奥様
  • Author:奥様
  • 硬い話も、やわらかい話もあるよ。
  • RSS
  • ☆セレブな奥様は今日もつらつら考える☆
    子育て終了の奥様でございます。 最近本格的にブログにチャレンジ。 硬い話、介護の話、日常の話をちょこちょこっと書いていきます。
    maukie home
    CALENDAR
    08 | 2017/09 | 10
    S M T W T F S
    - - - - - 1 2
    3 4 5 6 7 8 9
    10 11 12 13 14 15 16
    17 18 19 20 21 22 23
    24 25 26 27 28 29 30

    RECENT ENTRIES
  • カープ(09/18)
  • ライン(09/13)
  • NHKってやっぱり・・・・(09/07)
  • えんだんじさんの新刊本!(09/05)
  • 週刊ポスト(08/31)

  • RECENT COMMENTS
  • あきんど (09/19)
  • kaykay (09/16)
  • 奥様 (09/15)
  • 苹@泥酔 (09/14)
  • 奥様 (09/13)
  • あきんど (09/12)
  • あきんど (09/12)

  • RECENT TRACKBACKS
  • ケノーベル エージェント:ケノーベルからリンクのご案内(2014/09/25 08:48)(09/25)
  • TEL QUEL JAPON:外務省はなかなか出さなかった...(07/31)
  • 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書:八木秀次「つくる会会長、中国『反日の本丸』に乗り込む」を読んで―――育鵬社が中国に屈服する原点(07/07)
  • 自宅が教室!簡単フラワーアレンジメント講座:フラワーアレンジメントが思いのまま!(06/12)
  • まとめwoネタ速suru:まとめteみた.【孫という贅沢】(04/20)

  • ARCHIVES
  • 2017年09月 (4)
  • 2017年08月 (13)
  • 2017年07月 (8)
  • 2017年06月 (10)
  • 2017年05月 (12)
  • 2017年04月 (8)
  • 2017年03月 (9)
  • 2017年02月 (10)
  • 2017年01月 (10)
  • 2016年12月 (10)
  • 2016年11月 (10)
  • 2016年10月 (9)
  • 2016年09月 (12)
  • 2016年08月 (12)
  • 2016年07月 (8)
  • 2016年06月 (7)
  • 2016年05月 (10)
  • 2016年04月 (11)
  • 2016年03月 (12)
  • 2016年02月 (7)
  • 2016年01月 (13)
  • 2015年12月 (8)
  • 2015年11月 (11)
  • 2015年10月 (6)
  • 2015年09月 (16)
  • 2015年08月 (7)
  • 2015年07月 (8)
  • 2015年06月 (6)
  • 2015年05月 (9)
  • 2015年04月 (6)
  • 2015年03月 (10)
  • 2015年02月 (9)
  • 2015年01月 (14)
  • 2014年12月 (13)
  • 2014年11月 (10)
  • 2014年10月 (14)
  • 2014年09月 (14)
  • 2014年08月 (10)
  • 2014年07月 (10)
  • 2014年06月 (13)
  • 2014年05月 (12)
  • 2014年04月 (12)
  • 2014年03月 (10)
  • 2014年02月 (12)
  • 2014年01月 (9)
  • 2013年12月 (10)
  • 2013年11月 (10)
  • 2013年10月 (13)
  • 2013年09月 (31)
  • 2013年08月 (13)
  • 2013年07月 (13)
  • 2013年06月 (12)
  • 2013年05月 (13)
  • 2013年04月 (11)
  • 2013年03月 (10)
  • 2013年02月 (10)
  • 2013年01月 (12)
  • 2012年12月 (18)
  • 2012年11月 (9)
  • 2012年10月 (16)
  • 2012年09月 (11)
  • 2012年08月 (10)
  • 2012年07月 (15)
  • 2012年06月 (11)
  • 2012年05月 (13)
  • 2012年04月 (15)
  • 2012年03月 (26)
  • 2012年02月 (12)
  • 2012年01月 (12)
  • 2011年12月 (15)
  • 2011年11月 (12)
  • 2011年10月 (22)
  • 2011年09月 (18)
  • 2011年08月 (9)
  • 2011年07月 (18)
  • 2011年06月 (24)
  • 2011年05月 (12)
  • 2011年04月 (11)
  • 2011年03月 (17)
  • 2011年02月 (15)
  • 2011年01月 (19)
  • 2010年12月 (13)
  • 2010年11月 (16)
  • 2010年10月 (15)
  • 2010年09月 (12)
  • 2010年08月 (19)
  • 2010年07月 (13)
  • 2010年06月 (12)
  • 2010年05月 (11)
  • 2010年04月 (13)
  • 2010年03月 (14)
  • 2010年02月 (14)
  • 2010年01月 (18)
  • 2009年12月 (15)
  • 2009年11月 (11)
  • 2009年10月 (11)
  • 2009年09月 (11)
  • 2009年08月 (15)
  • 2009年07月 (13)
  • 2009年06月 (16)
  • 2009年05月 (24)
  • 2009年04月 (14)
  • 2009年03月 (12)
  • 2009年02月 (11)
  • 2009年01月 (12)
  • 2008年12月 (15)
  • 2008年11月 (13)
  • 2008年10月 (14)
  • 2008年09月 (12)
  • 2008年08月 (12)
  • 2008年07月 (14)
  • 2008年06月 (19)
  • 2008年05月 (11)
  • 2008年04月 (11)
  • 2008年03月 (11)
  • 2008年02月 (11)
  • 2008年01月 (13)
  • 2007年12月 (13)
  • 2007年11月 (11)
  • 2007年10月 (15)
  • 2007年09月 (14)
  • 2007年08月 (10)
  • 2007年07月 (21)
  • 2007年06月 (15)
  • 2007年05月 (15)
  • 2007年04月 (11)
  • 2007年03月 (12)
  • 2007年02月 (11)
  • 2007年01月 (14)
  • 2006年12月 (2)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (15)
  • 2006年06月 (16)
  • 2006年05月 (13)
  • 2006年04月 (26)
  • 2006年03月 (18)
  • 2006年02月 (16)
  • 2006年01月 (22)
  • 2005年12月 (22)
  • 2005年11月 (22)
  • 2005年10月 (23)
  • 2005年09月 (25)
  • 2005年08月 (27)
  • 2005年07月 (25)
  • 2005年06月 (14)
  • 2005年05月 (1)
  • 2005年04月 (2)
  • 2005年03月 (4)
  • 2005年02月 (2)
  • 2005年01月 (4)
  • 2004年11月 (2)

  • CATEGORY
  • 昔の投稿 (17)
  • 未分類 (562)
  • お知らせ♪ (11)
  • 介護 (130)
  • 硬めな話題 (414)
  • 日常のこと (165)
  • 日々雑感 (358)
  • 日録裏話 (53)
  • 読書からの連想 (75)
  • 映画 (26)
  • 写真 (50)
  • 動画 (8)
  • 断捨離 (9)
  • 娘のこと (34)
  • 旅行 (30)
  • 単身赴任 (3)

  • LINKS
  • 西尾幹二のインターネット日録
  • 坦々塾のブログ
  • ぼやきくっくり
  • remmikkiのブログ
  • 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書
  • えんだんじの歴史街道と時事海外評論
  • へっぽこ時事放談
  • 真面目に変わっている人の考えている事
  • どっと公務なんでも掲示板
  • 現役記者による、ブログ日記
  • ぢぢさま・大日本史
  • 本からの贈り物
  • 倶楽部ジパング・日本
  • ネットで見聞広めたい
  • つき指の読書日記
  • うさねこ研究室
  • なめ猫♪
  • 橘正史の考えるヒント
  • 酔夢ing Voice

  • SEARCH

    こんなの見つけました。


    若い女性の勇気ある発言!
    スポンサーサイト

    【2013/10/17 22:11】 硬めな話題 | TRACKBACK(0) | COMMENT(22)
    この記事に対するコメント

     「あぶない刑事」の浅野温子とゲゲゲの松下奈緒を足した感じの美女ですね。…そう云や昔、あたしゃ長い黒髪に憧れてたんだっけ。ホラー映画で「貞子」を見るまでは(↓)。
    http://www.youtube.com/watch?v=3vijphKOSoo
     …先年、あれは本家の婆様が死んだ時だか一周忌だったかな。法事に行ったら本家の直系、未婚のアラフォー娘が東京から戻ってた。何時間かすると長い黒髪の喪服姿が、眠くてガバチョと伏せたのね。その寝姿たるや貞子そっくり(苦笑)。あれはボケて入院する前だったけど、うちの爺様が仮眠から目覚めた途端それをみて、「知らないひとが居る!」と怯えてたそうな(爆)。どうやら貞子の恐怖は映画を見てない爺様にも共感できるものらしい。あれから数年、機会があったら今度こそ心底からかってやろう(←意地悪)。

