奥様
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    今考えていること
    育鵬社側の人に、育鵬社はつくる会側の教科書の盗作しているのではないか、
    似た個所がたくさんあると伝えると、
    思想が似ているのだから、
    文章も似るのだろう・・・・という。

    同じことを二人の人が言った。

    そうなのか?

    思想が似ていたら、表現が似るのか?文章が似るのか?

    ならば、自由社、育鵬社以外の自虐の教科書会社は、
    思想が自虐だから、文章が似ているのか?
    いや、全然似ていない。
    それぞれ個性のある文章になっている。

    思想が似ていると、文脈が似る・・・ということはあるかもしれない。
    歴史の因果関係の捉え方が似てきて、
    文脈が似ることはあるかもしれない。
    だけど、文章表現そのものが似るという論理は間違っている。


    どうだろう?

    思想が似ていたら、文章が似通っているのは当然なのだろうか?

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    【2012/04/12 20:48】 硬めな話題 | TRACKBACK(0) | COMMENT(38)
    この記事に対するコメント

    >思想が似ているのだから、
    >文章も似るのだろう・・・・という。

    お久しぶりです。
    思想が似ている・・・ということの立証は、どのようにできるのでしょう。
    思想というのは、個人単位で違う物なんじゃないですか。
    そもそも思想という言葉で「逃げ」る事が、歴史を間違った世界に導く原因になりませんか。
    私は、歴史は事実の列記がまず大切だと思っています。
    そして、その事実の真贋が大切です。思想とか理念とかは、歴史には本来付随してはいけないものだと思うスタンスに賛成する立場にいます。
    でも、純粋な歴史と言うのは味気ないんですよ。
    面白くないんです。つまり感情が入って、歴史は息吹くと言えますね。
    ですから、その感情というものが「俺もお前も同じスタンスだよな」という意味で「思想が一緒」だと言うのは、歴史本来のあるべき「素」に脚色した部分で一緒だよと告白しているのと一緒なんですよ。
    ということは、歴史の本質が似ているというイメージで返答したつもりの育鵬社ではありますが、実はそれは大きな間違いで、彼らは歴史の外側で似ていると言ってしまったことになっちゃうわけです。「思想」というとなにか「本質」を貫く土台のように捉えられがちですが、「思想」なんて本来かなり危険なものです。ですから、「思想」という言葉を、軽々しく使うことは、私はまず大嫌いですし、その言葉が出ただけで、逆に信頼が薄れる原因を私の場合は生んでしまいます。

    「理念」という言葉がありますね。この言葉を私の場合は「私はこう感じたからこう信じる」という言葉に訳しているんですよ。私はこの「理念」と言う言葉の方が、心の在り方を表すならば、普段の生活に適した言葉ではないかと思っています。何故なら、思想と言うのは理念や習慣などの「自制」を突破する激しい側面があります。という事は、違う人間同士で、思想が一緒・・・と表現するのは、かなり激しい感情の存在がなけれが言えない言葉だと思うんです。
    容易い言葉ではないと思います。

    そこを育鵬社はどのように踏まえているかをただせば、違うニュアンスで戦えるのではないでしょうか。
    【2012/04/13 01:26】 URL | あきんど #- [ 編集]


    >あきんどさん
    なるほど~~~~

    歴史って難しいですね。
    事実は一杯ありますが、その中のどれを記述するか、
    時系列にはウソではなくても、事実の取捨選択する過程でその人の価値判断が現れますよね。

    う~~~ん
    【2012/04/13 09:42】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     学校教育の作法を振り返ると、(年がら年中)参照と準拠と模倣を反復しているうちに、自ずと伝言ゲーム状のズレが出てきます。それを個性と認識するケースが少なくない。そこから個性らしからぬ逸脱要素を振り落とすと、中身はアッサリ元へと出戻りやすい(参照・準拠・模倣)。にもかかわらず外発的に「個性が大切」と綺麗事の暗示をかけようものなら、今度は個性を経験の中から抽出するかのごとく各々が振る舞い始める。
     つまり個性が参照・準拠・模倣を隠蔽し始める。個性と類似した経験に基づく印象そのものを個性と解釈した途端、そうあるがままの「個性」に中身が逆方向から「命名」されていく。~これらを模範的に繰り返してきた「優秀な」人々は、将来どんな職種に就くだろうか。それら職種の中で最も危険な領域に踏み込みやすいのは…この薬物中毒か宗教にも似たフラッシュバック効果を思えば、自ずと方向が定まってきそうでござんすなあ。
     調べた事はありませんが、それぞれ教科書会社は自社の旧版を参照して改訂を加え、さほど印象の違わぬまま新版と銘打つ作法を繰り返しているのではないですかねぇ。ところが自由社や育鵬社の場合、旧版が同じ扶桑社だから困った事になる。ルーツもコンセプトも大元が同じなら、参照対象も同じになるのは当然。分裂後に少しずつ違いが出てくるのは自然な成り行きだとしても、初めから「全く違う教科書」を目指すのはいかにも強引、かつ不自然だと思います。一社は「違う教科書」を指向したらしい。一社は「さほど違わない教科書」を指向したらしい。
     …極端な話、表紙だけ違って中身は旧版と全く同じ教科書を両社が出したら採択結果はどうなっていたか、そちらの方が却って面白く発想できると思うんです。例えば畑違いの音楽市場で、同じフルトヴェングラーの演奏をEMIとグランドスラムとパールとナクソスと(以下略~どれもレコード会社名)が販売したとする。どの会社のCDが売れるだろうか。それぞれ「リマスタリングの質」が違う。或いは販売形態が違うかも知れない(SACDとかネットのダウンロードとか)。要するに、ここでは細部もしくは外部が問題となる。
     或る社が昔、所謂「バイロイトの第九」を出して有名になった。それから数十年を経て著作権の期限が切れ、同じ演奏を各社が出し始めた。そこで元祖の会社は演奏前の足音入りを出したり、また別の社は編集前のオリジナル演奏(傷物?)を出したり。或いはウィーンやベルリンとの別演奏を出す向きも数多ある。指揮者は同じ、皆フルトヴェングラー。どの演奏も最後は猛烈なスピードで終わり、決してメンゲルベルクの様にわざわざ失速させたりはしない。それがフルトヴェングラー。嫌いな人はトスカニーニでもワインガルトナーでも好きなのを選べばよい。
     そんなふうに教科書や採択を捉えてみてはどうかしら。音楽評論家は細部の違いや共通点を楽しみこそすれ、必ずしも論難しようとはしない。バイブルじゃあるまいし、それぞれ時代の各相を物語的に抉る「賞味期限付き」の教科書に必要なのは、「次の教科書」への準備に他ならない筈。そう捉えるなら小山先生の比較研究は後々いっそう役立つものとなるでしょうし、研究結果の行く末(化けっぷり?)にも大いに期待できます。
    【2012/04/14 06:35】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    > 苹さん
    面白い指摘だとは思いますが、ちょっとちがうなぁと思うのです。
    というのは、著作権というのがあって、旧版(扶桑社)の大部分の著作権を自由社側が持っていて、育鵬社には文化史の部分だけなのです。
    だから、ルーツ、コンセプトが同じとは言っても、育鵬社にはもう参照し、リライトする権利がないのです。

