奥様
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    子育て終了の奥様でございます。 最近本格的にブログにチャレンジ。 硬い話、介護の話、日常の話をちょこちょこっと書いていきます。
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    YOKOさん、発信力がありますねぇ。
    最近の映像を探していたらありましたので、
    転載します。
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    【2013/12/03 20:47】 動画 | TRACKBACK(0) | COMMENT(25)
    この記事に対するコメント

    >苹@泥酔様

    ごめんなさい、スレッドをこちらに移させて頂きます。
    横レスした立場でありながら勝手な行動をとりますことをお許しください。

    ちょっとだけ話題が違うのですが・・・
    今朝のニュースでネルソン・マンデラ氏が亡くなったことを知りました。
    私は南アフリカの歴史にはあまり精通しておりませんので、彼のことは詳しくわからないのですが、人種差別問題と彼の名前は世界的にもセットで認識されているのは事実でしょう。
    彼の人生訓は、一種今の日本にも見習うべき点があるのは事実です。
    大まかに言えば、彼の人生は、黒人が白人社会から阻害されてきた歴史に、抵抗を示し続けてきた半生なわけですが、おそらくその黒人社会の中にも、もしかすると彼を煙たく思う人間はいたに違いありません。立ち位置からすると、支配される側にとって都合が良い場所に収まっていた人間たちがそれに当てはまるのでしょう。ネルソンマンデラ氏が自らの活動を続けるにあたっては、そうした同じ人種からも抵抗を受けながらの活動だったのだろうと予測します。
    彼の立場からすれば、それは一番辛い現実だったのではないかと予測できます。
    対白人であれば、理論上抵抗意識が自然に成り立つわけですが、同朋である黒人に大して、たとえ相手が間違っているとは言え、人種差別問題の理論上、抵抗対象とするのは辛い現実だったに違いありません。
    でも、考えてみると、本当の敵というのは内部に潜んでいるケースというのはよくある話で、おそらく彼の活動の中心になった対象物は「黒人」そのものだったのかもしれないと想像できます。
    こうした事例は今の日本にも当てはまる部分はあり、様々な諸問題の根っこには、同朋の反対勢力がしっかりと根付いていて、ことの解決に対処するには、身内から片付けなければならないというのが現実なのかもしれません。
    おそらくネルソンマンデラ氏も相当そのことで苦心したに違いないのでしょうが、彼が世界を味方に付けて戦ったのもおそらく間違いない事実でしょうから、この事は慰安婦問題を叫ぶ韓国の手筋の見本になっているのも事実だと言わざるを得ません。
    その辺をYOKOさんはビデオで語っていますね。南アフリカの事は何も語っていませんが、世界を味方にしようとする韓国人の魂胆に鋭いメッセージを入れてます。

    彼女のメッセージを聞いていると、彼女は韓国人に対して語っていながら、本当は日本人に語りかけているんだろうと思いましたね。対韓国の問題もさる事ながら、同朋日本人こそ一番厄介な相手だと認識している点がわかります。

    周りから見れば一見変な立場に映るネルソンマンデラ氏とYOKOさんの行為ですが、素直に真実を探し出す意識を持つ者には、彼らの血の真実に気づくのは時間の問題で、結局行動力のある者には惹きつけられていくということなんでしょう。

    ということで、このあたりで、ゴッホの「血の絵の具」は、なにか繋がりを得ますでしょうか・・・。
    ちょっと強引だったかな・・・テヘヽ(*´∀`)ノ
    【2013/12/06 08:33】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >あきんど様
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1564.html
     こちら(↑)の話題の続きですね。セレブ奥様ネタの続きでもあるけれど。英語ペラペラで貞子似のヨーコさん(と読むのかな?)には恐れ入る。あれだけ頭の(口の?)回転が凄まじいと脱帽せざるを得ない(すると落ち武者みたいな頭頂部が露呈する?)。…それにしてもアタシが書くと脱線の甚だしい事、自分でも信じられないわぁ(ぬけぬけ)。これでも一応、話題同士を「赤い糸で結ばれた二人」みたいな関係に仕立てるべく、ギリギリどうにか工夫はしているつもりなんだけど。
     あと、南アフリカには言及しにくいなあ…。下手にアパルトヘイト以外を念頭に置いたら「差別して何が悪い」って話に遡るし。と云うのも、差別や区別や障壁などの言い回しが面倒なのね。例えば「平等にすると障壁がなくなる」とする。そこに流入する集団が相対的に弱者となる場合、強者との間に身分や搾取や奴隷状態などの具体的事実が自然発生した結果「差別の原因は平等」って事になりかねない。そこで既成事実化した差別に対し、「差別解消は現実的に無理、せめて秩序くらいは」との意図で法整備したら、今度はアパルトヘイト同然になっちゃった…てな筋書きは考えられないか。教育現場における「お手々つないで徒競走」が能力差別の一形態と化すのも、労働鎖国が人種差別的な障壁たり得るのも、平等概念の操り手が判断のバイアスに逆操作されたら元の木阿弥になるのではないか。監視社会も差別秩序も原理の問題でなく状態の問題だろうに、どちらへ転んでも対策は論難の対象となる。
     この意味では日本の一億総中流も南アのアパルトヘイトも、構造安定性の領分~悪く云えば固定化の流れに即した時代の要請だったのではないかと。既存の構造に対する不満が高まれば、どう転ぶか分からずとも流動化に向かい、構造が壊れる。そこに所謂「運動」が関わってくる。運動だってそれなりに纏まってりゃ一つの体制だ。纏まってないなら形それぞれ、暴動だの何だの碌でもないのばかりが思い付くけれど、中にはそうでないタイプもあり得るのだろう。しかし要請の起因を解析せぬままいきなり善悪判断を持ち出すと新旧どちらかが極悪に見えて、対立構造の方が先に安定へと向かう。
     先年NHKが、南アの金だかダイヤモンドだかの採掘実態をBSで流してた。たぶん海外放送局が制作したドキュメンタリー番組。マンデラ以後もユダヤ系の企業が根付いてて、黒人労働者は貧困状態だったと記憶。この辺だったかな(↓)。
    http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080511a.html
    http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080511b.html
     次にANCを検索すると、あきんど様の視点と繋がってくる次第。ただし「血の絵の具」ネタとは無関係のままだけど。~そう云や、あれは同期の女の子が拙宅に何か届けに来た時だったかな、件の栞をチョイと見せたら「わあ、きれい」って言ってたっけ。んでもって「血で書いてみたの」と種明かししたら、すぐさま嫌悪の表情も露わに突き返してきた。なお念のため~その頃はストーカーなんて概念なかった筈だから、勘違いされなかっただろう自信はある。そもそも「これ、あげる」なんて言ってないし。今は行方不明だけど、もしかしたら蔵書の間に挟まってるかも。そのうち気が向いたら探してみようかしら。

    (追記)
     …と書いてから天バカ板に出す新稿の総仕上げに移り、昨夜どうにか納得できる形で脱稿。更にそれを転載稿群との関わりで吟味、全体を俯瞰した上でアップしますた(↓)。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/
     こちら奥様ブログからの転載稿には、雑誌初出時の「離米」印象なども書き込んであります。その時のターゲットが西尾先生の本日新刊本に載ってるらしい。早速、買いたい。でも…なんてこった。転載稿中で鈴木敬『中國繪畫史』に言及してたのが契機となって偶々あれこれ検索してたところ、正続二編の九冊に続いて今春『中國繪畫總合圖録』三編(東京大学出版会)六冊が出版開始と相成ったのを今夜、初めて知っちまった(泣)。買うべきか諦めるべきか、それが問題だ。完結するのは西尾全集が出揃った後になるみたい(↓)。
    http://www.utp.or.jp/topics/files/2013/Catalog-chinesepainting.pdf
    【2013/12/10 22:41】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔様

    >英語ペラペラで貞子似のヨーコさん(と読むのかな?)には恐れ入る。あれだけ頭の(口の?)回転が凄まじいと脱帽せざるを得ない(すると落ち武者みたいな頭頂部が露呈する?)。…それにしてもアタシが書くと脱線の甚だしい事、自分でも信じられないわぁ(ぬけぬけ)。これでも一応、話題同士を「赤い糸で結ばれた二人」みたいな関係に仕立てるべく、ギリギリどうにか工夫はしているつもりなんだけど<

    いや本当に恐れ入る頭脳の持ち主であります。
    彼女の凄いところは、理論を立てた上で語ろうとしているように見えて、実はかなり感覚的に語っているところ。しかし、それがけして突発的ではなく、道筋があるから聞いていて飽きない。
    機関銃のように出てくる言葉はおそらく天性のものでしょう。
    滑舌の悪い私には羨ましいかぎりです。
    それから、脱線が甚だしい・・・云々とありましたが、これはお互い様です。
    私なんか結構思い付きで語らせて貰っていますから。
    あんまり深く考えないほうが、けっこういい文章になっちゃうことって多いですよ。
    うまくまとめあげようとすると、全然ダメだったりします。
    実際私は何回も投稿しておきながら、後で削除することもありますから。