     以下落書。久々に覗いて驚いた。…なんだ、これは(↓)。
    http://www.tsukurukai.com/kikin.html
    --------------------------------------------------------------------------------
    >「つくる会」教科書の灯を消すな!
    >教科書基金へのご協力のお願い
    >「つくる会」が産声を上げて早16年が経過しました。会の活動を継続できたのはひとえに、皆様の長きにわたる渾身のご助力のおかげと、心より感謝いたしております。
    >振り返ってみますと、この16年の歩みは前人未踏の荒野を行くがごとく困難を極め、真っ当な歴史教育を掲げた私たち「つくる会」の存在を敵視する国内外の勢力との攻防戦でありました。「従軍慰安婦」という自虐に呪われた歴史教科書の記述を危機と受け止め、平成13年以降、『新しい歴史教科書』については4回、また『新しい公民教科書』は3回にわたり世に問うてきました。が、残念ながら私たちの教科書を日本の主流にする目的を達成するには程遠く、特に前回の採択において、反日の民主党政権下、我々のケアレスミスを攻撃する包囲網により壊滅的な結果に終わったことは、ご支援戴いている多くの皆様に大変申し訳なく、まさに断腸の思いでありました。
    >「つくる会」教科書は、採択数が激減したために今、再来年の採択に向けた教科書の出版に大きな支障をきたしています。
    >1冊の教科書を出版するには「つくる会」教科書の場合、作業の多くが会員のボランティアの手によるため、一般の教科書会社に比べはるかに低い経費ですみますが、それでも最低4,000万円かかり、歴史と公民の二冊を新たにつくるとすれば8,000万円が必要となります。そして現在、その資金が調達できておりません。この状況では、新たに教科書を作成することは困難と言わざるを得ません。ただし公民については、部分的な自主訂正とすれば経費はそれほどかからないことが分かりました。それでも次期採択戦が終わるまでに約6,000万円は必要となります。
    >この状況は会が始まって以来の苦境です。しかし、だからといって教科書作りを断念するわけにはいきません。台湾の李登輝元総統は、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』を出し続けることが日本を救うことになる。活動を止めて喜ぶのは中国と韓国なのである、と言われます。まさにその通りであり、私たちの活動、そして教科書こそが中国と韓国による領土侵略、歴史侵略を防ぐ砦であるのです。もしここで、私たちが教科書の発行を断念すれば、わが国は永遠に誇り高き「日本」を取り戻すことはないでしょう。
    >折しも、第二次安倍内閣は発足後ただちに教育改革を最重要政策の一つに掲げ、教科書検定や教育委員会の見直しに着手しています。教科書制度をめぐるこれらの改革が進むことによって、会の発足以来、16年の苦節を一気に挽回する、またとない機会が到来します。
    >このような状況の中で、「つくる会」は教科書の制作体制を見直し、新たな枠組みの下で教科書制作の作業に入りました。会員有志の参加を求め、会全体の総力をあげて教科書のさらなるグレードアップ化をはかるというものです。この体制下で来年の教科書検定に向け、時代が求める歴史と公民の教科書を完成させていきます。
    >つきましては全会員およびご理解を賜る皆様に、伏してお願いいたします。どうか教科書の完成そして、私たちの目的の達成のため、「教科書基金」に一口1万円として一口以上のご寄付をお願い申し上げます。次回採択戦が終わるまでのこれからの約2年が、「新しい歴史教科書をつくる会」のまさに正念場となります。    
    >平成25年9月吉日
    >新しい歴史教科書をつくる会
    >教科書基金へご協力をいただけます方は、下記ご参照の上、ご送金をお願い申上げます。
    >郵便振替
    >口座番号:00110141734081
    >加入者名:つくる会教科書基金
    >銀行口座
    >三菱東京UFJ銀行 江戸川橋支店
    >普通口座0027005
    >口座名義:つくる会教科書基金 藤岡信勝
    >Web上より送金(クレジットカード)
    >次のページにアクセスしてください。
    http://www.tsukurukai.com/kifu/kifu_c.phpLinkIcon
    >※通信欄に「教科書基金への協力」と必ず明記して下さい。
    >*十口(10万円)以上のご寄付をいただいた方につきまして
    >は、次号以降の『史』にお名前を掲載させていただきます(ご了承いただいた方)。
    --------------------------------------------------------------------------------

     …うわぁ、なんだか貧乏ったらしい話になってるなあ(汗)。こんなの苹みたいな底辺層には対応できないけど(精々が脳味噌の提供くらい)、かと云って「なんなら臓器を売ってくれ」と求められても困るしなあ。大半が今そんな感じじゃなかろーか。そんだけ貧乏国民だらけになったのよ。
     …あたしゃ以前、これを「棄民」と表現した。学歴に内容が伴ったところで、カネにならなきゃ教育費はどこまで行っても所詮は無駄遣い。それでも学歴ないよりはマシだろうと、誰もが仕方なく学校と民間への二重払いを続けて疲弊する。生活防衛すれば少子化スパイラルに直結し、果ては既婚者も未婚者も所謂「おひとりさま」の孤独死まっしぐら。
     そこから先の予測を語ろう。今後は高齢化対策(予防)としての自発的中年自殺が増える。すると平均寿命はどうなるか。上だけ見てりゃ百歳突破が当たり前になるけれど、今後は生き残った者だけが百歳を迎える形の二極分化時代になる。生き残れなかった「早死に階級」(昔の早世幼児の扱いを今の中年世代まで拡大する様な形?)が事前に統計から漏れる場合、単に分母の一部が減るだけだから平均寿命はそのまんま。ニートだってそうでしょ。そもそも定義が若年層だから、高齢ニートは統計に入らない。極端な話、定年後の高齢者を誰がニート扱いしたがるものか。それとこれとは話が別となる。先年は高校でも同じ事やってたのが発覚してたっけ。優秀な生徒だけ選んで多くの大学を受験させ、数字上の合格実績を水増しするの。この手口を平均寿命でやる訳だ。統計を自殺率から切り離す。現に未来の高齢者(生き残った者)は長生きするのだから問題はない。

     …あ、またもや朝から脱線しちまった。ちょうど今頃は西尾先生がテレビに生出演してる筈だけど、どんな内容になるのかなあ。こっちは地上波のフジ系列局がないから、いつも通りネットの動画を探す事になるんだろーな。
    【2013/10/20 07:37】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    はい~~~
    まったく貧乏ったらしい話ですね。
    それが外交の最先端で戦う先兵にならなきゃならないなんて、喜劇だと思います。
    【2013/10/20 21:00】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     夜もわざわざ余談をば。そんでもって、喜劇と云えば。
     もし「つくる会」や教育再生機構の重鎮ぞろぞろ、映画館に行くところをマスコミに撮られたら。これってニュースのネタになるかしら。安倍首相あたり要注意だな。似合いそうなのは民主党政権時代の名物議員ぞろぞろ、わざと靖国参拝日にぶつけて(以下略)
    http://www.king-of-gomennasai.com/
     うっ…こんなの(↑)表示稿で書いたら最後、左右内外津々浦々から「ふざけるな!」と袋叩きに遭っちまうかも(汗)。…それにしても、いい言葉だな~。「師」を付けるとは恐れ入る(おまけにダンスありかよ)。詐欺師みたいな胡散臭さ満点で、のこのこ中韓に出かけてってプロモーションしようものなら「てめえら、おちょくってんのか!」と暴動でも起きるんじゃないのか。
    【2013/10/20 22:01】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (「謝罪師」妄想、続行中)
     「謝って欲しい人達と、謝りたい人達。この組み合わせなら世界は仲良く平和になってもよさそうなのに、喧嘩が続くのはなぜ?」…ほんの少しだけ、別の言葉で言い換えてみる。「慰安婦と謝罪婦。どちらも嘘吐き同士なのに、喧嘩が収まらないのはなぜ?」
     言い回しの細部はともかく、差し当たっては「謝りたくない人達が邪魔してるから」と即答するのが普通なのだろう。しかしこれでは「努力を無にする連中」とのバイアスがかかり、「嘘吐き同士」と五十歩百歩、大岡裁きよろしく相殺されてしまう。時代劇(守旧派?保守?)の発想では将棋の詰めと違って、解決したつもりが「先送り」の余地を残す結果となりかねない。(「次の対局」ではなく、まだ「対局の途中」だった…)
     別の見方ではどうか。
     どうやら背後には稀代の謝罪師が居るらしく、手口にはヤクザの出る時代劇と似通った所があって面白い。…ほれ、見た事あるでしょ。血気にはやる若衆同士が対立して、暴発寸前の場面を親分が収めるの。でも対立してる連中が本気なのに対して、それぞれを束ねるボス同士は裏で手を握っている。或いは同一人物が双方の若衆達を操る場合もある。そのまた上に別のワルが居たりして、満を持して登場するのが遠山奉行とか松平長七郎長頼君とか暴れん坊将軍とか黄門様御一行(求心力の表徴?)。
     これが現代劇になると、対立するヤクザ双方からカネを吸い上げる黒幕にとって、それら下っ端が隠れ蓑や財源になる点は時代劇と同じだけれど、勧善懲悪の単純図式はぐんと薄められてくる。そこが現代劇の面白さで、大ヒット刑事ドラマ「相棒」に至っては主人公の所属自体が虐げられた部署なもんだから、視点と興味は専ら天才的頭脳へと「内向きになる」。そうした意味では読者/視聴者から見て、西尾幹二と杉下右京がどことなく似た印象となっても不自然ではあるまい。傍目に流れるバイアスは「お上は頼りにならない」で、そこから「言論は無力」だの「特命係は自由」といった「話の筋の通り方」がエアポケットに吸い込まれるかの様に「憂国」化。リアリズムからはむしろ切り離されていく(遠心力の表徴?)。
     もし、そこに「知識人という存在」へのニーズがあるとしたら。
     「行動の自由」が優れた捜査官に活かされる時、その結果を処理する側の出方は済し崩し的だったり政治的だったり、ともかく相応の組織的論理により再解釈される。言い換えるなら、個人と組織の相反が一方または他方の自由を活かすが、双方が合致した途端、自由が失われる事もある。分かっているのにヤメラレナイのが民主主義。個人だらけの衆愚化バイアスよりも、個人と組織との矛盾にこそ民主主義が息づくとしたら。
     この場合、「謝罪に徹する人身御供」の立場へと仕立て上げられる仕事人(=謝罪師)は誰かしら。~してみると、どうやら謝罪のプロにも二通りが要るらしい。