    東京書籍の旧版を帝国書院がリライトする権利がないのと同じなのです。
    【2012/04/14 09:38】 URL | 奥様 #- [ 編集]

    管理人のみ閲覧できます
    このコメントは管理人のみ閲覧できます
    【2012/04/14 23:38】 | # [ 編集]


     著作権とは、厄介なものですなあ…。なら、自由社側が扶桑社本と殆ど違わぬ教科書を出してもよかった筈なのになあ…。そんなスタンスで書いてみたんですけどねぇ。
     もし東京書籍が潰れたり著作権が切れたりしたら、帝国書院がリライトしても構わないのかな。戦前の教科書の復刻本が手元にありますけど(書教育絡み)、あの場合はどんな手続きをしたのかしら。この手の話は編集者か法律家でないとワカランわい…。
    【2012/04/14 23:40】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    戦前だと著作権は無効になっているのでは?
    確か有効年数があったと思いますが・・・。
    【2012/04/15 20:46】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     話題を変えて、「今考えていること」についての話をムリヤリ拡げてみる…。
     もしかしたら、一日の中で最も疲れるのは朝かも知れない。夢の中で考え事をする。或いは、考え事をした夢を見る。あらゆる知識や現実や幻想や過去が、つむった瞼の中に集中し、展開される。考え事をしながら緩やかに目覚めていく気分は独特で、精神的な疲労を覚える。心臓もドキドキしている。
     例えば夢の中、私は見知らぬ大学に居るらしい。そこで色々あったり考えたり。何かを経験し続けるよりは、僅かな経験らしきイメージについて、ひたすら考え続ける夢を見る方が圧倒的に多いかも。事務室の窓口で板書用のチョークを貰おうとするが、相手は見知らぬ人で、すんなり会話が通らない。そこで私は気付く。これは現実ではないのに、幻想や過去をも総動員した現実であるらしい。そして今、これは今ではないのだと。過去かも知れぬ。現在かも知れぬ。とすれば幽体離脱の様なものか。それは隔絶された何かかも知れないが、こうして接触しているという事は、隔絶がコミュニケーションでもあるという示唆自体なのだと。未来かも知れぬ今が現在と接触する時、現在という今が過去や未来を今の中に取り込んで…てな具合のを含め、とにかく考え続ける夢を見る。なぜ朝っぱらから気疲れせにゃならぬ?(苦笑)
     ネットで書き散らかしている様な事を、クドく長く今朝も夢見た。その事に腹が立って、今こうして書き留めている。この際ちょいとばかり、奥様にでもお裾分けしてみようかしら。夢は平日か休日かを選ばないのね…。
     てな訳で、おはようさーん。
    【2012/04/21 07:55】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹さん
    ややこしい夢を見るんですねぇ。

    私も夢で何かを考えていて、「あぁそうだ、これは夢なんだからつじつまが合わなくってもいいんだ」と思い、ほっとすることがあります。
    でも、夢の中に深層心理が現れることはよくあることですね。
    【2012/04/21 09:32】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     追記。
     こちらは辻褄、合ってます…(←ちと残念)。なぜ夢でチョークを貰いに行ったかと云うと、板書で日下部鳴鶴みたいな隷書を書きたかったから。板書する場所の設定も事前に夢見ている。その大学では正式なカリキュラムとしての書道科の他に書道部があり、そちらを苹が指導担当するか、もしくは留年を続けた長老格の先輩が苹って事になるらしい。しかし部室相当の教室には誰も居ないし、苹が独りで部員勧誘の裏方を演じようとしている設定になっているらしい。たぶん他の部員は勧誘に出張っているのだろう。しかし彼らの影は限りなく薄い(=夢に出てこない)。
     事務室の人とは面識がある筈なのに、会話に出てくる名前は知らない人ばかり。そこで苹は自分も亡霊同然なのだと気が付いた。私の教わった教授達は十年以上前に鬼籍となっている。そこで考えたのが「幽体離脱」仮説。あの夢の中で、私は既に「実在の人物ではなくなっている」のではないかと。にもかかわらず会話できているのは一体どうした事か。それを論理的に考える夢を見た。そこで登場したのが西田幾多郎の云う「永遠の今」(爆)。さすがにベルクソンやフロイトは夢の中に出てこなかったけれども、まるで私が西田哲学の書道における体現者であるかの様に、考え事は夢の中で進行していった…。
     なぜ日下部鳴鶴ばりの隷書なのか。それは部室をデコレーションするため。あの書風をチョークでリアルに模倣するには、確か1950年代後半刊だった筈の『ペン書法』(二玄社)に紹介されていた楷書のチョーク板書とは異なる技法が要る。そのためには新品のチョークが要る、と夢の中で考えた。ところが…てな具合に夢は続いていった。
     ここでは夢が、夢の辻褄を縛る。だからこそ、あたしゃ夢の中であれこれ考えざるを得ない。従って、夢の中での思考自体は、夢自体の要請からくる必然と云える。…今や真っ昼間なのに、朝っぱらの夢を引きずるのは精神衛生上よろしくない様な気がせぬでもなし。以前はもっと複雑な夢を見た気もするが、幸いな事に(?)とっくに忘れている。
     ただし、救いらしきものはある。それが西尾先生の稿だったりなんかして(苦笑↓)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=824
     これ、初読の頃は朝か未明にガバチョと跳ね起き綴った稿だった旨、書いてあった記憶があるんだけどなあ。もし改稿したのなら、教育的事実を文筆的配慮に基づき推敲したって事になるのかな。それとも、単なる私の記憶違いかしら?
     男の夢も、女の夢も、夢中の誠実に「素心を見る」姿勢は不易であれかし。或いは、それが古来の深層心理を承け継ぐって事なのかも知れませんね。(←ちと強引か?…汗)
    【2012/04/21 13:08】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔
    日録のその稿、先生が書き改められた記憶ありません。記憶違いじゃないでしょうか。

