奥様
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    子育て終了の奥様でございます。 最近本格的にブログにチャレンジ。 硬い話、介護の話、日常の話をちょこちょこっと書いていきます。
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    (2013/08/23)
    西尾幹二

    商品詳細を見る


    まだ手にしていません。

    表紙の題字の書き方が変わっていますね。

    確かにこの方が、内容がわかりやすく、同じシリーズのほかの物との
    きちんとした差別化ができます。
    8月末に出るそうですが、早く読みたいですね。
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    【2013/08/25 22:43】 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(15)
    この記事に対するコメント

     2012.12.12~22の「日録」連載後は半年以上ほったらかしだったのに、今頃になって何かに急かされるかのごとき(?)猛ペースへと様変わりしたのが面妖なる八月後半。しかるに『正論』2013.1~2号のを「了」と締め括った翌々日が九月にて、同2013.10号の発売日は日曜と重なった(↓)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1320
     週末に本を買うタイプの人が困るのは、田舎じゃ一日か二日は遅れて書店に並ぶのが常だからだが、余程の事がない限り次の日曜、すなわち一週後の売り切れは考えにくい。今号の西尾先生は「古代ギリシアの奴隷制に照らしてアメリカ近代史を考察した今までまだ誰も指摘していない比較歴史論の観点を打ち出したもの」だそうな。ならば多分あの辺(↓)の延長線上にある話なのではと、記憶がいつしか蘇ってくる。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-713.html#comment
     つまり遅くとも四年半前には既に提示されていた観点。それを先生が熟成させてる間、こちらも勝手にあれこれ書き散らしてきた次第(非表示稿を含め、大方は天バカ板に再掲済み)。拙稿を読み返しながら先生のと比較する構えで居れば、おあずけ一週間くらい大した事ではあるまい。思えば当方ユダヤ側の奴隷観を、捏造文書らしき「シオンの議定書」から抜き出した事もあった。ワーグナーの「救済者に救済を」に、ヨーロッパ側からのアメリカ批判を嗅ぎ取ったりもした。そんな思い付きを、読み手の受動性から能動性へと脱線させながらも、「交差点としての西尾幹二」だけは地図上で見失わぬ様に試みるのがカキコの醍醐味とも云える(ただし読む側はウンザリ?)。
     西尾味噌だか西尾ワインだか分からぬが、ともかく今回誌上の内容と苹のとで、熟成(玄人的?)と腐乱(素人的?)の違いがハッキリしてしまう様では悲しい。尤も教員畑の習い性は「決められた通りに教える」奴隷性の権化たらんとする使命自体に在りそうで、新しい事を言い出す必要なき身ではある(苦笑)。おまけに現場の多忙は斜め向きで、「そんな暇があるなら授業しろ」と想定外の怠惰(=研究)を難詰されるのがオチ。かてて加えて高校レベルの書道畑たるや「数学教員は算数を教えるな」みたいな世界に閉じ込められがちだから、基礎排除型指導の難しさは想像を絶する。
     ゆとり教育が本格化した頃(平成元年?)、大学教育学部は「生徒に教えるのではなく、生徒の学習を援助する」との言い回しで無意識に責任逃れしていたかの様でもある。あれがイラク人質事件(平成16年)の時に流行った「自己責任」論の予兆だったのかナ、と映ったのは後日の事。どちらの指導…もとい、教育方法にも相応の理はあるが、教えずに生徒の自学自習に委ねる方式(実態は塾の影響下)を戦後半世紀の間に積み重ねてきた書道畑から見れば、ゆとり教育の導入結果は当時から概ね明らかであった。支援板で2002年頃、そんな話を書いた記憶がある。
     ドイツの教育については西尾先生や川口マーン女史が本で書いていた。他の国ではどうだろうか。例えばフランスとか。そんな土産話をセレブ奥様に期待したくなるけれど、これは下手すりゃ「子供はまだ出来ないの?」型のよくある姑イメージになりそう。差し当たっては、向こうで売れ筋の金貨の銘柄でも教えてくれたら幸甚。あと、奥様ご一家の渡仏中にシリア戦争が勃発したら(おっと、以下自粛…)
    【2013/09/03 00:05】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    西尾先生も、苹@泥酔さんも、同じ題材をぐつぐつ醸成させてると思います。

    フランスで売れ筋の金貨の銘柄?わかったら買う?
    【2013/09/03 23:30】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >同じ題材をぐつぐつ醸成
     天バカ板への転載は大体こちら(↓)。ただし途中の震災ネタなどを飛ばす必要あり。
    http://imoshiori.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7743504
     で、その後のネタが先日のヒトラー絡み(↓)に続くのかな。そこんとこの繋がり具合を八月の「日録」が思い出させてくれたかの様でもあり、また同時にいつもの事ながら、西尾先生の底力は実証的な~すなわち文献学上の正当な手続きに基づく探究で裏付けられている有様が、いっそう地道かつ対比的に説得力を増してくる。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1501.html#comment
     つまり、どういう事か。腐乱間際の苹にとって先生の書くものは、先生本人の与り知らぬ所で、実は防腐剤となっていたのである。(平たく云えば「ゾンビ冥利に尽きる」?)