    (備忘録)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1520.html#comment
     先月来の成り行き(↑)で平均寿命に言及したけれど、後で読み返す度に不安が増して、結局ずるずる余計なのを書き足す羽目に。~しかしながら、その実さほど突飛な思い付きでもなかった模様。歴史人口学で調査可能な領分(主に近世以降?)を遙かに遡る畑では、こんな見方もあるんだなあ(↓)。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/131021/trd13102103100000-n1.htm
    --------------------------------------------------------------------------------
    >【古典個展】
    >立命館大フェロー・加地伸行 憲法に不変の真理なし
    >2013.10.21 03:09
    > この10月上旬、20年ごとに社殿を新しく造営し、前から在(あ)る旧社殿におわす御(ご)神体の鏡をこのたびの新社殿に移し奉る遷御(せんぎょ)の儀(式年遷宮)を、神宮(伊勢)は行った。同慶の至りである。
    > 聞けば、出雲大社も60年に1度の遷宮が今年とのこと。これも万賀、万賀。
    > 老生ごとき下々の者は、遙(はる)か遠くよりあれこれ想像するほかないが、諸解説の中には、いささか疑問を覚えるものがいくつかあった。
    > その筆頭は、20年ごとの新造営は神社建築技術の伝承を確実にするためという説である。20年ごとに必ず新造するので、技術が次世代に確実に伝えられ、今日まで絶えることがなかった知恵だと言(い)う。
    > 疑問である。もしそれが本当なら、先述の出雲大社の場合はどうなる。60年も先では、技術が絶えることとなる。にもかかわらず、新造しているではないか。これはどうなる。
    > 世には宮大工・寺大工という職がある。彼らは、いろいろな寺・社の仕事を請け負い、絶えず寺社建築を行って技術を鍛えている。もちろん、昔ほど仕事は多くはないが。
    > 技術・技能は、連続的な日々の継承がなければ、すぐ廃れる。例えば老生の場合、ある時期、中国語会話はかなりできた。しかし、寄る年波で茅屋(ぼうおく)に籠もる生活の多いここ10年、その技術は著しく低下した。ほんと。大阪弁なら、ほんま。
    > 老生、想像であるが、こう思う。平均寿命の問題と。すなわち、老生ら漢文屋は、古代人の人生を一世30年と計算する。もし人間50年と言えば夢(ゆめ)幻(まぼろし)でなくて長生きだ。
    > 『論語』に「後生(こうせい)(後輩)畏(おそ)るべし」とあるが、一世30年とすれば、先輩後輩の年齢は近く、ほぼ同年輩の感じであっただろう。もっとも孔子は73歳まで長生きしたが、例外。
    > とすると、30年の人生中、継いでゆく当主の活動期間は20年ぐらいか。だから、創業100年と言えば5代目か。
    > 式年遷宮に真剣に関わるのは、大工も参列者も生涯にただ一度という厳粛さに大きな意味があるからではなかろうか。
    > 一方、法隆寺。式年遷宮の始まりよりは少し前に建立されてから約1400年、火災は別として、ずっとそのままである。
    > これまた凄(すご)い話。古き良きものを守り続けているのは、日本人の底力である。
    > 20年ごとの新造と千年以上もの墨守との両者には、正反対のものを併せ持ってゆく日本人のしたたかさがある。
    > 新造-宋代の王安石曰(いわ)く、「変(へん)を尚(たっと)ぶは天道なり」(「河図洛書義(かとらくしょぎ)」)と。
    > 墨守-明代の王廷相曰く「千古を閲(けみ)して(経(へ)て)変わらざる者は、気種(物の素(もと))の定まる有ればなり」(『慎言』)と。
    > 変不変と言えば、日本国憲法を後生大事に抱えて60年の人々がいる。しかし同憲法に不変の真理があるわけでなし、千年(千古)経っても変わらない金石でもなく、まして生き続ける法隆寺のような価値はない。(かじ のぶゆき)
    --------------------------------------------------------------------------------
     読むと気休めになる…と書けば失礼にあたるのかも知れないが、かと云って、定年の要不要を平均寿命の問題と見る自稿への不安が払拭された訳ではない。wikiで「定年」の項目を見ると「2012年7月には、定年を40歳にして雇用の流動化を促そうという日本政府の提案が発表された」とありドッキリ。野田政権時代の話ではあるけれど、時代錯誤とは違う筈の目的に潜む何かが却って恐ろしく感じられる。もしかしたら本当は、さっさと人材をお払い箱にした方が定年など必要なくなってスッキリするのかも。
     しかしながら勿論、定年が「辞めさせるため」であれ「辞めさせないため」であれ、どのみち問題は爾後やってくる。今は前者の気配ばかりが際立っているが、後者は昔「職場に定年まで引き留める」目的だったとの事。さもなくば別の職場に人材が流れてしまう。尤も今は「人材の流動性を高める」のが目標らしいから、手段の「ブラック企業」化は当初から想定内だった筈。
     ふと思い浮かぶのは落語。ご隠居が出てくる世界。仮に四十代で隠居して、同じ世界で「ご意見番」となるなら後見役か相談役みたいなものだ。お払い箱や姥捨て山ではない。…そう云や二十年ほど前、「相談役だらけの世界」を髣髴とさせる話が出てたっけ。読売書法展が巨大化したら評議員だらけになった。そもそも書道界自体、超高齢化社会の典型だから「参考にならない訳がない」(今こんな具合↓…調べた訳ではないけれど殆どが五十歳以上で、その大半が六十歳以上じゃないのかな)。
    http://event.yomiuri.co.jp/shohokai/about/executive.htm
     見ると二十年前の面々、多くが名簿から消えている。また~重鎮クラスの遺族が売却したらしき品々は、中国・香港・台湾・シンガポールなどのオークションに続々と流出中。それらが何を意味するか。人材は流動せず消え去るのみ。蒐集品は流出し、本人の作品は闇の中。この辺を掘り下げると、戦慄すべき未来が浮かび上がるかも知れない。

    (備忘録追記~同日23:50頃)
     読む気もないのに衝動買いした本、それなりの数が眠っている。~今朝のを読み返したら思い出した。佐藤日出男『社寺建築の工法』(理工学社)ってのがあったんだっけ。
     専門的な図面だらけでチンプンカンプン、全く役に立ってない(苦笑)。しかしそれでも数年に一度くらいは捲りたくなる契機と出逢う。今回の産経記事もその一つ。目次は神社建築、社寺各部構造詳細、社寺設計図例、仏寺建築様式参考図例、仏寺本堂荘厳参考図例の各編から成り、飛鳥時代から江戸時代に至るまで網羅。見る人が見れば必携の一冊と映るだろう。
     そもそも何故こんな本を買っちまったのか。…たぶん大学時代の記憶に駆られての事。書道でよく書く対聯は風習や建築と関連し、一般的な条幅(掛軸)も床の間が前提。ならば支那の長条幅もあちらの建築様式と関わりがあるだろう。そんな思い付きをゼミ資料に書いてみたものの文献調査には難があった。それを引きずってたのかな、まことに遺憾でございますぅ。興味ある人は買ってね。(←宣伝?それとも呪い?)
    【2013/10/27 05:26】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (連投独白)
     ふと気付いたら半年くらい見るのを忘れてたTVタックル、偶々途中から見たところ麗しき阿川嬢が還暦との事でビックリ。だんだん話の雲行きが怪しくなってきたナと思ってたら、今回のテーマは独り身の老後についてだったのね。
     産経記事にテレビ番組と、このところアンテナに引っ掛かる機会が多い。さすがに「高齢化予防」のネタはないが、傍迷惑な自殺方法なら数年前に屡々ニュースとなっていた(練炭等々「わっ、毒ガスだ」)。…そろそろ自殺法制にも目を向けないと、誰にでもおとずれる死を先延ばしするだけになってしまう。延命措置と云えば聞こえはよい。ただし医療限定の話ばかりで、たまに取り沙汰されるのは精々が尊厳死くらいか(安楽死とも云う)。言葉は悪いが、事実「死に損ない」にゃ健康も不健康もない。…ところで老衰は健康か、それとも不健康か。苹は健康という概念そのものを疑っている。
     昔は「生き恥をさらす」との言い回しがあったが、余りにも多くの死を見てきた人々は自死を過剰に非難するか、或いは無理解の身構えに硬直してきた。彼らは死後硬直する前に生前硬直の脳味噌を言葉で大盤振る舞いし、その先を見ようとしなかったのではないか。ここでは逃げ腰の死が「生きる力」を正当化し、死の積極的意義(?)を全面否定するのが正義であるかの様に筋道立てられてくる。ならば国防が成り立たなくなるのも当然。生を賭して守ろうとする対象が明確ならまだしも、明確たり得る筈のものをわざわざ不明確にするイデオロギーまでもが絡んでくる。究極の平和主義は死の否定へと至るだろうに、そこに介在する契機を排除すれば無目的の「純然たる自然死」だけが生き残るかのごとく見る事で、不死の空想性からも逃れられる。…借問する。肉体や精神の「野垂れ死に」は自然死と云えるか。肉体が生存するためなら、精神が死んでも構わないのか。