    しかしまぁ、よく覚えていますね。
    【2012/04/21 21:05】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     じゃあ、こちらの記憶違いなのかなあ。読んだのは紙の本でなくパソコン画面=「日録」の方。あれは夜、横になっていた西尾先生がふと考えついて、起き出してきて書いた話だった筈ですが、内容となると同じくらい面白いのが沢山あり過ぎるから記憶に紛れてしまう(苦笑)。眠りながら考えたのか、眠ってしまう前に考えたのかは正確に書いてなかったと思う。それを私は未明の夢と解釈したのね(日録感想板があった頃の、『江戸のダイナミズム』脱稿直後の嬉々とした書き込み時間から類推)。
     どれだろう?…と調べてたら、申し訳ない件まで思い出してしもた…(orz↓)。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=907
     それから暫く後です。考え事をする夢の中身が度を過ぎていったのは。…思い出した。そう云や授業した夜(朝?)もあったっけ。実技のない純然たる書字理論の授業で、我ながら「しつこい話だな。これは覚えとかなきゃ。後で天バカ板に纏めよう」と思ったのもまた夢の中。チョムスキーやドゥルーズを引用する際、深層構造や表層構造を三体千字文の学習モデルにこじつけながら、「明治以前の日本人にとっては当たり前だった書字文化の認知システムを、我々は逆に国語教育で失った」てな意味の話をしたのかな。
     それと似通った(?)見方に通じそうな言い回しを本日、新獲本に発見しました(←夢じゃないよ、起きてますってば)。以下は松岡正剛『連塾 方法日本Ⅲ』(春秋社)P.463。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > というのも、日本ではそもそも「知」をヨーロッパのようには組み立ててこなかった。そこへ「知の解体と再編集」をもちこむのは、乱暴すぎるのです。また、本末転倒にもなりかねない。ヨーロッパのポストモダンがフッサールやメルロ=ポンティからバルト、フーコーに及んで、やっと「知」から「方法」を導き出したのだとすると、日本はむしろこれまでの歴史に遍在していた「方法」を「知」にしていくべきなんです。そこが逆なんです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     この一連の「塾」の受講者名簿が巻末(「連衆帖」)に載っていて、見ると井尻千男の名前がある。まだペラペラ捲ってみただけだから、これから読まなきゃ。
     それにしても西尾先生のアレ、「日録」の何処に書いてあったんだろう…?

     余談独白。~大好きな映画の精神病院シーン(↓)。
    http://www.youtube.com/watch?v=EOA3aYRSy_k
     タキシード姿の精神病者に、いつも苹は自身の客観的な姿と悪夢を重ねている…。日本国民の大多数を占める国語病患者には、そう見えるに違いない…。(心の「ぎっくり腰」?)
    【2012/04/22 18:51】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     平素のテレビは録画を倍速再生、見る時間の短縮を図っている。今日の朝ドラ冒頭はドイツ語の授業風景。ありがちな演出になりそうな気配で、死蔵の岩波独和辞典を引っ張り出してから録画の続きを見ると、その箇所は案の定「クソ爺」の意味になるそうな。こちらの調べ(綴りは当てずっぽう)では「私の愚かなご老人」と愛らしくなり(?)、ニュアンスがかなり違うらしい。…そもそも私は大学でドイツ語を選択せず、辞書を買ったのも音楽趣味が契機。ノートゥングとノートンを掛けた投稿に関する桜子様の指摘以来どれだけ経つのか、まさに死蔵そのもの。西尾先生の周辺(例↓)とは次元が違う。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=912
     片や前稿末尾の動画は英語字幕。市販ソフトの日本語字幕と対照すると大体のニュアンスが分かる(翻訳家に感謝)。難しい本の邦訳が難しくなるのは致し方ないが、そこからは自国語の読解力の問題なのだろう。他国語に不案内だからこそ、自国語には来歴を含めて拘りたくなる。とことん内向き、しかしそれでよいのではと思ったりもする。

     ここで急遽、本題に復帰。
     小山先生のブログで続きが始まった模様。苹の疑問は「なぜ育鵬社の方が採択されたのか」にあるから、それを自由社側の「意図せざる自爆」とする見方もあってよいのでは、と思う。つまり出す側でなく、採択する側の問題。そこにどれだけ出す側の~すなわち著作権問題が影響するのか、苹は疑わしく思って居る。
    http://tamatsunemi.at.webry.info/201204/article_4.html
    http://tamatsunemi.at.webry.info/201204/article_5.html
    http://tamatsunemi.at.webry.info/201204/article_6.html
     三番目のを読んで驚いた。どうやら私は前掲「2012/04/14」各稿で誤解していたらしい。小山先生はこう書いている。「「つくる会」側は、これらの著作権を行使して、扶桑社版と8堀程度同一内容、同一文章の教科書を自由社から発行した」と。(←私と同様、ローマ字でなく仮名入力する人か?)
     余りに何度も「育鵬社のは盗作だぁ」が繰り返され、こちらはウッカリ「なら自由社のはリライトし過ぎの骨折り損?」と思ってしまった。この点は訂正して置かねばならないし、拙稿に釣られて同じ誤解をした人には謝る必要があるかも知れない。
     しかし、そうなると苹の疑問は何処に漂っていくのやら。エンコードとデコードをめぐる、「著作権意識」の関税みたいな障壁性だろうか。模倣自体は自己呪縛。それ以前に検定、すなわち「自由に書けない」がゆえの動機=模倣原因がある。文章を関税で縛ると、ビールを模倣した「第三の道」のごとき工夫が生まれ、それを更に皆が模倣するかの様に…てな事を書くと、なんだかフラクタルの気持ち悪い部分みたいになりそうな気がせぬでもなし。
    【2012/04/25 00:51】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    そうそう、その部分、私も誤解してるんじゃないかな・・・と思っていました。
    【2012/04/26 22:12】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     とほほ…(汗)。だって、(奥様も含めて)あれだけ宣伝してたら誤解するのも無理はないと思うんですよね。なにしろ全体像が見えないし、こちとら双方の教科書を見比べるほどマニアックでもない。
     あっしの高校教員時代だって、教科書を一々細かく調べた事なかったですもん。採択するなら自分の授業に好都合な方がいい。そうした意味では、今は亡き中教出版の書道教科書なんざ「一社で二種類も出すの?」と面食らうよりは新鮮味の方が際立ったし、決定打は館閣体の図版がある事だった。どのみち仮名単元では、校長から事実上「基礎指導するな」てな意味の植民地主義的指導をされた筈だから、正直どの教科書でも結果は同じだった。細楷が隅寺心経だけでは不安な面があったから、館閣体の図版に惹かれただけの話。細かい事は他の史料からコピーして配布すれば間に合うんだし。
     そんな感覚が「採択する側」の底辺で渦巻いてくる。中学と違って高校では教員が教科書を選ぶから(←教員配置が一人の科目では独裁状態)、雲の上で著作権を勝手に云々されても困るのよね。だからこそ自由社惨敗と育鵬社躍進との分水嶺が気になった。どちらも参照・模倣対象からさほど離れていないのなら、これで余計な事を考えずに済む。フルトヴェングラーの比喩がいっそう当初からの疑問に引き寄せられてくる。
    【2012/04/27 02:34】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     連休突入、以下冗談。
     先日テレビを点け放していたら「タモリ倶楽部」が流れ、「この番組まだやってたのか」と。嘗て「空耳アワー」というコーナーを見て期待したが、予想通りクラシック音楽はネタにならない。だから勝手に自前の空耳を楽しんできた。天バカ板ではこんな具合に。
    >今や苹には斯くの如く空耳が聴こえる。「狂え英霊尊! 切り捨て英霊尊!」(↓)。
    http://www.youtube.com/watch?v=TNEUM4F80WE
     このところスーパーの青果売場には「バナナの王様♪」ってCMソング(↓)が流れている。うちの爺様は難聴なれど苹はただのクソ耳にて、空耳に及ぶとも幻聴には非ず。ただし…ぼんやりすると白昼夢。妄想上のメイプルリーフ金貨CMが「カナダの王様♪」ときた日にゃ女王陛下に違和感ありまくりで、昔時の美貌ならまだしも「完熟王~♪」の箇所では(以下自粛)
    http://www.youtube.com/watch?v=JM8xlD5q140
     …それはともかく、昔の朝鮮人も似た感覚に襲われた事があるのかしら。民草と縁遠き二室の一方は今「日王」と呼ばれるそうだが、もう一方は時代劇で誇大妄想の真っ最中らしい。妄想仲間に親近感をおぼえる…と書けば相手方は怒り出すだろうか(汗)。東海の彼方では、カナダの王様がイギリスの王様を兼ねていても不都合はないらしいのにねぇ。
     見よ東海の空あけて。或いは「誰将東海水」云々か。太平洋でなく日本海を東海と呼びたがる韓国の神経は国際的にも迷惑だろう。あたしゃ韓国人を見習って、ウッカリ太平洋戦争を東海戦争と呼びたくなっちまった。大東亜戦争という呼称を使いたくない教科書会社も、そう言い換えればよさそうなのになあ。
     ところで当方、西尾全集の続きを連休中に買ってくる予定。…店頭に並んでるといいな(注文すれば連休明け必定)。たぶん感想を書くには数年を要する。
     ~ふと思う。やはり西尾全集の影響なのかな、このところ拙稿を何年も遡ってから書く傾向にあるのは。また~昔の「日録」は読み返せるが、読み返したくても読めない廃止ブログの例は遠藤浩一先生んとこ。因みに福田逸先生んとこのブログ(↓)は継続中で、いつもながら飄然としている。…「このブログ、まだやってたのか。」(ボソッ)
    http://dokuhen.exblog.jp/
    【2012/04/28 20:50】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    全集お買い上げ、有難うございますぅ~