    >フランスで売れ筋の金貨の銘柄?わかったら買う?
     いや、そんな余裕はアリマセン…(泣)。それぞれの国柄に興味があるのね。頭の中を金本位制に切り替えて以来あれこれ読み漁ってると、どうやら日本ではメイプルリーフ金貨やウィーン金貨に集中してるみたい。ところがアメリカではイーグル金貨が主流らしいし、合衆国民の金個人保有が法律で禁止されてた期間の長さにも驚かされた(ユダヤ金融や石油と絡む?)。片やソ連では帝政ロシア時代の10ルーブル金貨がヤミ市場で流通。トルグシン金貨やチェルボネッツ金貨ってぇのもあったとやら。そんなの日本(の田舎)じゃ見た事ない。勿論フランスのナポレオン金貨も、イギリスのソブリン金貨も。
     何故ああ書いたかと云うと数年前、副島隆彦の本に「フランスで金庫バカ売れ」って新聞記事が載ってたのね。で、両替所の写真には見た事ない金貨ばかり写ってた。今は地金型金貨の時代なのに、知ってる銘柄がない。そこが不思議で、一体どうなってるのやら。そりゃあ歴史ある国だから、退蔵してる昔の金貨がある所にはあるんだろうけど、古い金貨のプレミアムと今の金相場が連動してるとは思えない。が、ネット検索してみると存外そうでもないらしい。またリーマンショック以来ヨーロッパでいきなり金貨がバカ売れした事情も興味深い。中国人やインド人の金選好は筋金入りらしいけど、それとも様子は違ってるらしい。
     十数年前は日本でも売ってたイーグルやブリタニア金貨だって、最近どうなってるものやら。バブル末期はパンダ金貨も話題になってたっけ。北海道拓殖銀行が潰れる前だった。カンガルー金貨は今じゃ三菱系ばっかで、田中系では見かけなくなった。~こちとらカネはなくても本は見るし、気が向けば売場も覗く。底値の頃なら買えなくもなかったけど、四倍以上に高騰したんじゃ貧乏人には手が出せませんわいなぁ。アジア方面の情報は宮崎正弘先生の新書で読めるけど、ヨーロッパは苹にゃ結構「ミステリアスな地域」と映るのでござんす。

     ところで~わざわざ書かずともよい話だけれど、あんまり奥様が「ストリートビュー」とやらにご執心なもんだから、苹も釣られて先ず青森から見始めてみた(祝・初体験!…にしても青森とフランスでは大違いw)。そんでもって次にデバガメ、西尾先生が昔「日録」で書いてたのを辿ってストーカー気分を味わってみた。ターゲットは西尾邸の近隣らしき店、西荻窪の「吾作」。すると簡単に見つかった。さすが東京。
     その前に検索したら店内写真のあるブログ発見、小綺麗で品がいい。それに比べて路地裏はどうだ。道は狭いし都会臭さ紛々、少し大きな通りでも片道一車線。チョイと雪でも降ろうものなら惨状が目に浮かぶ様だ。多分もっと閑静な所に住んでるんだろうけど、なんだかそれとて怪しく思えてきた。家から空は見えるのかなあ。そもそも窓の数が疑わしくさえある。あの印象では二年半前の地震がさぞ恐ろしかったろうに。東北では土地と空に家が包まれていた。ところが東京の印象は先ず建物。道に包まれた家が揺れる恐怖を想像するのは、青森からでは難しい。
    【2013/09/05 06:02】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹さん
    そうそう、行ったことがない場所が、まるで行ったように覗くことができる。

    ストリートビューって、本当にある意味、空恐ろしい代物ですね。
    【2013/09/05 20:42】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     念のため追記しまっす。~昔の「日録」に出てくる件の「吾作」は、移転する前の場所らしい。だから暴漢さんや変態さんが西尾先生を待ち伏せしても、たぶん空振りに終わりますぅ。
    「ハアハア…これが先生のぱんつ…」(←ここでアニメ連想↓)…てな与太話はともかく。
    http://youtu.be/eQPqtJ2XWS8
     あれこれ買ってきますた。焚書本については後日。
     『正論』2013.10号で「戦争史観の転換」の第一章は終わり、次回から第二章に入るとの事。…この後どんなふうに展開するのかしら。こちらとしては嗅覚上(くんかくんか?)、なにやら「ナショナリズム」という言葉の意味そのものを慎重に解体しつつある様な気がしないでもない。そのための伏線となるキーワードが「鎖国性」ではないかと。両者の連関が海底の断層を描き出す一方で、断層を蔽い隠してきた海そのものにも焦点を当てるとしたら。
     一概にナショナリズムを、陸の側に限定した上での精神的領土(?)へと結び付けてはならないのでは。なにしろ日本を含む海洋国家では、そもそも足場を持たない領海が鎖国を可能にしてきたのだから、断層の有無に関わらず「ナショナリズムなき鎖国性」は元々自然に成立する筈。従って所詮、ナショナリズムは後付けの輸入論理に過ぎない。そこに断層の一相が感じられる。
     自然状態としての鎖国性(循環論的非闘争性?)を前提しない大陸国家にとって、ナショナリズムは常に闘争的だった筈。そうした所に由来する別の鎖国性(終末論的闘争性?)をグローバルに結び付けようとする場合、日本の鎖国性と同一視するタイプの言語錯覚には自ずと問題が生じてくるだろう。言い換えるなら、ここでは語彙それ自体に担保された海の様な在り方が、断層としての実相を隠蔽する形となっていく。
     日本にとっては幕末黒船も元寇も同じく闘争的と映る筈なのに、それを「平和の使者」と錯覚する様に調教されたのは何時頃からだろうか。或いは遣隋使の前まで遡る感覚で、欧米に接する手もないではない。そこに或いは、白村江の記憶が蘇るのかも知れない。また千二百年を隔てて連合軍が~例えば後の日英同盟(ここではアナロジカルな意味)が成立へと向かうのは、過去の成熟と咀嚼を踏まえれば何ら不思議ではないのかも知れない。予め調和への見通しが歴史的にまさぐられる範囲に留まる限り、相互諒解としての契約も破綻も喧嘩も収拾も、共にジェントルな態度を前提とするだろう。これを騎士道と翻訳するならば、武士道との共振や共感が期待されたのは~異星人ならぬ異国人とのファースト・コンタクト(?)に於て、ごく自然な流れだったのかも。
     そうした諸々の読後感は、所謂「読書感想」の領分から距離を取った場所にある。もちろん本文に照らせば別の感想、例えばP.120の「両者は結局同じことを言っているようにも思えるからである」がアメリカにおける「中世」の有無を貫く別の鍵に見えてくる点だって、そこそこ書いて書けない事はない。ただしそのためには更なる先への見通しがないと書くに書けず、文章の一部を切り取って感じただけではどのみち物足りなくなる。
     果たして読者はどこまで先を読み取れるか。後になって初めて分かる「読み違い」との比較をどれだけ先取れるか。そこを目指して無い頭を揺さぶると、今度は碌でもない勘違いが却って邪魔になったりもする。しかし他方では、自分の喧嘩相手に自分を据えてから次の相手を択ぶのが喧嘩の礼儀…と心得ると、喧嘩の理由自体なくなるケースが殆どだから厄介だ。喧嘩するにも相手が居ない。勿論それに越した事はない。探して見つかる相手なら、そもそも喧嘩には相応しくないのかも。いつも喧嘩は唐突で、受け身の私は日本人。
    【2013/09/12 21:12】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (続き)
     受け身の姿勢は根が深く、その辺は教育方面からも窺えそうではある。…と云っても前稿同様、今回も脱線の元ネタはあくまで『正論』2013.10号の西尾論文にあるのでござんす(傍迷惑陳謝)。