     …こんなふうに書くと右翼的かつ軍国主義的に見えるんだろうな。そんなつもりは全くないのにねぇ。むしろ視点は別の所にある。~以下は2chに書き込もうとしたボツ稿。「忍法帖」とかいう面妖なのが作成されるそうなので取り止めた。
    --------------------------------------------------------------------------------
    今はボランティア教育が盛んな時代なのに、なぜ従業員に給料を払う旧弊が続くのか。
    企業は雇ってやってるんだ。従業員が「雇ってくれて有難う」と謝礼を払うのが当然だろ。
    なのに企業は給料を払う。つまり企業の方が従業員を相手にボランティアしてるんだ。
    法律上、雇用の基本は八時間労働だろ。そこにサービス残業が加わって初めて給料になる。
    つまり、八時間ボランティアに加えて従業員が勝手にサービス残業するから給料が出る。
    それを八時間労働で割れば、サービス残業の毎時単価が実質的な労働賃金となるのは当然。
    サービス残業なき労働には本来、給与を支払う必要がない。勝手に働く連中を甘やかす。
    労働の基本は自営業である。そこに土足で踏み込む労働者達は、居候みたいなものなのだ。
    だから居候の中には、株式会社の場合、株主という厄介者達も当然ながら含まれるのだ。
    反論あるなら言ってみろ。それみて勉強するぜ。~以上、ボランティア世代の立場から。
    --------------------------------------------------------------------------------
     稍や煽り気味の書き方になったが、この手の倒錯はいづれ避けられなくなると思って居るから、そのまま出してもさほど問題はないだろう。と云うのも、ここには死が待ち構えているからだ。生存競争と死滅競争は表裏一体の同語反復で、それを一般に淘汰と呼ぶ。つまり死は仮構されたかの様で居て、その実どうにでもなる面がある。実際に死なれたら困る向きはあるにしても、包括的には精神の死/病を抱えがちな分だけ現実的な気配が漂う。そこを企業は恐れるらしい(2013.9.27放送の朝生ネタ)。
    【2013/10/29 02:14】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    そうですね、自殺が悪って決めたのはキリスト教なんでしょうか。

    武士の腹切りは悪ではなく、潔いことに昔はなっていました。

    北京のウィグル?自爆テロはどうなんでしょうか。

    私は最近、長女があの世に行っているせいか、死が怖くありません。
    【2013/10/29 21:11】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >自殺が悪って決めたのはキリスト教なんでしょうか
     云われてみれば、そんな気も…しかし殉教者は?…いや、あれは専ら、やられてばかりの立場になるのかな。それにしても年々、自死文化(?)には退化と云うか野蛮化と云うか、八方塞がりの中毒作用か拒絶反応ばかりが目立つ様で。西洋にも自死の人は居るのになあ。フランスの哲学者ドゥルーズみたいに。~あと、自爆テロの一部は仇討ちみたいなものなのかしら?

    (以下余談~日展騒動に寄せて)
     まーたアンテナに引っ掛かった…どころか、今度は日展の中枢を直撃だあ(苦笑)。一々リンクしないが書道界の激震、火元は朝日らしい。因みに篆刻は氷山の一角で、本丸は漢字みたい。約三十年前も大溪洗耳って人が本を出してたけど、表現がエゲツナイせいか書壇も巷間も殆どが無視してた。ともあれ当時から囁かれてた話を今頃なぜ蒸し返すのやら。根っこは角界の八百長問題と比較にならぬくらい深刻と映る筈。なにしろ昔から全社の高校書道教科書に関係者(首謀者とは限らない)の名前があったと記憶してるし。
     ただし、西洋芸術の破壊的基準で同一視すべきではない。教養芸術を視覚芸術の手法で審査すれば教養が抜け落ちるのは当然で、そこを評価する基準が展覧会システムに欠けている点を難ずるのなら分かるが。~現代芸術は純粋に作品だけ評価するイメージを装うから話がおかしくなる。そこでの審美者は解釈者であって作家自身ではない。ところが教養芸術では作家が先ず教養を反映し、西洋古典芸術と同様、解釈の主客と順序が現代芸術とは逆となる。論文の査読に好き嫌いを持ち込むかのごとき監査はただの暴力で、普通は間違いを指摘したり疑問を提起したりするのが常套だが、皺寄せはその後にやってくる。
     書道の厄介な所は、間違いをも許容するほどの物語性が入り込む点にある。例えば誤字脱字が古文丸暗記の証拠になったり、書きぶり自体が学びの来歴を示す痕跡となったり。同じ千字文を学んでも、書き手(師匠)の書風が違えば学びの結果は異なる。日下部鳴鶴の表面は六朝風でも奥には巻菱湖が隠れている様な、学びの融合を鑑賞したりできる次第(先日は昭和初期の吉田苞竹に、明治後期には排除されていた筈の幕末的草略を見て驚いた)。鑑賞する側の教養が試される時、見落としている自己が試される。自己表現の「自己」と、自己咀嚼の「自己」と。そこに学問や教養が斜めに違えて共々はみ出してくる。
     こんな訓練を子供の頃から積み重ねれば、誰だって哲学的にならざるを得ない。以て精神修養としたのなら理屈は通るが、当方この四字熟語は余り使いたくない。真意が伝わりにくい時代錯誤の言葉となってしまい、「書は心」と同様に今や全くリアリティがなく、却って小学生レベルでの誤解(ごまかし)を生む。そもそも「心正則筆正」(柳公権)の日本的解釈は曖昧模糊。「用筆在心、心正則筆正、乃可為法」を即物的に読めば単なる書法の話かも。筆の中心が正立した「中鋒」状態を指すなら顔真卿の蔵鋒篆勢に通じ、側筆にはならない。でも日本人はよほど精神論が好きらしい。より深く解釈しようとした。
     それはそれで構わないが、碌に読めなくなった後も精神論と芸術論がばらばらに独り歩きすると困った事になる。文を読むのではなく字面「も」読むのが書道の読み方で、読み手=鑑賞者はそこのところを茶道で総合芸術に仕立て上げた。つまり開国前、既に書道は展覧会に適合したマテリアルではなかった。むしろ漢学などの教養に「遊ぶ」世界だった(「游藝」)。それを西洋の論理で解釈しようと無理強いしつつ、含羞だった領分から着物を一枚々々ひん剥き続けたのが近現代日本の百五十年。~書道ネタを連発してきた手前、この程度はざっと書いて置きたい…。

     それとも、もう少し詳しく書いとく方がいいのかな。~社中にはそれぞれ審美基準の偏りがあり、ひいてはそれが「型」となる。他の書風を学ぶのは構わないが、社中を通して出品する場合は社中の型に準拠するのが通例。ところが書風の自由度はそこそこ高く、横断的な変容を目指す事で芸術性の硬直を避けようとしてきたので、そこが所謂「流派」への先入観と微妙に異なる。しかし他流試合をするには前提となる型がないと整理が付かず、他流から学ぶにも指標が曖昧では崩れるばかり。ここに社中の存在理由があると見れば分かりやすい。ただの利権団体ではなく、それぞれ自前の型を保守する司祭の集団なのだと。
     はみ出した人は自前の社中を立ち上げたりもする。それとて大抵は元々の社中から発展した様式の再構築に近く、異端視されるほど懸け離れている訳ではない。~宗教の宗派(分派)に喩えると嫌がられるかも知れないが、仮に漢字イエスと仮名ムハンマドと篆刻ブッダがあるとすれば、漢字イエスの範疇にカトリックやプロテスタントやモルモンなどが無数に乱立してもおかしくない。神は同じでも宗派は違い、漢字と仮名を両方やる人は神の同一性に依拠した言葉を綴る。それらが一同、毎年恒例のハルマゲドン展覧会に集って仲良くお見合いするとしたら。
    【2013/11/02 02:38】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     緊急!…と書いても既に遅いのか(汗)。少し大袈裟だけど、見方次第では小春日和ならぬ西尾日和とも云えそうかな。今夜放送のNHK「クローズアップ現代」はGHQの検閲がテーマになっててビックリ。深夜の再放送は録画しとかなきゃ。尤も放送内容はテキスト全文が暫くの間ネットに出る筈だから、そちらをコピペしとけば事足りるのかも(↓)。
    http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3425.html
     雑誌二冊を買ってきた。『WiLL』は今月も売れていた。『正論』2013.12号は書道ネタが珍しく、執行草舟の連載あれば「読書の時間」欄に島谷弘幸あり。手書きネタは石井英夫。となると西尾先生のは後回し、おいしいものは後に取っておく(←ものは言いようだ…汗)。日展ネタは間に合わなかったし、仮にセーフだったとしても場違いのネタは載らんのだろーな(たぶん)。
     驚いたのは今日届いた「書道美術新聞」。朝日報道が10.30付で書美新聞が11.1付なのに一面トップ滑り込みセーフ(もしや徹夜作業?)。前々号の記事には「最終締め切り日を一日過ぎた八月二十三日に」云々とあるから、てっきり11.15号に載るものとばかり思ってた(↓)。
    http://kayahara.com/
     以下は書きかけ。「クロ現」ショックで早産しますた。(…或いは熟考推敲不足で死産?)