    私はNHKのブラタモリが好きです。

    遠藤先生がコメントに書いてくださったこともありましたねぇ。
    ブログは生き物です。
    長生きさせたいものだと思っています。
    【2012/04/28 23:48】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >育鵬社には文化史の部分だけ

    実のところ、育鵬社のアレを「保守系教科書」と呼べるかどうかも疑問に思えてきているのですがね。あれが「保守」だというならこちらも「保守」など願い下げだという気分です。案外、東京書籍の方がまだマシかも知れない…。
     それはそうとして、上記の一文でハッと気付いたのですが、確かに一、二割の書き換え部分に文化史的内容の箇所が多い。しかも、それがものの見事におかしなことになっている。
     一例を挙げましょう。朝鮮通信使について、育鵬版教科書では、次のような記述になっています。

    >朝鮮は1607(慶長12)年、わが国に朝鮮通信使を送りました。以後、将軍の代がかわるたびに江戸に送られた通信使は、東洋の文化を伝える使節として各地で歓迎されました。(107頁)

      そしてその上に通信使が江戸で歓迎されている様子を描いた絵(自由社版にも同じ絵がある※)が載せられているのですが、一見して目に付くのは、本来の目的であるはずの政治・外交的任務に触れることなく、もっぱら文化交流の面でしか述べられていないこと。とりあえずは他社の教科書のように「すぐれた」という言葉こそ使っていないものの、事実上向こうからこちらに「すぐれた」文化を伝えていただいた、ああ有難やというニュアンスが含まれているのはまあ良しとしましょう(阿部善雄氏の『日本朱子学と朝鮮』によると、これも事実としてはあやしいものらしいですが)。しかし中学生の段階で経たる政治に言及せず、文化史のみに偏った理解をさせるのは如何なものかと。
      自由社では、以下の通り。

    >両国は対等の関係を結び、朝鮮からは、将軍の代がわりのたびに朝鮮通信使とよばれる使節が江戸を訪れ、将軍の権威を高めた。また、朝鮮の釜山には宗氏の倭館が設置され、約500人の日本人が住んで、貿易や情報収集にたずさわった。(124頁)

     記述の違いは一目了然でしょう。外交中心の叙述のみならず、幕府にとって国内統治のための意義という「主体性」も指摘している。「盗作」だけでなく、その精神に変質があったこともまた問題なのです。
     
    【2012/04/29 19:33】 URL | キルドンム #m7FpRJaE [ 編集]


    >キルドンムさま
    本当にそうですねぇ。

    なかなか並行して比較するのは、至難の業です。

    いい個所をご指摘くださり、有難うございました。やはり思想が全体に左に寄ってしまったのでしょう。
    【2012/04/29 22:31】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     色々と連想が拡がります。~以下いつもの定点観測、書道ネタ経由にて御免…(汗)。
     文物流入量の調整機能が開国により撤廃された反動で支那文化崇拝が過度になる前、主な窓口は出島でオランダとの交易量は清国の半分程度だったらしい。なのに朝鮮ルートが「東洋の文化を伝える使節」とは大袈裟に過ぎるのでは。他方、情報収集面ではどうか(自由社の記述工夫に感心)。生々しい情報は常に動き、儀礼的な使節とは別のルートから入る筈だから通信使との絡みでは書きにくい。そうした意味でも育鵬社の表現は重ねて曖昧。ただし「すぐれた」とのニュアンスが含まれているとまでは云えない。しかしそう受け止める余地が採択で有利にはたらいたと見るなら皮肉な結果とも云えそう。
     開国以降になると、西洋崇拝の側に対して保守的に見えるのは和漢混淆文化の方。その中ですら「先ず中国の古典を学べ」となるから、保守の中の保守(?)には「すぐれた」印象なんでしょうなあ。敗戦後は就中、古典学習以前の実用的基礎を全部すっ飛ばすから殊更そうなる。また先に学んだものと後から学んだものとでは、先入観の方が保守的イメージに直結しやすい。加えて「書道抜きで中国文化をイメージできるか」と自問すると、「ならば日本文化の方はどうなのよ」との自問が対になる。そして答えの方は「既に活字が居座っている」場所と「読めないのが当たり前」の場所に予め引き裂かれている。
     活字文化が日本に本格流入する際、漢字の活字は上海で準備されていた(美華書館)。つまり西洋文化の支那経由で、日本の印刷技術が活版に変わっていくのは明治十年代。片や当時は六朝風の支那書道も本格流入。このアンビバレントな渦に巻き込まれ沈没したのが江戸時代の書流で、進歩的=伝統的(苦笑)な書家は見向きもしない。彼らが漢字仮名交じり書の正統たる御家流を無視するのは、単に古臭いためか、芸術性を認めないためか、はたまたホラー映画の貞子みたいに這い上がってくるのを怖れるためなのか。芸術にかけられた呪いは直ちに可読性(和本リテラシー)の問題を抱えるが、国語側も書道側もタブーにはどうやら触れたくないらしい。
     海外文化を崇拝するメンタリティは自国文化への侮蔑意識と表裏一体。それを明治以来の伝統と捉え保守する場合、敗戦を分水嶺とする「保守」の解釈が明治以前へと遡った途端「保革同体の罠」に嵌ってしまうのでしょうかねぇ…。しかし~この手の一体性はむしろ「真っ当な過去」(時代錯誤とも云う?)として追憶される側に回るがゆえに、国民の知識=常識に照らす限り「他人事として凍結し続ける」点では却って「時代のこちら側から」賛意を得られやすくなる?
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1159
     西尾先生の表現は別の視点(↑)。懇切丁寧で有難い。
    【2012/05/01 05:41】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹さん
    相変わらず難しいですねぇ。

    漢字が入ってきて、日本のものになって、仮名も生まれて、
    仮名を含む書道があって、書道は国語に直結していたのにそれが切り離されて、
    芸術の領域だけのものになってしまった・・・・・

    読み書きそろばんのうち、「書き」が基礎から脱落してしまったことが問題・・・・

    で、いったい何が伝統で、何を保守するのか分らない・・・・・?