     宗教は学問だった。そして学問が宗教だった。…ここまでは西欧とて大差あるまい。知識人は僧侶で、キリスト教に根差していた期間は長い。カール大帝は文盲だったそうだが、その頃の文献は僧侶による写本が多いとも聞く。当時の教育については当方まだ調べていないが、古代ギリシア的な学問を引きずる懐疑的姿勢もさる事ながら、宗教そのものを疑う段階のそれまでもが日本に定着可能か否かは、宗教の定着可能性と同程度に疑わしく思える。
     宗教を疑う事は学問を疑う事であり、そうした考えに魅入られた人間は弁解の余地なく「学問への信仰が足りない」。だから厳密には学問という言葉そのものが不適切であり、ここはむしろ知識と言い換えた方がよい筈。問いや疑いは知識の敵であり、有り体に云えば学問が知識の対極にある以上、学校もまた学問の場であってはならない。教わった通り信ずるべくして反復勉強した結果、競争に勝った者が成績優秀と見なされる。他方、教え教わる内容の方は「正しいから知識になる」のではなく「知識だから正しい」といった具合に顛倒して初めて、学校は思考停止の「安定性」を教師と生徒の両側で付与または剥奪できる。~ここでの思考停止は片務的とならざるを得ないだろう。内容に対する思考停止を、過程における思考停止不能状況が補い且つ隠蔽するのだから。よって誰も思考停止している気にはなれない。受験勉強に追われる身には、そんな暇などない。…でも別の暇なら、ある。やがて学校を飛び出した知識の群れはテレビのクイズ番組に進出し(時には運任せの緩衝でカムフラージュ)、ここ三十年は大規模な形で高校生を巻き込むに至った。
     西尾先生は大学文化の在り方についてアメリカを高く評価するが、まるで「研究」するかの様な姿勢が日本でどれだけ通用するだろうか。日本では「勉強」が学校や学問のイメージを支配する。基本は知識の丸暗記。そこに研究の余地はない。よしんばあったとしても田舎では就中、研究と仕事が必ずしも結び付かない。仕事でない研究は趣味かボランティアでしかないと映る(定年退職後の実質的就職禁止世代を含む)。更には、そうした意識と商売とがごちゃ混ぜに絡んでいく。商売の役に立たない虚学を追い出し、専ら実学を称揚するタイプの学問差別(明治以来の伝統!)が、「学問の本家」たる欧米にひれ伏したまま、今も(or今だからこそ?)右往左往し続けている。

     学問の価値が売り上げで決まる、海外市場と国内市場との禮別尊卑。これでは狭い市場の日本文化など所詮はジリ貧…てな愚痴を書いている場合では最早ない。学校は教員と手を携えて緩慢な自殺を遂げつつあるが、少子化の喇叭が合図かどうか、ここ二十年余りの本格的な空洞化が今、ともかく最終局面を迎えているかの様な。多分この面でも書教育は最先端にある?
     知識は、知識だから正しい。~敗戦で習字・書道が指導禁止となった後、関係筋はCIEを説得するため「書は芸術」との方便を繰り出した。つまり戦後、そう捉えるのが正しくなった。誰が見ても言語文化なのに~それどころか今でも書を芸術と認めない人が多いのに、書教育復活を目指して視覚芸術の側面を強調したら、猫も杓子も学校で芸術を気にする様になった。国語とは違うから文学芸術ではない。と云う事は正面から言語芸術を名乗る訳にもいかず、おまけに明治以来の美術コンプレックスが燻っている。そこから出た方便知識が兎にも角にも「正しい」と相成った。芸術を名乗らぬ書道は正しくないし、お習字は反対に子供らしく「のびのび放置ぷれい」で済ますのが無難。すると効果覿面、すぐに戦前レベルが崩壊した結果、歪曲教育半世紀の歴史と知識(?)が定着した。可読性は古文書学の領分で内容は国語や文学の領分、どちらでもない書道は視覚芸術の孤児となって安定する。
     以上の経緯がワープロ出現前夜。芸術系は展覧会偏重となり、手習い系は子供相手と実用書道とで二極分化する。そこにワープロが登場して実用書道のニーズが崩壊、子供は少子化で壊滅寸前、残るは芸術畑のみ(砦は展覧会社中と教育系大学)。そこに大学の教官リストラが来る。『墨』(芸術新聞社)連載で見た神戸大の魚住教授の話によると、近年は教官が定年退官した時点でポストと講座そのものをなくしてしまうそうな(…と書いたら、その後の朝日記事を思い出した↓)。
    http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1371255166/
     これを要するに、先ず元々のイメージを歪曲したり貶めたりした後、誰もが必要を感じなくなったら直ちにゴーサイン発動可能、枢軸となる諸々の組織をいつでも消滅させられる状態のまま無自覚に沈黙の威嚇を続ける訳だ。もちろん中には学校も含まれる(統廃合)。或いは学校が残ってもカリキュラムは消滅する。組織が生き残るため学問を捨てるのだ。可能であればターゲット自体、この場合は誰からも(つまり労組からも)学問扱いされない状態にあるのが望ましい筈。

