奥様
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    従兄妹会
    父は92歳で、七人兄弟の末っ子。
    そこで私の従兄妹は23人、そのうち、父方が21人居る。
    従兄妹会が土曜日に広島で開かれた。
    ・・・・・東京での開催があったこともある・・・・・
    私の妹が従兄妹会では最年少。

    父の兄が94歳で昨年亡くなったのだが、
    葬式をごくごく身内でしてしまったので、
    親族として集まるべき人たちも行かなかったから、
    偲ぶ会をかねての従兄妹会が開催された。

    一人の従兄が語った話が印象的だったので、
    書き残しておきたい。

    上から二番目の兄はフィリピンで戦死したという。
    三番目の兄は陸軍の軍医で広島に居て被爆した。
    それで子供をつれた未亡人が、一番上の姉も含めて三人となった。
    あの時代は再婚などあまりしないので、
    女で一つで皆それぞれ子供たちを育てた。

    その中の一人の日記が今回紹介された。
    原爆が落ちた年、お腹の中にいた従兄が、
    8月24日から始まった母親の日記について話してくれた。
    夫が広島市内で原爆にあい、
    外傷がほとんどなかったのに8月30日、
    急になくなったのだそうだ。
    22日に母親が、24日に父親が亡くなった報を聞いた後の発症だったとか。

    二人目の子供がお腹に居たので、伯母は
    広島市から離れ、田舎の実家に帰っていて原爆を免れた。

    従兄が言うことには、
    昔の女性は強かったと言われていたが、
    自分の母達はそういう世代だったのだろうと思っていたが、
    一週間の日記の中に地獄のような悲しさが書き記されていたという。
    自分(従兄)は母を強かったと思っていたが、
    そうではない、同じように悲しみ苦しんだんだとようやく分った・・・と。


    自分の父親を一目も見ていない従兄の話は印象に残った。
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    【2013/05/21 23:01】 日常のこと | TRACKBACK(0) | COMMENT(11)
    この記事に対するコメント

    たくさんのご親戚がいらっしゃり、たまに一同に会することはとてもすばらしいことですけど、でもたくさんの方がいればいるほど、たくさんの悲喜劇が伴うのもやむをえないことですね。

     この世の果ての戦いだったフィリピン戦線、そして原爆の死の苦しみの中で、亡くなられたご親戚が最後の瞬間にみた夢幻は、やはりこの数十年後の親戚の会だったのではないでしょうか。その席には自分はいけないけど、でもその数十年あとの会で、自分のことを忘れず語って思い出してほしい・・・そんなふうに最後に思われたのだと私は感じます。

     戦争末期に急死したルーズベルトに弔意を公式で述べた鈴木貫太郎首相について、「東洋の国日本人には亡くなった人間に対する敬意と品位があるのだ」とたたえたトーマス・マンの演説は有名です。死者について語るときが、一番日本人らしいのかもしれない、そんなふうに最近思いますね。
    【2013/05/22 10:26】 URL | N.W(うさねこ) #- [ 編集]


