛されていたのか、真っ正面から書き言葉と読み言葉の不一致/断絶を指摘すればよいと気付くのに相当な時間がかかった。不一致なのは言と文の二つだけでない。読み手の立場が深く関わる。「草書が読めれば楷書も読める」(その逆もアリ)といった、書道では当たり前(←今はどうだか?)の感覚を国語畑と共有していない現実に鈍感であり過ぎた。苹自身が書道畑の空気にどっぷり漬かっていた所為かと。
     ならば「空気」自体にも、従来の視点(日本的行動様式への難詰スタイル?)でなく言葉自体の側からアプローチする事だって可能だろう。つまり意思疎通を言語から空気の側に神秘化するのでなく、言表作用の不一致を一致させようとする〈「読み」のアレンジメント〉と捉える。さすれば空気による整序機能は理不尽どころか、論理的思考の一形式として見直されてもよくなってくる筈。ところが実際は「読み」と「書き」との断絶が語られる事など滅多になく、読み言葉の変質(文語体から口語体へ)に書き言葉が準拠した結果むしろ読み書きの区別がつかなくなり、補完すなわち「文文一致」を諦めてしまった節さえ感じられる。
     「(書き言葉が)読めなくとも(読み言葉なら)書ける」空気が潜在意識で常態化して「不自然とは思わなくなる」と、好き勝手に読む「書き手に無理解な批判」に「理解できない自己への内省」が伴わなくても、同様に「不自然ではない」となるだろう。その上「空気」に自前の意思を丸ごと転嫁すれば、今度は自己の方が消滅するかの様に振る舞い「いっそう空気らしく透明になる」のでは。~空気は影に似ているかも知れない。光を遮る実体なしに影は生まれない。
     …影と云えば昔、西郷信綱『古典の影 学問の危機について』(平凡社ライブラリー)を読んだ事があったっけ。新獲の西尾本(『正論』含む)そっちのけで今、こちらを先に読み返したくなっている(汗顔)。約十五年ぶりともなれば内容すっかり忘れており、当時と今とでは当然ながら読み方も印象も異なる筈。それに当時は、まだ西尾先生の名前を意識する前だった。苹自身の右傾化具合(?)を顧みるには恰好の一冊となるかも。

    (追記雑感)
     …と書いて念のため『正論』2014.5号P.146をチラ見したら、なんと西尾先生は冒頭から「私が気になったのは「暴走」とか「暴言」というような題字の付け方です」云々。いやあ、なんたる偶然の一致か。思わずドッキリ、汗が出てきた。かと云って今回の暴走シリーズは、途中で改題すると暴走の一貫性(?)が失われてしまいそう。~そう云や「空気」の他にも、関連しそうなキーワードでは精神医学畑に「感応」ってのがあったっけ。それらの経路で、暴走も伝染するのかなあ。言葉の階調と空気は「読み方」への媚び具合が否応なく絡みそうで難しい。
     また~後付けになるけれど、思い返せば影が実体を生む場合もありそうな気が。と云っても物理的な話ではなく、影に怯えた者が事実(?)を後から捏造するケースなど。影の背景にも色々ありそうな点では、必ずしも論旨(整序の問題)を逸脱していない筈。実体は影を必要としないが、影は実体を必要とするだけの話。…するってぇと、空気の場合はどうなる?
     他にはドゥルーズ達のネタ。~そこそこ取り組んでいた世紀末、アレンジメント(アジャンスマン)には鎖列、組み込みなどの訳語があったと記憶する。で、此の度は新獲のガタリ『人はなぜ記号に従属するのか』(青土社)にて、「動的編成」との訳語を初めて見た。杉村昌昭氏の訳出に苦心の程が窺われた。…ところで多分、「空気」の方も既に外国語へと翻訳されているのだろうと推測するが、この場合どんな言葉が宛がわれているのかしら。まさか、従軍慰安婦の訳語を再邦訳したら性奴隷になっちまったのと同レベルではあるまいな。
    【2014/04/07 20:25】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    暴走、覚書、ご自由にコメント欄をご活用ください。
    【2014/04/07 20:52】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >暴走、覚書、ご自由にコメント欄をご活用ください。
     ほんじゃあ早速、お言葉に甘えて…たまには連投でも(↓)。
    ウワァァ-----。゚(゚´Д`゚)゚。-----ン!!!!
     これで、当面のストック稿がなくなったぁ(泣)。

    ●余談~取り敢えず暴走(2014.4.5稿)
     話は変わってSTAP論文問題、コピペ繋がりで明日…じゃなくて昨日は我が身(?)か、とても他人事とは思えない。卒論が書きたくて大学に入った変態は、書き始めてから一年半以上を過ぎた頃に持て余して急遽テーマを変更、別のを残り半年少々で書いた。ところが変更後のも構想は大風呂敷で、予定通りの三部構成なら提出期限に間に合わない。そこで仕方なく第一部だけ出して(約五十枚)、残りは留年後に書くつもりで居たら教授がいきなり匙を投げた。さっさと受理しちまった。なんでも「異常に中身が濃い」んだってさ(苦笑)。それもその筈、出した分の大半は先行研究だらけの概論。続く二部で本論を展開する予定だった。んでもって内容上、その後が最初のテーマ(大学二年秋~現在)へと繋がる事になる。…ひょっとしたら渦中の人も似た口なのでは。そこが気懸かりで大いに同情してるのね。
     テーマ設定から数年で成果が出るとは限らない。数十年かかる方が多いのかも知れない。それを任期五年でやれと言われても困ってしまう(どうにかなるから頭がよいのかも?)。頭(要領?)が悪いと時間がかかるのは教育現場でも同じ事。だから教え方を工夫する訳だけど、工夫の仕方に出来の悪い紋切り型が忍び込むと頭コチコチ大増産になりやすい。そこが書道の泣き所、専ら書いてばかりで説明は下手。どうにかする前に「難しい事、読めないものは教えるな」でクビだから、あたしゃよほど小難しい説明しか出来なかったのかも(実は今でも自覚なしw)。