    (以下愚痴?~日展騒動ネタ脱線)
     2chを観察したところ、賄賂で入選を買う印象が出てきて興味深い。順番が逆だろう。入選したからお礼するのであって、お礼したから入選するのではない。かと云ってお礼しなければ失礼だ。上京して入選証を受け取るのも面倒だ。それが度重なって役員になれば何度も上京、仕事させられる。出品数が増えれば処理の手間も増える。そこで地域ブロックに小分けして、何度も下請け仕事の審査を繰り返す。大量の審査員が全国各地で必要になる。日展なら出品数は少ない方だが、読売展や毎日展くらいの規模になると大変だ。しかも審査員の大半に、西尾先生くらいのお年頃がウジャウジャ居る。若手は五十代くらいで力仕事はバイトの学生…と書いたら思い出した。展覧会の役職が上がるほど年会費の負担も増えるんだっけ。二十年前の読売では確か毎年五万も十万も払い続け、それが運営費に回りバイト代などに消えていく。おまけに自分も出品者。会費と出品料をずーっと払い続ける年金生活者が、お礼までする姿を想像してみるがよい。
     そうでなくても作品制作にはカネがかかる。五千円の墨で百枚八千円の紙に書くのは大学生の漢字レベル。気の利いた工夫を試みれば青天井。墨は製造後三十年くらい寝かせたものが程良い枯れ具合らしい(註…墨が枯れるのは膠の変化だとか)。焼酎「よかいち」のラベルやNHK教育番組出演などで比較的有名な榊莫山の場合、書壇を離れた独自の書作が実は文房四宝の可能性追求に支えられていた。文化勲章の西川寧は慶大の文学博士で戦前に北京留学、学識と鑑識と実作の総てに優れた「書道界の天皇」との評あり。とかく文物はややこしい。そんな世界で数十年、ただのジジイ達ではない。もちろん弟子筋の受けた薫陶も並大抵ではない。どれも昭和の姿である。
     「何故そんなに本を読むのか」…或る師匠が苹に昔そう問うた。その時は答えなかったが、読書の方が安上がりだから。臨書だって読書の一環だ。印象に残った箇所をメモする様なもの。読む事を忘れた書道に未来はない。読まずに書けるか。真似や創作が出来るか。だからこそ~活字に魅入られた学者は誤解する勿れ。曲がりなりにも(書き手である以前に)筋金入りの読者だゾ。その辺、読まれた経験のない学者に限って鈍感なのでは。優れた論考なら読まれて当然。それくらいの了見はある。…すると今度は読み手の方が愕然とする番。自分がやってるのは所詮「読み手の書道」であって、本当は「書き手の書道」を経験した事がないのでは。ここに言語芸術と他芸術との桎梏がある。西洋芸術の論理に屈従する芸術観・歴史観が書道を甘やかしてきたのに、グローバリズムの囁きはいかにも甘美で外に開かれていて、自己の言葉が「自己ゆえに」自滅へと導かれる。…論より証拠。書家の作品より、政治家や文筆家本人の揮毫が高値となりがちなのは、なぜ?

    (追記~0:10頃)
     うん…まだ再放送は始まっていない。こちらも参照あれ(↓)。
    http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-516.html
    【2013/11/05 21:24】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     以下蛇足。…書きかけだった続きの部分、取り敢えず書きますた(↓)。

    (日展騒動ネタ脱線~承前)
     此処で云う「書き手の書道」とは実践者や行動者のそれであり、専ら古典や他者の言葉を反復してばかり居る書家の自己限定とは異質な立場に審美眼もまた牽引されてくる。そのせいか正直なところ、書家側の審美基準を学んできた苹には理解しにくい書が多々ある。そこが「習うための書」と「鑑賞するための書」の違いかも知れないし、この両者には懸隔があり過ぎて困る面も少なくない。同じ書家側の範疇に引き寄せた見方とて同様で、例えば明治から戦前にかけて主流だった書家は明末清初の書を習うべきでないとした。より厳密には、習うなら唐代まで(宋代となると判断が分かれる所)。これはこれで筋が通り、そこには基礎が凝縮されている。応用とは話が別という事か。基礎だけで字は書けないから、結局は誰もが応用せざるを得ない。つまり基礎は、それ自体が彼岸の世界となる。後は銘々、勝手に書けばよい。ところが戦後の書家は積極的に明末清初の書を学び、多様な応用テクニックを駆使したら展覧会で御覧の通りズラズラ調と相成った。
     同じ基準で審査できない。もし日展の審査段階で執行草舟や松岡正剛が口を出したら大混乱するだろう。良くも悪くも一つの時代は他の時代を理解できず、それを明治以降に体現した一形式としての「官展」は戦後も含め「維新」的な枠組にある。必ずしも幕末以前は含まれない。そもそも展覧会の概念がない。西洋で展覧会が発生する前後を比較しない限り、明治前後との比較も本当は難しいのかも知れない。と云っても王侯貴族が蒐集した絵画を自分の宮殿に並べて飾るのは展覧会らしからず抵抗がある。大衆の視線と批評(時評)が取り沙汰されるのは十八世紀らしい。それ以前の「展覧会」的な役割が仮に工房の内輪で留まるとしたら、書道の社中と大差なき師弟関係へと還元するのはむしろ容易になって元の木阿弥、何が問題なのか却って分からなくなるだろう。「だからカネの話なんだってば!」と果たして言い切れるのか。
     先日2chで日展廃止論が浮上していたのを見た。こちらの方が嗅覚は鋭い気がする。民間巨大公募展で蓄積された領分が「官展」的にトレースされてきたのを「民意の反映」と捉えず、官民分離(離間造反?)を目論む口実にカネの問題を絡めるのならば、これは一体どういう事になるのやら。或いは嘗てベルリオーズが執着した「ローマ賞」的なもの~ひいては「王立アカデミー」的なものは不要とする、云わば五月革命(1968)的な話になるのではないか。その辺を苹は疑わしく思う。
    (了)
    【2013/11/07 02:23】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    日展問題が出たとき、まっさきに苹@泥酔さんのことを思い浮かべました。

    今回の苹@泥酔さんの日展関連は、まとまった論考でしたね。
    【2013/11/07 23:24】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     誤解の可能性を慮って念のため一言。あたしゃ日展とは無縁ですぅ。また論文や論考の類も縁遠く、たといどんなに長くなったところで書ける内容は所詮、感想や雑文コメントに留まる程度。とは云え、なるべくなら丁寧かつ多角的に考えたものを纏めたい…。
     ここでいきなり、西尾先生のが登場。~『正論』2013.12号P.232より。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >けれども、一六〇〇年代というのは文字通りオランダの世紀であった。市民文化が華やかに花を開き、レンブラントやフェルメールの時代であり、ヴェネチア型の商業国家の拡大版を展開してみせた。イギリスは「めざせオランダ」を合言葉にあらゆる面で追いつこうとするが及ばない。両国は海洋国家で、ともに東インド会社を設立していたが、日本にまで進出しているオランダにイギリスは太刀打ちできなかった。
    --------------------------------------------------------------------------------
     これこそが工房の時代。「そう云や講談社選書メチエにレンブラント工房の本があったっけ」との記憶を頼りに手探りで書いて投稿した後、今日になって漸く西尾先生の新稿を読み始めたら上の記述を発見。「さあ、これで繋がった」と苹は思わず興奮した。こじつけだろうが何だろうが、ただ知識や教養として読むのではなく、自前の思考の内部に引き込む「動機ある読み方」がしたい。西尾先生のを後に取っといてよかったと、心の底から思った。
     自前の読み方が新たに始まる。「日本から見た世界」と「世界から見た日本」が、苹の見る「社中と工房の狭間」に交叉する。そも、文化の成熟とは何か。時代に左右されない「状態そのもの」としての成熟を先ず見る事で、それ自体が時代から解放される筈。縦軸と横軸を挿げ替えると、時間は後から付いてくる。時間の見方が軸から解放され、そして…ゆがむ…。(←酔っぱらいの眼差し?)
    【2013/11/09 21:07】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    最近異常なまでの忙しさで、碌に拝読する時間もありませんが、ちょっと気になったので一つだけ。

    >「何故そんなに本を読むのか」

    どういう文脈で出てきた言葉かはわかりませんが、書をやる人からこんな科白が発せられるとは驚きです。てっきり、「讀萬卷書,行萬里路」の伝統が今でも実践されている、少なくとも表面上だけでも尊重されているとばかり思っていたのですが…。
    まあ、世間には以下のようなこと(「生平」の六行目)のようなこともあるわけで。


    http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%88%98%E6%8E%9E%E8%97%9C
    【2013/11/13 21:02】 URL | キルドンム #XObr3mP2 [ 編集]