    >うさねこさん
    本当にそうですね。
    亡くなった人を、それぞれ思い出し、その人を偲ぶことが大切ですね。

    父の父親は、森鴎外や夏目漱石が住んだという屋敷に
    東京で学生時代住んでいたとか・・・・・
    一番会ってみたかった人です。

    【2013/05/22 21:40】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     …思えば、こちら青森から外へと出向く事はありませんねェ。あちらの親戚が故郷に戻ってくる。そこには昔の面影があり、こちらはこちらで定点たる面影が時間の中に凍結~沈黙する。そんな日常にどっぷり漬かっていると、何か語られるよりも沈黙の方が懐かしくさえ在る。ゆえに不在ではない。一処に構えて動かないから存在の律動がなく、見えない面影が黙って秘やかに佇む(倶會一處)。そんな気配が写真集『三島由紀夫の家』にも感じられます。あの人は語られる。でも家は黙って居る。そんな「家の様な人」が居る。(どうでもいいけど「面影」と云えば、この歌が懐かしい↓)
    http://www.youtube.com/watch?v=pXwAk-jKDWg
     今や兄弟姉妹の多い時代とは隔世の感あり。これからは孤独死の時代、三十年後は計画死(安楽死)の時代かも。言い換えるなら「お墓の時代」。もう少子化の時代ではない(日常感覚が麻痺し、多寡は問題視されなくなる?)。満遍なき少国民の時代…と書けば本来の意味とは違うけれど、言葉の上では「女子」の対象年齢変化あたりが予言的。(昨年のサラリーマン川柳…「女子会と 聴いて覗けば 六十代」)
     それらをぶち壊す外国人労働者問題が日本を騒々しくさせる。長い不況で折角しづかなる佇まいに慣れてきたのを(と書けば軟弱と映る?)、商業的経済的に蝕んだ結果がグローバリズムの跋扈と見るなら、拡張一辺倒の考え方には相互主義的にも疑問が残る。この土地は誰のものか、もっと執着してよい筈なれど…。
     国防意識よりは私的な感覚基盤へと立ち戻る事の是非が揺らいだ決定打をGHQの農地改革と見るなら、田畑の分化は個々の土地執着心を強めたかの様にも。一方、それと似通った細分構造にある市井と比較する場合、取り残される落差の頂点は四十年後のバブル期だった様な。商業地や宅地の土地執着心は転売目的で流動性が高い。そこが本来の農地と異なる。
     今は日本の農地、山林、水源地がかなり魅力的みたい。…仮に農村でのバブル再来を目論むとしたら、可能かどうかは知らないが~中国人富裕層による日本農地の買い占め、農民(移民?)の再小作人化などが思い当たる。これらは土着性を伴わない土地執着が基礎で、むしろ土着性はもう一つの「お墓の時代」を要請する筈。その件も含めて参考になった産経記事がこちら(↓)。
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/130519/bdy13051907370000-n1.htm
     …で、こんなのも発掘しますた(↓)。
    http://zenkanblog.blog58.fc2.com/blog-entry-423.html
    http://www.esri.go.jp/jp/others/kanko_sbubble/analysis_03_04.pdf
     ところで「2013/05/18 22:31」稿を出した翌日の「日録」更新(↓)、なんとタイムリーな事か。あきんど様のも、うさねこ様のも、あちらのコメント欄で興味深く拝読してます。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1293
     先日購入した『ニーチェを知る事典』(ちくま学芸文庫)は今やトイレの主。…あの感覚に相応しいと思えるのが失礼この上ないのかも知れないけれど、或る患者には苦痛でもあるのが却って相応しく思えるから撤収できない。また大袈裟に云えば、いづれにしろ「内から外へ」のドラマを繰り返す。書物自体は「外」なのに対し、ひり出されるものは精神同様「内から」であらねば。そこに親近感を…或いは嫌悪を伴うにせよ、どのみち昔は現物や寄生虫を畑に撒き散らしてきた。もし言葉/詩が要らない(例↓)としたら、それは肥料ではない事になるのでしょう。
    「夏草や 痔瘻こらへて 尼采(ニーチェ)讀む」
    【2013/05/24 00:37】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]

    管理人のみ閲覧できます
    このコメントは管理人のみ閲覧できます
    【2013/05/24 01:20】 | # [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    ・・・・・な、なるほど・・・・・・・

    案外ゆっくり読める場所かもしれません・・・・・

    その本、西尾先生も絡んでおられる本ですか?
    【2013/05/24 22:44】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >その本、西尾先生も絡んでおられる本ですか?
    http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095282/
     ほれ、この通り(↑)。絡むどころか、張本人の片割れみたい(笑)。沢山の学者が書いてます。それ見て「ああ、そうだったのか」と。これまで「日録」には色々な人の名前が出てきたけれど、あたしゃそこで川原栄峰、清水真木、松本道介、斎藤忍随って名前を初めて見たの。この本、買ってよかったわぁ。
     ところで西尾先生が民放に出るそうだけど、残念ながら青森ではフジテレビが映りません(泣)。他系列の局がドラマやバラエティ番組を買って、昼下がりと深夜に放送する程度。報道番組は…ないなあ。ネットに流す手もあるのだろうけど著作権上、局としては有料でなきゃ「見ちゃいけません!」式の教育ママ的な立場だろうし。…と書いたら報道番組とポルノの境界は曖昧な気がしてきた。朝っぱらから、なんてこった(orz)。