    【2012/05/02 15:07】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     うーん…書道ネタは所詮、定点観測のための足場に過ぎません。歌舞伎でも相撲でも寿司でも何だって構わないのですが、余りにマニアックだと却って分かりにくくなるかと…でも今は書道/習字もそれらと大差なくなってるらしいのが困りもの…(orz)。
     以下、少しでも分かりやすくなればいいな…と願いつつ追記。

     和漢混淆文化としての書字は和文表記が基礎で、そのパターンが江戸時代は御家流。そこを全部すっ飛ばして伝統重視したら中国古典至上主義になっちゃった。具体的に喩えると、寺子屋で往来物(初歩課題)をやらずにいきなり四書五経(最終課題)をやる様な。開国前の日本文化は時代遅れだから無視・蔑視すべし。それが「進歩的=伝統的」な態度となっていった(保守の元祖?)。日本の書は「平安時代まで遡らないと評価にも学習にも値しない」と相成った。平安時代のと中国文化は保守するが、江戸時代のは保守しない構えが明治以後の「新しい保守」と云えなくもない。そんなのが胡散臭いのは、識字率の高い(=草書変体仮名交じり書物が読めた)「市民階級」なら誰でも分かっていた筈なのに、やがて西洋かぶれの影響が新日本の「復古的」伝統文化重視姿勢と結び付いた挙句、半世紀が経つ頃には敗戦で丸ごと転覆しちまった。~こうした事例を、苹はアレゴリーとして扱いたい。
     だから一口に「保守」と云っても、その中身は事情や立場に応じて色々ある。西尾先生が「明治以来の近代化の流れのなかに」云々と書いた箇所で苹の琴線にビビビときたのは、明治以前の「わざわざ保守するまでもない」伝統(血肉)との対比が予め「自身の習字経験を通して」ベースにあったからであった。雑駁に云って「保守と江戸時代は関係ない」からこそ、「理想論としての保守」が精神論に変質しようが政治論や文化論に収束しようが、どっちみち類推すれば嗅覚もろとも腑に落ちた次第。
     当該「日録」再掲稿で、西尾先生は江戸時代と「保守」との接続に触れていない。そこにあるのは「革新」のみ(或いは、それを踏まえた「反動」)。この意味を遡っては味わい、勝手に共感しては自前の領分に引き寄せつつ、酔中只管あーだこーだと考える。~伝統は時に古く、時に新しい。新しいのは「失われたから」で、取り戻したら途端に古くなる。この可逆性が「進歩」や「革新」との関係を惑わせる。必ずしも「保守」が、それらの前提にあるとは限らない。西洋のルネサンスが示すごとく、復古は進歩でも革新でもあり得ると私は思っています。
    【2012/05/02 21:17】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    おお~~~

    今回のはすごく分りやすかった。
    苹@泥酔さんが前提としてもっていらっしゃる知識を、私にでも分るように噛み砕いて説明してくださり、そこから苹@泥酔さんの論を展開してくださっているので、分りました。

    苹@泥酔さんはきっと頭がすごくいい人なんだと思っています。そういう人は往々にして、他の人も当然知っている、分っているというところから出発してしまう。だから難しいと思えるのですね。

    まぁ、ご自身のメモとして利用されている部分が半分あるんだから、まぁいいですが・・・・。
    (皮肉じゃないです)
    【2012/05/03 11:27】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     なんかアレだな~。豚が木に登ったところで、どっちみち落っこちるんだし。…この際、もう少し余計なのを書いときましょ。毒を食らわば穴二つ。こちとら書道界との縁は総て切れてる筈だし、女は三界に怖いものなし。(←焼けの勘八、ことわざ滅茶苦茶w)

     「進歩的=伝統的」書家(広義)の活躍は大陸進出に好都合だった。軍人だって漢詩くらいは作れる。政治家の達筆は当たり前。上層部はそれでよい。ただし一般庶民の学力教養は東西双方の狭間で大いに揺らぎ始めた。立身出世には洋学を。権威護持には漢学を。和文の小説なんざ下卑たもの。出版物は活字に推移、言文一致の大号令。
     ところがどっこい、敗戦だ。大陸進出の友好ツールは、流れが変われば日本侵略にも役立つ。「すぐれた文化」の印象は相変わらずだから、これを政治利用しない手はない(李澤厚の本によると、『詩経』大序にある「詩は志を言う」は文学と政治との関わりを意味するそうな)。書家や書道教員は中国共産党にゃお誂え向きの文化的先兵。しかも他方ではGHQの監視下で、日本文化・大和魂との接近を厳禁されたトラウマが根深く残る。
     …この空白地帯で何が起こったか、容易に想像がつくだろう。猫も杓子も中国バンザイ、呆気なく占領された。つまり文化の二重占領。それが安保闘争の前に実現していた。以後、多くの書道関係者が中国の文化史跡に詣でた。書道文化のレアアースを封じられたら、日本の斯界は大いに困る。そのためだろうか、書道関係者の政治的発言を私は一度も読んだ記憶がない。そこが戦前と決定的に違う。彼らは注意深く沈黙を続ける。政治と書道文化(文学?)は分離した。自己防衛を目的とするかのごとき思想の消滅(偽装?)で、今に至るまでの書道はどうにか延命できているかの様に思える。
     苹が書家でないのは、作品を書かない事だけが理由なのではない。代わりに文章を綴る危険が、書家や書道教員の切なる延命自体を敵に回すかも知れないからである。あちらにしてみれば傍迷惑な「とばっちり」なんぞ受けたくもないだろうに、鈍感な私は彼らの敵でないつもりで居る。…敵は他に居る。だから苹と書家を一緒にして欲しくないのである。

    (余談)
     今日は書店に買い出しドライブ、BGMはクレンペラーのマタイで、激遅コラールに失神寸前(笑)。…西尾全集は並んでませんでした。注文の連絡は連休明けになるそうな。
    【2012/05/05 18:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