    ただ言えることは、お互い投稿が多くなってくると、いずれネタ切れに陥ってしまいますよね。
    でもなんだかよくわからない責任感が働いて、つい投稿しちゃってるってことよくあります。
    今はまだだいぶ落ち着いて書くようになりましたが、7~8年前は本当に、仕事より熱心に書き込んでいましたから。
    またねぇ、あの当時は役者も多かったんですよ。
    狼さんとか荒間さんとか・・・本気で喧嘩する人たちが揃っていた。
    他所ではありますがMOMOさんのところなんか、勉強になりましたね。
    でもね、こんな世界で私が一番性格的に合っているのは、やっぱり奥様のところだと思っています。その理由は、西尾先生とのアプローチが一番近いと思っているから。

    ネットに参入した頃は、色んな事を吸収しようとしましたが、逆に今は自分なりに研ぎ澄まそうという感じがあります。
    おそらくみんなそうなってきているんじゃないかって思います。
    昔は自分の言説に責任を持って望まなきゃダメだった空気がありましたが、(勿論そうでない世界の書き込み場所も多々ありましたが)今は無理に要求しなくても、ネット社会というものが一つ出来上がっている感じがしますから、以前みたいに書き捨てみたいなものは減ったんじゃないかって思います。
    そういう意味では、ネットもようやく普通の社会と垣根がなくなってきているって証拠かな。
    いわゆるネット特有のバーチャルな雰囲気は、以前より少ない感じがします。
    多分将来的には、今よりももっと現実的な環境になっていき、一般社会とネット社会で使い分けてきた、個人の二面性みたいなものが通用しなくなるんじゃないかって思います。

    その点私は昔っからさらけ出してきた方なんで、そうなることに抵抗感は全くありません。
    【2013/12/11 13:21】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    追記

    >多分将来的には、今よりももっと現実的な環境になっていき、一般社会とネット社会で使い分けてきた、個人の二面性みたいなものが通用しなくなるんじゃないかって思います<

    そう書いておきながら、なんとなく最近のオピニオン系の掲示板及びブログが、つまらなくなってきている感はあります。ネットで許されていた自己肥大的な言説が、段々抑制されてきたことが原因なのでしょうか。それとも、役者が散り散りとなってしまい、力が分散されてしまったからなのか。
    西尾先生は今のネット社会の現実をどう感じているのかわかりませんが、「人生の深淵について」において、こんなことを語っています。
    要約ですのでご勘弁を。
    ・・・孤独について・・・の言葉から。
    >ゲーテに『トルクヴァート・タッソー』という古典的な形式の戯曲がある。タッソーは16世紀イタリアにいた実在の詩人で、フェラーラ公アルフォンソ二世と令妹の公女ルクレチアに寵愛されたが、傷つきやすい不安定な性格の持ち主だった・・・云々<
    とはじまるんです。
    ここで語られているのは、ゲーテがタッソーそのものである自分をさらけだしていることは勿論のことだが、ここに登場するもう一人の重要人物アントーニオもゲーテそのものであると先生は語っています。ゲーテがタッソーという人物に自分を映し出し、統御しがたい人間の「孤独」を描いていると同時に、当時ワイマール宮廷で宰相として政務に携わっていたゲーテの実際の行動や生活は、アントーニオのそれに近かったであろうと語っています。
    この戯曲をご存知ない方には、チンプンカンプンなコメントにしか映らないでしょう。
    簡単に説明しますと、タッソーという人物は芸術派なわけです。一方アントーニオは現実派なわけです。両極端に見えるこの両者の人間性をゲーテは双方の内面性を自分に照らし合わせて描いているわけです。つまり、どっちも自分に当てはまる性格性が現われていることを、戯曲で表現したわけです。西尾先生はこの作品に触れるまで、ゲーテを近づきがたい人物だったと述べておられます。
    人間は片方の内面は簡単に書けます。すぐに書けます。誰でも書けます。
    しかし、両極端にある内面をどう結びつけるかという課題の前では、大方膝まづきます。
    たったこれだけのことが、実は本当に難しいのです。

    あながち人間の生き様は軸足を固定しがちです。両方の足に均等に体重を載せて生きることがいかに困難なことか、古代悲劇作家はそこに挑戦しました。
    人間の内面の多面性をどう描くか、それが最大のテーマだったわけです。
    時代を経て今も読まれるこの時代の作品を、数々の偉大な歴史家が蘇らせ、後世に繋ごうとしました。ゲーテもその一人でしょう。
    おそらく現代人にも、人間の内面の多面性は理解されていると思います。その証拠に映画などで描かれる物語の粗筋は、ほとんどが古代悲劇作家が描いた内容と重複しています。
    最近はハリウッドもよほどネタ切れなのか、神話を露骨に題材にする作品をプロドュースする始末です。時代がそれを要求しているからなのかもしれません。
    しかし、勘違いしてほしくないのは、そんな底の浅い映画を観て、知ったかぶってほしくないということ。露骨に古代の作品を」描いたところで、はたしてどんな効果が生まれるというのか。私にははなはだ不愉快なイメージしか生まれません。「内面の多面性」というテーマは、時代を超えて通用する、人間の尊厳を問うものなのです。我々は今を生きるわけですから、今の自分を描かなければすべてが虚構になってしまいます。今の時代の「内面の多面性」を探らずして、何が芸術と言えるでしょうか。模倣はあくまでも模倣の世界に収まってしまいます。しかし、今を生きる姿を描いた作品は、後世に残るんです。
    時代を描くという本当の意味はそこにあるんじゃないかと私は思うのです。
    【2013/12/12 00:33】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    訂正
    >でもね、こんな世界で私が一番性格的に合っているのは、やっぱり奥様のところだと思っています。その理由は、西尾先生とのアプローチが一番近いと思っているから。

    でもね、こんな世界で私が一番性格的に合っているのは、やっぱり奥様のところだと思っています。その理由は、奥様とは西尾先生への思いが一番近いと思っているから。


    【2013/12/12 05:08】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    なかなかついていけないです。
    あきんどさんがいてくれてよかった~

    >あきんどさん
    西尾先生への思いは、母のような?・・・・
    【2013/12/13 20:49】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    お気持ち判る気がします。
    西尾先生への思いは、母のような?・・・・
    うーん、判ります
    西尾先生、私は、ご著書全く手付かずですが、接すると、、、
    私は、母親とまでは行かないけれど、姉のような気持ちになっちゃいますもの。
    【2013/12/14 09:14】 URL | bunn #- [ 編集]


