かなり激しい口調のエントリーである。
でも、私も実は同じことを考えている。うまく書くものだなぁと感心したので、一部転載しました。
平田文昭の正統保守宣言
「つくる会」、関頭に立つ-9
「つくる会」の教科書を守る、とはどういうことだろうか。
当初の志を保持して、然るべき出版社を得て、教科書を出版し、たとえ少しであっても採択を勝ち取っていくことができれば、現状を考えれば御の字である。しかし、事情によりそれが適わない場合、ギリギリ守るべきはなんだろうか。
一言で俗に言うなら、それは「ブランド」である。
「ブランド護持」というと、酷く矮小化されたように感じる人もあるかもしれない。ならば言い換えよう、「正統を護持すること」「簒奪を許さないこと」である、と。
八木集団であれ屋山集団であれ、教科書を執筆刊行販売するのは当然自由である。
しかし、それらの教科書に、「つくる会」教科書の後継、バージョンアップ、改良、言葉は何であれ、私達の教科書の系譜を引くものである、という地位を与えてはならない。八木集団、屋山集団にも、国民の「つくる会」の継承団体という位置づけを与えてはならない。彼らは乗っ取りを企んだ者たちだ。彼らに、「つくる会」の継承者たる地位を認めることは、すなわち簒奪を認めることになる。我らの系譜を、彼らに繋げてはならない。
そうすると、自ずから次のことは明らかであろう。八木集団、屋山集団に参加し或いは賛同を表明した者、扶桑社新教科書の執筆に関与する者、これらの諸氏は「つくる会」とその教科書の護持に関与する資格がない、ということである。彼らが関与しつづける限り、八木集団、屋山集団、扶桑社新教科書へ、「つくる会」という源泉が繋がってしまう。
寸にして断たざれば尺の憾みあり、尺にして断たざれば丈の憾みあり、という。既にして無駄に時を過ごしてきた。いつまで簒奪者に遠慮するのか。この先、「融和・統一・大団円」が可能とまだ考えているのだろうか。
自由主義史観研究会による、南京大虐殺、偽写真、従軍慰安婦、東京裁判とその史観への取り組みを支持し、東京都平和祈念館阻止を経て、「新しい歴史教科書をつくる会」に結実していった国民の熱情を、簒奪者に譲り渡してはならない。国民の声、というものを、一部活動集団に引き渡すことで、その集団があたかも国民の代表であるかのように振舞う根拠を与えてはならない。
それにも増して大事なことは、安倍政権によってなされた「アジア版シオンの議定書」の再定着―それは占領構造の再構築であるのだが―に抗議し、日本国の主権と尊厳、日本国民(戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及その遺族を含む)の名誉と主権的権利を回復するための拠点を、国民の手から手放してはならない、ということである。
拠点とは、なにも物理的な場所を言うのではない。"for the people, by the people"で担われてきた国民の権利回復の結節点の一つ、それも極めて重要な結節点を、国民の手に保持しつづけること、そのことが、今後の基点となる、という程の意味で言っている。
会員でもない私が、「つくる会」のことに言及するのは、これがまさしく「国民による祖国独立回復運動」の拠点のひとつであるからだ。つまり一種、国民公共財なのであるからこそ、乗っ取り、換骨奪胎は許せないのである。「国民の歴史」は独立の元首、独立の軍隊、独立の祭祀、独立の国語、独立の政府、独立の経済などとともに、独立日本の柱石である。それが「つくる会」教科書だ。