     連休明けの朝っぱらから、連続投稿スマソ。~小山先生の育鵬社追撃は続く(↓)。
    http://tamatsunemi.at.webry.info/201205/article_2.html
     これを読んで思い出したのが、先の買い出しドライブで少しだけ立ち読みした渡部昇一『ドイツ参謀本部』だった。第一印象は「あら、また出たの…」である。書架のどこかに埋もれているクレスト社のにも版元を変えた理由が書いてあったと記憶するが、今度ワックから出た新刊では剽窃批判(秦郁彦)への論駁が大量に増補してあり、本人には申し訳ない事ながら、思わず苦笑してしまった。教科書のと比べ、なんという対応の違い(見方を変えれば相似?)であろうか。
     秦先生からは反応がないと云う。これでは一騎打ちにもならない。相手方の版元とも話し合ったが事は進まず、予告通りの大量増補と相成ったらしい。個人と個人の間ですら十数年かかるのなら、共同著作が相手では一体どれだけの年月がかかるのやら。~しかし一読して学べる事もある。育鵬社側の共同著作者の一人である渡部先生が盗作問題の先輩格(?)なら、それなりの見識があるのは瞭然。ならば自由社側~と云うよりは扶桑社時代の共同著作者代表たる西尾先生か誰かと共に、内々または予備的に話し合う手は…いや、むしろ既に試みて失敗したと推測してよいのかも知れない。一度に複数の懸案を抱えるのは、渡部先生側としてもきつかろう。
     …ところで、小山先生の云う「オリジナリティーというものを尊重する精神」については些か心苦しいものがある。それを論じ始めたら、こちらは別の畑で書道そのものを否定せざるを得なくなるかも知れない。平たく云えば模倣文化の破壊、歴史と伝統の否定である。臨書という行為が「手習いから作品まで」の幅を持つ様になったのは「昭和の日本ならでは」であり、そこが中国の贋作と異なる。この発展様式に目を向けないと片手落ち、もしくは自爆行為になる虞がある。差し当たっては初歩的な幅で~例えばヘーゲルから今道友信までの幅で、美学の研究史や性格を見渡す必要くらいはありそうに思える。大袈裟に云うと、「経済学と美学の衝突」を歴史学に持ち込む事の是非が、私の場合は少なからず気にかかる。
    【2012/05/07 06:33】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    しらを切りとおせばそれで済むのでしょうか・・・・。

    小山先生は無駄なことをしていると思われますか?
    【2012/05/07 22:16】 URL | 奥様 #- [ 編集]


    >小山先生は無駄なことをしていると思われますか?
     いいえ、全然。それどころか「もっと幅を拡げたら、さぞ面白くなるだろうナ」と思ってます。
     ~事の発端は教科書検定。戦前は自由発行時代があったのに、それを制限したから教科書記述の自縄自縛が始まったと思ってます。もし各社(各著作者集団)毎の記述推移を明治時代まで遡って比較研究したらどうなるか。それを(的を絞った上で)横断的に進めたのが小山先生の業績かと。差し詰め「扶桑社・自由社・育鵬社・東京書籍」比較編といった具合でしょうか。そこに検定意見の影響に関する考察を加えたり、或いは編集者心理の分析をパトグラフィー(病跡学)みたいに進めたらどうなるか等々、夢想だけは勝手に膨らむのが無責任な読者の悪い癖(汗)。
     そうした意味では、著作権より著作物の方に関心がある訳ですな。これって社会学の領分かも。…そう云えば、小山先生はネット上の絡み(ブログ)にも言及してましたなあ。そうなるとメディア論か。マクルーハンの時代とは隔世の感あり。(←たぶん相当、話がズレてるんだろうな…orz)
     ふと思い出し、「日録」過去ログを読み返してみました。(「教科書は自由に書けない」って話も、どこかに書いてあった記憶があるんだけどな~)
    http://book.geocities.jp/nishio_nitiroku/kako15.html
    >Subject:平成15年7月15日     (三) 重要発言 (五)まで続く
    >From:西尾幹二(B)
    >Date:2003/07/17 09:12
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 少しでも現場の教員の通念に合わせることで採択してもらいたいという欲求のために、会は本来の目的を見失っています。文部省はページ数の制限を求めていません。教科書協会が文部省との間で話し合ったと称して、ページ数の大よその目度を示しているだけです。ページ数の目度も独禁法では許されない「談合」なのです。すでに市販本を出すなど教科書協会の枠を破って行動してきた「つくる会」の教科書が、今さら教科書協会にすり寄り、その基準に合わせてみたところで、だから採択に有利になるという保証はありません。採択のために、できるだけ世の教科書の外形に自分を合わせたいという編集会議と扶桑社スタッフの気持ちも分らないではありませんが、それは前回の失敗が生み出した心の迷いです。自らの特色、自分のもっている良さを見失ったら、元も子もないのです。
    --------------------------------------------------------------------------------
     もし学校で使う歴史教科書が西尾先生の『国民の歴史』だったなら。こちらの発想の原点はそこにあります。最初のは分厚くて重い。あんなの誰が使いたがるもんか(苦笑)。ならば二分冊の文庫本ではどうか。大学なら「それもアリ」かも知れない。検定教科書は大体ツマラナイ。私の場合は印象に残る本が総てであって、殆どの教科書はその範疇にない。阻んでいるのは誰だ?
    【2012/05/08 01:36】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    小山先生の最初の研究は本当にびっくりしましたね。
    あの頃は全然関係ない方でした。

    検定と無償配布がネックですね。
    【2012/05/08 21:31】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     時折~と云っても極く稀にだが、自稿を読み返して禍々しさを覚える瞬間、「なんだ、この嫌味な書きぶりは」との自滅的感想が背中を突き刺す。もしかしたら顔と背中は紙一重なのではないか。忘却したままでは居られぬかのごときジークフリートも、すんでのところで英雄を突き殺したハーゲンも、共に作者ワーグナー自身から響いてくる様に。かの楽劇《神々の黄昏》第三幕を想起すると、そうした印象の向きの「はぐらかし」が禍々しさを別の忘却へと導いてくれる。精神衛生上、私には妄想や連想が必要なのだろう。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-1173.html#comment
     教科書無償配布の件(↑)は当時、半ば冗談のつもりで書いた。それが徐々に現実味を帯びてきて、内心では慌てたのなんの(産経記事では自由社側の藤岡先生までもが育鵬社教科書の採択結果を擁護してたし)。

    (備忘録)
    http://sankei.jp.msn.com/life/news/120509/edc12050918340002-n1.htm
    --------------------------------------------------------------------------------
    >早朝授業に「兼職」認めず 沖縄県立高有料補習問題受け文科省
    >2012.5.9 18:32
    > 沖縄県の県立高校で早朝や放課後など通常以外の授業をした教員に、保護者から謝礼が支払われていた問題で、文部科学省は9日、都道府県と政令指定都市の教育委員会に対し、正規の授業と誤解される早朝授業や放課後補習などについては、教委の許可を受ければ報酬を受け取ることができる「兼職」と認めないよう求める通知を出した。
    --------------------------------------------------------------------------------
    【2012/05/10 06:37】 URL | 苹 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹さん
    この場が妄想や連想の場になるのもOKです。