    (備忘録)
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140401/edc14040103400000-n1.htm
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    >【正論】
    >業績稼ぎがはびこる大学の劣化 社会学者 関西大学東京センター長・竹内洋
    >2014.4.1 03:39 (1/5ページ)[正論]
    > 理化学研究所の小保方研究ユニットリーダーを筆頭筆者とする「STAP細胞」論文の剽窃(ひょうせつ)・捏造(ねつぞう)疑惑がニュースとなっている。
    > 剽窃自体は研究者の犯罪として昔から今にいたるまでなくなってはいない。しかし、剽窃論文の多くは、今回のように世界的に注目をあびる論文ではない。だから、発覚し処分されてもニュース種にならないで、当該大学や学会の問題でおわっていることが多い。
    >
    > ≪「剽窃」を笑う無業績教授≫
    > わたしが研究者の剽窃問題を具体的に知ったのは、いまから40年ほど前、かけだしの大学教員だったころである。
    > ある大学の非常勤講師として出講していた。年度末に担当教室教員主催の慰労会があったときのこと。宴席は、その大学の教授の剽窃事件の話題でもちきりになった。自著の中に別の学者の論文をそのまま引き写し、自分の論としていたことが発覚したのである。
    > 宴席の教授たちによる事件の顛末(てんまつ)を聞いていて、ちょっとおかしいなあと思えてきた。
    > というのは、剽窃という醜聞を酒の肴(さかな)にしているその場の教授連にみるべき研究業績がなかったからである。にもかかわらず、論文を書こうとも、自著を上梓(じょうし)しようともしていないように感じられた。件(くだん)の剽窃教授は、大学教授たるもの著書の一冊くらいあるべきという規範を内面化し、それがプレッシャーになったがゆえの逸脱行為とはいえるからである。
    > 剽窃教授は論外だが、なにも書かないから事件沙汰を免れているだけの無業績教授が放置されているのもかなりの問題だと思ったのである。ところが当時はこの教授連は例外ではなかった。昭和40~49年の論文執筆調査によれば、教育学担当教員の3分の1(40歳代)、半数弱(50歳代以上)が10年間にわたって1本も論文を発表していなかったからである。
    > それから約半世紀経(た)った。いまや大学教員は無業績教員で過ごすことができない時代になった。就職時や昇進時はいうまでもなく、事あるごとに研究業績が問われる。そのせいで、今の大学教員の研究業績を論文数でひと昔前と比べれば数倍になっているだろう。しかし、その実質はどうか。
    >
    > ≪質より「量」の紀要論文≫
    > 学術論文とされているもののかなりは大学や研究室が出している「紀要」や調査研究の「報告書」の類に掲載されたものだ。故谷沢永一教授は、昭和55年に「アホばか間抜け大学紀要」を『諸君!』誌(6月号)に寄稿した。多くの紀要論文に目を通し「見せかけ学術論文」とお粗末さを喝破した。
    > 1990年代からはじまった大学改革以降、論文「量」を重視する業績主義が浸透した。その結果、大学や研究室紀要はますますお手軽系発表媒体になり、事態はむしろ悪くなってさえいる。
    > なるほど近頃は査読雑誌(論文は数人のレフェリーによって審査され掲載される)に格上げするために、「紀要」論文といえども、外部審査委員の目を通すことにしているものがふえてきた。とはいえ、外部審査委員の選定は紀要編集委員の人脈で選ばれる。だから、学会誌なみの厳しい評価はなされない。
    > わたし自身、題名につられて、大学紀要に掲載されている論文を読んだことがある。日本語に翻訳された外国人学者の書物1冊を平板に要約しただけの代物。羊頭狗肉(ようとうくにく)論文に愕然(がくぜん)としたものである。
    > もちろん紀要論文といっても、「玉」の論文はそれこそ「たま」にはあるが、「石」のほうが多い。この種のお手軽系発表媒体のみで業績稼ぎをしている学者を「紀要(器用)貧乏」教員と呼びたい。このような安易な業績稼ぎの蔓延(まんえん)には業績審査の仕組みの後押しがある。
    >
    > ≪「見せかけ学術論文」の罪≫
    > 文部科学省の大学設置審議会専門委員になり新設大学・学部などの教員適格審査にかかわり、釈然としなかったことがある。
    > 審査対象教員の論文の実物は資料に含まれてはいない。論文の題目名と掲載誌だけの情報である。したがって、審査は、担当科目と論文の題目とが合致しているかどうか、論文がどのくらいあるかの形式審査となる。有名な学会誌にのった論文ならあらためて読まなくとも信用してよいだろう。しかし、紀要貧乏教員の論文は、実物を読まないうちは研究業績として認めてよいかどうかわからないのに、である。このような審査形態が研究業績の質を問わない物量主義と形式主義を蔓延させることにあずかっている。
    > 剽窃は学問研究の〈積極的冒涜(ぼうとく)〉であるだけに事件とされ、措置が講じられる。しかし、〈消極的冒涜〉である「見せかけ学術論文」が事件になることは少ない。そのぶんこちらのほうはますますはびこる。
    > このようにみてくると、冒頭にふれた、その昔の無業績教授が別様にもみえてくる。当時、よく言われていた「論文はやたらに書くべきものではない」という学問への畏怖ゆえの無業績だったかもしれないのである。(たけうち よう)
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    【2014/04/07 22:39】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
     巷で話題のSTAP疑惑、そこそこ批判が連想の種にはなる…。
     「第三者が見て読めなければ、可読性がある証拠にはならない」…てな読み替えをしてみたくなる。或る古文書を見た百人が百人、読めない。しかし権威ある人には、読める。読める事を科学的に説明し証拠を示せ、と。~当方そんな説明を受けた事はないし(大学でも!)、どの本にも「原理」までは一々書いてない。そりゃあ古文書字典や書道字典ならある。けれども原理ではなく史料の切り貼り羅列ばかりで、見方次第では暗号解読用の乱数表と大差ない。なにやら訳の分からぬまま猿真似をして「書ける/読めるふり」を繰り返すうち、やがて信者になっていくかの様な。そもそも第三者と信者とは違う。エル・カンターレを名乗る某氏の霊言集が科学的に論証できるとは信じにくい様に。
     よく分からないのは書道ばかりでなく、現代アートの場合とて同様だろう。そこを専門家はどう説明するのか。…てな訳で取り敢えず「佐々木健一」の名前で検索したところ、恰好のインタビュー記事が見つかった(↓)。「西洋=近代」型の語り口が余りに明晰なため、現代アートのイメージがガラリと変わるかも知れない。
    http://www.kyoto-up.org/archives/1412
     どこがよいのか分からぬ字でも、「心」とか何とか書いてあると神妙に感心せねばならぬ気がしてくるらしい。片や現代アートでは、そこに「面白さ」を見ようとするのが鑑賞の常套と聞く。その理屈で書に面白さを求められても困る面は確かにある。かと云って神妙な気分がアート崇拝に結び付くと、今度は宗教的に売り捌かれる壺も数珠も逆さ便器(デュシャンの「泉」)も、呆気ないほどアッサリ同列に並びそうでアブナイ。そんな気分を佐々木インタビューは意外なほど理路整然と粉砕してくれる。納得すればするほど奇妙な違和感が残るくらい、アートへの眼差しは双方向に縁遠いと気付く。
     舶来信仰が西洋一辺倒になる前、支那の文物もまた舶来品だった。ただし珍重はされたものの、果たして信仰まで行ったかどうだか。同じ漢字文化圏に底流する共通論理が呪術的神秘性の暴走を阻む面もあったのでは。知識と教養に裏付けられた高級趣味(文人趣味)の方がこなれて居て自然だし、そうでないなら木下直之『美術という見世物』(講談社学術文庫)の領分になるだろう。そこにやがて高尚なイメージが比重を増しつつ刷り込まれると、知の裏付けなき骨董趣味はヒステリックにリターンする。
     国語は言文一致の背後に「全日本文盲化計画」の顔貌を併せ持つ。近代化された国語が維新前の書記様式を葬った結果、「第三者には読めない」時代が到来した。それを現代人が保守防衛するのだから、日本文化の自家中毒環境は過去をいっそう他者にする。母屋を乗っ取られた心地で現在や未来を奪還しようにも、現代を防衛する側との間で保守概念自体が分裂する様では内戦状態も同然。「書法の概念と人間の分裂」は「日本語の概念と時代の分裂」と相俟って自ずと鏡像関係を拵える。或る意味そこに登場した一例が昭和史なのかも。歴史は言葉を馴致し、解釈は言葉と共に歴史まで欺く。
     そうした意味合いも籠めて、私は念慮する。西尾先生曰く、「歴史は科学ではない」と。ならば国語/日本語はどうか。言葉に歴史あり。その境目にある諸々が科学的に説明されない限り、現代国語教育の規範を歴史的書字文化から保守防衛する立場はどのみち教科書「盲信」型の無理解を支え続ける筈。例えば「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」では大概、「そう教わったから、そう覚えた/教えただけ」で済ませるだろう。しかし藤原定家写本「土佐日記」帖首では画像の通り大違い(↓)。
    http://www.geocities.jp/botsuwan/images/TOSA1.jpg
    ・乎止己毛春止以不日記止以不物/遠ゝ武奈毛志天心美武止天寸留/奈利
    ・をとこもすといふ日記といふ物/をゝむなもして心みむとてする/なり
     「女もして」を「女文字で」と読むのは小松英雄。「してみむ」でなく「試みむ」。尤も活字は書字を隠蔽する「思考停止の道具」ゆえ、今や第三者に原本が読める必要はない。様々な写本を調査研究した学者達の権威に逆らってはならぬ。おまけに「ワタシ研究する人、アナタ教える人」式の役割分担(学問と教育の切断環境)では、教科書が事実上の免責装置となっている。文字らしき図形(「すといふ」の部分)を「すなる」と読ませるには相当な教科書準拠の覚悟が要るだろうが「読めない教員」にとっては問答無用であり、前提には先ず教科書信仰があらねばなるまい。ここでは教科書が聖典となる。
     科学者には科学者なりの、研究作法(=「手続き」の型)があるのだろう。この普遍文法…おっと間違えた、普遍作法に渦中の人は違反した。「なぜ大学で作法を教わらなかったのか」と読み替え可能な批判が現にある。惟うに、たぶん学問は芸道の類なのだろう。が、少なくとも芸術ではないらしい。先日「2013/12/02 02:24」稿でリンクしたレクチャーを、ふと思い出したにもかかわらず(↓)。
    http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/liberal_arts.pdf