    (余話)
     いつもの「考え事をする夢」で、ふと考えた。少子化時代の競争が少子化を加速させるのは、これから少子化競争が始まるからだ。…突拍子もない話と映るだろうか。
     芸術科書道の授業で時折、才能に関する生徒の愚痴を耳にした。どうやら芸術には才能が必要らしい。そして書道は芸術らしい。にもかかわらず職員室では「書道は芸術でない」と学習指導要領拒絶を明言する教員も居た。してみると、字が読み書きできるのは才能の有無と関係があるらしい。(中には「字の読み書きと書道は別物だ」とする意見もあるだろうが、これについてはいったん保留する。)
     字が読めないのは「勉強しないから」ではなく「才能がないから」だ。ならば「誰もが字を読める」様に「誰もが働ける」か否かも、その実「才能の有無」と関係があるのではないか。働けない人には、働く才能がないのではないか。働く才能の有無を競争すれば必ず脱落者が出る。しかし誰も「才能と呼ばれる発明品」には言及しない。才能とは関係がないと思って居るらしい。努力すれば誰もが働ける。働けないのは努力が足りないからだ。これを自業自得と云う。
     では「子供を産む才能」という発想ならどうか。たぶん圧倒的大多数の女性(男性も?)から猛反発されるだろう。しかし才能を問わずに自業自得と決め付ける訳にもいくまい。そこで病気の話が取り沙汰される。昔は常識だった出産適齢期の話も、学校で教育するのは憚られる向きがあるそうな。しかし「五十六十は洟垂れ小僧、出産するなら七十歳」と主張する人もまた居ない。運と云えば「天からの授かり物」と似つかわしくなるが、それは才能の事ではあるまいか。才能と運とは、何がどう違うのか。
     どうやら「才能」という外来語(?)が天才的に軋んでいるらしい。芸術も職人的技術と言い換えれば別のイメージになる。これも意味は外来語だが、その土台には既存の語彙としての「藝術」があった。農業も漁業も数学も占術も皆「芸術」なのに、今では意味が外来語(誤解を含む)に制圧されている。言葉を征服するには意味を制圧すればよい。例えば「従軍慰安婦」が「性奴隷」である様に。
     ここでは、選ばれたものが選ばれなかったものを制圧するかの様な関係性が持続する。両者は選抜後に断ち切られない。一過性ではない。そこに意味の正体があるとしたら、競争を避けた言葉が意味に負ける~従属する~のは致し方ない。それが明治以来の日本であった。軍事的には達者でも言葉には無防備だった。そこを下手にいじくり回したら敵性語追放と相成った。目的を間違えたのか、そうでなかったのかは…呉越同舟で分からない。
    【2013/05/25 07:09】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    そうそう、そういえば、専門家のための本だとおっしゃっていましたっけ。。。

    だから送らない・・・って言われちゃった。
    買うしかありませんね。
    【2013/05/27 23:22】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >専門家のための本
     他の執筆者について。~高辻知義、三光長治、今道友信、三島憲一、海老澤敏、足立和浩といった名前は他の本で見かけてましたが、あたしゃニーチェ中心の意識は皆無のまま読んでたみたい。高辻ワーグナー、海老澤モーツァルト、今道の美学。今になって気付いたのは三光『エルザの夢』に改題再録されてた稿。それぞれ読む中心軸を変えれば別の印象になる名前が、まさか交差点のニーチェに続々と突っ込むとは(…イメージが変?)。そんな事故みたいな本を現場検証できるのは、警察や鑑識の様な専門家を措いて他にあるまい…なるほどねぇ。(←こんな納得の仕方って、あるんかい?)
     片や拙稿。五七五の漠然たる印象も、そうした意味では(渡邊)二郎と痔瘻、草やと臭や(酸鼻?)、更には内心「兵どもが夢の跡」を掛ける変態気分とて、顧みれば理由がなかった訳でもないらしい。先ず感覚そのまま正直に書いてみて、下手な理由付けによる自己歪曲を予め避けようと(多分)。…こちとら初めてニーチェの書きぶりを見た時、「この人のは苦手、読みたくない」と「どんびき」したのが今でもかなり尾を引いているみたい。だからニーチェを読むのは、ニーチェについて読むより遙かに難しいのかも。
     そこがエライ所でもある。歴史的な重みを「~について」が抱え続ける。金輪際の果てしなさと云うべきか。中には、轢かれても轢かれても死なせてくれない(?)ヒトラーなど居る様なれど、そも、死なないニーチェとは何者か。そこに「靱さ」があると読めそうなのが、西尾先生の「文庫版を出すに当って」についての感想でござんした。