    >お互い投稿が多くなってくると、いずれネタ切れに
     これが存外そうでもなくて、ネタを出し切るより「飽きられる」方が先になるのではと恐れているから、脱線ごまかし術でどうにかしたいのが実は本音だったりして(汗)。そんな訳で書道ネタが十年以上だらだら続いてる面もあるんですけど、書かなきゃならんのに書き忘れてる事が多過ぎて、時間の流れに追い着けない心地も他方ではしてるんです。そこが最も辛いかな。頭の中に天使が舞い降り「さっさと書け」の声がして、熟慮せぬまま通訳すると、混乱のチャンピオンになっちゃうの(苦笑)。
     例えば「筆で字を書くのが書道」は間違いで、あれはただの分類主義による偏見。このネタはまだ充分に書ききれてない筈。読み書き算盤の寺子屋以後、明治19年(1886)の文部省令第九条でも読書・作文・習字は一纏め。今の国語科書写も同様なのに、なぜか読み書きを分けて考える癖が付いちゃった。「読めない書道」と「書けない国語」はどっちもおかしい。たぶん言い換えの弊害なんだろーな。元の字面を素直に読めば、「書かない読書」に作文は要らず、作文は習字が前提。ところが習字を書写と言い換えると、単に「書き写す」だけなら作文は要らない。習うと写すは大違い。それが戦後の国語でござる。
     分かりやすく書くのは難しい。長けりゃ書けるってものでもない。難しく書くのも難しい。ベテラン書家は「変体仮名を使わずに変体仮名を説明せよ」と求められたらどうするのかなあ。そんなのを工夫して、敗れた落ち武者は「つくる会」東京支部板への画像投稿を試みて、それでも満足できずに居る。動画でやるのも難しかろう。ただの揮毫シーン撮影ならソニーHi8ビデオカメラ時代に試したけれど頓挫した(機材は自腹)。どうやらCGでないと無理みたい。脳内ビジョンならあるんだけどネ。それを伝える手段として、時にはアニメの絵コンテに憧れたり。近いのはNHKの教育番組で見た事あるけど、苹から見れば不合格だった。もっと文字が生き物の様に変態し、クローズアップされた各部分(部首を含む)が表層の下から立体的に、深層の骨格レイヤーを浮かび上がらせながら~そう、映画に喩えるなら「ターミネーター」シリーズ後期みたいな感じで。あれを動的でなく静的に、骨格の引力に縛られながら逃れ出ようとするかのごとき表層として描写するの。そこに到達点/臨界点としての文字映像(表層記憶)が現出する。と同時にソシュールもチョムスキーもクリステヴァも納得するだろう詩的幻影が、詩的属性自体を振り払って文字の深層に沈潜していく。そうした拡張と収縮の反復が書字映像を書字行為から切り離し、次に映像(記憶)を再現する手続きとしての書字行為がアフォーダンス絡みで演じられる。
     で…なぜ此処でチョムスキーが出てくるのか自分でも「よく分からない」んだけど(←まんま嗅覚どっちらけw)、もしや歴史的には、超国家主義的な政治体制群に対する超国家主義的アナキズムとしての漢字文化圏を対比させたら、そこそこ面白い観点が浮かび上がるのではないかと。これなら日本も漢字文化圏のまま、支那封建体制の超国家性(?)を上回る文字言語アナキズム(?)に依拠した遠心力の下、独自の胚胎国家性を提示できるのではないかと。そもそも国家は安定してナンボ。わざわざ構造的に否定するまでもない。そこを左翼は誤解している気がする。今のところ自信はないが、たぶん保守的アナキズムがあってもよい。グローバリズムとアナキズムを比較分析したら何が見えてくるか、取り敢えず発想だけは真っ白に糞ひってみる…(後は識者から嘲笑されるのもよし、或いは興味あらば各々それなりに批判修正競争の領分?)。
    【2013/12/15 12:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (前稿の続き)
    >最近のオピニオン系の掲示板及びブログ
     あきんど様の稿を承けて、脱線に次ぐ脱線が元の話題に返り咲く時は既にどっちが本題だか分からなくなっているものの、そこはそれなりに出戻っていると云えなくもなし(汗)。問題は迂回路の長さと、それが全体の中でどの様な位置を占めているか。最初の話題が一方的な誘導効果を内包している場合、そのまま進むと隘路に入り込んで身動きが取れなくなる。視野狭窄の果てに言葉を自ら不自由へと追い込んでいく。見た目は自由自在に書いて居る様でも、実は何百枚も同じものを反復練習した結果「最も自由に見えるもの」を選び出しているのだとしたら、仕組まれた自由は既定路線上の不自由と区別が付かなくなる。…他人に仕組まれるよりは自縄自縛の方がよい。そんなふうに思い至るだろう洗練自体が野趣を損なうとしたら。~書道から連想すれば、そんな見方が出てきます。
     どんな無駄も、時には無駄でなくなる事がある。それに気付かぬまま捨ててしまうのが恐ろしく勿体ない。悪く云えば「ゴミ屋敷へようこそ」となりそうな話だけれど、にもかかわらず結局は捨てるのだと思い定めれば、無駄を知るくらいは出来る筈。これすなわち、無駄への憧れ…なんか倒錯的になった気も(汗)。しかしながら黙って居ても、憧れは自ずと無駄を呼び寄せる。生えてきたムダ毛は処理すればよいらしい。逆に無駄が憧れを呼び寄せるなら、そんな野郎はさっさと剃っちまえ。…で、昔やってみた。私は教育実習で何かの機材を運びながら、助教授(当時は付属の校長兼任?)の後に付き従ったのだった。すると生徒達の視線が集まった。老師と若僧、二人とも髪がない。
     …これでも結構、大真面目に書いて居る。見えない場所と見える場所、どっちを剃っても見え方は自他で「異なり方が違う」(←ここ重要)。先日、天バカ板が「見えなくなった」(「消えた」のではない)。つまりグーグル検索に引っ掛からなくなった。何かが変わったのを今、私は興味深く観察して居る。そうなるのを掲示板やブログの主が望まなくても、他者が望む事はあるのだろう。機械的ミスの場合は極端で、望む者も望まぬ者も居ない。~掲示板の主は蘭様。ブログの方の天バカ板に年賀カキコする際、掲示板の方の近況を報告する予定。

    (余談)
     前稿を出した後、鎌倉の夢を見た。横浜の親戚が案内して、何十年か前に大仏さんなど見せてくれたのを。その時の写真が残っている。被写体は鎌倉宮碑で、何枚かに分けて撮影した。本文を書いたのは松方正義。ガバチョと跳ね起き画像検索したら行草かなりの達筆だが、さほど有名ではないらしい。それもその筈、当時の誰もが書いていた教育的書風で無個性に近い。学べば学ぶほど無個性になるのは皮肉なれど、教養に個性が要るのか疑わしく思う身にはどうでもよい。誰もが当たり前に高度なクオリティを蔵した世界ならではの盲点、むしろ誇ってもよいくらいではないか。常識が誇りになるのは馬鹿々々しくもあるが、ともかく戦前はそういう時代だった。篆額は貞愛親王で、かの大久保公神道碑(日下部鳴鶴書)と同じ筆者…と云えば書道畑には通りがよいが、当時は全国各地で建碑が流行、あちこちメチャ書き散らし給ひてやんの(←こんなチャンポン敬語って、アリかよ?)。
    【2013/12/16 20:09】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    グーグル検索・・・・って、そうなんですか?

    昔に比べたら、情報が多すぎて、
    砂漠の砂のようにもぐりこんで見つからなくなりましたね。
    【2013/12/17 21:22】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >グーグル検索・・・・って、そうなんですか?
     先月中旬、初めて異変を感じた二、三日後に手懸かりを探して検索したところ驚いた。なんでも「グーグル八分」って言葉があるそうな。検索エンジンの表示が村八分状態になるらしい。誰かの依頼でそうなるケースもある様なので、あの時点では「なぜ今なのか」を色々と考えあぐねてました。沖縄ネタなどを出した数日後ゆえ、そちらに絡む動きでもあったのかナと。もちろん他の可能性もあります。で、ここは取り敢えず新稿を出して様子を見ようと久々に長目の書道ネタを書き下ろしてみたけど、出した後も未だ復旧せず。
     因みに~余所様のサイトでは、こんな話もあるそうだから恐ろしい(↓)。
    http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-482.html
    http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-492.html
     話は変わって慰安婦ネタのテキサス親父、ここんとこ韓国人から脅迫メールが二千通以上殺到してるそうな。まさか天バカ板は…でも、あたしゃ韓国ネタは書いてない筈…あ、少しだけ沖縄との比較で触れてたっけ(汗)。あの程度で反応するとは考えにくいけどナァ(初出こちら↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1486.html#comment
     尤も、次回の転載予定は二稿に分けたナチス絡みで稍や物騒になるけど(麻生騒動の前後だし)。…それはそうと、テキサス親父ってイタリア系だったのネ。さすがは高血圧愛国歌劇《運命の力》の作曲者ヴェルディや、激怒罵倒リハーサル伝説の指揮者トスカニーニを生んだ国柄血筋(?)、余裕綽々なのが有難い。YOKOさんの方は大丈夫だろうか?
    【2013/12/20 23:27】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ●独り言、ぽつり。
     私の場合、結論は出ている。方針も決まっている。なのに何度でも、それでいいのか考え直したくなる。と云うのも世間から見れば、私の結論も方針も間違っているらしいからだ。「書が読めないのはおかしい」と苹なら思う。が、『正論』2013.12号P.326「読書の時間」インタビュー(島谷弘幸『書の美』毎日新聞社刊)には冒頭、こう書いてある。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > ――「書は、読めなくてもいい!」と帯に大書してあるのに引かれて手に取りました。
    > 島谷 あれは編集者がつけたもので、自分ではそう書いた記憶はほとんどなかったのですけど、実際にここに書いておられますよとページを示されて…。だったら帯に使ってもいいけれど、続きの「読めなくても、見る人の能力に応じて楽しめる」というところまで入れてとお願いしたんです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     書いた人に記憶がなくとも、読んだ人には印象が残る。その印象が何に導かれて残ったか。元を辿れば「書は読めなくてもいい」と予め教わってきたから…とならないか。教えた記憶がなくとも、教わった側は覚えている。実は誰から教わったのか分からない。自分で自分に教えた様でもあるし、世間の空気から自然に覚えた様でもある。教わったのではなく、教わらなかったのが事実だろうが、しかし確かに教わった気がするだろう。実際、本の帯に書いてある。だから少なくとも、これを読んだ「読めない貴方」は今そう教わった筈。ここではフィクションの合成が事実を真実か真理に仕立て上げる。
     教わらないのを当然と思えば、教える必要がないと思うのが当然。だから冒頭、ああ書いた。「早い者勝ち」ならぬ「教えた者勝ち」を地で行った苹は学校をクビになったが、教わらなかった世代の管理職にしてみれば、教えた教員の方が間違っているに違いない。「日本は従軍慰安婦にひどい事をした」と教わった人が「従軍慰安婦はなかった」説を間違いだと思う様に、いくら説明しても韓国人なら尚更「納得したくない」だろう。また~教えるより教えない方が労は少ないとあらば、どのみち「あった/なかった」を教える事になる立場より、教えずに済ませる方がどれだけ楽か知れぬ。しかも高校入試や大学入試とは関係がない。たとい学習指導要領で定められてあっても、そこに「選択と集中」という正義を持ち込めば不要科目の形骸化は「正義が悪法を可能な範囲で適正化した結果」となる筈(ただし未履修と形骸履修は別物)。
     この謎は、謎であるがゆえに自明である。自明なのは「謎であり続ける」事であり、それを奥義とか本質と呼べば「分からなくて当然」と思うのが普通だろう。仕立てられた真理をファンタジー呼ばわりすれば相手は怒る。真実をフィクション呼ばわりした場合もまた同じ。仕立てたのは自分なのに、対象を尊重し過ぎたがゆえに自分を捨象してかかる。信仰心が「神を信仰する」心である様に、信仰する自分の信仰心は神に及ばないと信じている。…何の話題か忘れたが昔、どう見ても左翼的な教員に「まるで宗教」と言ったらソリャもう怒ったのなんの。
     ぼちぼち年末進行の時節。明日は『正論』2014.2号、店頭に出ているかしら。