    (以下、翌朝補記)
     「土佐日記」絡みの荒っぽい言及では、活字中心の一般教養レベルを想定した。他科教員と違って国語教員レベルなら、定家本と為家本の差異を認識した上での話となろう(つまり、読める)。ただし教育実務に研究の領分(?)を巻き込むと授業が停滞してしまう。そこで国語の基礎たる識字を補助するには「書教育との分担」が望ましくなる筈だが、管理職を含む「読めない第三者」の集団にとっては、「専門的な基礎」(←変な言い回しだなあw)を教えられても却って傍迷惑と映るらしい。なにも書道ばかりが無用の長物なのではない。「誰もが読める」と信じられている国語でも、基礎の蒸し返しは「専門的に過ぎる」事になる。~そう考えれば、国語より英語を重視する向きも分からぬではない。たぶん彼らは理屈抜きに「国語を信じ過ぎている」のだろう。大量の移民に裏切られて初めて「国語が自明でない事」に気付く。その時はもう遅い。
    【2014/04/12 23:35】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    例のマレーシア空港の搭乗客に、書家が何人も居たそうですね。

    【2014/04/15 20:16】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >例のマレーシア空港の搭乗客に、書家が何人も
     え~っ?!(絶句)…とネタ元になりそうな所を見たら…これかぁ(↓)。
    http://melma.com/backnumber_45206_6012421/
     東南アジア諸国の対中警戒が日本との書道交流事業にも影響してるのは「書道美術新聞」辺りでチラホラ垣間見えてたけど、「書家」って肩書きは存外便利な民間外交の裏ツールになるのかも。やっぱ相手は、古株の華僑人脈かしら?(←ただし妄想の域)
    http://barbarahaber.net/?p=10520
     その後あちこち物色してたら、こんなの発見(↑)。「書家」の作品らしき写真には所々「平得送客」だの「孤洛陽親友」らしき字が見えるけど、そうだとしたら技能レベルには疑問が残る。別の人の「群雛覓食圖」も同様で稍や拍子抜け。…御無事でないなら合掌。

    (以下愚痴…)
     書けば書くほど隔靴掻痒、「読める原理」の試行錯誤なら苹なりに書けなくもないけど正しいとは限らないし、整理も済んでないから無駄に長くなる。以下実例。
     嘗て時折「場所の論理」と形容してたのは、偏旁冠脚などが受け持つ字内テリトリー。同一テリトリー内で変形や草略があっても点画の対応関係はハッキリしてるから、見慣れているほど字の同一性は推認しやすくなる。例えば般若心経の冒頭「觀」字では「口=ム」の互換性が成り立ち、草冠の次がムムだったり点々三つか四つでも可読性には影響しない。新字体の「観」は草略の楷書化。最初の「ノ一」は草冠を縦横縦の筆順で書く名残で、次の「一」は「口口=ムム」の更なる省略。ただし草書の「観」では点々(口口)を分けて書くのが普通で、一本には繋げない。若人あきら(↓)の眉毛みたいに繋がる例はあるけれど、所詮は筆脈連綿の範囲内。虚画の実画化には至らない(やると紛らわしくなる)。具体例は千字文なら「樓觀飛驚」の句を参照。
    http://homepage3.nifty.com/gashu-in/profile1.htm
     …こんな具合に説明が長くなる。延々とやられたら誰だって飽きる筈。だから書けない。しかも書き足りない(苦笑)。草書の「觀」は偏旁が稍や斜め上下にズレる。これも「場所の論理」では「トポロジカルで微細な変形」の法則性をもつから、同様の見方は「群」などの字にも適用可能。それが「微細な変形」では済まなくなると、今度は造字構造の変化という枠組で捉える事になる。例えば「群」の左右を上下に畳む異体字の場合、「峰・峯」「嶋・島・嶌」の様な字内「回文」構造(?)に見立てれば、「場所の流動性」にもまた別の法則性が看取できる。
     こうした書体横断的な多様性と統一性が、実用に育まれた歴史的可読性を担保してきた。書体は文字の表層像で、深層の文字認識本体ではない。表層の多様な変形書字像が同一の文字認識に収斂すれば、その書字は「読める字」である事になる。逆に表層と深層を繋ぐ認識のアルゴリズムが切断されると、「読める字」は「読める事」に直結しなくなる結果「読めない字」と認識される。つまり「読める字」と「読めない字」は同一の表層像で構わない。「読める事」とは関係がない。…結局いつ書いてもアタシってば、どのみちクドくなっちまうのね…(orz)。
    【2014/04/17 23:56】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     標準草書で知られる于右任の回顧展が開かれたとか。産経記事では以下の通り。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140421/art14042109350004-n1.htm
     …この際、正直に書く。あたしゃ于右任の書がよく分からない。草書の標準なら日本の方が、幕末/明治から続く戦前の「三体千字文」ブーム(?)に一日の長があると思う。それを踏まえて台湾の「本場的」書きぶりを見るならば、日本式の三体比較型洗練教材が担った通俗的啓蒙性の価値にぼちぼち皆が気付いてもよさそうではないか。と云うのも支那人は書を脱俗に仕向けようとする傾向が強く、于右任もまた「高雅の弊」(?)を免れていない点で、その目的としたらしき所とはチグハグな趣を感じざるを得ないからである。
     通俗と卑俗は必ずしも同じではない。民度の高い通俗性があり得る事を、嘗て日本人は自ら証明してきた。そこに西洋人達は驚嘆したらしい。幕府の役人よりも、むしろ庶民の側の文化水準に。和漢交々の複雑な書記様式にもかかわらず識字率が高い背景には、混乱なく判読するための「曖昧かつ明晰」なコツがあった(曖昧と明晰は共立不可能に見えるが、相補的で重層的な認識の複合/創発から見れば演繹的に共立可能)。~以下、その点も少しは臭わせようとしたつもり…。