     西尾先生のそれによると、アリストテレスは奴隷を「魂のある一種の財産」と考えたとか。そこに「奴隷の忠誠心」は成り立つのだろうか。~教員は学校に隷属し、組織に忠誠心を示さねばならない。さもなくば解雇されても仕方がない。奴隷の奴隷性は雇用に縛られるばかりでなく、解雇の自由に担保された不自由にも縛られる点で両義的/相殺的に「自由である」。そこに「自由な奴隷」の奇妙なパラドックスがある。嘗てベイトソンはダブルバインドを論じたが、これを奴隷性と絡めた地平に教員の精神疾患や退職もまた並び立つのでは。昨今話題のブラック企業もまた学校を真似て、先ず卒業ホヤホヤ自業自得の「自由な奴隷達」にボランティアを要求するだろう。多分そこに時間外労働の概念は存在しない。ボランティアは本源的に善であり、会社にとっては間接的な忠誠心のアピールでもあるからである。事実上そうした会社への斡旋システムとなっているのを隠蔽する仕事も、学校にとっては不可避の負担となっている事だろう。
    【2013/09/19 02:26】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    奴隷の定義ってなんでしょうねぇ。

    広義の奴隷?人間は自然の奴隷?
    働いて、食い扶持を稼がなくてはならないから、みんな奴隷かも・・・。
    【2013/09/19 19:35】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     セレブ奥様のフランス殴り込み実録(と勝手に呼称…汗)、スリルとサスペンスはあれども(?)バイオレンスの不足にガックリ拍子抜けしながら、アッサリ微笑ましく読んでます(↓)。ともかく道中、シリア戦争にならなくて残…じゃない、よかったですね(ぬけぬけ)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-date-201309.html

    >奴隷の定義ってなんでしょうねぇ
     拡大解釈すると却って焦点がぼやけてしまうのでしょう。古代ギリシアとも近代奴隷制とも違う別の仕組みが、より薄められた形で背後から迫っている様な。2013.9.18放送のNHK「クローズアップ現代」(NO.3403)はテーマが「拡大するブラック企業」で、冒頭に出てきた社員が「長時間労働の是正」を訴えた時の上司回答は下記の通りでした(字幕)。
    「キミは本当に愛しているのか、うちの組織を。戦力外通告だって、色んな理由で簡単なんですよ。キミみたいな人が一人いると、それがどんどんまん延していっちゃうわけだよ。がん細胞みたいなものだから手術しちゃいましょうって、そうしないと会社が成り立たないんだよ。」
     この番組録画を見て、「奴隷の忠誠心」云々を話題にした訳です。無論その辺の話題では労使間意識が左傾化しがちだし、忠誠心は悪しきイメージへと繋がりかねない。内的認識の自己奴隷化が進むと被害者意識も増大する。また一般的な奴隷労働では強制性が焦点となる様ですが、それを伴わない奇妙な観念=「自由な奴隷」まで持ち出すと事は甚だややこしくなる。そこのところは以前「自発的に奴隷がやってくるシステム」と表現したアメリカへの印象とも関連します(リンク前掲、「2009/03/28 18:20」稿の前半↓)。あの時は「奴隷パラダイムの転換」とも表現しました。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-713.html#comment
     ここらで最も不釣り合いな問いを一つ、「貴方は保守運動でいくら貰ってるの?」と。「冗談じゃない、こっちが会費を払ってるんだ」と気色ばむ人が多いのでは。なら所謂「プロ市民」の方々はどうかしら。貰ってるのかなあ。いづれにしろ組織に対してであれ何であれ、無償の愛(?)を注ぐ身に奴隷呼ばわりは似つかわしくない。上の番組例も労働時間短縮と賃金増額のどちらに主眼を置いているのか判然としない。従軍慰安婦問題ではどうか。無報酬のプロ売娼と高給取りの守銭奴を仮構・対比すれば、強制性がスッポリ抜け落ちて別問題となるのでは。そこに忠誠心の罠がありそうにも思える。上司は免罪符のごとき忠誠心を求め、社員は受け容れても拒否しても構わない。強制性は地下に潜り、肚の探り合い次第で解釈はどうにでも変わる。何年か前に提唱された奉仕の義務(ボランティア?)も、いったん企業に伝染すれば丁稚奉公より遙かに過酷な労働条件の基礎理念となり得る。
     あれから莫迦は休み休み「奴隷パラダイムの転換」を考え続けてきたつもりですが、転換は定義でなく流動であって、裏返せば流動そのものを定義と捉える事ができる。とどのつまりは臨機応変な戦略的概念であって、もはや是正すべき歴史的事実の範疇に固定されなくなっているのでは。そこを見据えた勢力が(委細承知の上で?)性奴隷だの何だのと圧力をかけてくるし、まだ沢山カードがあちらには残っている。例えば日本人労働者と外国人労働者を「平等に」扱った日にゃ、それが直ちに奴隷制復活や民族差別への非難にすり替わる。四年半前に書いた事は結局「概念すり替え」の話だったのかナ、と今は感じたりしています。