    ●余談
    http://www.nhk.or.jp/you-doki/archive/20131225.html#01
     このクリスマスにNHKは何を考えてるんだか(↑)、偶々つけっぱなしにしていたテレビで物凄いのを見た。なんと作家の林真理子が、「きゃりーぱみゅぱみゅ」のコスプレ姿で踊っとる。バックダンサーのライオン縫いぐるみ達も本格的だった。やっぱ写真と違って、動きがあると効果抜群だナ。番組終了直前では生出演の本人が「ネットで見ると物凄い事になってる」と言ってたのかしら、ショックの余り正確に覚えていない。取り敢えず検索したら、経済評論家の勝間和代も「レディー・ガガ」のコスプレしてたのね…(汗)。
     話は変わって~先日、こんな夢を見た。
    「田舎の音大が春の発情期を迎えると、森の中で幾つもの学生アベックが夜な夜な物凄い声で睦み合う。どれだけ興奮しているのか知らないが、どの連中も弊衣破帽の応援団とは比較にならぬくらい喧しい。新歓コンパの帰り道ともなれば最悪だ。先輩アベックがこれ見よがしに始めるので、初めて見る光景の凄まじさに後輩達は皆どん引きする上、参戦しようとしても声量やテクニックに付いていけない。結局は先輩アベックの独擅場となり、お互い汗だくになりながら時には一緒、時には代わる代わる咆哮する。勿論デュエットだからと云って、囁き声の「愛の歌」になるとは限らない。スタミナの有り余っている連中は筋肉ムキムキの声帯を誇示したがり、よりによって目の前でヴェルディをやるから、思わず耳を塞ぐ後輩も少なくない。」
    http://www.youtube.com/watch?v=drbHCt0lwzo
     …その日、寝る前に聴いたのは《運命の力》第一幕(再掲↑)。頭の中で執拗に繰り返されたのは上記全曲動画0:20:49以降の箇所で、0:23:05で親父が映画「スターウォーズ」のダースベイダーみたいに登場する。因みに指揮者は日本人。この人でござんす(↓)。
    http://www.petits-pois.be/archive3/articles/2008/June/6.html

    ●追記
     アナーキストには全共闘時代のタームみたいなイメージが残るけれど、アナキズムを検索するとマルクス主義との対立が出てきたりして、ますます脳味噌の混乱ぶりは絶好調となっていく(苦笑)。また拙稿の草稿用ファイルを検索すると、前にアナキズムに言及したのは三年前だったと分かる(当時こんな事を書いていた…「2010/09/28 23:44」稿↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-988.html#comment
     その頃は確か、坦々塾ブログでもアナーキズムに少し触れてた人が居た様な…(うろ覚え)。あそこは一年近く投稿がなくてもグーグル検索で引っ掛かるのに、天バカ板とはエライ違いなのネ(…と拗ねてみるw)。おーい、坦々塾のひとぉ。「日録」コメント欄に書いた講演感想(↓など)が埋もれる前に、なんか勿体ないから自前の閑古鳥ブログに纏めときませんかぁ?
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1354#comments
     それはともかく~以来、暫く頭を空っぽにしたら気分すっきりリフレッシュ。そしたら先日は何をとち狂ったのか、政治や経済の代わりにいきなり漢字文化圏が滑り込んじまった(「2013/12/15 12:08」稿)。こっちの方が不思議としっくりくる。国家や政治や経済の話は兎角ややこしくてしょーがない。それに比べると文化圏は国家の枠から元々はみ出し、押し込めようとしても無理。論うにも無責任云々は筋違いだし、無政府云々は当たり前。そこが却ってアナキズムに相応しく見えてくる。片や国家が絡めば言語面のグローバリズムやナショナリズムへと変態する点、まるで掌上の淡雪。そんな性格が概念に予め潜勢しているとしたら、アナキズムの分かりにくさは政治的言及自体に起因するのかも知れない。
     国家や民族がどうであれ、文化は伝播の向こう側で勝手に取捨選択され変容していく。確かに政治か何かの影響はあろうが、それに左右されない強度を持つほどまで貫入した文化は「自前と共有」の相補関係を増すばかりで、ひいては人と地域の伝統に昇華していく。これほど非政治的で非国家的な逆説があろうか。しかも敵対的でないから、政治的でも国家的でも構わない「「非」との共立」を削ぎ落とす理由がない。それを敢えて国策で変革しようとするから話がこじれる。国語(共通語)は方言と対立する筈なのに共存し、方言の伝承システムが公教育に存在せずとも別の伝承システムが深層から地域を統べる。
    【2013/12/25 22:35】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >話は変わって慰安婦ネタのテキサス親父、ここんとこ韓国人から脅迫メールが二千通以上殺到してるそうな

    はいはいはいはい、先日YouTubeで観ました。1回だけですが。
    最初何言ってんだか意味不明だったんですが、聞いているうちに「なるほどな」と思い、つい聞き入ってしまった。

    【2013/12/27 06:53】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    (年末進行、書き忘れ。)
     ものの考え方が学校や学習指導要領に縛られなくなって以来、却って書教育の実際がよく見えてきた気がするのは何故かしら。尤も、常識的らしき見方が破綻する前兆は前々からあったけれど。~普通なら職場の空気に適応し、毒にも薬にもならぬ授業をこなし、部活動に重きを置いては高総文で成果をあげ、ごく稀に書道系大学への進学希望者が出た時はそれなりの指導をする。大抵は社中にも所属し、各種公募展での入賞歴を積み重ねては会派での地位を高めていく。部活動では自分の社中の書風で指導し、そこでの競書誌を用いながら卒業後の正式所属へと誘導する。中には地元の農協や新聞社が主催する学生書道展の審査を任される例もある。社中は小中学生相手の書塾を基盤とするから、小中高一貫教育システムは既に何十年も前から続く伝統と化している訳だ。
     今年は日展審査の「不正」が問題視され、主に美術的観点ばかりが目立っているが、教育的観点の方はどうなのか。日展のみならず有名公募展は大抵、教育の場としても機能する。その頂点が日展で権威は絶大、「ウチの学校の先生が入選したぜ」となれば勤務先たる学校のステイタスも上がる。この面から少し事情を展開してみよう。
     社中の地域分布には偏りがある。つまり入選者が或る社中に偏ると、地域それぞれの教育作用にも影響が出る。そこで「特に書道では」貧弱な学校教育をこれまで補ってきた社中教育へ格別の配慮をする必要に迫られ、その結果ああなったとも云える。朝日新聞が入手した資料には、割り振る社中を大雑把に区分した紙があった筈。あの区分それぞれの地域分布を再点検すれば、「なんでもあり」の都市部とは異なる「偏った」地方の視点で「一票の格差」の様なものが見えてくるのではないか。差し当たっては弱小公募展を抱える産経あたり(ゴメンナサイ!)、「朝日とは違った教育的視点で内部事情や地域分布を勘案したい」とかナントカ書いて、各派に質問状を出してみては如何。
    http://www.asahi.com/national/update/1031/images/TKY201310310001.jpg
    http://stat.ameba.jp/user_images/20131101/12/hikkou-shodou/46/bd/j/o0500033112734941284.jpg
     いつまで画像がネット上に残ってるか分からぬが、これ(↑)を見ると「漢字系関東」のは寄鶴文社、轟友会、猗園、千紫・翠心、興文、青藍、書象、書星、書人、書作院、創玄、独立、等々と読める。このうち千紫・翠心と興文は鈴木翠軒の系統に属する筈で、青森市では千紫会系(北翠会)と翠心会系(雨声会)が読売系の二大勢力…と書けばナンダカ暴力団のシマみたいだナ(苦笑)。弘前市は教育畑なら桑原翠邦系(書宗院)の北門書道会が最大会派の筈だが公募展には不熱心と聞く(熱心なのは毎日系の女流トップが地元じゃ有名)。八戸市では木村知石系が食い込んでいたのかな。概して青森県勢は長年弱小で、隣県岩手の方が少し強かったと記憶する(木村知石系や広津雲仙系…これらは東北からの出品でも書風上「漢字系関西」の扱いになるんだろーな?)。いづれにしろ田舎は会派の数が少なく小規模で、地域格差(土着安定性)と権威(中央指向性)とのバランスが教育面を直撃すると、少子化と相俟って文化面でも共倒れになる可能性が高い。
     日展の書道は現存教育者カタログの様なものであり、物故者の出品は歿年会員作を除き認められていない筈。単にハイレベルの作品を陳列するだけなら故人を排除する必要はなく、また賞の追贈があってもいい。日展を見れば日本最高水準の存命師匠を総覧できる。入門希望者は地域規模でなく全国規模で書風選択の幅を拡げられる。そこに地域格差からの脱却機能が期待できるし、また現に機能してきた。~例えば青森の宮川翠雨が愛知出身の鈴木翠軒に入門した昭和16年(1941)は翠軒が国定手本筆者となった昭和7年(1932)の後で、翠軒は文検委員の丹羽海鶴に師事した(1919)。どちらも上京後の入門で展覧会書道の成熟期、講談社などからは様々な書道教本が出版されていたと記憶する。こうした戦前の歴史的背景は展覧会導入(明治)以後の啓蒙システムに端を発しており、美術的にも評価された書家の多くは教育者である。副島種臣や三輪田米山、會津八一などは文人的な扱いで、八一の場合は西川寧が日展に組み込もうと画策したが頓挫した。
     そうした歴史的経緯を踏まえると、「もしや芸術と教育を分断する肚なのでは」と勘繰られても仕方あるまい(或いは大学教養教育のガラパゴス化も画策中?)。…今回の騒動調査は年度末が目途らしい。美術・芸術側の「上から目線」が教育面を先ず地方から荒廃へと追い込む様なら、もはや黙っては居られまい。尻に火が付いた日展レベルの書家達は、そろそろ毅然たる態度で反撃を開始すべきである。さもなくば近い将来、「芸術が書道を滅ぼす」結果となるだろう。
    【2013/12/29 02:40】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    謹賀新年、以下余談。
     年末、初めて「あまちゃん」を総集編の録画倍速再生で見た。「じぇじぇじぇ」は感嘆詞だったのね。津軽弁なら「い」に相当するのかな。驚きのニュアンスは希薄ながらも、疑惑か逡巡か時には揶揄の溜息ニュアンスで三回繰り返せば「い~い~い~」。歯を食いしばる「い゛」の一歩手前で発音する。あと、似た語感の言葉なら…こんなのもある。
    「け!け!け!、か!け!」
     吐き捨てる様に発音するが、と云っても「ケッ」と一蹴する「けったくそ悪い」ニュアンスほど強くはない。「どうか、お食べなされ」を指すのが「け」(食え→け)で、これを三回丁寧に繰り返した後「か!(ホラorこれを)け!(食べなされ)」と締め括る。「か」はそのまま発音してもよいし、歴史的仮名遣いに執心する御仁なら、やや高級(ディープ?)かつマニアックに「コァ(クワ)」と古語(!)で発音してもよい。
     毎年恒例の地元イベント「津軽弁の日」第26回入選作では、「けバいっきゃナ」の用法が面白おかしく脚色されていた。~絶対に方言は喋るまいと誓った男性が、東京でうら若き女性と出逢う。バーで不覚にも酔ってしまい、思わず飛び出た津軽弁。なんでも「け(食べれ)ば、い(よろしい)」じゃないの、と言ったら女性が怒って帰ってしまい、店員から「お客さん、女性に向かって「けばい」と言うのは…」と窘められた小咄。
     これらの用例、お正月か新年会にでも使ってみたら如何。ケケケの方はイントネーション無用の棒読みでそこそこOKだけど、ケバイの方は…御覧の通り少しアブナイかも?
     …なには ともあれ、ことしも よろしく おねがひ まうしますぅ。