    (以下またまた愚痴…)
     「書家と書道教員の違い」…これも前々から、どうにかして充分な説明が出来ないものかと考え続けてきたテーマではある。ただ厄介なのは、現状をそのまま説明すると身も蓋もなくなる点。敗戦後の占領教育を講和条約発効後も承け継いで、日本文化の破壊を黙認するか指導放棄するのが書道教員てな風情になってしまう。かと云って書家がそうでないとは限らない。中国文化を尊重する余り、なりふり構わず共産中国にも台湾にも媚びるノンポリだったりする(かもよ?)。それらを避けると現実離れした切り口にならざるを得ないし、過去の現実を焼き直せば今度は所謂「軍国主義」のイメージが邪魔になる。そもそも読める時代と読めない時代との落差が大き過ぎて、教員側でも書家側でも「過去の指導法自体が通用しない」。戦後の指導法は戦前のと大して違わず、むしろ劣化した面が少なくない。
     この事は教材を見比べれば分かる。いきなり戦前レベルまで戻すと指導力不足や時代差が露呈する件はともかく、日本にソシュールの言語学が紹介された1928年以後の学問を書道側から修正する動きはなく、国語学は西洋との摺り合わせばかりで書字は論外、自ずと意識は活字中心に傾いたままとなった。それを初等/中等教育で逆行させると、時代錯誤の未開人が学問に逆らっているかの様に見えるのも無理はない。~歴史から社会を隔離すれば、「存在」の理念化を通して社会が支配の対象となるだろう。社会から歴史を隔離すれば、「近代」の現在化を通して歴史が報復の道具となるだろう。歴史が社会を支配すれば全体主義と呼ばれる。社会が歴史に報復すれば修正主義と呼ばれる。いづれにしろ踏んだり蹴ったりで碌な事はない。ならば当方、どちらからも距離を置いた立場で見つめ直すよりほかはない。
     そこで私は夢を見る(爆)。…書家のイメージは大抵が外に開かれるか予め抛擲され、いくら事実に根差して居ようとも「あの書家はこんな字を書く」とする外部理解(偏見)が書家を書家にする限り、それを学校に持ち込むポピュリズムの野蛮さからは逃れられない。誰もが書表現を以て書道と見なす。そこまでは百歩ばかり譲れるとしよう。ところが書家は所謂「こんな字を書く」タイプの専門家で、視野の広い=得体の知れぬ「何でも書ける」タイプではないのが普通。野蛮な書家は確信犯的で、一つの書風しか出来ない(その書風の枠内で様々な古典~すなわち作品も作例も書き分ける)。そうでない書家なら書道教員でも構うまい。しかし「作品を書かない=書家ではない」書道教員が通用するかと云えば、どうやら野蛮な学校では無理筋となるらしい。これはおかしい。作家でも評論家でもない国語教員なら、巷間ゴマンと居るではないか。
     夢も現(うつつ)も表裏一体、記憶のごとく嘘を吐く。そんな嘘まみれのうつつに呑まれた理解が、例えば脳機能研究では専ら現代/現実の漢字と仮名に大別される。行草変体仮名交じりの過去/中間は、もはや一般的なリテラシーの段階にない~具体的には岩田誠・河村満編『神経文字学』(医学書院)などを参照。しかし、だからこそ苹は夢想する。もし学校の書教育が戦後も識字性を優先して居たら、今でもスラスラ…と迄はいかぬにしても、保存的には辛うじて誰もが「読めた」筈だった。なのに何処の自治体でも戦後一貫、芸術科書道を兼任する国語科教員が少なくない。してみると、むしろ積極的に「読めない様にする」のがどうやら国語側の意思らしい。それを更に他科教員や管理職や教委が翼賛、担当教員にも生徒にも「読める夢など見るな」と言わんばかりに迫る事となる。
     それゆえ基礎には無頓着。もし「なぜ筆順が必要なのか」(←誰か義務教育で、理由まで教わった人いるかい?)を徹底指導すれば、応用段階の草書や変体仮名は江戸時代と同様、今の小学生にも簡単に読める筈。それをやらないから字形を図形と認識する一方、トポロジーへの素朴な発想展開は閉ざされていく(大袈裟に云えば、言語と数学との横断妨害)。西洋の数学教育では素数の基礎を徹底指導すると聞くが、日本では論理的思考より計算実務を重視する傾向が根強い模様…どこか国語教育の歪み具合と似ているのでは。
     「仕事が論理を打ち負かす」タイプの精神主義で津々浦々に培われたものが国語とは別の領分に転移した途端、国語信者達は国語国字問題の裏街道でひたすら沈黙する書道を二重の野蛮へと追い込んできたのではないか。野蛮なのは「軍国主義」ばかりではない。もっと普遍的な野蛮があると思い込ませるふうでもある分だけ余計たちが悪い。「味噌も糞も一緒」の野蛮と軍国主義を同一視してはならない。それと同じ事が軍国主義と精神主義にも云えるが、こちらの方は稍や微妙かも知れない。
     …ともかく畢竟、どれもこれもが夢の中。私には現実の方が歪曲そのものに見える以上、現実逃避は敗北でなく闘争であらねばならない(かもよ?)。先ず言葉の意味そのものを疑い、言葉が置かれた現実を疑う事から始める。すると夢の様なリアリズムが、現実のダイナミズムへと向かって動き出す筈。そうした文脈に読み替えて今、私は西尾先生の『江戸のダイナミズム』を或る種の前哨戦に備えた一里塚と捉えて居る。その後に来るのが昭和のダイナミズムなのだろうが、ダイナミズムとリアリズムの相剋が顕著になった時代でもありそうな所に私は難しさを嗅ぎ取る。

    (余談)
     以上を三日くらい前に書いて推敲つらつら寝かしてたら、今朝五時頃のNHKニュースにビックリしたぁ!…なんでも、物凄くリアルな3D技術を駆使した「お面」があるそうな。実に衝撃的だった。うら若き女子高生に迫真のオッサンお面をわざわざ装着させて紹介するなんて、なに考えてるんだNHK!(笑)
     尤も苹とて、とやかく言える身ではない。前々から西尾先生の傘寿賀筵を妄想しては、「記念品にするなら西尾先生の3Dフィギュア人形が絶対いい!」と確信し続けてきたのだから。それを今、変更する。もっと日常的な、神社の宵宮で売られるテキ屋の「お面」みたいなのを、とことんリアルに追究した高級「西尾幹二お面」に改良すべきだと声を大にして言いたい。それに多分、これなら実用性もある筈だし(でも何に使う?…由緒ある能面みたいに飾る?…それとも実際に着用して楽しむ?)。
     これまで非表示稿で3Dフィギュア化を提案してきたが、今度ばかりは表示稿でないと気が済まない。本気で「お面」を提案したい。もし見てたら『江戸のダイナミズム』出版記念で活躍して下さった宮崎正弘先生、よろしくお願い申しますぅ(と書いてみる…)。
    http://real-f.jp/
     あ…でも、あらためて検索してみたら(↑)お値段、今はまだまだ高いのね…orz
    【2014/04/26 08:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (独り言)
    「お面はどうして、リアルなものほど、見た目がキモチワルイの?」
    「それはネ、生きてる様なダイナミズムとの断絶が際立つからだよ。」
     …あれはライフマスクと云うらしい。その反対が皆様御存知のデスマスクで、有名人のではニーチェとかレーニンとか色々ある模様。こちらに共通するのは要するにアレ。だから表情には死相がごく自然に反映し、生けるダイナミズムとの断絶が前提にあるから、生前の顔とは別物と予め割り切れる(かもよ?)。もう二度と生き返らない。さもなくばゾンビでござる。差し詰め著作の全集に喩えるなら、西尾先生のがライフマスク型で他の大勢はデスマスク型ってとこかしら。だからと云って、誰も「全集キモイ」とは思わない。言葉の超越性がリアリズムもダイナミズムも丸ごと呑み込んでは、後からレガシーの領分で育っていくのだから。(誰だ、「ソリャ忘却されない場合だろ」とか「育ち過ぎるとゾンビ同然」なんて言ってるのは?w)
     二千年ほど前に或るオッサンが、何を血迷ったか予言通りに復活したそうな。そしたら「まこと神の子なりき!」のドラマになっちまった。これってゾンビ仕立てに演出したら、忽ち世界中から袋叩きに遭っちまうんだろーな。するとダイナミズムが誰のものか如実に分かる。リアリズムを征服する手口も暴露される。そこが日本と決定的に違うのかも。生き続ける不在神は、他者に征服され続ける事で、逆に他者を征服する(征服するよう強いられる?)。片や生を承け継ぐ存在神=現人神は、征服した(された?)事がないまま代々粛々と祈り給う。
     それはそうと、ライフマスクと雖も本物には敵わないみたいネ。数年前は「人体の不思議」展が物議を醸した。アリャどう見てもガイジン(中国人?)の発想。幕末明治の日本人なら精巧な生人形を作る。~以下、それを見た人の感想でも。前掲『美術という見世物』P.331より。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > それにしても、松本喜三郎の「貴族男子像」の里帰りは衝撃的であった。「生人形と松本喜三郎展」の薄暗い展示室の奥に、強いスポットライトを浴びて突っ立っていた中年男と出会った時、何と言ったらいいのだろう、前も隠さず、要するにスッポンポンの姿に、思わず笑ってしまった。かれは驚いたような表情で、こちらを見ていたからだ。
    --------------------------------------------------------------------------------
    http://shiroshitashimauma.blogspot.jp/2013/08/blog-post_22.html
     煎じ詰めれば3Dフィギュア全身像も、これくらい(↑)リアルであらねば。すると話が猥褻になってくる。撮影の徹底に誰が耐えられるものか。お面は体の七難を隠すのかも?