    >「何故そんなに本を読むのか」
     あれはどんな場面でしたかしら、某読売展評議員宅に集まってた時の話です。たぶん競書誌の編集作業を手伝ってる最中の雑談で、当時は読売展理事だか審査員クラスだった先生がそんな一言を。「あれこれ読んでばかりでなく、もっと真面目に書け」って意味なのかどうか、よく分かりませんでした。でもあれ以来、考え続けてたら「臨書も読書の一環」との解釈に思い至った訳ですから、それはそれでよい契機になったのかも。
     書道の古典は字面の妙味が大事で、文の中身は結構どうでもよかったりします。そこが普通の読書と違う。例えば中身は同じ古今集でも、元永本と高野切とでは字面の表現が違う様に。「どの本だろうと中身は同じ古今集だろ」とはならない。一つのものを深く掘り下げる方向が主で、なかなか幅広く学ぶ方向には行かない。それをやったら「どっちつかず」になっちまう。ともすれば「底が浅い」と見られちまう。そのくせ書く文言は「退筆如山不足珍、讀書萬巻始通神」だったりするから…高校生の時に実際そう書きましたけどw(半截二行)、後で書風がガラリと変わっても、書いた事のある文句は自然に思い出されてくるのが悲しいくらい笑える。畢竟、多読と熟読の違いを極端にした様な話でやんす。
     ここが学者の世界と違う。むしろ見方次第では寺子屋レベルの世界。それを年老いてなお繰り返してる。そこに大切なものがあるのは分かっているけど(初心?)、こればかりでは物足りなくなるのが当たり前。堪え性のない(?)学者は才覚存分、どんどん先に進めばよい。でも敢えて堪えに堪えて、子供同然の世界を徘徊する立場があってもよい。
     あ…このネタも使ってみようかな。九日こちらに書いた後、十日に天バカ板のを約一ヶ月ぶりにアップしました(↓)。翌十一日からは次回予定稿(附記稿タイトルは「学者の書」)を書き始めています。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/
     …それにしても、キルドンム様ご紹介の劉掞藜って人、見事に早世してるなあ。あたしゃ死に遅れちまったわい。(おっとアブナイ、苹の想定可能年齢幅が狭められちまう…汗)

    (以下余談)
     キルドンム様のを読む前に書いてたのは、こちら。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1350
     「日録」拝読(↑)。…全集、すっかり忘れてた(汗)。と云うより「まだ読む時期じゃない」って気がしてるのかな。うち一部(半分くらい?)は単行本の方で読んでて、中でも中教審の一冊は苹の初めて読んだ西尾本。変人は変人に共鳴するのかナ、と失礼ながら思いつつ読了した記憶があります。あの頃は生徒にバーッと文章資料ばらまいて、非常識な理詰め指導を工夫して、成績評価の按配に四苦八苦して。
     当時は成績保護(?)の面妖な風潮でした。ところが苹は鈍感だから、平気で生徒の定期考査ランキング(成績上位者のみ)を壁に掲示してた。どっちみち実技成績とミックスすれば大変動するのだから、「字はヘタクソでも考査では優秀なのヨ」と誇りを持って欲しかった。内規で調整する前の生点だから、たとい平均点が四十点に満たなくとも、八十点以上の生徒が何人も居る事実は「みんな同じく低成績」といった思い上がり/思い下がり/開き直りを抑止する筈。空気が開き直ったらオシマイだ。弱者の全体主義は学問の場を破壊する。
     当時は学校が学問の場でないなんて、思ってもみなかったなあ。とにかく学問が最優先だった。本人が学んでも学ばなくても、こちらは「こんなのがあるヨ」と様々なのを平等に大盤振る舞いするだけ。ところがいざ成績評価するとなると、生徒個々人のレベルを基準に「どれだけ努力したか」を評価せにゃならん訳だから、そんな基準ばらばらなのを一つの成績表に纏めた結果はどう転んでも無惨になっちまう。高レベルの生徒が伸び悩むのと、低レベルの生徒が目覚ましく伸びるのとでは、伸びの程度を基準にすれば、低レベルの生徒が高レベルの生徒より成績が上位となってしまう。全く納得できない。
     …あんまり思い出したくない。西尾全集の今回配本を読み返すと、きっと思い出しちまうに違いない。心の準備なしには読めない本がある。それは全く個人的で、主観に囚われた経験と裏腹な感情をも喚び起こす。
    【2013/11/14 02:10】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]

    管理人のみ閲覧できます
    このコメントは管理人のみ閲覧できます
    【2013/11/14 02:13】 | # [ 編集]


    >キルドンム様
    忙しいのはいいことです。

    >苹@泥酔さん
    確かに、変人同士?かも・・・・・。
    っていうか、型にはまらない日本人的ではない日本人…同士だと思いますよ。
    【2013/11/14 20:19】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    管理人のみ閲覧できます
    このコメントは管理人のみ閲覧できます
    【2013/11/16 23:08】 | # [ 編集]


    (続き)
     隠居時代の到来…てな角度から苹は捉えているのだけれど、これを更に老年隠居と若年隠居に分ければ、双方ともに低年齢化が見られるのでは、と。老年隠居の方は早期退職の流れ。若年隠居の方は非正規雇用にも限界があるので学卒隠居へと突き抜ける。その準備は学生時代から始まり、一般には教育問題の範疇で不登校、或いは社会不適応としての引き籠もりに位置付けられる模様。働いた後で無職となるか、働く前から無職であるかの違いと云えば身も蓋もないが、結局そういう事に落ち着くのでは。
     様々な準備段階がある。学校での勉強が仕事に役立たないケースでは大学進学自体が疑問視されてくるし、そもそも学問自体が不要。大学で何を学ぶかではなく、どの大学を出るかが重要となれば、既に競争を終えた大学生は就職競争の土俵で二重に学問の不毛を確認する。大学には就職予備校としての機能が要請され、役立たぬ学問は淘汰される。勉強は学問と無関係な得点競争の箱庭で安定する一方、学問との混同を保つべくして事実の隠蔽が図られる。箱庭を牛耳った者が支配する世界には、箱庭と適合する学問が相応しい。また支配の役割を盥回しする上で、文部科学省と大学との相互牽制はそれなりに好都合だったのでは。~西尾先生の中教審本を初めて読んだ時、そう感じたのを思い出した。

     学校から学問を追放するには、教員の慢性的忙殺状態を維持もしくは更に徹底すれば事足りる。学問に手を出す暇がない。すると「学問するほど暇な」給料泥棒は遠からず追放されるか、自ら現場を去っていく。そもそも余計な仕事が沢山ある上「なんぼでも増やせる」。昨今話題の部活動も朝練の他、青森では馬術部の金銭管理が新聞沙汰になった。学問は「つくる会」みたいな暇人がやればよい。教員は関係ない。関係したくない。「余計な話を持ち込んでくれるな、こっちは従来通りの仕事だけで手一杯なのだから。」
     もし雑務の担当を職員室から事務室に全面移行して、人員を大幅に増やせばどうなるか。全校の事務室に校務マネージメント部局を設け、成績管理をも任せてしまう。教員は事務室に採点結果を上げるだけ。それまで教員ばらばらに処理していたものを事務室が一元的に集中処理し、校長直属の事務室会議が職員会議の代わりとなる。このCPを財務省に試算させたらどうなるか。文部科学省の教員増方針より有効なのでは。教員は授業の質的向上に時間が回せる。事務室は大規模化するが、学校間でなく公務機関全域で人材の流動的活用が可能になる。
     これでは教員の勢力範囲/縄張りが狭まり、さぞ不都合だろう。受験科目の教員には「非受験科目は授業時数が少なく不公平」との思いも教科差別意識/偏見もある。書道教員が書道史や古文書読解基礎に踏み込めば日本史・世界史・国語の教員が難色を示す様なものか。根拠は学習指導要領…歴史や国語の要領に書道がないのは当たり前、「総合的な学習」が破綻したのも無理はない。保健体育と生物学が連携したり、ハイドンの天地創造とミルトンの失楽園を音楽教諭が綜合講義してもよさそうだけど、忙しいからデキマセーン。
    【2013/11/18 22:24】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    詳しいご説明、ありがとうございます。情況は把握。「臨書も読書の一環」か。確かに。そういえばこちらが小学生の時通っていた書道塾の先生(もうかなりの高齢ですが、健在)も、「自分が読めない字」を書いていたなあ。たまたま、こちらが半紙の着色作業に精を出している傍らで他人とその場で書いた字が「読めない」と話しているのを聞いて、当然、こういう商売している人間は漢文くらい難なく読みこなせるのだろうと思っていたので、「へえ」と些か意外に感じたことを思い出しました。もっとも、大事なのは字面で内容などは二の次三の次というのは素読の場合も同じですから、「寺小屋レベル」でいいや、と最近では思うようになってきました。ただ、それを実行するとなると、どういうわけか学生が一番いやがるのね。
    こちらも学生の時には「学校は学問の場ではない」なんてこと、想像できませんでした。でも今やこの認識の方が常識と化し去った。では彼等彼女等にとって何だと問われると、これまた難しいでしような。ひところ言われた「レジャー・ランド」ではないことは確実だし…。やはり、仰られたように就職斡旋所…でしょうかね(そっちの機能については、ウチの職場はかなり評価が高いらしいのですが)。もうそれでもいいけど、流石に少し寂しいので、「四書五経」だの「二十四史」だのというタームだけはしつこく喋り続けているわけですが、全国、いや、「あちらの国」をも含めて、我々の種族は遠からず淘汰されるのでしょうな…。
    慢性的忙殺状態に置かれているのはその通りなのですが、ただ大学の場合クラブ顧問は事実上名義貸しになっているケースが多い(と思うが他校のことは知らない)ですから、その分負担は軽いと思います。しかしながら、他の面で色々と…。本来、事務職員の仕事を教員がやるのが当たり前という現実の前に、授業改善などは画餅に帰す。でも、できる範囲のことはチョコチョコしてはいますよ。
    もっとも、小生ひとりに限ると最近の忙しさはむしろ学校外の仕事が飛躍的に増えたことが大きいのかも(組合…はむしろ大学業務の一環だと割り切った方が賢明として、前に書いた胡散臭い保守系団体とか、家の新築とか、しかも先日…)。
    【2013/11/19 18:25】 URL | キルドンム #XObr3mP2 [ 編集]