    (更に余談…死ぬほど余談w)
    http://www001.upp.so-net.ne.jp/wakan/Others/GoogleDeleted.html
     遅れ馳せながらグーグル八分の件、新年早々こちら(↑)の記述「info: 演算子によるサイト情報確認」を参考に試してみたところ、どうやら該当するらしい(検索結果↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >URL imoshiori.bbs.fc2.com/に関する情報は見つかりませんでした。
    >•URLが正しい場合は、次のリンクから開いてみてください: imoshiori.bbs.fc2.com/
    >•imoshiori.bbs.fc2.com/のウェブページを検索
    >•"imoshiori.bbs.fc2.com/"を含むページの検索
    --------------------------------------------------------------------------------
     で、どうするか。あちらの管理人=蘭様による対応が本筋なれど、依頼するのは気がひける。かと云って実質的な唯一の常連寄稿者=苹が騒ぐのも見苦しい。閲覧者からグーグル社に「探しにくい」との苦情があれば民主的だが、賛否両論あるのもまた当然なれば、閲覧させたくない人が居てもおかしくない。~蘭様との因縁確執なき方々なら、ブログの方の天バカ板(↓)左欄の「ブックマーク」からリンクを辿る手が真っ当といへり。
    http://blog.goo.ne.jp/midnight-run_2007
     因みに蘭様はセレブ奥様や西尾先生と因縁あるため(2006以降?)、苹は此処からの左欄リンクをお願いしたくても未だ出来ずに居る次第(汗)。…因縁と云えば、おちょくり塾ではかれこれ四ヶ月以上、在日らしき画策者から被害を受け続けているとの事。あちらの稿によるとキルドンム様は引っ越し完了だそうで、めでたしめでたし。
    【2014/01/01 19:33】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    新年おめでとうございます。

    今年もよろしくお願いいたしますね。
    おちょjくりは私は入れないんですよ。拒否されちゃっているのであります。

    大雪だそうですが、いかがですか?

    津軽弁は難しいらしいですね。
    【2014/01/01 20:40】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    管理人のみ閲覧できます
    このコメントは管理人のみ閲覧できます
    【2014/01/03 05:39】 | # [ 編集]


     新年も苹は書道ネタが続く…それしか書く事がない訳じゃないけれど。西尾先生だって早速の「日録」連載は喉元過ぎてなお熱気ムンムンでござる。ただし内容は『WiLL』編集長への挨拶…じゃなくてチクチク催促(?)してる様に映らなくもない。「あれだけ待たされた座談会記録の続き、今度は一体いつ載せる気ぢゃ、ゴルァ!」(←妄想です。)
     昨年最後の拙稿では、地域格差と権威とのバランスに初めて言及した。…どことなく方言と共通語のバランスに似ている気がせぬでもない。各地の間で方言に優劣はない筈なのに、共通語との距離を基準とすれば、それらしき錯覚が権威に内包されてくるかの様な。もちろん教育上の規範は共通語の側にあるが、方言の側に暗黙の権威が宿る場合は転校生を「やーい、東京もん」とからかったりしてたとか。その他、流暢な方言を操る外国人に親しみを感じる傾向はどこでも結構あるらしい。白人タレントが山形弁で喋ったり、非ドイツ系の指揮者がウィーン訛りで喋ったり。漢字に限らず文化圏をアナキズムと結び付けて発想したのも、農本主義以前に潜む深層の文化的基軸が国家等々とは別の枠組から支えている気がしたからだった(たぶん)。ただし、中には日本文化との間で違和感を感じた面もある(敗戦直後のドイツが何故あそこまで音楽を大事にしたのか等々)。
     言葉の意味とて、それ以前と以後とを錯綜させると如何なものだか訳が分からなくなる。例えば台詞にありがちな「おにいちゃん」なんざ、今じゃ寅さん映画と萌えアニメとでは桁違いに大違い。また津軽弁では自分の父親でもないのに、見知らぬオッサンを「とーさん」とか「とっちゃ」「おど」などと呼ぶのが昔からのオーソドックス。やはり日本語は方言と二人三脚のバイリンガルで行かないと、どう取り繕ったところで感性鈍磨の結果、外国語の内的多様性を理解する上でも支障を来してしまうのかも知れない。