    で、時々思うのですが、今は何で食い扶持を稼いでおられるのですか?
    (個人的疑問で、答がなくてもこれまたOK)
    【2012/05/10 21:06】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     うーん、いきなりダイレクトに来られると困るなあ…。「それは秘密です。」(爆)
    http://www.youtube.com/watch?v=9bfzqZnGmbA
     あれから何年、経ったのかしら(♪)。~どんなキャラがいいのかな。「年金生活者」だと天バカ旧板で昔「女子高生かも」と騙った手前、年齢が大幅に矛盾する(おっと自縄自縛…orz)。かと云って「無職で引き籠もりのニート」では、拙稿の信頼性に多大な影響が及びそう(一応は調べて書いてるんだけどね)。では昔式の「隠者」なら…《魔笛》や《魔弾の射手》や「松下問童子」云々でもあるまいに。あちらの新板ではネット上の非人格性に配慮(?)して、去年あたりからの表現は「隠居」や「世捨て人」の体裁をとってますぅ。
    http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-924.html#comment
     一つの可能性としては、書塾収入も考えられなくはない。二年前に講師の話(↑)がオシャカになった直後、実際そっちの線で探りを入れるかの様な電話があったそうだし。~因みに今、その高校では赴任ホヤホヤの先生が逮捕されたばかりだそうな(前任校での話↓)。あの時めんどくさい苹まで抱え込んでたら、さぞかし校長先生の心労が(以下略)
    http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2012/20120508131425.asp
     確実に云えるのは、収入が少ない事くらいですかネェ。どっちみち教育ネタに収束させると、基本はあらかた一切合切が昔話に終始する訳でんな。仕方のない仕儀でやんす。
    【2012/05/11 02:11】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    すみまっせ~ん。。。

    【2012/05/12 09:28】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     …あれから思うに、食い扶持の話題で狼狽したのは、学べば学ぶほど「思い残すだろう事」が増えていくためなのかも知れません。能力の限界と隣接しがちな話(或いは愚痴)に踏み込むより、限界のない領分(或いは夢)を力としたい。さもなくば教科書問題だって、採択の目的化に動機づけられた変質の方が合目的的なのは明らかなのだから、はぐらかされた後の目的から見れば、むしろ当初の目的を保守する「会の持続」の方が儚いって話になってしまう。そこに矛盾がある。
     稼ぎで協力できないのなら、せめて知識や考察で協力する道を模索したい。ところが「力の源泉の取り違え」へと誘惑するには、最も弱い所を攻めるのが有効だから困ってしまう。どう転んでも無欲では居られない。例えば、もし教育再生機構から「貴方の本を出してあげましょう」と印税収入への道を提示されたなら。「つくる会」でも同じ事、悶絶するのが分かっているから個人情報は出さない。しかし本を出せるレベルの知力は尽くしたい。ここにも別の矛盾がある。妄想の病は妄想のままで救済するのがよさそうに思えてくる。
     そうした弱さに魂の様なものを注ぎ込むのが宗教的な何かだとしたら、そこでの救済はどのみち残酷な面を剥き出しにする筈。残酷さを救済で包むにしろ、救済を残酷さで包むにしろ、心の隙間が過ちの入口となるのは巷間よくある話。そうした意味でも今、「日録」での宗教云々は興味深いのかな。~一言で云うと「じっくり読んでます」(←くどい!w)。

    (余談~蛇足)
     二十年ほど前。そんな筈はないのに胡散臭さや宗教臭さを振り払えなかった一冊が西田博文『感応の精神病理』(金剛出版)。ソリャそうだろうさ。以下は裏表紙の説明冒頭。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 本書のいう感応現象には、病棟内での患者同士の影響、精神病の母親が子供に与える影響、若者の宗教活動・政治活動への没頭、心中と集団自殺、学生間のヒステリーの流行などが含まれる。
    --------------------------------------------------------------------------------
     この本を持ち出すのは不適切かも知れないが、それなりに手応えを感じる事はある。先ず、人格不在の内容伝播が疑わしい。所詮こちとら妄想に留まるとは云え、書かれるべきなのに書かれていない事への不満が鬱積、あれこれネットで喚き散らしているうち、時には唐突な出逢いがあったりする。例えば阿辻哲次『戦後日本漢字史』(新潮選書)。それまで読んだ数冊の著書には出てこなかった記述を発刊当時「なぜ今頃?」と訝しんだが、そのくせ相も変わらず楷書に縛られている欠陥を見ると、まだ苹にも書き残せる事があるのではと胸を撫で下ろしたりして。にもかかわらず、存分に書ける筈の権威ある先生方(←主に書道系)が未だ纏まった本を書かないのには、やはり不満が残って落ち着かない。その気があればの話だが、誰か保守系に寄り添う監修者となって欲しいものだ。
    【2012/05/14 02:16】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔 さん
    そこに空白があって、それに気がついていて、
    誰か書いてくれないかなぁと思っているのなら、自分がやるしかないのでは?

    でも、分りやすく書いてね。
    【2012/05/14 23:33】 URL | 奥様 #- [ 編集]


     …まあ、読者の心理なら分かりますからねぇ。先ず著者名を見て「こいつ誰だ?」となる。肩書きで世間の立ち位置を絞る。社中への所属自体は一種のフィルターで、適用する先入観に応じて各自の読み方が概ね定まる(無所属なら「ただの馬の骨」)。そもそも書道の本と云えば大抵は手本集か、ありきたりの事が書いてあるだけの書道史(広義)と相場が決まっている。それ以外の内容を書く場合が難しい。大学教授レベル以上の所謂「権威」でなきゃ、世間的には「資格なし」。
     書道の伝統は「権威が総て」の世界。師匠は手本を書き、生徒は専ら真似をする。その繰り返しが死ぬまで続く。考えてはいけない。何も見なくてもそっくりに書けるまで熟達し、師匠の教え方を模倣し、看板を引き継ぐのが書道だと大勢が思って居る。とどのつまり「学問であってはいけない」。塾のみならず学校でも強制的に「書道らしさ」が求められる結果、大学側の研究を学校が阻止する形となる。なにしろ大学を卒業した教員は学校で飼育されるのだから、熊でも犬でも飼い主に逆らえば殺されて当然。
     こうした「学校の役割」(「常識」とも云う)を代行する仕組みは色々あるので、その一つに過ぎない組合(例えば日教組)を叩いても効果は殆ど期待できない。それどころか、組合の弱い地域ほど代行の仕組みは多様に転移、手の施しようがない。青森では通常、大学の役割を社中が代行する。また社中は学校の役割も代行する。大学・学校・組合は三位一体であるのみならず、それぞれに転移した「社中」的な教育機能を通じて、生徒・保護者・教員との間でも頑迷な共通認識が予め伝統として受け継がれている。同様の地域は他にも多々あるだろう。
     共通認識が頑迷となるには、規模や環境に応じて寛容と不寛容を使い分ける「双面神」的な残酷さが要る。ひいてはそれが、伝統をも支配する。いったん覆されたものを元に戻したり、別のものに変えたりするのはひどく難しい。伝統の生息域では権威が量産されるが、権威を失った後の旧伝統が復古を目論むと新伝統の側から猛反発を受けるのが常である様に。