    >「自分が読めない字」
     自運の場合、書家が読めない字を書く事は通常あり得ませんが、読めない字の臨書なら日常茶飯事に近いかも。例えば王羲之の尺牘なんかは漢詩と違って、釈文がないとかなり困った事になる。なにしろ当時=千七百年前の言葉を、草卒と云えばアレだが~とどのつまりは碌に推敲せぬまま書いた筈の手紙とあらば、漢詩を作り慣れた古典引用巧者も現代中国語の煩型(うるさがた…と傍目には見える)も、こればかりは仕方ないんじゃなかろーか。その後は漢字の書き取り似たり寄ったり、臨書で読める様になったり忘れたり(わざわざ書かなくとも目習いで充分ではあるけれど)。
     中には深刻な意味で読めないケースもあるのだろうけど、嫌がられるのが怖くて「読まない/書かない」人も少なくないのでは。手紙を草書や変体仮名で書かぬ様に自己規制し、読めない人に先ず媚びる。「読める様にする」教育を放棄する。だから生徒は幾ら勉強しても読めないまま。下手すりゃ「余計な勉強をするな」と先生から叱られそうで、コリャまた別の意味で深刻だぁ。勉強させると先生の身が危ないから、必死になって勉強させまいとする(と苹の目には映る)。学校では結局その繰り返し。勉強したい生徒は独学するしかない。そう云や書塾でも、読み方を習った記憶はありませんでしたなあ。
     その意味では寺子屋レベルの方がよほど高級で、それがそのまま今は大学レベルにスライドしている。片や書塾の書表現レベルは概ね向上。戦前の講座タイプから展覧会競争タイプに移行して以来、書いた本人が読めても読めなくても審査する側には関係のない話でござんす。平たく云えば教育と審査の分離分割、大量消費ならぬ大量審査時代に一々読んでなんか居られない(審査員は平均年齢六十歳で定年八十歳?)。大量雑用時代の教育環境だって如何なものだか。おまけに大学講師は五年寿命お払い箱がブーム(?)みたい。そう易々と淘汰されてたまるか(苦笑)。
     ところで先日、家の新築ネタとも絡む壮絶な一冊に魅了されますた。タイトルはそのものズバリ、岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書)。P.12の光景が目に浮かぶ様だ…(しみじみ)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    >罰があたったのか、足が滑り、踏みつけた本のカバーが破れて「ああっ!」、本体を取り出した後の函を踏み壊し「ああっ!」、開いたページがぐしゃりと折れ曲がり「ああっ!」と、それは大変な騒ぎとなる。
    --------------------------------------------------------------------------------

    (追記独白~2013.11.22. 22:10頃)
     日展ネタの「2013/11/05 21:24」稿中で、「読まれた経験のない学者に限って鈍感なのでは」云々と書いた。これが心の隅に引っ掛かり、「読まれる事」と「読まれるもの」との二律背反(敢えて矛盾とは思わぬ様にしたい)が活字文化と書字との合間で蜷局を巻く。しょっちゅう読まれる人は「読まれる事」(読書)を「読まれるもの」(書物)に期待するのが普通だろう。そこが既に活字の領分となっている。もはや原稿以外に書字は必要ない。ならば鈍感なのは、読まれた経験に塗れた人達の方だろう。自分で自稿に引っ掛かるのは当然。
     苹は間違っていたのだろうか。しかし感じた通りに書いたのだから、そうとばかりは云えまい。書けば書くほど、それがどう読まれているのか気になってくる。「読まれなくても仕方がない」と開き直る書家に近いのは、むしろ「読まれた経験のない学者」の方だ。書家が観客に期待するのは「読む事」ではなく「観る事」で、極端な場合は「賞さえ貰えるならば」観客も必要ない。相手はあくまで審査員。学位論文の査読と評価が玄人筋の狭い世界に閉ざされるのと似て、どこの馬の骨とも知れぬ素人など論外でしかない。
     忘れた頃に、しつこく旧稿を読み返す。…書家の立場から読めばすぐピンとくる事でも、読者の立場で読めば書き手の病が意外とスッポリ抜け落ちる。書いた本人が分からなくなって戸惑うくらい、それはもう見事に(汗)。
    【2013/11/21 23:27】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     空気は読まずに留め置き、虚心坦懐ふと思う。
     教養不要論…そこから先は「話にならない」のが普通なのだろう。教育現場の皮膚感覚を有り体に書けば実際その通りだから仕方あるまい。他教科なら少しは遠慮もあろう。しかし内外の圧倒的大多数は芸術を教養と認めないし、無知と偏見と誤解が根強くこびり付いているらしい(時間の無駄、不良分子の下卑た遊び、ディレッタントの精神異常etc)。もちろん根拠はある。どう見ても労働ではなく遊び。ロックンロールは暴力的。自分の耳をそぎ落とす狂人ゴッホ。…いくらでも具体的に列挙できる。
     思い起こすと小学生時代、周囲から刷り込まれたイメージは「芸術家は変人」だった。それも変質者や狂人に近い。精神薄弱イメージは「裸の大将」山下清が由来かも(この場合、イメージする側はサヴァン症候群に関する知識がないものとする~つまり「ただの天才バカ」扱い)。或いは結構「偉人の伝記」も影響大だったりして。無駄な苦悩のジャジャジャジャーンがなぜ偉大なのかサッパリ分からないベートーヴェンは不良みたいな長髪で、むしろ教育上よくない筈(←何十年前の感覚?w)。美術は描かせられてばかりで名画を見た記憶が薄いし、第一どこがいいのか分からない。書道はただの読めない字。どれも共通しているのは「知的営為と無縁」な印象で、貧困や夭折が毛嫌いされた面もあるだろう。他方、勉強の苦手な生徒には体育と芸術が「のびのび」できると映り、世間的には通り一遍の子供らしさが評価される。それらの総仕上げは「天才でもないのに、出来る訳ないだろ」との開き直り。「才能がないから無駄だ」との思い込みが、創作と鑑賞との断絶を小学生時代に完成する。
     子供の教育に美学や芸術学の基礎を持ち込めるほど教員は有能でない。学齢も中学では些か怪しい。どうにかなりそうなのは高校入学前後だが、特に底辺校(入試偏差値基準)では最初から学力を期待されていないケースが多く感じられ、それが教員側には授業形骸化圧力となって降りかかる。既にランク毎の学力選別(高校入試)は済んでいるのだから、学力試験の対象外科目にも主要科目と平等かつ公平な低レベル授業を行うのが望ましいらしい。…と書いたら思い出した。先の競書誌編集中の雑談で、かの先生は「進学校なら出来るかも知れないが」と言っていたのを。あれは仮名授業の延長に自筆本「奥の細道」を使った話をした時。あたしゃ国語の先生から教科書を借りて、そこに出てくる箇所を芭蕉自筆本で演習した。底辺校から準進学校に転勤した後の新研究、それなりの成果が期待できると踏んでいた。大学や短大への進学者数そこそこ、昔の字を読める生徒達に教授連中が驚いたら嬉しいナと。その分アチラも進めやすかろう。高校は縁の下の力持ち。大学でのウケがよければ、それに越した事はない。
     しかし教養の領分を芸術科目でやるのは社会常識上、相変わらず理不尽と映るらしい。寺子屋レベルを大学レベルまで維持するのが教育界全体のグローバリズム優先方針とあらば、それも致し方あるまい。現に伝統ごちゃ混ぜの移民国家アメリカでは前々から左翼的革新的イメージが芸術観に根付いているらしい(新しけりゃそれでよい?)。~それはそうと、教養と芸術の絡みについては下記文章が面白かった。
    http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/liberal_arts.pdf
     筆者は、こちら(↓)を開設してるドイツ語の先生だそうな。西尾先生あたり、気分転換に読み流すには恰好のが揃ってるんじゃないかなあ。
    http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/st.htm