    >津軽弁は難しいらしいですね。
     奥様のレスを読んだ後、名状するのが恐ろしく容易かろう曖昧さの「困難」に、究極事例とおぼしき恰好の表現が見つかった(↓)。余所者から見れば「言葉の鎖国」みたいなものなのだろうが、なぜか土着の自由(束縛?)が懐かしく且つ愛おしくてならぬ。
    http://www.logsoku.com/r/newsplus/1242695617/
    --------------------------------------------------------------------------------
    >281 : 名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 12:40:23 ID:Hl8VvL7/0 [1/1回(PC)]
    >>>279
    >いー? だけで喧嘩だか会話するってネタもあったな
    >口の形は「い」で「う」とか「え」って発音する感じの「いー」
    --------------------------------------------------------------------------------
    >283 : 名無しさん@九周年[] 投稿日:2009/05/22(金) 13:14:12 ID:mWbtBQT60 [2/3回(PC)]
    >>>281
    >標準語
    > 「なるほど。うんうん、なるほど。そうだね。うん、確かにそうだね。
    >えっ?今何ておっしゃいました?あーわかりました。はいはい、わかりました。
    >もうわかりました。わ・か・り・ま・し・た!!」
    >
    > 津軽弁
    > 「いー。いい。いー。いい。いい。いー。
    >いー?いい。いー。いーっ。いーっ。
    >いーっ。いーでば!!」
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2014/01/05 23:46】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     遠藤浩一先生が急逝したばかりなのに、構わず呟き続ける酷薄さ…と感じる向きも中にはあるだろう。が、気になるのだから仕方がない。文化圏としてのアナキズムの話。
     グローバリズムやナショナリズムを言語に託けて国家の枠組から発想する仕方は、国語ナショナリズムとか「国語という思想」と後々呼ばれる事になる体裁で戦前から存在し、また戦後は盛んに(左巻きに?)論じられた。後者をタイトルとしたイ・ヨンスク教授の著書は初版も文庫版も手元にあるし、他方それらは書道・書字への言及なき国語畑の領分ゆえに、どこか純粋に縁遠く感じられる。苹の場合は国語とも活字とも縁が薄く、文学一般もしくは詩的言語を経由すれば書字との縁も実のところ怪しい。書字すなわち肉筆で何を書いても言葉になった気がしない。それよりはネット上の今、こうして書いている方が「打鍵抜きで」むしろ言葉らしく錯覚できる。
     新年早々の変事で久々、遠藤先生が日録感想掲示板に書き込んだ当時(2004年頃)の記録を読み返してみた。ただの読者でしかなかった人々が容易に書き込める時代の活気に溢れ、苹自身もまた夢中で長文を試みていたが論争とは縁遠い。板の流れに漂泊しながら衝動的に話題を持ち込み、時間をかけて膨らませる癖はその頃からあった。掲示板は居場所の様でそうでもなく、むしろ書き込む私の方が場所そのものだった様な。この感覚を後から言い換えれば「領土」となるのだろうが、この手の領土は量的変数らしくもあり、しかも成り立つ場所は水面の様に相容れない。水と油の様に或いは浮かび或いは包み、言葉の乳化作用が領土自体をそれらしからぬ形にしてしまう。固定的でない領土、流動する領土は伸び縮みするのに、相手の領土が侵略された訳ではないから摩訶不思議。そんな感覚の調和が常に自己を包み込んできた…と回想できる。
     或いは水と油のごとき関係を、対立し合う国それぞれのナショナリズムに見立ててもよさそう。~ここからが今日の勘所。文化圏のアナキズムには、ナショナリズム同士を対立関係から相補関係に導く触媒としての調和効果が期待される。巷間には平和主義だの相互理解だのと夢想ばかり陳列する方々が多いけれど、どのみち限界/境界があるから対立はなくならない。まして、理解するのが無理筋となる立場に対して「妥協を強いる」のは輪を掛けて無理。ならば無理せず「仲良く喧嘩する」方がよほど健全で、そこにこそ戦争の智慧があった筈。口喧嘩も情報も経済も戦争なら、鎖国や冷戦だって戦争だ。鎖国を戦争状態の一種と心得て初めて江戸時代の軍事が調和と均衡を保てた筈だし、そうでないなら軍事など必要ない。平和ボケ(軍事の否定、戦後憲法への過信)の正体は鎖国ボケ(鎖国の否定、維新への過信)であって、どちらかと云えば敗戦のトラウマは関係なかろう。
     以上の発想を、遠藤先生の御霊に捧ぐ…と云っても私に出来るのは専ら考え続ける事で、捧げられるのは考えた内容のみ。でも品質保証はデキマセン(汗)。申し訳ない心地にて合掌。

    (補記~2014.1.12. 3:35頃)
     イ・ヨンスク…取り敢えず、松岡正剛の懇切丁寧な事情解説(↓)を参考に。
    http://1000ya.isis.ne.jp/1080.html
    【2014/01/11 14:03】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     引き続き漢字文化圏の話。~どうした訳か日本では対比的と云うか対立的と云うか、漢字と仮名の大雑把な区分で片付けられがちになる模様。日本に漢字が伝来した時期は不明なれど、たぶん最新の考古学では四世紀以前に遡るアプローチもあるのだろう。未だに百済の王仁や千字文で足踏みしている訳ではあるまい。
     学者の先生方に問いたい。漢字は男が読み書きし、女は専ら仮名ばかり…との風説や思い込みに疑問を差し挟むのは学会のタブーなのだろうか。尤もらしき説明は教科書(?)や専門書に色々と書いてあるが、現物たる仮名古筆(古写本)はどれを見ても伝来が男だらけ。なぜ女の手が遺っていないのか、おかしいと思うのが自然だろう。なんなら学生でもいい、誰か身近な大学教官を質問攻めにしてくれないかしら。大抵は男手/女手の区別を持ち出すだろうから、どんな字を指すのか具体的に突っ込んでみて欲しい。漢字が云々と話し始めたら切り返せ。楷行草みな達者に書いた王羲之は草書が多い。子の王献之は仮名一歩手前の連綿草だ。それらでイメージしてよろしいかと。楷書に拘るなら理由を示せと。四世紀の支那人は草書で手紙を書いたのに、大和の男はバカ丁寧に楷書で書いたのかと。草書の見た目が女体美を思わせるのなら分かるが、左翼的なジェンダー論みたいに肥大誇張した説明では納得いかぬと。(誤読されやすそうな明治批判の例↓)
    http://www.gender.jp/journal/no7/01_yanabu.html
     中には、例えば三保忠夫『古文書の国語学的研究』(吉川弘文館)P.102辺りを持ち出して、漢字イメージを「真書」(楷書)に誘導しようとする偏狭な手合いが居るかも知れない。この場合、前提には以下のフォルム認識も関わってくる事に留意されたし。~「仮名文書とは、万葉仮名・平仮名文・片仮名文、また、一部に漢字を交えた仮名文による文書をいう。機能・性格上、三蹟で知られる能書家等の書状(古筆)、能筆による手習い用の書状などは含めない。」(P.74)
     こうした事は、歴史教科書記述に対する疑問点でもある。義務教育の国語にも書写にも草書は殆ど出てこない。先ず歴史の日本史分野(国風文化)で扱われる。しかし学会がそう書く様に取り決めているのなら分からぬでもない(文字表記に男女差別を刷り込め?)。尤も、女体美の方とて見方次第では「ええ体しとるやんけ、ヒッヒッヒ」式のセクハラと言い返されそうな話ではあるのだが。とは云え生理的に「しっくりくる」感覚は正直どっちの方だか。明治の裸体画じゃあるまいし、女手にジェンダー腰巻を纏わせようとする方が、私には却って古臭く思える。
     公平を期して敢えて書くと、「つくる会」の歴史教科書も字数制限上「角張った漢字」てな表現(2009市販本P.56)への難癖は可能。その辺が杞憂含みに稍や悩ましい。王羲之のが「手師」すなわち規範として定着した事は、とりもなおさず楷行草の三体が同時並行的に漢字イメージの表層像を司ったのであって、深層における漢字概念とは話が別。楷書であれ草書であれ書かれた字形は同じでも、漢字として読めば漢字になり、仮名として読めば仮名になる。こうした事象は日本固有の胚胎文化であり、そもそも西洋や支那の言語観に準拠する筋合いはなかった筈。そこに和漢混淆の文化的アナキズムがあったのではないか。勿論ピジン語だの何だのと別の枠組で考える手もなくはないが、そちらは主に音声言語の差異や変容へと傾くのに対し、こちらは文字言語のフレキシビリティが傍系の中心であって、音声言語面ではむしろ無関与または保存的である。
     或いはそれゆえに、言文一致の突破策で「国語を維新する」動機が生じたと見る事も出来よう。顧みれば代償は大きかった。人は言葉で考えるが、言葉が意味する中身を偏重して論った結果、言葉の在処を成り立たせてきたものが代償となっていった。この状況を日本人ほぼ全員が百年以上に亘り黙殺してきた。たぶん現代国語は国際的かつ自愛的に、今も国民全員に歴史(文化史)との実用的断絶を要請し続けているのだろう。
    【2014/01/14 22:37】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ●備忘録
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140118/bks14011808570003-n1.htm
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    >【適菜収の賢者に学ぶ】
    >本を遅く読む技術
    >2014.1.18 08:55 (1/2ページ)
    > 本読みの達人である作家のウンベルト・エーコと脚本家のジャン=クロード・カリエールが、書物と印刷技術の歴史について語り合っている(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』)。古代ローマでは図書館のそばに巻物状の書物を売る店があったという。収集家が書店に行き、たとえばウェルギリウスの本を注文すると、書店主は「2週間後にもう一度来てくれ」と客に言い、書物を手で複写する。
    > 印象的だったのは、18世紀イタリアにおける最も偉大な思想家としてジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668~1744年)を挙げていたことだ。
    > デカルト派を痛烈に批判したヴィーコは、理性万能主義に警鐘を鳴らし、共通感覚(セーンスス・コンムーニス)(常識)を擁護した。それは一定の条件のもとで妥当になる「真らしいもの」であるが、先験的な真理を振りかざしそれを排除すれば不都合が生じる。そもそも人間は、有限で不完全な存在だ。だから合理主義ですべてを割り切ることはできない。
    > ヴィーコは古代人と現代人を比較し、学問の正当なあり方を探究した。対象は数学、医学、宗教と幅広いが、そのひとつに書物と印刷技術に関する思想がある。
    > 印刷技術の発達によって、あらゆる書物が手軽に手に入るようになった。
    > 「しかし、あまりの豊富さと安価が、よくあるように、われわれを勤勉でなくしてしまってはいないか。またわれわれが、見栄えがする豪勢な食事を目の前にして通常の活力がでる栄養素を遠ざけるよう命じ、よく料理されてはいるが滋養になることの少ないものを大食する食客に似てしまっているのではないか、と私は恐れている」(『学問の方法』)
    > 書物を手で複写していた時代には、筆写者たちはやりがいのある仕事をしようとして、有能な著者を選んできた。一方、筆写の過程で粗悪な著者は関心をもたれなくなる。時の流れにより、審判が下されるわけだ。
    > また、それらは高価であったため、研究者たちは自らの手で書き写すことを余儀なくされた。それにより知が鍛えられたとヴィーコは指摘する。
    > 「われわれは書くもの、それもまさに攪乱(かくらん)されず、乱されず、急がず、とぎれとぎれにならず、穏やかに、終始整然と書くものについては、それだけいっそう正確に思索するからである」(同前)
    > 偉大なものとは長い時間をかけて交流しなければならない。著者の知識を手に入れるだけではなく、著者と同一の視点に立つこと、価値判断の基準を受け継ぐことが文化を維持するのである。
    > もちろん時代に迎合した書物が高く評価されることもある。
    > 「それゆえ、われわれは数世紀の判断をもとにして読書を行なうべきであり、われわれの学問方法をそういった庇護(ひご)のもとで規律づけるべきである。まず古代人を読もう。というのは、彼らは信用と勤勉と権威によってすでに試験されているからである」(同前)
    > 大勢の人間の手で受け継がれてきた古典こそが、真っ当な判断の基盤となる。速読術を使って1万冊の本を読む暇があるなら、読むべき本を100冊血肉のものにしたほうがいい。その際、「読むべき本」の選択に迷うことはありえない。大事なことは古典をいかに遅く読むかだ。
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    ●雑感
     上の産経記事を読んで、ふと天バカ板に出した「読み言葉、書き言葉、話し言葉」稿(2013/12/10 (Tue) 01:55:47)を思い浮かべた。新たに書き下ろした「学者の書」稿中、版下書きの仕事に言及してある(抄録↓)。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=9503117
    --------------------------------------------------------------------------------
    >ただの書家~版下書きではない。書くという事は学ぶ事でもある。彼ら下請けの書家達は誰の著書を「書いた」のだろうか。著者の中には字の下手な人も少なくない筈。それを読みやすい字で清書するのが版下の仕事。「うまい」字を舐めたら罰が当たる。「うまい」と「よい」との垣根は後から拵えられた美的近代観念であり、それがそのまま活字と書字との垣根にトレースされたと考えれば、現代書を準備する以前の明治にもまた別の光が照射されてくるだろう。
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     この場合は筆写者が「有能な著者を選んできた」のでなく、版元の注文で版下を書いたのが実情らしい。それでも書けば自ずと学びになる。例えば幕末の巻菱湖が唐の張懐カン(灌の偏が王偏)の「玉堂禁經」を元に「書法類釋」を著し、その版下を菱湖の弟子の萩原秋巌が書いた様に、弟子の修業や学問の一環に版下書きが組み込まれていたとも云える。そうした意味で読売(瓦版)よりは高級な面を持ち、また~相撲と同じ体裁の書画家番付に載るレベルの名家には神社祭礼の大幟が揮毫依頼されるなど、今では絶滅状態の仕事が当時は沢山あった模様。或いはそこが西洋との大きな違いなのかも知れぬ。日本に活版印刷が普及した明治初期までは、木版印刷(物)の量と版下(人)の質とのバランスや市場規模が教育上でも好ましい状態にあったらしい。
     ところで、写本は美しい方がよい。古今東西そうなのだろう、西洋でも活字書体は写本の書体の模倣であった。そこで幾つか蔵書を引っ張り出してみたところ、差し当たって図版が多いのはナイト『西洋書体の歴史』(慶應義塾大学出版会)辺りになるのかな。欧文筆記体についてはガッカリするレベルなれど、その分の反動が却って基準書体の「文明開化」的要請へと結び付き、活字の楷書基準が実用草略書体との関係(比準?)を恰もアチラに合わせて公準化したかの様な印象と重なって見えてくる。当時の日本は維新ホヤホヤ、岩倉使節団(だったかな?)が美しい筆記体で書いたらアチラの方々に驚かれた頃の感覚。これも版下の伝統を下絵とすれば頷ける話ではある。(ただし、その後はどちら様も書字が活字に準拠する羽目と相成った。)
     …そんな追想をあれこれ巡らせていたところ、思いも寄らぬ出来事に恐懼(↓)。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/140123/imp14012319370001-n1.htm
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    >皇太子さま、学習院女子大でご講義
    >2014.1.23 19:33
    > 皇太子さまは23日、東京都新宿区の学習院女子大で、「中世史料への誘(いざな)い~学習院大学史料館にある西園寺家文書を読む~」と題して、約1時間半にわたって学生ら約160人に講義された。
    > 皇太子さまは、平安貴族の流れをくむ西園寺家に伝わる古文書について説明された。冒頭には、昨年、学習院初等科に通う長女の敬宮(としのみや)愛子さまの授業を参観した際、社会科で奈良時代の木簡の内容を読み解く授業をしていたことから、今回のテーマを思い付いたことをご紹介。「史料について知ることが、歴史という学問において非常に重要」と述べられた。
    > 皇太子さまの同大でのご講義は10回目。
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     今年の歌会始では、芳賀徹「つくる会」元顧問が召人として登場。昨年は講書始が和本リテラシー推進の中野三敏先生だったし(↓)、段々いい流れになってきてるナァ…。
    http://www.kunaicho.go.jp/culture/kosyo/kosho-h25.html#ko-01
    【2014/01/24 00:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    ・・・「美」の定義・・・