     あと、この際だから「老人パラダイムの転換」にも触れて置きましょうか。
     老人の定義。~その年齢や期間は一定でない。イメージも「老人らしさ」に固定されない。一例を小木新造『東亰時代』(講談社学術文庫)P.124~125から引くと、こう書いてある(小見出しには「平均寿命男四十二・八歳」とある↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 都市に生きる人びとの一生は一般に短命であった。例えば四十五歳を過ぎると、そろそろ隠居のことを考え、五十歳代で次の世代に所帯を任せることは、そう珍しいことではなかった。従って、六十歳の還暦の祝いに着る赤いチャンチャンコが、文字通り隠居の身の童心に帰る象徴として、きわめて似合いの習俗であったのである。
    > 男女の平均寿命が七十歳を越えている現代の人生がマラソン時代なら、さしずめ明治前期は短距離走の時代と言うことができよう。
    --------------------------------------------------------------------------------
     初産五十歳の新妻が出現する時代から見れば、「十五で姐やは嫁に行き」はロリコン男の天国かも知れない。同書P.146には松村操『東京穴探』(明治十四年)の引用があり、そこには「大抵男子二十歳前後、女子十四歳ニシテ結婚スルヲ以テ常トス」と書いてある。昭和末期の感覚では女子二十代が初婚。クリスマスケーキに喩えて「二十五を過ぎると投げ売り」だそうな。
     こうした時代差を差し引いても、隠居してからの生活は長引いて余りある。六十歳で定年退職してから百歳まで生きるのと、五十歳で隠居して六十代まで生きるのとでは、どちらの経済的負担が大きいか誰でも分かる。そこに今度は「定年パラダイムの転換」がやって来る。…大袈裟と思う人が普通なのだろう。それは定年を固定して考えればの話。しかし定年制と任期制を同じ土俵に上げて考えると、二十二歳で大学卒業して任期数年の仕事を終えた人が、三十歳を待たずに隠居するケースもあり得る事になる。仕事それぞれに何度も定年がやって来る。これを老人パラダイムと老人概念の分裂と見るならば、そもそも分裂抑止の免疫的感覚が麻痺しているのだから、その前兆となるだろうカナリア達が高齢出産に向かうのも不自然ではない。…見よ、彼女達は若返る。アンチエイジングで美魔女とおだてられ、老いの感覚をひた隠す。
     老人パラダイムの二極分化。~任期定年(←便宜上、造語でスマソ…汗)がひたすら若返る一方で再就職ままならず、片や定年延長と長寿命化と介護問題で年金制度など諸々の社会保障が干涸らびる。そして企業は国際競争のプレッシャーで低賃金労働と非正規雇用の割合を増やす。正規雇用の定年を延ばした分だけ、任期定年の非正規雇用を増やして循環させれば、全体の人件費はどうにかなるらしい。
     早々に定年を迎えた若手の隠居が増えるのを世間では「引きこもり」の範疇で捉えている様だが、この辺どうもしっくり来ない。生活保護の隠居にパチンコ中毒のレッテルを貼るのも、いい加減やめた方がいい。歴史は政治世界の専有物ではない。もっと混沌とした民間の歴史に支えられ、そこから逆襲を受ける事もある。

    (前稿補記)
     あれから関係資料を見返したところ、書教育復活に関するCIE側の見解は芸術より実用方面に傾いており、むしろ芸術に執着したのは日本側の内部事情~すなわち書家の側にあった模様。それより影響は国語をめぐる一般の風潮に大きく、「今後は英語の時代になるから国語や漢字教育は不要」とする雰囲気の下、習字・書写教育の形骸化がいっそう進行していった。
     その辺に絡むのかな、高校書道の教員採用試験がなかなか実施されないのは。書教育に限らず殆どの教科・科目に於て、占領中の昭和24年に制定された教育公務員特例法を根拠に臨時免許が活用され続けています(まさか教委の当事者、「書教育の形骸化に学べ」とまでは「表向き」思っていないだろうけど)。
     法律上、小学校で書教育が禁止されていたのは昭和22年から数えて四年間(昭和43年の学習指導要領告示により昭和46年、学校選択でなく必修となるまでを数えれば二十四年間)。ただし実質的には国家総動員体制下で習字どころじゃなかった筈だし、そもそも紙墨の入手が至難。昭和16年の国民学校令では芸能科習字をやる事になっているが、戦時特例(勅令第八十号、S19.2.16公布)以後の七年は書教育空白期が続いてたんじゃなかろうか。…西尾先生は都市部(←ここ重要)と疎開先で直接体験した世代。実際どうだったのか知りたいわぁ。
    【2013/09/21 20:53】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹@泥酔さん
    西尾先生の本の中に、おかあさまが、
    お友達の女の子が、お習字がとっても上手で・・・・
    とかなんとか書いておられる個所がありましたね。

    昔はいい字がかけることは、教養の第一歩だったのですよね。

    最近、テレビで書き順の番組があり、書道をちょっとでもかじった人は、
    すごく賢そうにみえます。
    【2013/09/26 21:06】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    書道
    奥様
    祖父から、手と字は必ず人前に出すのだから何時も綺麗にしておくようにと
    読み書きそろばんと、習わされました。
    大人になって、通った書道教室。書道の合宿をさるお寺さんで
    その時、大先生に初めてお目にかかりました。東宮さまへ書道の先生として
    行かれた方です。夫とも、この合宿が機縁で、、、
    あのぅぅぅ私も、ちょッばかり、書道をかじったのですが、、賢く見えました??
    【2013/09/26 22:37】 URL | bunn #- [ 編集]