     しかし…もし、いったん宗教的属性を手に入れたならどうなるか?~てな具合に、件の「日録」ネタと連ねてみてもよい。三分載中の二稿目にある、あきんど様のコメントは面白かったなあ。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1175
     続きの下記部分に、ネット上の行間から僅かな工夫を感じて構わないかしら。
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1176
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 外国文学にせよ歴史にせよ、言葉の世界であり、文字表記の世界である。しかし涯(はて)しなく時間を遡れば、私たちは言葉も文字もない世界にぶつかる。空間を拡大しても同じである。
    --------------------------------------------------------------------------------
     書道で云うなら、臨書の倒錯。文字を書いているのに非文字の表現が内包されているという同時性が、文字そのものでは居られない再帰的領分(永劫回帰?)を思わせるとしたら。あくまで同時性であって、同一性ではない領分。そこに書人は「自己」の影(空間的差異?)を見る。自己が阻むものを自己の「外」に見る方法で、逆に同時性から切り離されるべきものが歴史本来の時間的位置へと押し戻されていく。そうした仕組みが臨書行為には予め含まれており、しかも臨書行為と臨書結果は「繋がったままの別物」である。だからそこには言葉もなく、文字もなく、拡大された空間がむしろそれらを「書かれる現実」へと引き戻そうとする。これらの相反する感覚が或いは「写本の原理」であり、かつ、そうした営為全体からテクストの同一性を探るのが、或いは学問的態度の一般と云えるのかも知れない。
     それだけに反面、知識や教養の欠落を不如意に強調するタイプの書道(昭和末期~平成)は或る意味ひどく宗教臭く、相対的おぞましさが歴史的にも際立ってくる。テレビでは大抵そうなる。例えば先年、アスリートの様に体を鍛える書家を紹介するNHK番組に私は少林寺拳法を連想したが、氏の属する手島右卿系統の伝統的教養(連想では僧侶本来の修行に相当)に関しては最低限の説明すらない。下請け会社の無教養が透けて見える。大河ドラマ「清盛」では裏方を望月暁云が支えるものの、題字を書いた人はダウン症とか。ドラマ「とめはねっ!」の主演女優はBS番組で中国に乗り込み、昨年の十九歳が日本のパフォーマンス書道を西安の大学生に啓蒙(?)していた…。
    【2012/05/15 23:25】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


    >苹@泥酔さん
    NHKの平清盛のあの字、私は好きじゃないです。
    書いた人には悪いけれど・・・・・

    【2012/05/17 00:00】 URL | 奥様 #- [ 編集]

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    【2012/05/18 00:27】 | # [ 編集]


     一つの社中を家族に見立てると、主宰だの会長だのと呼ばれるトップが家父長で、場合によっては親戚筋の発言力ある長老が居て、また「社中」と呼ばれる規模であれば例外なく子沢山(笑)てぇ事になるのかしら。つまり全員が所謂「内輪」で、余所者は居ない。余所者は嫁入り/婿入りした途端に内輪となる。分際の自覚が前提にあり、他の社中の流儀を取り入れるには恐ろしく慎重な準備、根回し、身分、権威、そして何より時間が必要になる。どう見ても所謂「臨機応変」とは縁遠い。その本質は「即戦力脅威論の世界」。
     即戦力は実力であり、内輪で育てられ継承されるものであるから、断じて余所者の世界ではあり得ない。仮に余所者が即戦力として新規参入するとしたら、予め水面下の交流が何らかの形で持続して居なければ、それ自体が実績とはならず、即戦力と見なされる事もない。すると事実上、即戦力になる余所者は親戚筋と区別なく、ここでも「余所者」という在り方は二重の意味で腑分けされていく。時間の蓄積が存在の密度や強度を規定する。

    (追記)
     青森には昨日届いた。「書道美術新聞」のコラム欄「風信帖」を見ると、「つくる会」(と云うよりは西尾先生?)と共通する問題意識が書教育界側にも窺える。~以下、その全文。
    http://kayahara.com/modules/column/index.php?page=article&storyid=99
    --------------------------------------------------------------------------------
    > 納得できない。一方で大幅な増頁を行いながら必修分野のひとつでもある「交じり書」だけが、なぜこれほどの冷遇を受けるのか
    >▼文科省も文科省だ。毎々、重箱の隅をつつくような検定意見には呆れるだけだったが、今回ばかりは責任を追及しなければならない。「3部門必修化」という新たな学習指導要領の指導指針を最初に具体的に現場に示すのが教科書であり、だからこその検定でもあるはずだ
    >▼これでは、「交じり書」を初めて「漢字」、「仮名」と対等の〝分野〟として位置づけた20年前の改訂、「漢字」、「仮名」に優先して「交じり書」を指導するよう義務づけた10年前の改訂は何だったのか。現代における高校「書道教育」の在るべき姿、目指す方向を示した先人の英知が、いままさに踏みにじられつつあるといわざるを得ない
    >▼百歩譲って出版社は株式会社だから、「学校現場の要望を踏まえた編集です」、「交じり書で突出したりしたら、採択して貰えません」という言い訳も成り立つとしよう。そうであるならなおさら、文科省の責任は重大であり、これでは何のための検定なのか ――。とにかく、もう後戻りは無理だろうから、今後の「書道Ⅱ」の検定で、「Ⅰ」の分まで手当てして貰わねば、国民は納得できない!
    >(書道美術新聞 第984号1面 2012年5月15日付)
    --------------------------------------------------------------------------------
     具体的には、一面記事を参照されたし(↓)。
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=250
     これに関する「覆面座談会」記事はこちら(↓)。
    http://kayahara.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=251
     その中に、こんな発言が出てくる(↓)。
    --------------------------------------------------------------------------------
    > D編集者 草書や篆書の導入も、「かな書の理解を深めるため」とか、「篆刻を扱う基礎に」とか説明しているが、具体的にどう指導したいのかが判然としない。隷書でもそうだが、「Ⅰ」でどこまで扱うべきなのか、そういう肝心な議論が欠けてる印象だね。
    --------------------------------------------------------------------------------
     どう考えても草書は仮名読解の基礎イメージ構築に不可欠。要は仮名単元の最初に出てくる「平仮名単体」教材を理解する上で、仮名字源への意識に目を向けたって事だろう。この領分は基礎であって応用ではない。現に国語教育では「書き」より「読み」を優先しているらしいから、「読める人」が「読める字」を書く上での不都合はあるまい。
     私は嘗て、「読める様に書け」と指導した。基準は字源意識(深層構造)。断じて巧拙(表層構造)の問題ではない。この事は、藤原定家のヘタウマ文字がなぜ読める/読みやすいのかを考えれば誰でも分かる。また戸惑いの元凶は、戦後蔓延した曲学阿世の書道イデオロギー(「読めなくてもよい」とする風潮)にある。~因みに、この風潮は「書道界の権威」西川寧(口の悪い人は「書道界の天皇」「痩せたソクラテス」と評した…)の片言隻句を曲解した連中が広めたと記憶するが、どうだったかな。
    【2012/05/20 23:12】 URL | 苹@泥酔 #SFo5/nok [ 編集]


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