    >苹@泥酔様

    今年になってお初ですかね・・・
    投稿という低レベルの文章でさえも、時には読者を感動させる技量があったりします。
    どんな時にそれは起こるのか?私も時々その基準がわからなくなる時がしばしばあります。しかし、一つだけ言えることは、最低限自分が納得できる文体でなければ、他人は目もくれないということ。どんなに自己理解が深かろうと、読み手に響きを感じさせる文体でなければ、ただの文章垂れ流しに陥る。これはどうやら長年やってきてそう感じざるを得ないところかと思う。
    商売も同じで、自分が良いと思うものは、案外買い手も反応してくれるが、「儲かるから仕入れときな」と言われて並べた商品に限って、、売れ残ったりするケースはしばしばある。
    勿論その逆のパターンもないわけではないが、おおよそそのパターンだ。
    ところが、商売はそこに落とし穴がある。自分本位な仕入れは本来盲目なんだという。
    買うのは他人であり、自分ではない以上、自分を殺した仕入れがプロの技だと誰かが言っていた。たしかにそうなんだが、しかし、仕入れだってやっぱり好みが走るものである。選ぶのは自分であり、他人ではない。しかし、買うのは他人というその環境が絶対条件なのが、商売の厳しいところ。結局は売れなきゃダメ。いくら能書き垂れたって、売れ残ったらゴミと一緒。
    実は意味不明な値下げなんかが店頭であったりするのは、仕入れ担当者がその商品をただ速く売りさばきたいからなのが本当のところ。つまりハズレだったのだ。
    でも100%売れるものを仕入れる能力があるバイヤーなんか絶対存在しない。
    バイヤーの腕の見せどころは、売り手に活気を持たせる商品をいかに仕入れるかにある。
    売れ残りは必ずある。しかし問題は、売り子がどれだけ活気よく売りさばこうとする商品内容を提供できるかが問われるわけだ。考えてみるととても単純な構造である。
    しかし、不思議なもので、買い手も息吹のかかった商品は買いたくなるのが世の常。やはり売り子が誠意を出して紹介するものには反応するという図式が大方正しいようなのだ。

    ではそこには「美」という空間はそんざいしているんだろうかと、あきんど的に考えてみた。
    商売の「美」とはなんぞや。こっちは売りたい。あっちは安く買いたい。その図式は確かにあるが、それってやっぱり売り手の意識がなにやら高すぎる時に起こる率が高いように感じる。
    もっと堂々と売りさばいていれば、そんなに焦って安く売りさばかなくても良いのではないかと、反省することしばしばである。
    商品価格には久しく「プロパー価格」というものが表示されていた。今はかなりその表示も少なくなってきたようだが、今でも「プロパー価格」は根絶していない。
    この泥臭い表記が、不思議なもので未だに通用しているのが現実で、売り手の口実の担い手になっている。
    それに比べて、呉服のような高価な商売では、はたしてどのような商売が求められているのかというと、当然「プロパー」なんか存在しない。全てがオープン価格である。元々衣料品のプロパー価格が生じたのは、日本橋越後屋(今の三越)が商品全てに下げ札を指して、価格を表記したのが始まりなのだ。だから呉服業界では、未だに、下げ札のことを「越後札」と呼ぶ。
    大衆迎合路線に走り出した越後屋の商売は画期的であった。
    しかし、それと同時に、本当の商人が消えていく運命となったのも、歪められない事実かと言える。
    どんな部門にも「職人」はいた。過去はそうである。それが当たり前だった。商売の世界にも勿論職人と言われるあきんどが大勢いた。彼らは、一人一人が確固な個人主義を持っていた。それが彼らのプライドでもあった。日本が昔、縛られた社会だという方がおられるなら、私は反論したい。職人は常に解放されていたからこそ、生きてきたのである。彼らは立派な個人主義者なのだ。
    今の時代これがどうやら無くなってしまいつつある。
    何が正しいのか、本当のところわからないのが本質ではあるが、ただ、買い手に残念だと感じさせるのは、売り手として嘆かわしいのが本音。