    (補記)
     前稿を読み返して気付いた。「野蛮」と表現した箇所が、ともすれば読み手(特に専門家?)の誤解を招くかも知れない。
     普通は野趣だの何だのと綺麗に表現するが、要は原始的で洗練度が低い側面の裏返しで、背景には清朝考証学や金石学の影響がある。それも古拙の美ばかりでない点が腑に落ちぬ。別の面で野蛮な、或いは不穏で猥雑な空気が漂ったりするから一筋縄ではいかない。また一つの書風に凝り固まる書家の姿勢は作品表現に限れば勝手だが、それを生徒に強いる指導となると一長一短で悩ましい。もし作品と作例が別人の字に見えるなら、観察と模倣を基礎とする作例は逆説的かつ相対的に、作品の立ち位置を浮き彫りにするだろう。作例を用いる指導の効果が自己滅却の毒となり、そこから作品への脱却動機が生まれる事もある。ただし肝腎なのは中身で、書表現だけが作品とされるのはどう見ても不当で野蛮に思える。論文や論考を作品と呼ぶのは不適切だろうか。孫過庭の書譜、欧陽脩の集古録跋尾などはどうか。真蹟が失われるか版本になって初めて「文」が「書」から解放されるとしたら、抛擲された側は一体どうなる?~ちと神経質かも知れないが、この点は念のため補足して置きたい。
    【2014/04/30 07:05】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (備忘録)
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    >「日本人は、犬を食べると聞いたが、それは本当ですか」
    > あちこちからくすくす笑いが起こった。
    >「いや、食べない。犬は日本人にとって、ペットというよりパートナーであり、友人だ。食べるわけがない」私は強い口調で答えた。
    >「いや。僕は写真で見たんだ。日本人が犬を殺して食べている写真を」男の子もやや強い口調になった。くすくす笑いが止んだ。私は男の子をもう一度じっくりと見た。彼は颯爽としたヒーローに見えた。私は不快になった。不快感はヒーローの座を奪われた嫉妬心かも知れなかった。写真で見た……? その写真はおそらく日本のものではないだろう。でも、アメリカの田舎の高校生にとって、日本人も中国人も韓国人も区別がつかないのだろう。それを言うべきか。いやいや、それを言っても始まらない。つかの間ではあったが、結構深い葛藤だった。早く答えなければならなかった。
    >「食べたよ。確かに食べた」どよめきが起こった。どよめきに交じってTerrible! という声が体育館のあちこちで聞こえた。
    >「ただし、それは少し前の時代だ。君たちの国に戦争で負けて、食料がなかったころの話だ。君たちは、牛や豚に与えるミルクを日本にくれたが、肝心の牛や豚はくれなかった」そう言った後、
    >「もし、私たちの国があなた方の国に原爆を落とされず、負けなかったならば、犬を食わずに済んだのに」と言った。会話では、初めて使う仮定法過去完了形だった。実はずっと会話で使いたい表現だった。過去において起こらなかった事実を述べるときに使う仮定法過去完了形。なぜ、彼らは事実と違うことを言うとき時制を一つ戻すのだろう。予備校で生徒に訊かれて答えられなかった。受験では必須の、いわば日本の英語教育のハイライトの一つだが、普段の会話においては誰も使わない。
    > 校長がいきなり拍手をした。続いてほかの生徒やほかのスピーカーも拍手をした。質問をした男の子もつられて拍手をした。いい答えだった、という意味かも知れないし、もうこの辺でおしまい、ということだったかも知れない。私は拍手の余韻をあとに再び緑のトンネルを潜り抜けるバスの車中の人となった。
    --------------------------------------------------------------------------------
     以上は講談社『本』2014.5号P.34~35の松原好之「一九八六年の“仮定法過去完了形”」より。かなりの分量を引用して申し訳ない。…それはそうと、もし大真面目の直球で答えていたら、果たしてどんな反応が返ってきただろうか。因みにウチの婆様は、今でも牛や豚や鶏(やマグロ)を食わない。犬や馬や鯨とも無縁だったろう。浜辺でウニやアワビなら採ったかも知れない。紅鮭や筋子や鱈子はよく食べる。回転寿司はいつも甘海老と蟹と帆立ばかり。
     その他、今月の『本』では神里達博「芸術は文明を先駆ける」が面白かった。高島俊男連載は産経ネタ。講談社現代新書の創刊五十周年特集では、当時の背景が垣間見えて興味深い。村井実「講談社文化を背負って」と渋谷裕久「創刊前夜の日々」。ただしどちらも創刊時に限定した話ゆえか、少し遅れてきた背番号176番の目映きルーキー、西尾幹二選手(?)への言及は、ない。
    【2014/05/03 00:52】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    松原好之さんって、塾の先生ですよね。
    それ、うちの息子がお世話になりました。
    大阪で浪人生活を始めるとき、ほとんどゼロ点の息子を引き受けてくれました。

    恩人中の恩人であります。
    【2014/05/03 16:19】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >松原好之さん(中略)恩人中の恩人
     あらまあ、なんとも奇遇な話で。奥様レスの読後ふと気になって検索したら、主に医者志望がターゲットだとか。そっち繋がりなのかナと勝手に忖度しては妙に納得したり。
     ところで仮定法過去と仮定法過去完了、英語が苦手な苹としては、それがどこまで掛かるのか気になる訳で。文学的に読もうとすると、一つの語法が遠くの記述に波及する効果次第で解釈が揺さぶられたりもする。例えば「食べたよ。確かに食べた」との事実認識に、どの程度まで仮定のグラデーションが反映されるのかと。…だから苹は、日本語ですら苦手なんだ。仮名の背景で漢語が黙る仕組みについて、説明の仕方に四苦八苦し過ぎている所為なのかも。そこんとこフランス語の奥様やドイツ語の西尾先生なら、どんなふうに捉えるのかなあ。どのみち苹は、ややこし過ぎるから「文学が大嫌い」(つまり構文に限定した視野でなく、意味の「外延」に目を向ける~と云う事は相対的に「内包」の深淵も含意する次第…)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1406
     「日録」の方ではウクライナの金塊ネタに興味津々(↑)。中国が金備蓄に熱心なのは前々からですけど、こちらを基軸に考えれば、どのみち日本は「蚊帳の外」になる?
     以下蛇足。~昔の名前は「白ロシア」、ウクライナと云うよりベラルーシか。差し当たってはチャイコフスキーsym.2を、オセチア出身のゲルギエフ指揮にて。(そう云やオセチアとグルジアの関係もややこしそうだな…あちらは今どうなってるんだろうか。)
    http://www.youtube.com/watch?v=3ReiETJ58PM