    >bunnさま
    なんだか素敵な出会いですね。
    格調高い~~~~

    えぇえぇ~書道をかじると賢く見えること、請け合いです!
    【2013/09/27 21:16】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >奥様
     その「お友達の女の子が、お習字がとっても上手で」云々は当方たぶん未読ですぅ(「わたしの昭和史」辺り?)。だから全集はお誂え向き。そのうちドンピシャ記述に出逢うだろうと。
     …そう云や昔、小学六年の同級生が通う書塾では行書をやっていた。こっちの書塾はまだ楷書で、あたしゃ彼女が羨ましかった。正しい筆順で半紙五十枚ほど書けば手本を見ずとも書ける様になり、百枚も書けば自ずと深層の草略原理が導かれる。このコツを明文化すれば、わざわざ何十枚も書かずとも戦前レベルまで戻るのは容易じゃないかと、あの頃から薄々思ってたのかなあ。苹の高校時代は実質的にゃ教育実習同然。これは得難い経験で、あたしゃ正反対の立場で二度実習した事になる。
     でも、頭からコツを教えると自力の発見機会が失われる。そこんとこの難を重視したのが所謂「ゆとり教育」かしら、あたしゃ直ちにピンと来た。何十枚も書く手口と似たり寄ったりなら、授業時数削減は矛盾だゾと。高教研書道部会では当時「自己学習力」と呼んでいた。それなら大昔からやっている(苹自身コツを教わった記憶がない)。書塾に通わぬ人は下手なまま。こちらは指導力の限界。そこで苹はごまかした。どれだけ実技がヘタクソでも、知識や思考力で補う手はあるぞヨと。
     あれに先生方ぶっ飛んだ。苹の授業は難し過ぎると。何をバカな、そっちの地歴公民や数学はどうなんだ。定期考査の文章題や語群にわざと正答ばらまくパズル方式を試した書道史分野では、設問に隠したヒントを見つけ記憶に繋げる能力があれば解ける。それを丸暗記方式の出題と思い込む方が逆に呪縛されている。正答ばらまくと出題ミス呼ばわりされる典型はセンター試験だが、難問に見えるものほど易しい場合があってもいい。肝腎なのは眼横鼻直、ありのまま見る事だ。臨書で「普通こう書く」と偏見を持てば却って見えなくなるのと同じ事。見えたからといって書けるとは限らないのもまた同然。そこに自己の鏡がある。偏見の方が正しい場合もあるから面白い。難易と正誤を混同する勿れ。
     …今夜は、そんな事を思い出してました。所詮は昔話(←自嘲)。
    http://www.bsfuji.tv/todoroki/highlight/64.html
     バラエティー番組で筆順や「美文字」を見かける機会が多くなってますね。どれも楷書ばっか。つい先日はビートたけし達がBSフジで「無我夢精」と大書(↑)、たけしの「精」字が一番うまかったのには驚き、かつ泣けてきた…。
    http://shosouin.org/suihou/suihou00.html
     あとbunn様のは、かなり遡る話になりそうな(汗)。東宮御進講となると桑原翠邦か、はたまた仮名なら熊谷恒子の時代か。たぶん前者と勘繰って検索すると、出てくるのがこちら(↑)。お寺で伴侶をゲットした頃かしら、セレブな勇者は映画館で…おっとっと(↓)。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1331.html
     なぜかフランスに藤純子を夢む。…見よ、勇者は帰る。そして…見よ、勇者は若返る…。(←このネタ↓、前稿に隠せばよかったなあ。暫く後になってから気が付いた…orz)
    http://youtu.be/zF7a-ndhtmk