    誰にも知恵を得ていない幼子が、小さな駄菓子屋のおばさんのところで、なにやらもじもじしながら商品をみつめている風景が想像できるかと思う。誰かに教わらなくても、その子は店の魅力を感じてくれているのだ。
    買い物は楽しい。いつもなら機械的に過ごしてしまっている買い物も、たまにはちょっとはホッとする買い物に出会ってみたい。そんな空間に出会えることが、もしかしたら本当の悦びなのかもしれないと、多くの日本人は思っているに違いない。
    そこにはただ、「本物」は存在していなければならない条件はあるとおもう。魂が宿っている本物が存在していなければ、全てが嘘っぽくなる。
    難しい条件なのかもしれない。しかし、やろうと思えば出来ない事ではない。問題は売り手の魂が問われているということだろう。


    苹@泥酔さんの投稿をいつも拝読させていただいていると、私の中ではこんな感情がいつも沸き起こっているんです。

    本当です。
    【2014/01/27 01:01】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >買うのは他人というその環境が絶対条件
    >結局は売れなきゃダメ
     教育界で云うと、ニーズに適合するのが「売れる教員」って事になりますかねぇ…。そのニーズを主導するのが生徒や保護者だったり、学校や組合だったり。~手っ取り早く書道のケースで再確認すると、生徒側では書道パフォーマンスが部活動のニーズらしい。その分だけ授業の方は影が薄くなる(学校側のニーズ?)。また都立高校では書道教員132名中130名が非常勤講師、教員採用試験は戦後一貫ほぼ廃止状態(青森は二十数年に一度)、学校の都合や偏見次第で簡単に教員の入れ替え可能(青森は国語教員が兼任)。
     苹の場合は戦前どころか維新前のを継承するタイプでしたから、書道側にも国語側にも当然(?)ニーズなどありません。古文書側からのニーズはあっても、そちら方面は学校から見て部外者の扱いだから論外。そこで開き直って部外者の立場からニーズを掘り起こそうと十数年間ネット書き込みを続けてきた訳ですが、皇室周辺には脈がありそう(?)でも学校とは関係がない。そもそも大学で教わった内容を職場=学校が破棄するかのごとくして「教員を再教育する」ため、学校(小中高)は大学から独立した存在と云ってよい。つまり学校にとってニーズは「入試合格」であって、その先まで関与するとは限らない。
     …が、今後は学校が「ウチの教育方針に準拠してくれ」と進学先=大学に圧力をかける時代になるかも。大学は生き残りを賭けて、少しでも多く学生を確保したい。すると学校が大学の足元を見る様になるだろう。経営が学問を征服し、洋学派の教員や学生は海外に逃れ、日本文化の担い手は国内の学問的牢獄でじわじわと滅びていく。経営動機を掌握した者が日本の学問を牛耳る時代がやってくる。経営そのものでなくとも経営動機(ニーズ)を押さえるだけで構わない場合、恐らく今後の鍵を握るのは海外ニーズの集合体~その大半は中国や韓国からの留学生により構成されるだろう。

    (備忘録)
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/140126/chn14012603020000-n1.htm
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    >【古典個展】
    >立命館大フェロー・加地伸行 中韓謙虚に他国から学べ
    >2014.1.26 03:02 (1/2ページ)
    > 大型書店に行くと、中・韓への批判本が山と積まれている。それも新人の著者が多いのに驚く。何冊か買って読んだが、なかなかいいものもある。
    > この1年、中・韓はわが国に対して下品で非論理的でヒステリックな罵倒や大嘘をくりかえし喚(わめ)いてきた。
    > 古代以来、中国は自分が世界の中心と思い、今もその態度を変えない。朝鮮半島は中国を主人とする属国根性が今も抜けていない。
    > しかしわが国は、歴代、外国文化を謙虚に受け入れ、しかも日本化するという努力を続けてきた。その好例を挙げよう。
    > 室町時代あたりから始まったらしいが、江戸時代になり、印刷が行われるようになってから広がった『節用集(せつようしゅう)』(せっちょうしゅうとも読む)という字書がある。もっとも中身は実用的百科事典風であり、いろいろな種類の『節用集』があった。
    > 私が所蔵する『倭漢節用無雙嚢(わかんせつようむそうぶくろ)』は天明4(1784)年、すなわち明治維新より84年も前に発行したもの。そのころ、日本では天明の大飢饉(ききん)で大変であり、ヨーロッパではフランス革命(1789年)前夜だった。
    > 同書の「書法門」を見ると、三十八丁(ちょう)(ページ)以下に外国の文字について紹介している。
    > 例えばインドの場合、サンスクリット語の文字を五十音図を使って構成している。またオランダ語の場合、俳句調の「たけづえに すが里(り)てつくや おきなぐさ」ということばの発音に合わせたオランダ語風発音を筆記体で書き(誤りが多いが)、左から始まる横書きなので「はじめ」「おはり」(正しくは「をはり」)と注意書きまでしている。あるいは「朝鮮国の文字」として、ハングルをいろは歌に乗せて構成しているのである。
    > 『節用集』という一般向け実用字書に他国の文化の基である、その国独自の文字を、日本人なら分かる五十音図や俳句調やいろは歌で再構成して取り込もうとしているのは、異文化への強い関心。そして飽くなき探求心の姿である。
    > この例が示すように、幕末から明治の近代化(欧米模倣ではあったが)への転換の基盤すなわち外国文化を受け入れる広やかな心、謙虚な学習心は江戸時代にすでにできあがっていたのである。
    > これに反して、江戸時代のころ、中・韓は日本の文化や文字についてどれほど学んでいたであろうか。おそらくはほとんどなかったであろう。それは今も続いている。
    > 中・韓に必要なことは、謙虚に他国に学ぶという、人間としての基本である。
    > 古人曰(いわ)く「植根(しょくこん) 固(かた)からざれば、華葉(かよう) 落ち去り、便(すな)わち枯樹(こじゅ)と為(な)る」(『焦氏(しょうし)易林』蹇卦(けんか))と。(かじ のぶゆき)
    --------------------------------------------------------------------------------
     で…検索したら、こんなのが目に留まった(↓)。就中「おわりに」の印象が痛烈で、国語学が戦後の書道界みたいに見えてくる(苦笑)。~曰く。「国語学が学としての自立をはかるために他分野への安易な依存を拒否したことが曲解され、提携までも拒みがちな体質になったことと無関係ではなかろう。」
    http://www1.gifu-u.ac.jp/~satopy/ronkaimin.htm
    【2014/01/27 22:14】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]

    ご挨拶、いたみいります
    これは我ながら、過激にファイヤー、してますね。(^-^;
    【2014/02/01 01:55】 URL | satopy #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
     satopy様には、お越しいただき恐縮。「過激にファイヤー」と仰有るけれど、書道は芸術としての自立を目指したら忽ち津々浦々で学問扱いされなくなった点で雲泥の差(泣)。それでも下記ブログでカテゴリーの「文字」欄を見ると、異体字と書字の絡み等々については、苹レベルでも少しだけならお役に立てそうな気がせぬでもなし。余談と云うか四方山話、此処=セレブ奥様んとこにも気軽に立ち寄ってくれるといいなあ。たぶん「同僚と交わすまでもない話題」を持ち出す程度には好都合な筈だから。
    http://www1.gifu-u.ac.jp/~satopy/juuden0.htm
     学者の調べ物は精密な分だけ堅苦しく、教育現場では扱いに困る事がある。例えば「なぜ私は字が読めるのか」なら考察可能でも、「なぜ昔の人は」となると史料が見当たらず、それが直ちに「客観の壁」となる。だからどうしても主観的に解釈すると引け目を感じるし、「歴史的根拠なしに自分の読み方を教えるな」と来られたら反駁が難しくなる。苹にとって「筆順は草略や変形の示導動機」だが、筆順を必要としない活字優先の読み方では「草書が読めないのは当然」となるだろう。そこで読み方を生徒に丸投げすると、たちどころに読める人が居なくなる(自然減w)。嘗てあっただろう「無筆」の重圧が、世間常識の推移に伴い軽やかとなっていく(←皮肉)。
     …ところで、名前の後の欧字(IDって云うのか?)が苹と同じになってるのは何故かしら。パソコンやネットは分からない事ばかり。(…あと、此処か「日録」のコメント欄で以前HNを見かけた気がするのは記憶違い?)
    http://www.youtube.com/watch?v=gE-FadNh0Ac
     セレブ奥様には独仏関係を念頭に、少し遡ってバッハのフランス風序曲を謹呈仕候(↑)。
    【2014/02/02 21:59】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


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