    (余談)
     この連休後半、いつものトイレ読書で新獲の今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)を楽しんだ。「稿者は大学一年生の必修科目「くずし字解読基礎演習」を担当している」(P.63)、「昨年度から、勤務先の大学において、一年生にいわゆる「変体仮名」を教える必修授業をつくった」(P.247)とあるのには嬉しくなった。…ふと思い出し、どこに書いたか「連綿分解」をキーワードに探したところ懐かしい旧稿を発見。
     以下は壊滅前の天バカ板より(今の二代目板には未再掲)。草稿用ファイルでは数稿後に萩野貞樹先生の訃報ネタがある所からすると、どうやら2008.2頃の稿らしい。冒頭の一行はタイトルで、二行目からが本文。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >ざっと読んでみる。(No.7014の改訂稿)
    > 「酔わせて下さい、もう少し。今夜は帰らない、帰りたくない。」…平成に入る少し前、そんな歌詞の流行歌があったっけ。おちょくり板に書くのは後回し。小松茂美『天皇の書』(文春新書)を見てたら、ふとP.277の和歌短冊(光明天皇筆)をタネに道草したくなった。~以下随想。持ってる人は開いてみてよね(o ̄∇ ̄)o
    >
    > 取り敢えず読んでみる。「さだめなき/うき世の中と/しりながら」…実に読みやすい字だ。変体仮名を現行平仮名に変えずに表記すれば「佐多めなきう起世の中…」。ここでの「起」は一見「紀」に近い草略となっているが、万葉で用いられた「紀」は平安時代以降「起」に収斂したかの様でもある。
    > その次の「登」で一瞬迷った。「豆」の位置が原因で、最初は偏旁の構成を疑った。…あの偏は「非」の左側に見える。すると右側が不自然。そう云や「非」と「作」の旁は同じ形で書いたよナァ。それにしては下が「と」の様にカーブする…これは解せない。てな訳で「登」なら辻褄が合う(よく見ると、初め「と」型に見えた箇所の筆路が違う)。位置や筆路の微妙なズレが誤読を誘うから、読みやすいとばかりは云って居られまい。そこには慣れの問題もある。しかし和歌ともなれば元々字数が決まっているから、最も読みやすい部類に入る事は疑う余地がない。
    > …思い起こせば授業でよくやったっけ。~先ず連綿分解して、一字一字に切り分ける。分け方を間違うと後は全部アウト。ここで躓くと泥沼化する。連綿分解の後は平仮名抽出。現行の平仮名を先に総て読んでしまう。残った字は変体仮名か漢字か、もしくは「単に読み損ねただけ」の現行平仮名。それらを後で読む訳だ。
    > そんな具合に読むと「佐多めなきう起世の中登し里な可羅…」。ここまでの間に「な」が二つ出てくる。プリント学習する時は連綿分解の横線を文字の切れ目にシャッシャッと引いた後、見た目が同じ文字をマルで囲んでしまえば分かりやすい。読めない変体仮名も先に同じ形を囲んでしまえば後が楽になる(今回の和歌では「な」が差し当たり三つor四つと「可」が二つ)。
    > 直後に私は躓いた。以下、すぐには読めなかった字を「×」で表記する。
    >・「佐多めなきう起世の中登し里な可羅××あらましと×ふ×可なさ」
    > それを句で切る。五七五七七。
    >・「佐多めなき/う起世の中登/し里な可羅/××あらましと/×ふ×可なさ」
    > この場合は「中」が「なか」又は「うち」で二音。すると「×ふ×可なさ」のどれか一字が二音に相当する漢字だろうと察しが付く。最後は「者可なさ」。その前の「×」は「上」にも見えるが形は不自然(横画が長過ぎる)。送り仮名に「ふ」が付くなら、これはもう「思ふ」で決まりだろう。
    >・「佐多めなき/う起世の中登/し里な可羅/××あらましと/思ふ者可なさ」
    > 残る二字は「乎」と「越」か。続けて読めば「をを」?…まさか。同じ音を続けるのなら、改行箇所でない限り普通は「ゝ」とする筈だ。「越」と読んだ字が「比」に見えてくるものの、これはこれで不自然。もしや濁点付きだろうか。まさか。私の頭では「越」しか考えられない。
    > ここで初めて隣頁の釈文を見る(めんどくさくなったw)。正解は「な越」だった。最後まで「な」が読めなかったのは「乎」に拘った所為。~私は途中で「者」を「可へ」と読みかけたりもした。字は語に順うので、語を軽視すると字の解読を過つ。そうした危険が常にある。既習語彙量と誤読確率との相関が疑われる。やがて漢語が増加するにつれて、相対的に仮名との更なる差異化が要請されていっただろう事が推測できる。
    >・「さだめなき/うき世の中と/しりながら/なをあらましと/思ふはかなさ」
    >
    > こちとら古文書を読む機会は少ない。幕末期の習字手本が精々で、その規範性が明治、大正昭和、そして戦後と遷りかわるにつれてどうなったか、むしろ私の興味はそちら側にある。その中から「近代」を汲み取り、現代では何が失われたか比較する方が楽しくもある。そうした意味では半分の「読める感覚」と、もう半分の「読めない感覚」との双方に戸惑う~すなわち「右顧左眄を楽しむ」事なきにしもあらず。
    > 此処の板で以前、横溝正史『獄門島』の話題を出した事があったっけ。戦前にアメリカから帰国した金田一探偵は「半分読める」近代人だった。近代人であるがゆえに事件の解決が遅れ、また近代人であるがゆえに推理した結果「事件の全貌を明らかにできた」。前者の近代人性は「手遅れ」へと傾き、後者のそれは「解決」「認識」へと傾く。こうした「近代人の相貌性」が回り回って「現代人の相貌性」に連なる時、近代人と現代人は「内なる異質の日本」から共に等しく呪われる。
    > 「古い上着よ、さようなら。」…そんなふうに藤山一郎は唄った。青い山脈は千古不易を装いつつ時代の遷移を呪う(?)のに、そうとは思わぬまま自然を征服しようとする発想自体が「さようなら」の意思や感覚と矛盾するなら、ここでは「さようなら」の方が自然を呪う事にもなるだろう。仮に~呪い呪われてナンボの世界が近代を鍛えるなら、近代に呪われた現代(例えば年金紙台帳問題)は次に何を呪うのかしら。探偵小説の『獄門島』では娘達が次々に殺された(しかも逆さ吊りなどのデコレーション付き)。そうした犠牲をものともせずに、「近代」抜きの前後だけを見据えてきた書道界・書教育界が今後どうなっていくのか、予言的視点に限らずともそこそこ興味深いところではある(こんな書き方だと大袈裟に過ぎる?)。
    > 四月以降に出版されるらしき「呪いのクリティーク本」(てな形容の半分は冗談…汗)、西尾先生ならどんな書き方をするか楽しみだなあ。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2014/05/07 01:27】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    まぁ、そんなところです。