    (追記~2013.5.29. 18:00頃)
     書き足りないくせに推敲して字数を二、三割ほど減らしたら、後から読み返すのが苦痛に思える前稿と相成った。ただし最初の段落には少ししか手を入れていない。それが本旨だからである。~つまり「事故みたいな本」だから面白い、と。
     そこには予め、偏った読み方がある。苹の趣味は音楽寄りであり、ニーチェに興味があるのではない。それでもマーラーやシュトラウスを聴けばニーチェが出てくる。リストを聴けばダンテが邪魔になる様に。ダンテやニーチェについて作曲したのではない事くらい分かっている。しかし或る音楽教育学者は「ダンテを読め」と云う(書庫の何処かに埋もれているけど…多分カヴァイエ『日本人の音楽教育』新潮選書)。これも確かに一理ある。演奏家、専門家にアナリーゼは不可欠だが、では「聴衆側にとって」ならどうか。
     それと似通った、或いはもっと極端な葛藤を書道の周辺に感じる。書家は大抵、読めない人に読めない字を披露する。お互い読めるなら衝突事故くらいあるだろう。それがないからストラヴィンスキー《春の祭典》初演みたいな喧嘩が起こらない。礼儀正しい「通りすがり」の群れが、家畜の様に展覧会場を…ただ通り過ぎればよいのに留まってしまう。嫌ではないのに何か違う。読めた時代が懐かしい。…いっそ、読める字でも書いたろか。明治三十三年以後の規範では不充分、旧字体でなく新字体の活字準拠で。
     昔、発表はせずとも試してみた。毛筆で明朝体活字を真似てみた。すると古典の死を感じた。古典を神とする書家ならば、「神の死」で有名なニーチェも読まねばならぬのではないか。しかし本気で読むのが怖い。誤解、短絡したままで居たい。通り過ぎたいのは「こちらの方だ」。同じく通り過ぎる事で観客と触れ合えるのならば、過去もろとも自分を忘れようではないか。過去に未来はない。未来は未曾有のエンターテイメントか、没落の事務的処理にある。…考え事なら誰でもできる。たとい受け容れられないのが分かっている内容でも。
     ニーチェを読むのが嫌ならば、歴史を読めばよいのでは。矛盾である。古典の死を現実の自決に導く覚悟がない。もしもニーチェを思想的に読みたくなるとしたら、そこから歴史を排除するという矛盾が却ってニーチェを遠ざけるだろう。勿論これが却って好都合と云えなくもない。歴史は自作(誰の?)を権威づけるための方便に過ぎず、そうした目的で歴史教育(書道史紹介)が行われているとしたら。
     苹はまだニーチェを読んでいない。おっかなびっくり、ニーチェについて読み始めている程度。最初の一冊は初期の「日録」で知った清水真木。ドゥルーズ本は頭の中でニーチェと切り離すのが習い性となっている。西尾全集の発刊が告知された時は内心、本気で全集そのものを全面否定しようかと思った(最初に出たのがニーチェ続刊!w)。しかし既に収録予定のを何冊も読んでしまった以上、出来ないのは分かりきっている。
     とどのつまりは斯う。~ニーチェが読みたいのではない。西尾幹二が読みたかったのである。
    【2013/05/28 20:53】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    (雑感)
    http://www.youtube.com/watch?v=-UXAkzOhXUQ
     成り行きで「古典の死」云々と書いたら投稿直後、西尾全集記念講演での朗読箇所(上記動画では57分以降、件の本ではP.334以降)が頭の中でヒョッコリ浮かび上がってきた。狂人ならぬ書人が、市場ならぬ書店(古書店でなく)に行って、「私は古典を探している」、「われわれが古典を殺したのだ」と。~所詮ただの読み替えに過ぎないが、活字が書字を弑するのは、古典がなくなるという事ではない。読めなくなるという「自身の神に関わる事」であって、神その人(?)とは関係がない。にもかかわらず書家は自分の神=古典を信じている。自分の言葉でなく、神の言葉を書いている。皆が気付いているのに神から逃れられない。とは云え、読める自分に神がある限り逃れる必要はないにしろ、書く行為に伴う忘我はいつだって神に寄り添うかの様な。
