五月のゴールデンウィーク前に、「つくる会」の三支部が出した文章を掲載した。
東京、東京三多摩、茨城という中央に近い支部である。 基本的に、私はこの三支部の考え方と同じである。
去年の総会に上京した帰り、私は何とも言えない空しさに、東京駅の新幹線のプラットフォームで涙がにじんでしまったことを覚えている。「つくる会」が分裂した折の経緯を、「つくる会」の立場で書いた総括文書があり、それは総会の終わり頃に回収されてしまった。このブログでも書いたが、私はそのことがとても残念で、再出発に際して最もしてはいけないことだったと思う。
勝ち負けと言えば語弊があるかもしれないが、やはり八木氏たちとのことは勝負であった。「つくる会」はあの文書を回収した時点で「つくる会」側から見た勝負の歴史を公表することを封印され、それは敗北を意味したことになると思う。
まるで先の戦争において、あれは侵略戦争ではなく、日本にとって自衛の戦争であった・・・・・と、自分達の視点からの歴史を語ることを奪われた今の日本のようではないか。
負けるということは、歴史を奪われることである。 歴史の解釈を外から押し付けられることである。
あの総括文書を回収した時点で、今のつくる会の現状が予見できたのかもしれない。
なぜ八木氏たちと袂を分かつことになったのだろうか?
私には、それは教科書が採択されなかったことの原因の分析の相違が、根本にあったからではないかと思える。つまり、今後「つくる会」がより多くの採択を取るためには、どうすればよいか?という方法論において、つまり路線において、意見の相違があったのだと思う。
扶桑社M氏は、経済的に最も教科書の採択率を気にしているポジションにいただろう。その彼が「つくる会」の教科書の内容が過激すぎるから採択されないのだと分析したのではないか・・・・・・それが一方のつまり、八木派の主たる分析となっていったのではないかと思う。
つづく
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