    あの先生はチャンネル桜にも出ていたことがありました。

    書道というより、古文の授業みたいですね。
    【2014/05/08 21:53】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >書道というより、古文の授業みたい
    http://tsukurukai.webdeki-bbs.com/tsukurukai_topic_pr_333.html
     初めから読める生徒が相手なら、この手の授業(↑)をせずとも済んだ筈です。幕末期(「何を」ではなく)「どんなふうに」教えていたかは史料不足で不明。誰の手も借りず自前で工夫すれば大体ああなる。なるべく短時間で、実技への影響を最小限に留めようと。しかし所詮は自前ゆえ、客観的には何の根拠もない。つまり他者の眼差しを借りた「気休めの裏付け」がない。参考になりそうな出題教材は一冊も見た事がなく、今野真二や中野三敏の名も知らず、最初に出会った客観的教材が兼築信行『一週間で読めるくずし字 古今集・新古今集』(淡交社、2006.2.2初版、2006.7.29再版)で、「私の定期考査そっくり!」と驚き安堵した時は教職追放から既に七年が経過。その間こちらは専らパソコンにて、「教壇でなくともコツを伝えられるのでは」とあれこれ書き散らしていた次第。
     そこから先の印象は、「書けば書道、読めば古文」の授業になるんでしょうな。双方「基礎以前の基礎」は同じでも次のアプローチが異なり、端的には前者が「書けるけど読めない」立場、後者が「読めるけど書けない」立場へと頽落したりする。更に前者を突き詰めると「読める人を育てる」立場が放棄され、「近代詩文=読める書、古典=読めない書」の実技至上主義が国語教育と調和しつつ棲み分ける。そんな現場で「読める人」を蒸し返したからサア大変(苦笑)。今もし兼築本や今野本を根拠に論駁しても、たぶん現場は相変わらず「古文書学と書道は違う」か何かの口実で拒絶反応を示す事でしょう。
     因みに苹式と兼築式を比較すると、苹式では平安時代の粘葉本和漢朗詠集を使ったのに対し、兼築底本は江戸時代の版本。つまり「書く事」への眼差しが違う。勿論、読むだけなら江戸物の方が実践的で好ましい。しかし書字原理に遡りながら読む場合、時に過度の変形を伴う江戸本の字は些か厄介でござんす。おまけに版本は肉筆と違って筆路/筆触の分析に難がある。喩えるなら、絵画の実物を調べずとも写真で充分とする様なものかしら。その辺がネックとなったか台北故宮蔵の北宋名品、范寛「谿山行旅圖」の隠れた署名に初めて気付いたのは1958年だとか。~中には「画と書とでは細密度のレベルが違う」と見る向きもあろうかと。が、細密度とは無関係に、見方自体が荒削りでは気付かぬ点も多々あろう。そうした意味も含めて、書と画は別物でない。
     ここでは言い古された「書画一致」自体が歴史的アフォリズムを構成する。かてて加えて漢字書道は支那アフォリズムのオンパレードで、それを纏めた虎の巻が所謂「墨場必携」の類(加地伸行先生ので云えば、稿末恒例のアレに近い?)。今なら「座右の銘」と言った方が通りはよいのかも。こちらの方は漢語の羅列に縛られず、どちらかと云えば現代文で間に合うタイプの語録。ところがいざ現代書の作品として書こうとすると、今度は著作権がどーのこーのと喧しい話になってくる(読売展の場合は、「公募規定」別項の「作品題材詩(詞)文の著作権に関する規定」参照↓)。
    http://event.yomiuri.co.jp/shohokai/shohoten/31th/08.htm
     ハッキリ云って、めんどくさい。だから原著者が誰であれ、存命中に書かれる事は滅多にない。…そこにズバリ該当する一例を、この際わざとらしく「西尾幹二の墨場必携」と呼んでみようか(わーい、どんどん溜まってる溜まってる♪↓)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=201404
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=201405
     近代詩文書(調和体とも云う)は仮名遣いの新旧を問題としない。元々は昔ながらの「行草変体仮名交じり」を排除する前提で作られた部門ゆえ、どの書展でも漢字や仮名とは別扱いで、有り体に云えば国語と古典語を峻別した形。すると苹は臍を曲げたくなる。もし「日録」で、「西尾幹二のアフォリズム」を「行草変体仮名交じりで書いてよい」との公式声明が発せられたらどうなるかしら。それより何より、書作品化する場合の申請手続きが原則不要となるならば(無条件で、とまでは云わない)、西尾先生の言葉は書展の場を通して、これまで以上に広く世間に知れ渡るかも?
     ~とどのつまり、印刷書物とネット文献に続く第三の可能性を、私は性懲りもなく「著作権意識が非西洋的だった時代のマテリアル復活」に夢見てるってこってす(汗)。
    【2014/05/13 20:33】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (補記)
     その後、もう少し調べてみた。
    http://event.yomiuri.co.jp/shohokai/shohoten/23th/img/tebiki.pdf
     「第22回展では、許諾を得られなかった例の中に、「今まで勝手に作品を書に書かれて迷惑してきた」と、書道界を批判する声もありました」との事。存命の原著者だろうと推察されるが、もしそうならば確実に活字世代の感覚が基盤にある筈。もはや写本の時代ではない。書表現の時代でもない。しかも読めないとあらば著者の沽券(?)に関わる。…ここでふと、大学入試で西尾先生ご自身の著作が使われた件を思い出す(「入学試験問題と私」参照↓)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=200701
     自分の文章なのに、答えられなかったりする。悪問が出たりする。それと似た感覚を書表現に覚えるかも知れない。完成作品を予め見てから許諾の可否を決められる訳ではない。そこに許諾申請者側の卑怯な態度を嗅ぎ取る事だって可能かも知れない。そもそも完成など「ない」曖昧な書表現世界の、どこの馬の骨とも知れぬ「他者」に、表現の変奏を丸ごと委ねる仕組みがある。著作権の名目だけは尊重されるものの、どんなふうに書き換えられるかは(一字一句は全く同じでも)書かれてみなけりゃ分からない。
     却って、著作権の観念自体が猥褻なのかも。猥褻物の途方もないコピー連鎖とは逆向きの世界に、著作権の方が操られてしまう。ただの転写・転載を踏み越えた途端、変奏に対して無力となる様な言質を与えてしまう事に不愉快とならない著者が何処に居ようか。にもかかわらず、うすのろ写本の時代は版木の段階ですら意外なほど鷹揚だった(楷書基準で見ると、活字の方が過度の変形を伴う様に)。ここでは版木(=本)自体が原著を代行したとも云えるし、そこに版元の役割、編集者の触媒機能が宿ったとも考えられる。
     これを著作権と編集権の乖離や断絶や調和(!)に見立てるなら、その辺いくぶんか分かりやすくなるかも知れない。有象無象が勝手に自分の言葉を書き写す…それが嫌なら初めから本など書かぬ方がよいのだろう。しかし出版する以上は多くの場合、編集者の介入が不可避となるらしい。その範疇でゴーストライター問題を捉える向きがあってもよい。すると著作者の身体が内部崩壊を起こしかねなくなる。著作者が書家のままなら申し分ないのに、活字に仕立てる編集者は例外なく「著者公認の改竄者」でもある筈。
     こうした書家と編集者との差異や立場の顛倒を、どう捉えれば踏ん切りが付くのやら。既に著者は書家的でなく、むしろ編集者の方が機械的に「書家=印字エディター」だとするならば、印字が書字を駆逐した顛末は実のところ、別の畑での反復をも暗示していたのではなかったか。野生のネット世界にお株を奪われた事態を以て出版不況を語るには、まだまだ著者の身体が曖昧に過ぎる。そうした意味で今もなお、著者と書家は共犯者としての同一性を持て余し続けているかの様に思えなくもない。
     …そんな事を最近あれこれ考えています。著作権それ自体が「読者としての創造性」を回収する時、著作権の発動は著者自身を迫害するかも知れない。この手の反復は、著者と翻訳者との関係に於ても或いは同じく?(例↓)
    http://nikkan-spa.jp/642770
    【2014/05/16 23:14】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔 さん
    迷路に入っていますなぁ。