    (追記)
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1554.html#comment
     …と書いて投稿しようとしたところ、西尾先生のカキコ(↑)を見てビックリ。まさしく奥様は勇者だと、あらためて思った次第。…投稿後、もう一度ヘンデルを聴こう。
    【2013/09/29 00:03】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (追記)
     過日、西尾全集八巻を注文。いつもの雑誌も買ってきた。どうした訳か今月は『WiLL』の売れ行きがよく、その書店で再入荷がなければ今頃は売り切れの筈。『正論』2013.11号の西尾先生は連載の代わり、記念企画にて「本の表題」稿を寄せている。「否定がじつは肯定になるというアイロニー」(P.224)を見落とすと、どうやら読者は曲解しがちになるらしい。ひねくれた読者が素直に読むのと、素直な読者が穿って読むのとでは、曲解にもそれなりの幅が出るだろう。ところが素直な読者の素直な読み方は、ひれくれた読者の穿った読み方にも似て、曲解自体が正解になったりするから恐ろしい。だから曲解を恐れる必要がない。それらの読み方を筆者はどう思うのか、つくづく「厄介な読者達に恵まれたものヨ」と、読者の方から「思わず先生を煙に巻きたくなってくる」。
     ところで拙稿、前々稿は稍や失礼な書き方になったかの様で気に懸かる。『正論』でも二人が美魔女やクリスマスケーキに言及しているが(P.260~271)、その割には存外サラリと読めるのが、「何を語るか」ならぬ「どう語るか」を体現している様に思えて興味深い。また拙稿では明治十四年の記述を引いたものの、あれでは内容に不足を感じて些か落ち着かない。そこで本棚をまさぐったところ、恰好の一冊が見つかった。速水融『歴史人口学の世界』(岩波現代文庫)。
     「二〇歳代で結婚年齢が五年も遅くなると、出産数にかなり大きな差が出てくるのです」と書いてある(P.174、関連グラフはP.179とP.182)。かてて加えて視点が幅広く、地域毎の偏りや特徴の指摘は大いに悩ましい。…明治十九年、晩婚の中心地域は大阪近辺だった(平均結婚年齢地図P.254~255)。東北の早婚傾向は青森在住なら子供の頃に薄々分かるが、上方では元々「さほどでもない」印象なのでは。『正論』誌の老卵ネタ(?)に違和感を抱く西日本在住もしくは出身者にお勧めしたくなる一冊でありんした。
     以下余談。~幸か不幸か、どう見ても野獣顔の指揮者ゲルギエフ。記憶を辿れば約十年前、まだ十代後半の幼妻と結婚してたんじゃないかなあ(←「レコ芸」海外楽信欄の衝撃的うろ覚え)。…で、念のため海外ネットを検索してみた。1953年生まれが1999年、年の差27歳で結婚したそうな。当時の年齢46歳で計算すれば、花嫁は19歳って事になる。
    【2013/10/08 23:33】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (追記の追記)
     …どんなにだらだら速水本を読み返しても、結局いつもの書道ネタに出戻ってしまう(汗)。そこそこ無関係な方面へと気分転換を図るべく、適当な距離を取ったつもりがウッカリ目に留まる語彙のあれこれ。例えばこんな具合に書かれてあったり(前掲書P.274「あとがき」より↓)。
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    > 第二には、歴史人口学に関心を持ち、その研究を始めてみようとする方々の出現を期待する気持ちが強いことである。一方で古文書が読め、他方でコンピュータが操作できる、という一見正反対の能力を要求されるこの研究分野は、単にそれだけでなく、人口学や統計分析の能力、歴史学の知識、それに国際比較を行おうと思ったら、外国語の能力を備えることが必要である。
    --------------------------------------------------------------------------------
     ほれ、また出てきたゾ「古文書」が。苹は基礎専門だから勝手が違うものの、お約束が分かれば殆どはP.1図版(宗門改帳)のごとき反復ばかりゆえ、その類なら書状等々と違って誰でも読める。ただ、原本や写本の情報量(=肉筆性)は豊富だが、その大半は機械的コピーを経た途端に失われてしまう。そこを理解しない人がコピーを写本より優位と見る。写本の場合、誤読の原因は誤写。ところがコピーの場合、誤読の原因は「コピーの質」自体にある。~レコード芸術の場合、可能性を追求したのがカラヤンなら、限界を喝破したのがチェリビダッケ。書道ネタではピンと来なくとも、複製芸術としての音楽に嘗て親しんだ人なら習字経験者の数十倍(数百倍?)居るのでは。
     日本を含む漢字文化圏の文字言語は、欧文より遙かに複雑な草書筆記体系を持つ。だからこそ二千年来、膨大な字種字数の差異を筆触で簡潔に読み分ける技術が発達してきたとも云えるが、そのリファレンスは約千年前の日本で概ね変化を終え(支那では約千七百年前)、後は専ら実用の領分で「応用技術の変奏」を繰り返してきた。~千年前の歴史的判読原理は字源意識に収斂する。それを学んだのが寺子屋レベル。応用だらけの文字環境が巷に溢れる中、門前の小僧が「習わぬ基礎を読む」のは活字時代の我々とて同じ事。ただし今は基礎から草略意識がスッポリ抜け落ちた。草略アルゴリズムは数学的に直観できる筈なのに、そこを筋道立てる教育技術が明治の昔から放棄されてきた。「漢字は未開人の文化」と云わんばかりの西洋かぶれ共には虫酸が走る。それなら西洋はどうなんだ?
     ここはむしろ、全欧規模の筆記体を想起・仮構した方がよいのかも知れない。英語筆記体にドイツ式のを混ぜたら途端に読めなくなる様な状態が言語の区別なく共存するとしたら。ドイツ語もフランス語も英語も総て一つの全欧語として括られた結果、文字言語も音声言語も方言の差でしかなくなるとしたら。…例えばアメリカが「全欧語」を国語と制定。バイリンガル時代の到来が究極のクレオール化を要請し、百年後のアメリカ人は今の英語を読めなくなる。或いは「境界なき言語世界」を圧倒するタイプの「ワン・ワールド言語」が現実的かも知れない。また敗戦が「境界の喪失」を唆す場合は、政治的に仕組まれた優位言語と劣位言語との間で「差異の力」が最後の砦となって立ちはだかるだろう。古今東西、差異は大きければ大きいほど侮り難くなる。
     嘗て欧米人は、漢字や日本語表記体系を「悪魔の文字」呼ばわりした。占領もしくは植民地化の都合上、前々から言語における「差異の力」に脅威を感じていた。…すると静かに、神風が吹いた。境界は最前線であると同時に本土でもあった。書字は外堀、言語は内堀。にもかかわらず本丸でガイジンが微笑むとしたら、その時のガイジンは日本国籍なのかも知れないなあ。
    【2013/10/12 01:58】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (補記~産経ネタ)
     なにやら興味深い動きが出てきた様で。~あれこれ感想を書く前に、先ずは産経記事の全文転載。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/131015/edc13101516110000-n1.htm
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    >【教育動向】
    >学習塾やそろばん塾も質向上を 文科・経産両省が指針作成へ 斎藤剛史
    >2013.10.15 15:00
    >子どもや大人も含めてさまざまな知識・技能などを得ることができる学習塾、カルチャーセンター、習い事の教室などの「民間教育事業」は、現在の社会では欠かせない存在となっています。しかし、公的機関である学校教育とは異なり、民間教育事業者の質は千差万別です。このため文部科学省と経済産業省は共同で、民間教育事業者のサービスの質を保証するためのガイドライン作りに乗り出しました。早ければ今年度内にもガイドラインをまとめる予定で、両省は民間教育事業者を選ぶ際の目安にしてほしいとしています。
    >民間教育事業の利用者の規模は両省の推計によると、カルチャーセンターや外国語会話教室などの受講者は1,050万人、学習塾などの受講者は小学生175万人・中学生190万人、そろばんなど習い事の教室の利用者は小学生490万人・中学生110万人とされています。また、全体の年間売上高は、カルチャーセンターなどが8,966億円、学習塾が約9,161億円という規模に上っています。一方、事業者の形態は、株式会社・学校法人・個人事業者など多様で、経営規模もさまざまです。学習塾では業界団体が適正な塾に対する認証制度を設けたりしていますが、民間教育事業全体では利用者とのトラブルも少なくありません。最も大きな問題は、これまでの民間教育事業者の質保証の取り組みが、契約などの適正化、合格者の水増しなど不当表示の是正といったビジネス面から進められ、学習者に対する教育サービスの質が正面から問われなかったことです。
    >このため政府は、2013(平成25)年6月に閣議決定した第2期教育振興基本計画で、「多様な主体が提供する学習機会の質の保証・向上の推進」の一環として、民間教育事業者における評価・情報公開に関するガイドラインの策定・普及を基本施策の一つとして盛り込みました。これを受けて文科・経産両省は共同で検討会を設置し、学習塾など民間教育事業者の自己評価と情報公開のためのガイドラインづくりに着手しました。具体的な対象としては、学習塾、カルチャーセンター、外国語会話教室、音楽教室、書道教室、生け花・茶道教室、そろばん教室、スポーツ教室などが挙がっています。
    >検討会議では、教職員の研修や訓練をしているか、教育内容の改善をしているか、学習環境の維持管理を実施しているか、サービス向上のための声を集めているかといった自己点検・評価の項目のほか、学習サービスの内容、受講費用や解約金の扱い、学習サービスによって得られる学習成果、講師の経歴などの情報公開すべき項目をガイドラインにまとめる予定です。ガイドラインが導入されれば、保護者にとって学習塾や習い事教室を選ぶ際の目安として役立つことになるでしょう。
    >ただ、学習塾や習い事の教室には、個人事業者による小規模なものも多く、せっかくできたガイドラインが利用されないという懸念もあります。このため両省は、ガイドラインを普及させる仕組みづくりなども検討していくことにしています。 
    >(提供:Benesse教育情報サイト)
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     子供相手の書塾は大抵、学習指導要領のレベルに合わせないとニーズ自体が成り立たない。学校の書写授業が消えれば塾も必要なくなるとの危機感から、共倒れ前提の運命共同体に誰もが恐怖してきた。少なくとも苹が観察してきた活字資料は総て同様の見方であり、その多くは敗戦トラウマとしか思えないものばかりだった。明治まで遡る見方は国語側に多いが、書教育への言及は皆無に近い。それだけ国語教育界は書字の歴史的側面を顧みてこなかったという事なのだろう。
     「当用漢字表」(1946)や「筆順指導の手びき」(1958)の呪縛は更なる歪曲を経て、教育界全般を統べる神話と化していく。許容されている筈の筆順や字形が現場では誤答になる。判断するのは個々の教員で、かかる圧力は全県規模の高校入試対策。社会で許容されているからと云って、学校で正答になるとは限らない。先年その実態を長野県の高校生がビクター主催のビデオ作品コンテストで紹介したところグランプリを受賞。この件は学会でも取り沙汰された(↓)。
    http://www.jacse.org/Kiroku/2007akita/2007_1021_akita_symposium.pdf
     私的経験で似た事があった。高校在学中に体育教員から漢字のトメ・ハネを指摘された際、苹は当用漢字表や教科書などの「教典」効果が理解できた。理屈抜き。歴史抜き。筆順もまた、理詰めで考える余地がない。おまけに書写と書道とでは互いの属する世界が違う(学習指導要領の分類がそうなっている)。…すると奇妙な話が出来上がる。学校教育の質「に」民間教育の質「を」迎合させるなら、保証される質が却って怪しくなっていくのではないかと。教科横断的に学校を統べる迷信/常識が民間教育の特殊性/専門性を破壊する可能性は小さくない。十数年前の青森では指導主事が体育と芸術科書道を兼任していたし、東京都にはそもそも書道担当の指導主事が存在しないと聞く。学校と民間とでは、どちらが質に於て優るのか。舵取り一つで転び方はどうにでもなる。
     ざっと見てきた書塾の印象は「個人事業者が全部」。社中所属なら信頼性は高そうに見えるだろう。しかしそれとて主たる機能は展覧会活動が中心らしい。前段階では競書誌を自前で発行するか、もしくは各地の社中を束ねるタイプの社中に競書誌の役割を依存する体質がある。どれも手本と段級位認定結果が羅列され、主宰者の巻頭言が目立っていた。大人用と子供用を兼ねたり分けたり、競書誌にも色々あるので十把一絡げの性急なガイドライン作成は好ましくないが、とは云え当面のターゲットとして教科書と競書誌を比較検討するのが先決ではあろう。
     さりとて競書誌も教科書と同様、知識欲を満足させる記事は少ない。或る社中では漢学者に所謂「墨場必携」と似た体裁の連載を委嘱していたが、岩波文庫か何かの類書を買えば纏まった形で学べる筈の内容だった。また或る社中~と云うより通信教育団体の場合は、時期的な当たり外れなのか周年記念企画の連載で、昭和の数年間に珍しく濃密なのが見られた。その後どうなったかは知らぬ。内容は保存版に相応しいものの紙質が悪く、今では赤茶けてボロボロ寸前。その点、某誌は確認できた分だけでも三十数年前から最高の紙質で非の打ち所がない。ただし内容は小出しの度が過ぎ、連載終了が何十年後になるのかサッパリ分からず、途中で多くの門人や会長(!)が逝去している。これはこれで困る。