     神と神との混同を承知の上で神に気付くならば、いつ自分に危害が及ぶか分からないほど神と疎遠になってしまった人々に、もはや神は必要ないのかも知れない。わざわざニーチェを持ち出しても無意味なのを承知の上でなら、忘れられた世界を読み返す必要はないのかも知れない。そんな荒野に向けては、ただ語るだけでよい。しかし「~について語る」対象を持たない場合、対象を捏造するには予め、神との違和感があらねばならぬ筈。無関係な私の鏡に苦し紛れのニーチェが映るかの様な捏造効果は、そこに映るものとの沈黙の語らいまで幻視させる(童話的に訴えるなら、「鏡よ、鏡よ、鏡さん…」)。
     この手の書きぶり、恣意的に過ぎるだろうか。もっと件の一冊に近付けたらよいのになあ。出来る人は語るだろう。出来ないなら沈黙する。その代わり、語れる事だけを語る。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1295
     別々の語りではなく、語り合いが書物になるのは対談が多い。ただし頭数が増えると通行の危険が増す。件の本では、異常な頭数が寄ってたかって一人を…と書けば聞こえが悪い傍ら、別々の語り口だからこそ活かされた面もあろう。ところが西尾先生は今度、頭数を増やして書物の続きを再開するおつもりらしい。…似通った形の報道番組は、男のポルノみたいに隠しがちな印象。それと違って、隠し事なき芸術の様な展開が期待されるだけに読者はらはら。つくづく「類書に例のない試み」が魅力なんだろーな、と思う。そこに呆れ果ててなお、単行本化が今から待ち遠しいのが訳もなく悔しい。(←なんだそりゃ?)
    【2013/06/02 00:53】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     愚にも付かぬ話でウンザリする向きもあろうが、最後にもう少しだけ。~社会的沈黙の十年、研究者の方々が病気と云うからには多分そうなのだろう。しかし或る不安は残る。理解不能な状態が周囲には病気~痴呆と映った可能性。周囲がそう扱うのに対し、本人は自然そう見えるだけ。そう見えない様に振る舞う必要がなかったとしたら。むしろ、こっちの方に興味があると云ってもよい。
     別のイメージの方が分かりやすいかも。例えばチェーホフ『六号室』。今や内容は全く覚えていないが、読んだ当時の気分だけが強くしつこくぼんやり持続する。読み返したり思い出したりすると忽ち消えてしまいそうな記憶ゆえに、言葉にできない音楽の様な領分くらいしか対応できそうな対象が思い付かない。気分は知識を必要としないが、言葉は知識そのものでもある。抑も文学嫌いの苹が読んだという不自然を取り払うべきで、読む契機となった音楽があればそれでよい。チェーホフを知ったのは二十五年前。ショスタコーヴィチ交響曲全集(ハイティンク盤)のsym.14解説にて。
     私事、言葉が通じない世界としての書道も一つの見えない壁ではある。そこに向けて発する言葉が見当たらない以上、語る事が出来ない。言葉を突き抜けた言葉。言葉を失った言葉。もはや言葉とは見なされなくなった言葉。それを言葉で説明できるのか。書字に堆積した美が言葉を追い払う。必ずしも美ばかりではない書字の集積を、美がせっせと薙ぎ払う。内と外それぞれが一つの世界に繋がる壁の、あちらとこちらに二つで一つの卵がある。そんな卵の殻/壁の、どちら側が美に司られるのかも分からない。

     思えば西尾全集が出始めてから一年半以上が過ぎ、久々に「最晩年のニーチェ」を捲ったところ、見覚えのあるいくつかは元々、件の本に収録されていた。重複が無意味だとは思わない。ニーチェ研究の裾野がより簡明に見通せる。それが文庫本で読める。西野嘉章『装釘考』の初版(なぜか手元にある)と平凡社ライブラリーほどの違いが感じられる人も中には居るかも知れないが、そこまで極端な趣味ではあるまい。本物と複製の境界が現物以上に曖昧な認知世界では、複製過程での改変が別の意味を持つ。小林秀雄の時代はどうだったのだろうか。
     書き連ねるうち冗長に。それくらい『ニーチェを知る事典』が面白かった、と思って欲しい。
    (了)
    【2013/06/04 02:02】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    西尾先生に伝えておきましょう。
    先生はここのコメント欄まではご覧にならないでしょうから。

    私も早速その本を注文します!
    【2013/06/06 08:56】 URL | 奥様 #- [ 編集]


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