    入り口が出口なのか、それさえも闇の中?って感じでしょうか・・・・・・。

    でも、そうやってさまようことそのものが、目的になっているような。
    【2014/05/23 09:03】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >迷路
    >入り口が出口なのか、それさえも闇の中?
     音楽の例に沢山ありますが、引用と反復の持つ性格が時には迷路状に映る事もある様で。主題の反転や逆行みたいな自己引用の類はともかく、他者による主題~例えばパガニーニのをリストが変奏曲に仕立てるケースとか。その辺の二次創作(?)なら別作品と捉えやすいでしょうが、原曲は変えずに編曲だけ変える例となると、編曲者より作曲者の方が表の顔になるのが通例(ブラームスのハンガリー舞曲、ムソルグスキーの《展覧会の絵》、シューマンの交響曲マーラー版など多数)。あと、場合によっては演奏者の方が印象は強烈だったりして。そこに著作権の歴史を絡めると、いっそう話がこんがらかってくるのでしょう。なべて後から闖入してきたのは著作権概念の方。
     ワーグナーはバイロイト以外での《パルジファル》上演を禁じたとか。1886年のベルヌ条約で1913年までの独占上演が認められたものの、著作権が切れるのは没後三十年まで。条約批准しない米蘭では構わず上演。片や日本は不平等条約改正問題が背景となり、1899年にベルヌ条約加盟。~この時期が一番ややこしい。日本の出版文化は明治十年頃までに概ね活字化し、開国前とは状況が一変した。つまり著作権概念の導入と活字化の流れと国語の確立が同時並行し、書字文化はいきなり置いてきぼりにされたかの様な。西洋では音楽であれ出版であれ、すったもんだの熟成期間が法概念を鍛えたのに対し、日本では国際的規範性に適応するのがやっと。今でも後遺症を引きずってるんじゃなかろうか…中韓ほどではないにしろ(こっちは過剰適応、あっちは適応不全?)。
     そんな観点で見ると、隣の所謂「パクリ天国」がただの時代遅れとは思えなくなってくる。日本は余所様に喧伝できるほど立派だろうか。予め澱む伝統の良し悪しを性急に度外視した挙句、アッケラカンと捨てただけではなかったか。かと云って隣を伝統護持の模範と見るつもりもない。模倣と伝染の類似性ばかりが著作権に違反するのではなく、創作物に伴う権利自体が著作権の行方を数値化した途端、著作権それ自体がコストとなって消費されていく。その手続きが専ら素朴に疎ましくなった結果、書道界の圧倒的大多数は伝統的底辺層を中心に経済活動を完全放棄した。展覧会は入場無料が当然で、作品は売らない(売れない)。内輪の売買はあるものの、先般の日展騒動と大差ない構造下の秩序は昔から殆ど変わらない。
     多くの書家が仲間外れにしたがる手合いは主に二方面ある。一つは学者。一つは商売人。学者の中には文筆家も含まれる。正直なところ、文士の揮毫を本気で賞賛する書家は皆無に近いだろう。なにしろ練度と美学が違い、書家の方が遙かに巧い。でも学識と了見では足元にも及ばない点で引け目がある。他方、商売人の代表格は今なら武田双雲や紫舟。書家に求められる文人の理想とは程遠いにもかかわらず、世間では普通の書家よりも芸術家らしく扱われている事に内心の不安を募らせる。…彼らの作品(?)には言葉らしさの希薄な文句が目立つ。タイトル、ロゴ、宣伝文句をコピーライターか誰かが捻り出し、企業が発注し、それを受けて字姿を工夫する。この手の仕事には別の呼び方があるだろう。
     ここまで来れば「書家=印字エディター」の原型が分かる筈。書く題材は他者のものであり、そこに著作権が関与すると書家の役割や立場が次々と分捕られていく事に嫌でも気付く。一般的意味で云う経済活動=職業としては成り立たないのに、そこのところを書家自身が集団的に隠蔽してきたから根は深い。書家の本質は自己癒着業(そこが他者癒着業=ヒモとは異なる)であり、正統的な基本論理は知識人体質の本業に付属する余技依存の理念により保たれる。従って書家という語彙単体概念として幻視される「職業」は総て粉飾か偽装か詐欺であり(←犯罪的意味ではない!)、また先夜「外部理解(偏見)が書家を書家にする」と書いた通り、書家の側が自ら詐称するとは限らない。
     「書家」という語彙が内包する知的性質の表現を職業に分類するかのごとき無茶を、著作権の発動は結果的に側面支援する事になるだろう。精神活動を金銭や権利の分け前へと数値化するのが目的でもあるまいに、ともすれば西洋的後発概念への収斂は、開国前の価値観を根こそぎ組み替えてしまう。そうした動向を私は猥褻と評した。金銭や権利それ自体ではなく、それらを操る方便と構造の方が猥褻に見えるのである。
    【2014/05/24 22:40】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (蛇足)
     一々読まずとも内容の見当が付く拙稿では、「その部分」をなるべく省こうとしたりする。~書くのは作曲家であって演奏家ではない。しかし聴衆にとっては先ず演奏で、それが同時に曲である。こうした関係が書表現でも保たれる場合、字面が饒舌だと却って読む邪魔になる。そこを排して突き詰めると、風情は御覧の通り「活字モダニズム」になるのだろう。楽譜を読む様に読んだら演奏が要らなくなった…そんな「演奏する様な書道」に慣れちまった「近代人の私」に、斯く云う私達は何を思うのか(→そのまんま無関心で構いませんてば?)。印字エディターとなった書家は基本的に裏方だが、「実は私が書きました」と言い出したら何が起こるか、ちょいと想像しただけで脳内世界がひっくり返る。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140526/art14052609000002-n2.htm
     お誂え向きの産経記事(↑)。昔「販売上の都合で」半藤一利が大宅壮一を詐称したそうな(←こう書くと思いっきり人聞きが悪いだろw)。これはこれで各方面の思惑が絡んでの諒解事項だろうし、公認とおぼしき仕儀に敢えて四の五の云う気はない。が、そこに纏わる後味を丸ごと無関心へと封じ込めた世界が今、目の前にある。無表情のニヒリズムが活字を全体主義の理想的な媒体に鍛え上げる。肉筆原稿を葬送すれば、活字世界はみな平等に「読みやすい」。また字面がみな同じ活字/フォントの絶え間なき反復に律せられると、時にはミニマル音楽と似た感覚に襲われる事もあるだろう。(…と云っても当方架蔵のはフンガロトンから出た「グループ180」のCD一枚くらいで、買った筈のライヒ「砂漠の音楽」は見当たらない…てぇ事は約二十年前に売却済みなのかも?)
    http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035380
    http://theme.npm.edu.tw/exh103/WenZhengming/ja/sphoto10.html
     実は書字世界もそうだった。余計な書表現は読みにくくなるから省きたい。だから普通に整えて書いた/書こうとした。楷書の館閣体ばかりでなく、保守的には行書でも草書でもそうだった。…律儀な草書はツマラナイが、突き詰めれば独自の美が宿ってくる(文徴明の小草千字文↑とか)。本来「ツマラナイ書でいい」にもかかわらず、完成度が高くなると九成宮醴泉銘などの楷書でさえも却って個性的に見えてくる。それと同様の面白さが活字にもある。「洗練行為」自体の個性に騙された、と云うよりは自ら「内なる無個性を見過ごして」個性と捉え直した。見過ごさなかった活字オタク達の場合、「活字への無関心を見落とした」と云えるのかも知れない。果たして書字と活字の境目に居た明治の知識人達は、一体どんな気持ちで読書から「字面の多様性を削ぎ落とした」のだろう?
     無個性を旨とする領分に著作権を持ち込むのは、どう考えても無理筋。だからと云って職業オタク(?)の活字達~写研やモリサワで有名な写植文字の群れに対しても著作権を否定するのは今、これまた別の意味で無理筋と映る。個性と無個性との境目が、著作権への接し方をも近代的に引き裂いてしまう。いっそドゥルーズやガタリのテーマ「資本主義と分裂症」を持ち込んだ方が、それが如何に場違いであろうとも西洋的文脈に照らせば、むしろ原始的感覚に於ては納得しやすくなっていくのかも知れない。
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/140528/chn14052809360004-n1.htm
     他方、これが「パクリの殿堂」(?)中国だと文字通り堂々パクる模様(↑)。~シャイな日本の書家はどうか。商売抜きですら、どこか作品の片隅に演歌の架空名曲「うしろめたいの♪」が流れてないか?…なにしろ現実のポップスでは「女々しくて」が大ヒットする国柄でござる。たとい入場無料の公開でも、原著者に無断で書く身は控え目とならざるを得ない。強い態度に出られない。受け身の女々しきワタシときたら、これでも観客に愛されたいの(ぬけぬけ♪)。しかし彼らは一瞥「ふーん、コリャ読めないわ」とばかりに通り過ぎていく。学校では授業の形骸化が愛される。内職するにはもってこいの時間…てな所も少なくないのでは。歪んだ愛にも取り敢えず健気に向き合えば、本業の生殺与奪を握る管理職から煙たがられずに済む。
     ところで、記事中の「書道家兼画家として知られるこの美大の学長、ジェン・ジョンイー氏」って誰かしら。調べたところ、漢字表記では甄忠義となるらしい。~産経が「書道家」に言及した点は良くも悪くも興味深い。この辺に支那式パクリの謎があるだろうと苹は前々から踏んでいる。転じて日本の斯界が袋叩きに遭っても構わないから、国語審議会を道連れにして欲しいとも常々思う。差し詰め開国前の実用書字文化を度外視すれば、阿辻哲次『戦後日本漢字史』(新潮選書)辺りが大いに参考となりそうな。

    (以下余談~脱線ネタ)
     石原慎太郎と橋下徹の協議離婚が決まった日、東京オリンピックの開会式で無数の「太陽の塔」(ふなっしーサイズ)がぞろぞろ入場行進する夢を見た。こんな事でもないと検索する機会はないってんで、調べてみたら昔のオモチャの「超合金」が出てきた。その四十周年を記念した新作が「太陽の塔」なんだそうな…(↓)。
    http://tamashii.jp/special/tots_robo/
    【2014/05/30 23:38】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


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