     …産経記事に触発された感想、今は大体こんな具合になるかしら。
     学校教育と生涯教育の違いが初歩レベルの内容にも幅広く表徴する一方、学校側に課せられた枠組が正しいとは限らない点とて歴史教育側の諸問題同様、雲行きはいっそう内憂的で、むしろ外患とは程遠い。そこを面白がるから苹の腐肉は不味くて臭い。論より証拠、まともな書家が苹に言及した例を見た事がない。そもそも信頼できるほどの経歴があるなら、今頃は日展の罠か何かで雁字搦めになっている筈。どう転んだところで「どっちもどっち」、まともな書家が日展に蝟集すれば、広告塔が強くなるのも道理と云えば道理。
     厄介なのは、芸術的実績と教育的実績との混同や過剰な接続が、双方本来の役割を相殺してしまう点にある。知識人的ビジネスマンは、実績の在処と潜勢を舐めている様にしか見えない。なんなら短気と評してもいい。短慮ではないが忙しい。怠惰ではない「悠長な構え」から希望や絶望が生まれる筈なのに、どうした訳か絶望は敗北と親和し、希望は成功と親和し、顧みれば事の後先が分からなくなる。成り行き自体なら分からぬでもないが、いづれにしろ悠久への指向はない。あたしゃ悠久ほど自由なものはないと思うが、にもかかわらず、という話ではある。
     そこに聞こゆる幻聴もどき、「そんな悠長でいいのか?」と。…それでいいのだ。たぶん。聞こえないよりは。第一、聞かずに死んでよいものか。(どうなるものでもあるまいにw…orz)
    【2013/10/17 06:17】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


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