    (余談)
     どうした訳か先月中旬以降、天バカ板(天才バカ掲示板)のトップページがグーグル検索に引っ掛からなくなった。或いは有害サイトと見なされ、予め検索から弾かれているのかも知れない。そこで当方、最近は「2013/11/14 02:10」稿中のリンクを辿って日課のカウンター数値確認に出向いている。次回予定の書き下ろし附記稿「学者の書」は遅々として進まないが、それでも前回アップの一月後には、どうにか出せる程度まで取り繕いたい。
     それにしても面妖である。あそこの殆どは「馬の骨」の書道ネタ。検索できない理由が思い当たらない。もしや前回アップの沖縄ネタがテロ指定でもされたか(まさかw)。傍迷惑を理由に各書道系大学が受験者の目に触れさせない様にした可能性も考えにくい。…ともかく、もう暫くは様子を見てみよう。
    【2013/12/02 02:24】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔様お久しぶりです。
    先日日録の過去録を見ていたら、こんな題名の文章がありました。
    「追悼・川原栄峰先生」
    2009/7/1 水曜日のものです。
    川原先生は『哲学入門以前』という題名の本を書かれています。
    私はまだ未読ですが、かなり面白い作品のようです。
    氏は常々「本物の哲学者は本を書かないものだ」が持論だったようです。
    ソクラテスにしろ、キリストにしろ釈迦にしろ、最高の哲学者は本など書かないのが本物の証だ・・・という理論です。
    氏のこの言葉を借りて語るなら、確かに最高の哲学者は本を残していません。
    書かなかった理由は不明ですが、現実はそれに則しています。
    川原先生が『哲学入門以前』と題名を選んだ理由も、そんな背景があるからこそなのかなと考えます。
    私はまだ読んでいませんから、西尾先生の感想を元に語るしか方法がございませんが、この「以前」という言葉を題名に付け加えているところが実に絶妙で、この言葉によって、哲学・芸術・学問・・・それら「教養」と呼ばれるものらが、全ては入門する前の心が大切だと暗示していると受け止めることができます。
    つまり、どんな教養も進めるにあたっては、基礎となるのは人間個人の成り立ちが大切だということかと思われます。ですからそこには「素材」というものが同軸にあるわけですが、しかし「素材」は逆にここでは否定されるべき存在で、大切なのは「姿勢」なのではないかと推測します。

    個人個人が、どのような人生を踏んできたのか、これは教養を身につける上で大切なスタッツ(要素)なのかなと想像します。
    具体的に申しますと、ゴッホが自分の描く絵画の中に、一番強烈な色は自分の血の色だと気づき、自分の血液だけでキャンパスに赤い絵を描いたことは有名ですが、たぶん彼は自分自身を描き上げるには自分の血の色こそが最高の色彩だと確信したからでしょう。
    彼の前ではいかなる絵の具も血液が放つ色彩には劣り、血液の単純な赤色の中に、様々な色彩を放たせたかったのでしょう。
    知識もないのにさらにこの路線で語らせて頂ければ、水墨画もその類であり、黒という「無」の世界から様々な色を輝かせてみせる技を、私は感じる時があるのですが、微妙な筆使いの中の濃淡が示すそのギリギリな瞬間の連続は、まさに生き様を描き上げる瞬間であり、そこで問われているものは何かと言えば、「入門以前」に至る個々の人間の「姿勢」が大きく浮かび上がってくるのではないか。
    つまり、描く前から結果は決まっているわけですが、その「姿勢」を人間はどう活かせるかが次なる課題であり、真っ白な世界に自分は何を描けるのか、この緊張感がまず絵の中に表現できていなければ、作品は駄作の世界に陥るでしょう。
    どんな画家たちも晩年は融和な表現を見せ始めます。しかしそれは本当に理想的なんでしょうか。ある種それはその画家にとっては寿命が長すぎた証ではないでしょうか。
    そして我々はそうした絵画を何故か好む傾向があります。閲覧者の眼力の弱さの現れだということでしょうか。
    本当は秋の紅葉が示すように、最後に真っ赤に燃え散る覚悟が本当の「美」というものなのではないか、と感じながら、昨日は女房と二人で、すっかり初冬に入った北国の景色に、美しい「紅」がまだ残っていないかを探しながらドライブして参りました。
    【2013/12/03 12:01】 URL | あきんど #k7Eg95eM [ 編集]


    >自分の血液だけでキャンパスに赤い絵
     ゴッホのエピソードには不案内ですが、自分の血で書いてみた事なら昔…と云っても小筆で栞を一枚だけ(大きなのを書くと一騒動になるw)。あたしゃ当時よく書き比べてた巻紙(雁皮と三椏と楮)の芯に入ってる紙で試しましたが、乾くと赤でなく茶色になりますし、想像するところ半紙や画仙紙だと大抵もっと黒ずむんじゃないかなあ。ただ、後にも先にもそれ一度きり。献血に行って「少し分けて♪」と頼んでも断られるんだろうな…って一体、何を書いてるんだか(汗)。
     でも、アレゴリーとしての「血」なら大いに示唆的な要素をはらむ様な。姿勢としての自己あるがゆえに書ける/描けるのであって、これが素材となると一転そのまんま「ホラーの世界」やんけ(例えば犯人、警察が踏み込んだ時は一心不乱に死体の血で揮毫中?)。いづれにしろ結果は犯罪的と決まってる様なものだけど、それを仮に業(ごう)と言い換えるなら、真っ白な世界に「描く」のではなく「向かう」事で晩年が真っ白になっていく様な気も。所詮は他者の判断、駄作だって本物だ。そこが贋作との決定的な違いで、自己が贋作になるよりは遙かに誠実と感じられます。だから無様な誠実もあるのだろうし、時には見苦しさの中に潜む一片の誠意を偲ぶ立場があってもいい。
     一例。~前稿で触れたドイツ語の先生んとこ、見たら「つくる会」側に批判的な姿勢のエッセイがありました(ただし十年以上前の稿らしい)。そこを注意深く読もうとすると、自己棄却により抛擲された学問の孤独が垣間見られるかの様にも。そこでは自己の立脚点を丸ごと学問的良心へと捧げている。これって或いは、ヴェルディの歌劇《運命の力》第四幕で「ピエタ、ピエタ」と歌うアルヴァーロみたいな姿勢に見えるかも(以下の全曲動画では2:22:30以降の箇所)。それとて真っ白な誠実に向かう点では心情ごく真っ当なのでしょうが、なにしろ学問そのものがクリティカルに自己だから、アルヴァーロ達の誰もが自己に非ず。慈悲という良心に囚われて身動きが取れず、政治的リアリティとは別の世界に向かっているかの様でもあり、もし~配慮せぬ事が配慮となるのを期待するとしたら、裏切られ続けるのを受忍する覚悟もまた同様に期待(?)されて然るべきかとも。
    http://www.youtube.com/watch?v=drbHCt0lwzo
    --------------------------------------------------------------------------------
    > Le minaccie, i fieri accenti,  脅しや暴言は
    > Portin seco in preda i venti;  風に持ち去らせましょう。
    > Perdonatemi, pietà,     私を許して下さい、どうか。
    > O fratel, pietà, pietà!    兄弟よ、どうか、慈悲の心を。
    (以下略~原語歌詞はコピペ、対訳はシノーポリ盤のを転載)
    --------------------------------------------------------------------------------
     おっと、脱線(汗)。~件の寺門伸先生は韓国語にも造詣が深く、文字文化史上の特徴を度外視してから古代史へと遡る手法で言語学を捉えている模様。あちらは主に文法構造面を取り上げてますが、それと似た(厳密には別物だけど)アプローチは日本でも見られ、江戸時代の日本語音声を日葡辞書のローマ字表記から汲み取る例が代表的と云えるかも。文献学上の実証には限界があり、音声言語の実態は漢文表記に痕跡を留めにくい。こうした事情は日本の方言でも同じ事で、全国共通の文字記述とは別の角度から見る必要がある。しかし、だからと云って政治的事情が反映しやすい文献学上の領分を度外視してよい訳がない。それを充分に心得た上でああ書いているのだろうから、どこか奥歯に物が挟まった様な慎重さが感じられるのも無理はない。…やっぱ、学者なんだなあ。
     韓国語と日本語の音声や言語構造がどうであれ、それを国際語の表記様式として漢文状にエンコードする慣行は両者共通だった筈。そこに無理があるから日本では訓読デコード方式を模索した。もし漢字が音声に縛られていたら、方言だらけの支那全土に普及する事もなかったのではないか。複数の音声が共存可能な場としての表意文字は存在の要請自体が政治的で、だからこそ切り離された音声は海を隔てた可塑性に富んでいた。それを脱政治化した所に学問が成り立つとしたら、学問の冷血は茶色に定着したまま嘗ての赤を夢見るのみ。政治の免疫的性格は危険を伴うものの、そればかりではない事もまた認めて置かないと、生態のバランス~構造安定性が却って取れなくなるだろう。
    【2013/12/05 02:33】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    この記事に対するコメントの投稿













    管理者にだけ表示を許可する


    この記事に対するトラックバック
    トラックバックURL
    →http://celebokusama.blog17.fc2.com/tb.php/1564-5261f725